矛の残照 徒華の盾   作:生野の猫梅酒

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大変お待たせしました。


第十一章 別離

 

「それじゃあ竜胆は黄海の外に出たことがあるの?」

 

 幼い麒麟からの問いかけに、私はひとまず頷いておいた。それだけで徇麟は嬉しそうに笑みを浮かべ話を聞かせて欲しいとせがんでくる。活発さを絵にかいたような彼女のこと、蓬山と黄海以外の世界も知りたくてたまらないのだろう。中々のお転婆麒麟だ。

 更夜が百華洞から去って数週間も経過しただろうか、段々と洞窟内から彼の痕跡が消えていく頃にまたも徇麟は姿を現した。この前私と一緒に散々女仙に叱られたくせに、大した肝の太さと感心してしまう。また怒られるのはご免なので、もう少ししたら意地でも蓬山へ連れ戻すが。

 

「ねぇねぇ、どこの国に訪れたの!? 人はたくさんいた? 王様はちゃんと良い王様をしてた!?」

「一度にいくつも質問しないでちょうだいって。まあそうね……私も滅多に黄海から出ることはないけど、片手で数えられる程度に外へ出たことはあるわ。どんな様子だったかは国によってまちまちだったけど」

「へぇ、そうなんだー……竜胆はどんな国を見てきたの?」

「そうね、雪国は呆れるほどに見てきたわ。逆に少しばかり暖かい方向に行ったこともあったっけ」

「雪って、あの白くて冷たくて軽いっていうあの雪のこと!? いいなぁ、あたしも見てみたい!」

 

 徇麟の言葉でまず思い出したのは生国である戴極国だった。今更かの国の台輔面をする気は毛頭ないが、やはり麒麟として過ごした時間を忘れる事など出来そうにない。雪と虚海に閉ざされた極寒の土地、民の誰もが冬の間は苦しい生活を強いられてしまう。そんな中で王が乱心を起こせばもう最悪だ。

 結果的に私は彼らにとっての良い麒麟とはなれなかった。それどころか自らが生きるために王を弑し奉り、最後はこのように堕ちるところまで墜ちたのだから相応しい末路と言えるだろう。生きていられるのなら文句を垂れるつもりは微塵もないが。 

 

 そして次に想起した国は──

 

「後は範にも行ったことがあったかな。あまり取り立てての特徴はない国だけど、そのぶん長閑で穏やかな国だったわ。しばらく滞在して首都の方にも行ったかしら」

「範っていえばちょうどあたしの舜とは真逆の方の国よね。いいなぁ、行ってみたいなぁ。竜胆はどうして範を訪ねたりしたの?」

「それは……」

 

 この幼い麒麟相手に正直に話してしまっても良いのだろうか。

 国が倒れそうだから、氾麒が失道の病に罹ったかもしれないから、その様子を見るために範を訪れたなんて。あまり面白い話でないと思う。いうなれば自分の辿る末路を語り聞かせるようなものだ。いつか直面する虚しい麒麟の現実だが、それを此処で突き付けてしまって大丈夫なのか。

 

「もしかして、前に話してた氾麒にお呼ばれしたとか?」

「……まったく、勘が良いのも考えものね。半分合っているけど、半分は間違ってる」

 

 お呼ばれしたとかその程度の話だったらどれだけ良かったことだろう。お茶を飲んで笑顔でお別れという綺麗な話だったらどれだけ救いになったことか。

 現実はもっと儘ならないし、悲しいものだ。麒麟としてのどうしようもない性を、これ以上なく互いに突き付けられたのだから。

 

 かつて氾麒に会いに範まで赴いたのは、もう数百年は昔のことになるだろうか──

 

 

 まず結論から言えば、外の世界に全く興味が無いと言えば嘘になる。

 

 今でこそすっかり黄海での生活に慣れてしまったが、私とて人並みの生活に憧れのようなものはある。それでも黄海から出ないで何百年と引き籠っていた理由の一つは、大嫌いな”王”が治める国を見たくなかったからだろう。

 最後は結局倒れるし、その時はここぞとばかりに国も民も麒麟も全て巻き添えにして死んでいく。生憎と私は平和な国土とやらをほとんど知らない身の上だが、それでも平穏な国もいつか悲惨な境遇に堕ちるとあっては憂鬱にもなる。

 

 希望とは大きければ大きい程、裏切られ終わった時の絶望も酷いものだ。生きることに利己的な私の中に残った一握の良心が「そんなものは見たくない」と囁いたから、黄海に長い間引き籠っては生存に腐心していた。

 もちろんもはや人でも麒麟でも、まして妖魔とも言い難い私の居場所が人の世界にあるとは思えなかったのも理由の一つだが。異分子はどのような土地だろうと排斥される、かつて幼少の折りに身をもって学んだことだった。

 

「それが何の迷いか外の世界に迷いだそうとするなんて。私も随分おかしくなったみたいね」

『そうかもしれませんな。なに、台輔の身の安全は保障するのでどうぞご安心を。そのような契約ですからな』

「はいはい」

 

 ()()()()()()、なんてことのない独白に隠形しつつ揶揄ってきた求堅を軽くいなして、襦裙の上からさらに身に巻きつけた襤褸布を握り締めた。これと何か適当な荷物を持ってさえいれば簡単に黄海を行く旅人に早変わりなのだから簡単なものだ。実際、周囲で同じく待っている人間たちの中にうまいこと溶け込めてると思う。

 私も()()を見るのは初めてだから、実は少しばかり期待している。年に一度だけ人界と黄海とが交わる境界線。こちら側の誰もがきっと早く人の世界に戻りたいと希求して、反対に向こう側の人たちは黄海へと踏み込む高揚感と緊張感に身体を支配されているのだろう。熱気と怖れとがない混じった独特の空気が無性に肌と心を刺激する。

 

 見上げるほどに巨大で、重厚で堅牢な朱塗りの門扉──令乾門(れいけんもん)が開かれたのはその時だった。

 

 老爺の姿をした天伯という霊獣の手により、想像もつかないほど重たそうな門が軽々と開かれていく。涼やかな風はこの先、恭の国は乾県の方からやってくるものだろうか。その風に吹かれるようにして老爺は忽然と消え、残された人々は大きな歓声を上げながら人の地へと進んでいく。

 死と隣り合わせの土地から安全の約束された世界へ戻れる喜びはいかなるものなのか。もはや黄海に慣れ切ってしまった私には少々共感し辛いが、開門を見た当事者の一人として心を揺さぶられるものは確かにある。

 

「すごい……これが年に一度の安闔日(あんこうじつ)なんだ」

 

 まるで儀式めいたこの光景に思わず感嘆の声が出てしまった。途轍もなく幅の広い峡谷の中を我先にと進む人たち、彼ら一人一人の目的は違えどこの安闔日を待ち望んでいたのは事実だろう。人の流れにそって小走りに移動しながら、けれどたくさんの人たちともすれ違う。様々な表情を盗み見た。

 地を揺らしながら人々の足跡が交わり、私たちは気が付けば緩やかな坂を下っていく。その先には青銅の屋根を持った家屋たちと、厳重に厳重を重ねてもまだ足りないほどの防備を施された街並みがある。妖魔から身を守ることに特化した防衛の街、それが乾だった。

 

 歩いていくうちに人の列は小さくなり、気が付けば広途(おおどおり)の中ほどを一人進んでいた。各所に見覚えのない建物や非常用の鐘楼こそあるものの、基本的な街の構造はかつて戴で見たようなものばかり。

 

「懐かしい……はずなんだけど、意外とそうでもないかな」

『おや、意外と人の世が恋しかったのですか?』

『それともまさか、懐かしいと感じることもない程に忘れてしまったのか』

「馬鹿なこと言わないの単殊。むしろ久々に見たせいでとても新鮮なのよ。分かってはいたけど、戴とは違うことばかりだしね」

 

 戴は過酷な冬に備えて防寒対策がそこら中に施工されたどこか寂しい風景だったし、かつて育った農村や今のねぐらである洞窟は言うまでもなく粗末なものだ。この乾の街並みとて普通とは言えないだろうが、それでも私にとってみれば初めてみる賑やかで活気の溢れる街並みと評して間違いない。

 まるで僻地から初めて大都市へとやってきた田舎娘のように右へ左へと視線を忙しなくやってしまう。目に入るものがどれもすごく新鮮で、わざわざ黄海の外に出た目的すら一瞬忘れてしまいそうになったくらいだ。

 

 気が付けば街の南西に位置する未門(ひつじもん)を出て、乾県城の外にまで来ていた。まだ夕刻には程遠いから人の通りもそれなりに見えるが、そこからさらに寂れた森の方へと踏み込んでいく。完全に人の目から遮断された辺りで隠形させていた使令を呼び出した。

 

「じゃあ、そろそろ行ってみましょうか」

「やはり向かうのですか? あまり好ましい行いとは思えませんが……」

「それでもよ。さすがに直に会えるとまでは思わないけど、せめて彼の選んだ王が造った国を見てみたい」

 

 封香の気遣いはありがたいが、その言葉に頷いてしまえばここまで足を運んだ甲斐が無くなる。あくまで雲海ではなく地上を進むため黄海へ戻れるのは次の夏至までとなるが、それも一考に構わなかった。

 徐々に傾き始めたという範の国はどのようになっているのだろう。あの利発な麒麟はまだ健在なのか、それとも既に病んでしまっているのか。仮にも縁のある者として気にかかってしょうがなかった。

 

 そしてもし、氾麒が失道に苦しんでいるというのなら──

 どうしようもなく滅びの兆候が見えてしまっているというのなら──

 

 白髪をまとめている竜胆の花を模した花鈿(はなかざり)へと、無意識のうちに指が触れた。どうにも慣れない装飾品は氾麒へのせめてもの礼儀である。彼は、どうしても放っておけなかった

 

「麒麟や民を苦しめる王なんて死んだ方が断然いいに決まってる」

 

 ──あらゆる手を尽くしてでも、私は氾王を殺してしまうかもしれなかった。

 

 

 空を飛べる使令の背に揺られること一日あまり、目的地となる範西国の首都へ到着した。四令門が開くのは安闔日の正午から翌日の正午までの丸一日だけ。なのでもう一年は恭から黄海に戻ることは出来なくなったが、まあ些末なことだと開き直っておく。

 

 令乾門のある恭を南に下った先にあるこの国は、衒いなく述べてしまえば特徴が何もないらしい。何か貴重な玉やら資源やらが出る訳でもないし、特別農作や酪農に優れていることもない。何で成り立つにも中途半端な国だが、それ故に自給自足は間に合っている普通な国である。王が王なら何か人的なものを発達させることも出来るかもしれないが、現状でそのような兆しはない。

 

 というのが、自国民から見た範の評価らしかった。

 

「へぇ、そうなんだ。教えてくれてどうもありがとう」

「いやいや、お構いなく。別嬪さんに道案内を頼まれたんだ、これくらいはお安い御用さ」

 

 気安く手を振りながら去って行く青年にこちらも手を振り返し、雑多な人混みの中で一人となる。見慣れない街並み、空気、国民達。どれもこれも初めてだらけな感覚は先の乾の街並みとも似ているが、ここは範の首都だけあって未知への驚きも尋常ではなかった。

 まずは一番に活気がすごい。寒くないだけで人はここまで元気になれるのかというくらい、とにかく道行く人たち全員に異様なくらい元気がある。その熱気に中てられないように道の端を歩こうにも、今度は大笑いして取っ組み合ってる青年たちにぶつかりそうなくらいだ。不意に横合いから上ずった歓声が聞こえるから何かと思えば、どうやら昼間から酔漢の類が騒いでいる始末。

 

「これは……ちょっと想像以上ね」

『本当に範は傾いているのでしょうか? 我らには判じかねます』

 

 何というか、思ったよりもはるかに活気がありすぎる。黄海に居た私ですら”虚海に面した沿岸に妖魔が出る”という情報を手に入れたくらいなのだ、当事者たちなら国の傾く姿に陰鬱な空気を漂わせてると予想していたのだが。人々はまるで気にしていないとばかりに明るく楽しく過ごしている。──本当に、明るく楽しい心境なのだろうか?

 急に空恐ろしくなってしまい、身体が微かに震えた。私は人の機微だとか、沈みゆく王朝の段階について詳しくない。なのだがこの範の現状は明らかにおかしいと分かってしまう。だってこれは現実感がない。危機感もない。浮足立った笑顔ばかりが目に付いてしょうがなく、皆が揃いも揃って崩壊から目を逸らしているかのようだ。

 

 路傍の壁に寄りかかり改めて街並みを見渡した。一度”異常な熱気”と感じてしまえば視界に映る光景の意味も変わって来る。これはきっと不安を誤魔化しているだけなのだ。目には見えないところで危機感を感じ、それを必死になって否定しようとがむしゃらに笑っている。

 笑っていられるだけ範はまだ良い方なのか、むしろ笑うしか出来ないから範はもう末期なのか。どちらとも取れるが結論には至らない。その辺りの経験の蓄積が私にはまったく無いからだ。

 

「氾麒は大丈夫なのかな……せめて会って話が出来れば良かったけれど」

 

 これでは彼が無事かどうかちっとも分からないではないか。心配になって思わず黄海から飛び出してきてしまったが、本当に行き当たりばったりだ。救いようがない愚かさである。

 かといって凌雲山を登り王宮へ直接参上する訳にもいかないだろう。かつての宰輔という身分ならいざ知らず、今の自分が訪問したところで門前払いだ。力づくで突破するのは賢いとは言えないし最後の手段にしたい。

 とはいえ、国の二番手たる氾麒にそう簡単に会えるとは思っていないし、しばらく範に留まって様子を見るのも良いかもしれない。その上でどのように身を振るか考えてみよう。

 

「あ、でも路銀も何も持ってないや。これは街の外で野宿かしらね」

「──いえいえ、まさかこの国であなたを野宿させる訳にはいきませんよ」

 

 ふと、雑踏の中で聞き覚えのある声がした。

 そんなまさか、ありえない。頭ではそう理解しているというのに、耳に入ってきた声音は間違いなく彼のものだ。信じられない気持ちのまま、声の聞こえてきた方へと顔を向ける。特徴的な髪こそ布で巻いて隠しているが、間違いなく()だ。

 

「そんな、なんであなたがこんな所にいるのよ……!?」

「あはは、驚きました? ええ、これならこっそり忍び寄った甲斐もあったというものです」

 

 いつものように照れた笑みを浮かべていたのは、紛れもなくこの国の重鎮であり。

 私が今一番に会いたかった氾麒その人であったのだ。

 

 

 礼儀正しく聡明なくせにたった一人で黄海にまで来てしまうほど奔放な氾麒ではあるが、まさか自国の街まで自然に闊歩してるとは思いもしなかった。迂闊な行動で危険に晒されたらどうするつもりなのだろう……などと他人事のように感じてしまうが、正直黄海の方がよっぽど危険だと考え直した。原因は私なので何も言えない。

 そんな氾麒は一言「ついて来てください」とだけ告げると慣れた足取りで街中を歩きだした。状況をよく理解できないままひとまず彼の後をついていけば、いつの間にか喧騒を抜けて静かな区画へ足を踏み入れている。そこからさらに路地裏に行けば、もう人目の全くつかない秘密の場所といった風情が漂っていた。

 

「お久しぶりです竜胆、まさかあなたの方から範に来てくれるとは思ってもみなかったので驚きましたよ」

 

 氾麒はこちらへと向き直り、髪の毛を隠す布を取り払った。麒麟の証、金色の鬣が路地裏に靡く。それだけで寂れた暗い雰囲気が取り払われて、明るい光が差したかのように気配が変貌する。

 

「驚いたのはこっちの方よ。まさか直接王宮から出てくるなんて……いいえ、そもそもどうやって私が範に来たと分かったの?」

「なんてことはありません、本当に偶然でした。ちょっと使令達に雲海の下の様子を見に行かせてたらあなたの姿があると聞いて、居ても立ってもいられず飛び出してきてしまいました」

 

 まるでそれが当然のように氾麒は笑った。どこか力のない微笑みだ。

 

「ねぇまさかとは思うけど……もう気軽に出歩けないくらい弱ってたりする?」

「そんなことは──」

 

 ないですよ、と続ける氾麒の顔は明らかに白々しい。こんな私でも分かるくらい嘘と誤魔化し、それに衰弱の気配が全身から漂っていた。麒麟の衰弱の原因は主に二つ、血に酔って体調を崩すか、あるいは──

 

「もう、そこまで範の王朝は崩れてたのね……あなたが失道の病に罹ってしまうくらいに」

「いやぁ、お恥ずかしい……ついに僕にもこの時が来てしまったようです」

 

 苦笑する姿はいっそ憎たらしいほどにいつも通りで、逆にその態度が痛ましくて仕方ない。

 本来なら彼はここにこうして来ること自体難しい身体のはず。それなのに私なんかに会いにくるために、失道により弱った身体を推して来てしまった。黄医はどうしたとか、身体は平気なのかとか、どうやって抜け出してきたかなんて野暮なことは問わない。今この時に問いたくなどなかった。

 

 私から問うべきことなんて、たった一つしかないのだから。

 

「ねぇ氾麒。あなたはまだ、生きていたい?」

 

 もし頷くのなら、私は何をしてでも彼を助けたいと思う。

 必要ならば失道の原因たる氾王を殺す。出来るならば天に弓引いても良い。麒麟とはどうしても哀れな生き物で、その存在全てが王のためにあるようなもの。始まりから終わりまで自分の為には生きられない。けれどそんなの哀れすぎる、麒麟だって自分のために生きても良いじゃないかと切に願う。

 だから、氾麒には”生きたい”と頷いてほしかった。私のように生き汚くならなくても良いから、せめて一秒でも良いから自分のために生きてほしい。かつて同類だったものとして、悲しい生涯で終わってほしくなどなかった。

 

 なのに、氾麒は、ゆっくりと首を左右に振って。

 

「いいえ、僕はもう十分に生きました。このまま死ねるというのなら悔いは少しもありません」

 

 悟ったような顔で穏やかに言うものだから、私はもう自分の感情を抑えることが出来なかった。

 どうして麒麟はこうもあっさりと他人に全てを捧げられるのだろう。死ぬのが怖くないのか、自分が自分でなくなることが恐ろしくはないのか。私には分からない、どうしてもどうしても分からない。

 

「なんで……なんでよ……!? どうしてあなたは、麒麟は、そんな簡単に(たにん)に殉じて死ぬことができるのよ……!? 死ぬのが怖くないの!? 何一つ自分の楽しみもなく、生涯を王のために捧げて、死んだ後にすら何も残らない虚しい一生なのに! なのにどうして、そんなにも満足そうな顔が出来るのよ……!?」

「それはきっと……上手く言えませんが、僕が麒麟だからだと思います」 

「麒麟、だから……?」

「はい。麒麟として生まれたから、麒麟として死ぬ。それが天の定めた摂理なのでしょう。あらゆる物事にはきっと意味があって、僕たち麒麟がこのように生きて死ぬのにもちゃんと意味があると信じてます」

 

 それに何より、と氾麒は続けた。

 

「僕は少しも不満なんて抱いていません。竜胆と出会い、主上を選定し、今日まで駆け抜けた道程に一つの不満も無いんです。だからこのまま失道で死ぬとしても、きっと受け入れられることでしょう」

「……ッ、ふざけないで! そんな、そんなの……」

 

 誰かのために生きて、死ぬ。たったそれだけの人生が幸福でなどあるものか。認められるはずがない。

 なのに、どうしても二の句が継げない。私の信条からすればどうしようもなく相容れない言葉のはず。それがどうしてだろう、胸の中に綺麗にはまってしまった。

 麒麟は、王に仕えることにどうしようもなく喜びを感じてしまう生物だ。もう本能的にそう刷り込まれていて、私でも弑し奉った王を想い泣いてしまったことがある。だから氾麒の言葉を否定したいのに、どうしても否定しきれない自分が居るのも事実だった。

 

 でも、それでも。

 

「たった一言だけでいい、まだ生きていたいって言いなさいよ! あなたにはその資格があるじゃない……! 王なんてまた選べばいい、何度だって選び続ければいい! 出来ないならせめて、私が氾王を──」 

「……ありがとうございます、その言葉だけで僕は十分に報われました」

 

 やんわりと、しかし強い口調で私の言葉は遮られた。それ以上は言わせないと視線が暗に語っている。

 それから氾麒は控えめに含羞(はにか)んだ。

 

「だけど、本当にこれで良いんです。この氾王の治世は実に二五四年もの間続きました。確かに今の主上は政に飽きてしまい、もはや国を運営することを放棄してしまいました。それでも、僕にとってあの方以上の主はもう望むべくもないのです」

「要するに主のことが好きだから、一緒に死ぬのも怖くないと」

「まとめてしまえばそうなりますね。それ以上に、やっぱり主上を害す発想自体がどうしても拒否感が出てしまうのですが。麒麟なのに主を弑せるとしたら、それこそ矛盾してるとしか思えない。例えば、あなたのように」

「……そうね、認めるわよ。私は在り方からして矛盾してる。自分のことが一番可愛いくせに、こうして他人であるあなたに情けない同族の誼で手を差し伸べようとしてる。何もかもが一貫しない半端者こそ竜胆よ」

 

 半ば懺悔のように呟き、路地裏の暗がりに言葉が吸い込まれていく。

 私は本当に何がしたいのだろう? 自分が生きるために禁忌を犯して、なのに他人のためにこうも叫んで、けれど弑した相手を想って泣いてしまい、たった一人も説得できない。

 どうしようもない。全ては徒華のように虚しく、残照のように儚く消える。どこまでも惨めな気分だ。

 

「でも、そんな私だから臆面もなく言えることがある。生きることに嘘も真もありはしないし、誰かのために生きることが絶対に正しく綺麗な訳でも断じてない! それでもあなたは、このまま死ぬことを選ぶのね……」

「改めて、あなたの気持ちは嬉しく思います。でもこれだけはどうしても譲れないんです。どうかそのことを分かってください」

 

 もはや何を言おうとこの頑固な麒麟の心は変えられないのだろう。いいやむしろ、麒麟だからこそ頑なになってしまうと言うべきか。そう納得してしまう自分が憎らしいし、彼の生き方が悲しかった。

 いったいどうして、天は何の恨みがあって麒麟の自由意志すら奪ってしまったのだろう。麒麟は天意を素通りさせるだけの器、そう誰かが評していた。もしそれが本当ならば、結局麒麟とは天の操り人形でしかないじゃないか。

 

 自分の意志も、心も、行動も、何もかもが”そうあれかし”と天帝に定められたというのなら。

 あるいは麒麟に心など無かった方が良かったのかもしれない。ただ王を選び補佐をするだけの機構であれば良かったのに。何故こうも世界は残酷な形を取るのだろうか。恨みの叫びを向けずにはいられなかった。

 

 それでもせめて、彼の前ではもう少しだけ見栄を張らせてもらうとしよう。先達としてその選択を祝福するくらいはしてあげたかった。

 

「もう、私から言えることは何も無いわね……そこまで頑ななら仕方ないわ。好きに余生を過ごして、好きに死ねば良い。どう生きようと個人の自由よ」

「なら最後に、改めてあなたに感謝を。竜胆と出会えて本当に良かった」

「……そっか。じゃあね、精々悔いのないように生きなさい」

 

 そのまま氾麒に背を向けて歩き出した。名残惜しい。出来るなら看取ってあげたい。未練ばかりが募っていく。かつての同族を見捨てて去ることを心が拒絶しているのに、足は少しも止まってくれない。

 これ以上はもう駄目だ。我慢できそうになかった。瞼が熱くなり、視界が滲んだ。これまでの想い出が一瞬で脳裏を駆け巡り、そして浮かんでは消えていく。最後に初めて出会った時の、彼のあどけない純粋な笑顔が思い出されて──

 

「……なんで麒麟はいつもいつも、こんな生き方しか許されていないのよ」

 

 幾度となく反駁した疑問を、これ以上なく切に切に天へと問いかけた。

 

 

 踵を返して去って行く竜胆を名残惜しく見送ってから、氾麒は静かに空を仰いだ。路地裏の狭い空、けれど抜けるような青空がいっぱいに広がっている。悩みのない綺麗な色、氾麒の心を切り取ったかのように穏やかだった。

 ただ一つだけ、大きな雲が漂っているのも見えた。ゆっくりと風に流されて視界の外へと消えていく。

 

「後悔なんて一つもない。いいえ、本当は一つだけあったのですが……それも既に、無くなってしまいましたね」

 

 もはや氾麒の命も風前の灯火という頃に、竜胆は自ら来てくれた。しかも彼の贈った花鈿を身に着けて。本当にそれだけのことで、彼の中に微か残っていた未練は風に吹かれたように消え去った。

 

「僕は主上のことを紛れもなく敬愛しています。だけどそのもっと前に──初恋とも言うべき人が、存在したのです」

 

 けれどその願いは永遠に叶う事などない。麒麟は王に仕える存在であり、心の機微さえ王のため。人間ならば普遍的な感情ですら余分なもので不必要だった。

 だからこの想いは花鈿と共に断ち切ったはずなのに。どうしてだろう、もう少しで死ぬと分かってから無性にこの感情が蘇ってしまった。せめてもう一度だけ竜胆に会いたいと、そう願ってしまったのだ。

 

 果たして、その願いはどのような采配なのか叶ってくれた。これで本当に未練はない。

 

「竜胆、あなたは麒麟の生涯に自分の楽しみは無いと言ってました。けれど、それだけ絶対に違うんです」

 

 黄海の中にたたずむ、一輪の白い花。

 ある日、思いがけずそれに出会った時から、紛れもなく氾麒の生涯には楽しみが出来たのだ。

 

「──さようなら、竜胆。僕はあなたの事が、好きでした」

 

 麒麟として絶対に成就することのない感情を胸に秘めて。

 もう一度だけ見上げた空は、雲一つない綺麗な快晴だった。




2019年に戴が舞台の新作が出ると聞いて、本当に嬉しくてたまりません。
もう十数年も新作長編を待っていたから慣れているはずなのに、一日千秋の想いで発売を待ち望んでおります。
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