齢十にして生国へと下ったはずの氾麒が竜胆のねぐらにやった来たのは、それから二年後の事だった。
「まさか本当に来るとは思わなかった。きっと忙しくて忘れてると思ったのに」
「それこそまさかです。あんなに楽しかったここでの語らい、どうして僕が忘れられましょう」
ほんの二年しか経っていないはずなのに、竜胆の記憶にある氾麒よりも彼は大人びて見えた。いや、きっと外見的な要素はそう変わっていないのだ。だけど内面、心の方が一歩も二歩も成長したのだろう。
麒麟は望む望まないに関わらず宰輔という国の二番手の位置に就く。故にいつまでも子供のままではいられないと竜胆も知っているが、見知った相手だと新鮮に感じられてしまうのだ。
「……麒麟ともあろう存在が、国と民ををほったらかしにして黄海くんだりまで遊びに来ても良かったの?」
「お仕事はちゃんと終わらせてきましたから大丈夫です。主上にもかつての恩人に礼を言いに行きたいと伝えたら快く了承してくれました。行きも雲海の上を渡ったので大した危険はありませんでしたよ」
どうやら、氾麒の選んだ王はかなり度量の広い王のようだった。麒麟を一人で黄海に送るなどいっそ愚行とも呼べる行いなのだろうが、それだけ氾麒を信用しているらしい。あるいは数日宰輔が居らずとも国を回せる基盤を整えたということか。
いや、実は麒麟に見せられないような内部粛清のために敢えて──などと考えたところで、竜胆はいったん考えを切り上げる。王の行いを逐一疑ってしまうのはもはや癖のようなものだった。
「それで、国の要たる氾台輔におかれましては、いったいどのようなご用件で私のところへ?」
「茶化すのはよしてくださいよ……これをあなたに渡したかったんです」
照れくさそうに
「これを私に? どうしてまた……」
「これまでお世話になったお礼、ということにしておいてください。自国の生産物で無いのが心苦しいですけど、誰かに頼らず自分の力で手に入れた品です」
なにせ今の範には何も無いので、そう氾麒は笑った。
この頃の範はこれといった特徴や長所がなく、何で成り立つにも半端な国であった。だからきっとこの花鈿も、他国から持ち込まれた品を氾麒が購入したのだろう。”自分で買った”と直接は言わない辺りが彼らしかった。
その心意気を嬉しく感じて、竜胆も素直に花鈿を受け取る。わざわざ黄海までやって来た氾麒に言いたいことはたくさんあったが、これ以上無粋なことを告げる気にもなれない。他人からの好意がこれほど嬉しいと感じるのはいつ以来だろうか。
「ありがとう、とても嬉しく思います。大切にさせてもらうわ」
「こちらこそ受け取って貰えて光栄です。もしかしたら拒否されてしまうかも、なんて考えてもいましたので……」
「そこまで薄情じゃないわよ、私だって」
いったいこの幼い麒麟からどのような人物と思われていたのやら。苦笑半分呆れ半分といった様子の竜胆は、それを丁寧に石製の
氾麒もそれを察したのか、何か言うことは無かった。本当なら
──紫の造花が竜胆の花のようで美しかっただなんて。
恥ずかしくて、言える訳がないのだから。
「介抱してもらったときから今日まで、一年もの間世話になった。感謝しているよ」
「本当に出てくつもりなのね……これで野垂れ死にでもされたら寝覚めが悪いったらない」
「そうならないように気を付けるつもりさ」
徇麟を蓬山へと送り届けてから三日後の朝。
木漏れ日に朝の陽光が零れ落ちる中、更夜は天犬ろくたと共に百華洞から旅立とうとしていた。それを見送りに出た竜胆はなんともいえない表情をしている。仮にも行き倒れを拾ったのが最初の出会いだったのもあり、どうにも不安が拭えなかったのだ。
「普通は十年かけて黄海での生き方を学ぶというのに、たった一年でなんてね……身体は丈夫だし頼れる妖魔もいるとはいえ、どうにも心配でならないのだけど」
「そこはあなたと黄朱からの教えを活かして生き延びてみるさ。それよりも、まさかこれほどまでに身を案じてくれる方が驚きだ」
「所詮は暇潰し、別にあなたがどうなろうと私には何も関係のないこと……なんて言えれば楽だったのでしょうけどね」
誰よりも生きることを渇望する者として、下手に死地へ飛び込もうする相手を見過ごすのも気持ち悪かった。それなりに見知った相手ならなおさらだ。どれだけ自分の生死に関係はなかろうと、そういうのを気にかける程度の善性は残っているらしい。
──自身に危害が及ぶなら躊躇いなく殺すくせに。
本当に身勝手な存在だと、竜胆は内心で嘲笑した。
「縁が有ればまた会えるわ。いつか何処かで、また会いましょう」
「ああ。改めて、世話になったよ。おれはおれの目的を果たすため、どうにか生き足掻いてみせるさ」
「いざとなったら妖魔の肉でも食べなさい。人間でも鼻を摘まめば何とか食べれるわ」
「それをするのはよっぽど生き汚い奴だと黄朱は言ってたけどね」
竜胆は声をあげて笑った。否定できる根拠が一つも無かったからだ。生き汚いという評価、大いに結構である。
それから更夜は一礼して、ろくたに跨り黄海の空へと飛び立っていった。後に残ったのは竜胆一人、柔らかい風が吹いて白髪を靡かせる。思っていたより感慨は湧かなかった、と竜胆は感じた。
『これでまた寂しくなる……などということは、台輔は思わないのでしょうな』
「我が身が一番可愛い嫌な奴が私だもの。誰か道連れがいるならそれで良し、いないならいないで構わないもの」
隠形したまま語り掛けてきた単殊の言葉に竜胆は真顔で答える。そこに罪悪感や寂しさといった負の感情は一つも無い。本当に、同居人が一人減ったことをなんとも思っていないような口ぶりだった。
ただ、偽悪的な言葉の裏側には確かに寂しさも覚えていることを、使令たちは理解していた。そうでなければ一々遊びにやってくる麒麟に付き合いなどしないし、更夜を拾ってわざわざ面倒を見たりもしないだろう。
要するに、竜胆の態度は照れ隠しか誤魔化しの類だった。死にたくないと願い、長い時を生きていれば出会いも別れも必然として多く経験する。それに心を慣らすための一種の処世術である。ならば見捨てれば良いのかもしれないが、普段は非情に徹することも出来ないのが竜胆の詰めが甘く、そして善性の名残とも言うべきところだった。
ともかく、同居人もこれで去って行った。後に残るはこれまで通り竜胆とその使令たちだけだ。たまに来訪する麒麟たちを適当にあしらいつつ、死なないために生き抜くいつもの毎日が続くだけである。
百華洞の中に戻り、椅子に腰かけてほうと息を吐く。静かだった。ふと視線をやれば供案の上に置いてある
「竜胆の花、か……あの子も随分と気の利いたものをくれたものね」
自らの名前である竜胆と、花の一種である竜胆をかけた贈り物というのは、受け取った時には気が付いていた。敢えて指摘することも無かったのは、”それ”を受け入れてしまえば
こうして百華洞から誰かが居なくなると、いつも物思いに耽ってしまう。一番最初にこの洞窟を訪れ、そして最後は当たり前のように死んでいった一人の麒麟のことを。
範西国の繁栄の噂は、遠く黄海に住む
氾麒が選んだ王はどうやら本当の傑物であったらしく、先王の乱心で荒れ果てた国土と人民は今や比べるべくもないほど潤っているという。たったの二十年程度でそうなのだから、このまま行けば間違いなく歴史に残る大王朝へとなるのだろう。
この頃はまだ数年に一度程度で氾麒も顔を出してくれていた。日々の政務にまつわる疲労もなんのその、どちらかといえば幼い姿で成獣となった彼の顔は、自らの王と責務への誇りで満ち溢れていたのを覚えている。いつも楽しげに民がどうだの官吏がどうだの話をしては、時折鋭い視点を覗かせる秀才だった。
それが五十年、百年と在位が続くごとに頻度は減り、いつしか数十年も全く顔を合わせない日々が続いた。それでも氾麒に触発されたのか蓬山の麒麟は度々やって来るし、そんな彼らから女仙より聞いたという範の様子を訊ねるのも密かに楽しみにしていたものだ。
結論から言えば、私と彼の関係性はこれで終われば良かったのだ。氾麒は良き王を選んで国を支え、私はいつまでも意地汚く生にしがみつき続ける。それでこの話は終わりだし、互いの道が交わる余地なんて一つも残っていないはずだった。
「範の沿岸に妖魔が出るようになった?」
だからその話を聞いた時、”ついにこの時がやって来てしまったのか”と思わず天を仰いでしまっていた。
氾王登極からおよそ二百五十年あまり、偶然出会った黄朱からそのような噂を仕入れた。そのころは蓬山にも麒麟はおらず、調度品の整ってきた洞窟で大人しくしてるか、適当に黄海を散策するような日々の繰り返しだ。だから金剛山の先、十二国の情報など一つも持っていなかったのが、ついに知る羽目になってしまった。
便りが無いのは元気な証拠、などという言葉があるらしい。これは子供を待つ親に向けたらしいが、私の心境もきっと似たようなものだと思う。いつしかやって来なくなった氾麒は生国で健やかにしているのだと信じていた。
──だが、黄朱の話はそんな願いとはまったく反対の意味を帯びていた。
王が善政を敷き、天命ある内は国に妖魔は寄り付かないものだ。例え隣の国が荒れに荒れて妖魔の跋扈する土地へ変貌していてもそれは変わらない。
なのに範の沿岸には少しづつ妖魔が出るようになったという。西側の虚海にせよ、東側にある四つの内海の一つ白海にせよ、普通はそんなことあり得ない。もし水の底に眠っていたとしても表には出てこないはずなのだから。
つまりこの事実が示しているのはただ一つ。範西国は、ゆっくりと傾き始めているということだった。
おそらく派手な倒れ方ではないのだろう。賢君から暴君へと様変わりして圧政を敷くでもなくゆっくりと焦らすように沈んでいる。
王の政治がおろそかになり始めたのか。国や民に関心を失ったのか。白雉が鳴いたとは聞いていないから、崩御まではしてないはず。だが何処かしらで天命に背くような行いがあったはずだ。……はっきり言えば、またかと思った。
「たとえ王朝がどれだけ穏やかな倒れ方をしようと、最初にそのしわ寄せが来るのは麒麟だというのに。失道して助かった例はあまりに少ない、いっそ禅譲して自ら定めを決してくれれば良いものを」
『くくっ、それを言うのはあまり台輔らしくないのでは? どのような命でも生きられるならば生きたい、そう願いここまで墜ちたのがあなたのはずだ』
「だとしても、よ。元は同じ仲間だった者として、なんの罪もない麒麟が死んでいくのを見過ごすのも嫌なの」
黄朱から話を聞いたすぐ後、適当な岩に腰かけ呟いたのがそんな言葉だった。らしくない主張とはまさしく求堅の言う通りである。
結局私はつまらない存在なのだろう。普段は”どんな者でも生きたいと願って良い”はずと
「でも……ちょっと心配だな」
『氾麒に会いに行かれますか?』
「冗談、私が行ったところで王宮の門も越えられないわよ。力業で押し通るのはあまり賢いとも言えないし」
『なるほど、確かにそうですな』
王宮はやはり王宮だけのことはあり、妖魔どころか虫一匹も寄せ付けない堅牢な守りをしている。しがない妖魔擬きとなった私が王宮へ足を踏み入れることが出来るとはとても思えない。
こういうとき、麒麟であったなら簡単に訪問出来たのだろうか。分からないが、惜しいと思ってしまった。あんな損な生き物でありたくないと願ったはずなのに。
「つくづく全てが矛盾してるわ、私って……」
嘆息して俯いた。本当に嫌な奴だ。都合の良いことばかり考えて、自分が捨てたはずの物にすら縋ろうとするのだから。
けれど範が傾き始めたと知った今、氾麒に会いに行ってみたいのも事実だった。実際に面会できる可能性は皆無だろうと、この黄海の外を見に行くのも悪くないだろう。
寂れた農村と、雪に閉ざされた国と、そして天に見捨てられた土地しか知らない私だ。只人がどのような暮らしをしているのか、ついぞ自らの目で確かめる機会もなかったのを思い出す。
四令門を越えて範に赴いてみるのも良いかもしれない──なんとなく、そう感じた。
氾麒関連の話は次回で決着をつける予定です。