肉を裂く生々しい感触が伝わってくる。辺りに広がる血の香りが厭わしい。鼻から生気を吸い込み、口からそっと死気を吐く。それだけで激しく咳き込み、弱った麒麟の肉体はさらに追い詰められてしまう。
きっと酔っているのだろう、こんな時だというのに頭の中で述懐が止まらない。誰が聴いてくれるわけでもないというのに。
──ただ生きたいと願う事は、そんなにも罪なのだろうか。
誰だって死にたくなぞないだろうし、生存を渇望し死から逃れるべく抗おうとするはずだ。
それは只人であろうと、獣であろうと、官吏であろうと、王であろうと妖魔であろうと────そして麒麟であろうとも。座して死を待ち、あまつさえ自ら死にたいと願う大莫迦者なんてこの世に存在するはずもない。
だというのに、麒麟にとってこの世界は生存の道理すら罷り通らないように出来ている。王の為に生まれ、王の為に成長し、王の為に生き永らえる。決して王を裏切ること能わず、なのに死ぬときは王の所為で死ねという。
生涯の全てを王の為に尽くせと定められたどうしようもない畜生。これを言い換えたのが麒麟というだけの話である。
これではあんまりではないか。麒麟にだって生存を望む権利はあるはずだ。麒麟とは天意を素通りする器に過ぎないとは誰が言ったのか。ならばどうして麒麟には個性がある。どうして私のような、生まれも育ちも劣悪な
私は王が嫌いだ。
麒麟にあるまじき異端の思考。だが事実だ。蓬莱でも王とは人を苦しめ、民から過剰な税を搾り取り、手下である役人は鞭を手に蓬莱の父母を追い詰めた。王とは結局のところ
ならば王と言う最低の化身を選定し、国に亡びを齎さんとする私も同類でしかないのだろう。とんだ矛盾の徒だと自嘲するばかりである。
責任は取らねばならない。このような不条理を世に生み出す者の一人として、王を止められなかった者の一人として、沈みゆく戴を救うにはこれしかないのだ。
「代麟……なぜ……」
「これが愚かな私と、そして貴方の行いの末路よ。さようなら、憎くて愛しい我が主上」
「ぐうッ……!」
だから私は、麒麟の身でありながら主上を
手に握り締めた
「これでまだ、私は生きていられる……死にたくなんか、ない……!」
握っていた短剣が掌からすり抜け、床とぶつかり硬質な音を立てた。力の入らぬ血塗られた両手で震える身体を抱き留める。
死は遠ざかったというのに、胸に広がるのは喜びよりも苦い後悔ばかり。麒麟として大切な何かを失ったと心が叫んでいた。
だけど、それでも生きていたいのだ。民を苦しめる王というのがどうしようもなく憎いのだ。
言葉にすれば単純な理屈かもしれないが、私にとっては何よりも大切なこと。麒麟ではなく一人の竜胆として、譲れない一線であったのだ。
四極国の一つたる戴の国氏がまだ”泰”ではなく”代”だった頃。世界の中央には変わらず黄海が存在していた。
天に見放された水の無い海、妖獣と妖魔が我が物顔で闊歩するかの土地には、唯一の安全地帯が存在する。それこそが五山と呼ばれる山々であり、中でも泰山と呼ばれる山は麒麟が生まれ育つ山として知れ渡る名でもあるのだ。
その泰山に代麟帰還の知らせが響いたのは、代果が蝕によって蓬莱に流されてから八年も経過した頃だった。
七年前、戴極国の王が崩御した。
王が崩御する時の理由は主に三つだ。一つは禅譲、自らが王の位を退き死を戴くこと。二つ目は肉体的な損傷であり、死に至る怪我を負えば当然死ぬ。
そして最後にして最も多い理由は、麒麟を失道により失うことだ。王は麒麟と契約し、麒麟の霊力により生き永らえる。だが王が道を踏み外せば麒麟は失道し、癒えぬのならば麒麟は死ぬ。この時、王もまた遠からず死ぬ運命が決定付けられる。
先の代王の死因は三つ目であったから、戴の麒麟もまた失われてしまった。よって泰山に存在する世界で唯一麒麟が成る木、捨身木には次なる麒麟の卵果が宿ったのだが──ここで蝕が起きてしまう。
蝕というのは十二国の世界と、蓬莱や崑崙と呼称される”あちら側”の世界が混じり合ってしまう現象の事を指す。蝕の発生は誰にも予期できず、またこの影響で十二国や蓬莱から何かが流されてしまう事もある。それは単純な物品から人物、果ては木に成った新しい命の卵果まで様々だ。
突如として発生した蝕を防ぐ手立てなど万に一つもありはしない。泰山に住まい働く女仙では到底代果を守ることなどできず、育ての親として生まれた
蓬莱などに卵果が流された場合、そちらでは
故に蝕で流されてしまった卵果の捜索は困難を極める。それでも女怪なら自らの麒麟の気配は辿れるし、何より捨身木には新たな代果は宿っていない。ならばまだ代麟は──女怪は麒麟の性別を誕生の時から知っている──生きていると断定し、一縷の希望に縋って探し続けたのだ。
その成果がついに実ったのだ。泰山にとって麒麟の存在とは何よりも重要なことである。八年もの間蓬莱へと流されていた代麟の帰還に、どうしようもなく沸き立つのも仕方のないことであった。
──思い返せば、蓬莱の頃の記憶とはまるで悪い夢でしかなかったように感じてしまう。
蓬莱での生まれは小さな農村で、私はそこで
だけど私には他の人とは違う部分があった。髪の色がどうしようもなく白いのだ。周りは親も兄弟も皆が黒髪だというのに、私だけがふざけたような白色だった。どうしてそうなったのか、誰も答えることは出来なかった。
小さな農村というのは結束力が強い一方で、自分たちと違う存在には排他的だ。黒一色の中に浮かび上がる白というのは誰から見ても奇特に映ったらしく、私が物心ついた時には既に迫害が始まっていたと思う。道を歩けば同じ歳ほどの子供たちから罵倒され、石を投げられた。大人たちは私を見て眉を顰めるし、露骨に手を出されたこともあった。
兄弟たちも最初は庇ってくれたのだが、そうすると自分たちすら周囲から標的にされてしまう。だからだろうか、気が付けば家の中でも暴力が当たり前になっていた。不満のはけ口にされ、少しの事で怒鳴られ、食事も最低限しかもらえない。唯一庇ってくれた両親だけが私にとっての救いだった。
理不尽だと思い、何度も泣いた。いっそこの白髪を切ってしまおうとも思ったのに、何故か──今思えば麒麟の本能だろう──実行には移せず。不甲斐ない自分にも嫌気が差してしょうがなかった。
この頃から、ひたすらに生きていたいとだけ願い始めていた。誰もが私を必要としないなら、意地でも生き抜いてやると。子供心に周囲を見返してやりたくて、とにかく生きる事だけを目的として日々を過ごしていた。
だけど間が悪いことに、その年は恐ろしい凶作の年だった。作物の採れたかは例年を下回り、各地で貧困が発生した。言うまでもなく私たちの小さな農村も大被害を負ってしまい、朝廷に収める税も全く足りない有様である。
そう、朝廷である。大和の国の中央に位置する朝廷には
凶作により朝廷側も収入が苦しかったのだろう。それは理解できる。だが彼らはあろうことか、貧困に喘ぐ村々から過剰な取り立てを行い憚らなかったのだ。
今でもあの時の光景が忘れられない。家の戸口に立ち、鞭を振るい怒鳴りつける役人の顔。その足元で必死に免除を希うも、相手にすらされず鞭で打たれる両親たち。この世の不条理の権化がそこにはあった。
結局税は例年通りに徴収され、もはや生きていけるだけの蓄えなど微塵も存在しなかった。過労と飢餓によって親は相次いで死んでいき、残された私たちとて明日も知れない身の上。そのうえ八つ当たりのように周囲からの当たりはいっそう強くなっていき、もはやこれまでと悟って村を飛び出したのも順当な成り行きだった。
とにかく生きたい、生きていたい。その一心だけで山々を駆け、極限の状態で命だけは繋いできた。野草をむしり、泥水を啜り、時には他所の村から食べ物を盗んでまで食いつないだ。
そこまでして生き残る必要はあったのか。いいや、絶対にあった。心に燃え盛る二つの激情に支配され、突き動かされるままに生きてきた私には。
誰も私を認めないなら、自分だけでも絶対に生き延びて見返してやる。
ただ自分たちの安寧だけを考え、理不尽に人を苦しめる大王なんて大嫌いだ。
矛盾だ。矛盾でしかない。自分はひたすら生き残るために手を尽くしもがいておきながら、王が生きるために税を徴収するのを悪と断じているのだから。規模の差、他者への影響の多寡はあれど、糾弾する権利なんて一つも無い。
それでも情けなく生にしがみついて、必死になって命を繋いで、最後は何処とも知れぬ山中で行き倒れた。暗い闇と降りしきる雨の中、忍び寄る死の気配に怯えながら生を渇望したのは今でもよく覚えている。
──だからあの瞬間に泰山からの迎えが現れ、死にかけの私がまだ生きられたのは紛れもない奇跡だったと言えるだろう。
「竜胆様、いかがなされましたか?」
「……いいえ、なんでもないわ。ただ昔の事を思い出していただけよ」
頭上から降ってきた使令の声に返答しつつ、寝転がっていた岩場から身を起こした。きっと女仙には
視界の先に広がるのは砂漠や森、それに荒れ果てた岩場ばかり。空には抜けるような青が広がっていて、中天に座す陽光が眩しい。人の気配は微塵もせず、寂寥感の溢れる物悲しい土地だった。
ここは妖魔妖獣が跳梁跋扈する最果ての土地、黄海の一角である。なんとなくそういう気分だったから泰山を抜け出し黄海に出てみたものの、別段特別なことなどありはしなかった。五年前に初めて黄海を目にした時から、ちっともこの光景は変わっていない。
「あれからもう五年か……随分と早いものね」
噛み締めるように呟き、改めてその重みを実感する。奇跡的に一命を取り留め泰山に麒麟として迎えられてから、早五年が経過していた。
今でこそそういうものだと受け入れてはいるが、当時の私にとってこの世界も泰山も、本当は人ではなく麒麟だという事実すら、あまりに突拍子もないことだった。これまで人間として生きてきた根底が崩され、よく分からない所に連れて来られたのである。困惑の度合いは凄まじかった。
けれど、これからも生きていられるなら何でも良い。そのように考え流されるように泰山の世話になり始めたのだが、すぐ後に衝撃の真実を知らされる羽目になる。
「私は王なんて選びたくないわ。ねぇ
麒麟は天の摂理に反する魔物、妖魔を折伏し使令にすることが出来る。すぐ後ろの虎の身体と翼を持った窮奇の求堅もその一人であり、この五年の中ではかなり長い付き合いな使令の一人でもあった。
そんな彼はしばし考え込んでから、やや躊躇いがちに口を開いた。
「失礼ですが、麒麟は王を選ぶための存在と聞いております。おそらくはあなたが望む望まないに関わらず、王を選んでしまうものかと」
「やっぱりそうだよね……王を選ばない麒麟は三十年程度しか生きられないみたいだし、長生きしたいなら王を選ぶ他に道はないのか」
溜息を吐いてしまう。これが麒麟として一番の問題だった。
蓬莱で培った考えはそう簡単には拭い去れない。今でも私は王というのが嫌いだし、みっともなくとも生き続けたいと願っている。かつてこの考えを女仙たちに告げたら大目玉を喰らってしまったが、それでも心情に些かの変化もありはしない。
ただ残念なことに、王を選ばぬ麒麟の寿命は三十年ほどしか持たないらしい。そして泰山に連れてこられてから五年間、昇山者の中に王は一人もいなかった。王を選びたくはないが、王を選ばねば早死にするというなら是非もない。
それに、何一つ罪のない戴の人間をいつまでも放っておくのも寝覚めが悪いのだ。王が居なければ国は荒れるという。悔しいがその時点で王の存在に一定の価値があると認めざるを得ない。
いつか女仙は麒麟の仁の心がそう想わせると言っていたが、はっきり言って胡散臭い。人並みに誰かを恨んだり悪い事にも手を染めた私が、そのような気性を持っているなど信じられなかった。
「もし王を選べたとしても、王が乱心したら失道の病に罹るなんて理不尽ね。その時は王にさっさと見切りを付けて、弑すことができるかしら」
「さて、判じかねますな。一つ言えるとすれば、そのようなことを女仙の方々に言えば卒倒されるということくらいです」
「そうね、分かってて言ってみただけよ。王を弑すって言っただけで、なんだか空恐ろしい気分になったもの」
本能的な問題なのか、これから仕える主への反抗心すら持てないようだ。ほとほと難儀な生物に生まれたのだと実感する。
一つ溜息を吐いてから、
「……ほんと、うんざりするわ」
この世界に連れて来られた影響か容姿はかなり変わった。目の色は黒から紫に変化したし、肌が白くなり顔立ちも比べものにならないほど整っている。まるで別人のように変わったというのに、なぜか白髪だけはそのまま残っていたのだ。
どうやらこれは白麒麟としての証らしく、普通金髪として生まれる麒麟にしてはかなり珍しい色らしい。だが本当に珍しいだけであり、なんの価値もありはしない。せいぜいが蓬莱で差別される元凶になった程度だろう。
さらに面白いのは、この世界での白とは凶事の際に使われる色だということだ。逆に黒は慶事に用いられる縁起の良い色であり、金は貴ばれる色であるという。
ここまでくると笑いすらこみ上げてくる。ただでさえこの髪には苦々しい思い出しかないというのに、こちらの世界ですら白は不吉な色であるとは。色の違う麒麟ならそれこそ黒麒麟や赤麒麟だってあるらしいのに、どうして自分は白なのか。
麒麟という立場だから公に後ろ指を指されはしないが、逆に麒麟だからこそ不吉の色は強調されてしまうのだ。現に、女仙が何度かこの髪について話していたのを知っている。
白麒麟は不幸を呼び込む──そんな事実かどうかも判然としない伝説があると、その女仙たちは語っていた。
……上等ではないか。私は死なない、絶対に。不幸に見舞われようと、這ってでも生きてみせる。誰からもその存在を喜ばれないというのなら、せめて私だけは自分を大切にしようではないか。そうでなければ、こうして生を受けた事実そのものが嘘になってしまうのだから。
「そろそろ泰山に戻りましょう。戴に出向く準備も本格的に始めなきゃ」
「御意」
求堅の背に乗って泰山へと帰還する。いい加減に自分から王を探しに行く時なのだ。
王なんて選びたくないが、選ばなければ死んでしまう。選んでも民は苦しむが、選ばなければやはり国は傾き苦しむ羽目になる。どう足掻いても逃げ道はない。王と麒麟の機構とはとんだ欠陥制度であると呆れてしまう。
だからきっと、こんな私は……矛盾を体現した
これまた癖の強い主人公ではありますが、区切りの良いところまでの展開は決まっているので、まずはそこまでのんびり投稿していけるよう頑張りたいと思います。
後書き解説コーナー…原作をあまり詳しくない、あるいは読んでいたが忘れてしまったという方のために、簡単な解説を付けてみようかと思います。
十二国…名の通り、十二の国が存在する十二国記の舞台。黄海を中心として八つの国が花びら状に配置されており、さらに虚海を挟んだ沖合には四つの国が存在する。
麒麟…各国に一体だけ存在し、唯一王を選ぶ事が可能な神獣。性格差はあれ基本的には慈悲深く、争いを厭う。血の匂いや死臭に弱く、それらに当たれば簡単に体調を崩してしまう。麒麟は人と獣の二つの姿を取ることが可能であり、特に金髪は麒麟しか持たぬ特徴であるため金、黄色は貴色とされる。
王…国を統べる王であり、王は麒麟によって選ばれる。寿命はなく、麒麟が死ぬか殺されるかしない限りは不滅である。ただし乱心して国を傾ければ麒麟はいずれ死に、王も連鎖して死ぬこととなる。
蓬莱・崑崙…こちらで言う日本と中国のこと。蝕と呼ばれる現象によって混じり合うことがあり、本来なら別世界のはずが一時的に繋がってしまうことがある。