主上──いや、前代王を弑すのは思ったよりもずっと簡単なことだった。
麒麟は仁の存在と皆が認識している。故に私の内心が酷く醜いものだとは欠片も考えていないし、ましてや自らが選んだ王を弑すなど想像すらしていないことだろう。実際、蓬莱での擦れた思考が根付いた私でも抵抗感が大きかったのだから。
手順はあまりにもあっさりしていた。夜、前代王の寝所である
なぜ麒麟の私が冬器を持っていたのかと言えば……いつかこういう時がくると、漠然と考えていたからなのかもしれない。
「代麟……なぜ……」
「これが愚かな私と、そして貴方の行いの末路よ。さようなら、憎くて愛しい我が主上」
「ぐうッ……!」
死者にばかり
唯一無二の王を手に掛けた罪悪感は大きくて、けれど失道から解放されたことへの安堵は更に大きかった。これでまだしばらくは死なないで済むと喜んでから、すぐに辺りに立ち込める血の匂いに
月明かりに照らされた元代王の姿は寒々しく、悲しくなって、思わず目を背ける。
「
『ここに』
影の中に
「単殊はそこの窓から飛び出して、軽く白圭宮を引っ掻き回して第三者が居たように見せかけなさい。求堅、あなたは誰か下官を呼んできて。そろそろ力が抜けてきて動けないの……」
「御意」
「承知」
知恵ある妖魔と知られる朱厭だけあって、単殊はことさらに頭が回る。きっと大丈夫だろう。
命を受けてすぐに散っていく使令たちを見送って、しばし室内に一人となる。王の居室らしく豪奢に、だけども飾らない素朴さもある彼らしい部屋だった。それがいっそう弑逆という大罪を犯したことを自覚せよと迫って来る。
他の使令たちは何も言わない。ただ私の息遣いだけが部屋に響いていた。物言わぬ死骸と成り果てた前代王の身体を抱き寄せ、そっと頬を寄せる。どうしてか視界が滲んで、そこでようやく自分が泣いていることに気が付いた。
「さようなら、主上」
懐から白鈴を取り出し、弔うように小さく鳴らした。澄んだ音色が響き渡る。私の髪色になぞらえて賜った白い鈴、初めはなんの嫌がらせかと思っていたのだが。今や私と彼の間を繋ぐ、ただ一つの品だった。
引き返すことは叶わない。死んだ者は蘇らず、生きているならいつまでだって生き延びてみせる。私はそういう悪徳の麒麟なのだから、主上を殺しただけ長生きをする義務があるのだ。
初めは自分の為に生を望んだ。
そして今は、殺してしまった主上の為にも生きなければ嘘だという。
であれば、私の本心というのは──いったい何処にあるというのだろう?
結局、王を弑逆した大罪人の行方はついぞ掴めなかったようだ。
単殊に命じてある程度の痕跡を残させたのだが、それが上手く秋官──刑法を司る官吏たち──を攪乱してくれたらしい。王気に異変を感じ馳せ参じた時には既に事切れていた、そう説明した私が疑われることはついぞなく、むしろ慰められてばかりだった。
申し訳なさで胸がいっぱいになる。誰が悪いかといえば全て私なのに、このうえ嘘を吐いて同情までさせているのだ。最低最悪と罵られようと何一つ反論は出来ない。
それでも、麒麟が生き残った事実は大きい。通常、麒麟が死亡してから新たな王を選べるようになるまで最短でも六年は掛かる。加えて王の捜索に時間を取られてしまえば、その分だけ次代の王が立つのは遅れてしまう。傾いていく国に残された民にとって、この期間はあまりに長い。
諸官たちにとっても、麒麟が失道した王とはほぼ間違いなく沈むものなのだ。口では王を惜しみ生き永らえてほしいと言っていても、本心ではどうなのか。さっさと禅譲するなりして王位を空け、国が荒れ果てる前にせめて麒麟だけでも残してほしいと思うだろう。
少なくとも私ならそう望む。──望んで、しまう。
だから今回の一件も表向きでは弑逆がどうの大逆がどうのと叫ばれていたが、ほんの一月もしない内に事態は沈静化していた。誰もが失道した王のまさかの退場に驚き、そして胸を撫で下ろした証左である。
「体調も快復したし、朝廷も落ち着いてきたしで、いい加減に王を真面目に探す時かしらね。もっとも、今度もそう時間は掛からなそうな気がするわ」
「台輔……よろしいのですか?」
「何がよ?」
仁重殿の中でもお気に入りの一室は、部屋の壁が黒く塗られている部屋である。
白圭宮はその名の通りにどこも真っ白で、壁も柱も
椅子に腰かけ、
だから、封香にはそのような目で見ないでほしいと思う。まるで可哀そうな人物を前にしたその瞳、まさか私を憐れんでいるとでもいうのだろうか。
「王を弑すという大逆を行った台輔の御心が癒えぬまま、新たな王を選ぶことは果たして良いのでしょうか? 私にはどうにも疑問に思えてしまいます」
「……そんな繊細な心、この私が持っている筈がないでしょうに。そうでなければ決断する事なんて絶対に出来なかった。それに私は、あの行いに後悔なんて微塵も無い」
王を弑し、誰が不幸になったという。いいや、誰も不幸になどなっていないのだ。
民は国を傾ける王の退場に喜び、官吏は朝廷の腐敗が進まないことを寿ぎ、そして私は死の恐怖から解放されることに安堵する。誰もが幸せになれる最高最大の結果を手に入れたではないか。それの何が悪いというのか。
「これは皆が心の中で望んでいたことを形にしただけ、それ以上の意味はないのよ」
「しかし、ただ一人不幸になった者はおりましょう」
「……だから何よ?」
「王の不幸とは麒麟の不幸を意味します。例え誰がその行いを褒めようとも、決して台輔の心は──」
「黙りなさい!」
机を叩いて立ち上がった。
「私はまだ生きていたい、死にたくなんてないの。その為ならなんだってする。やってみせる。誰にも止めさせはしない……!」
「分かりました。あなたがそう望むのなら我らは従うまでです、竜胆様」
「……っ、消えなさい!」
息が荒くなる。溶けるように封香の気配が消えていった。どっと疲れが押し寄せてしまい、再び椅子に身体を投げ出す。
こういう時だけ蓬莱での名前を呼ぶなんて、狡いではないか。これではまるで、癇癪を起した子供が叱られているようで──
「事実、そうなのかもしれないわね……」
二君に仕える麒麟は多くないが、さりとて珍しいことでもない。
最初の王が何らかの形で崩御した後、残された麒麟は新たな王を選ぶ必要がある。この時に用いられる期間はまちまちだが、一般的に数年の歳月がかかると見越して良いだろう。
故に先王崩御からほんの二月ほどで次なる王を見つけた代麟は、驚きと共にその名を知られる事となった。
新たな代王の姓名を
これには王宮内でも激震が走った。この環辰という男、大司冦を拝命しただけの学も機転もあるのだが、いかんせん人格に問題があった。非常に神経質なきらいがあり、物の道理に五月蠅いのだ。秋官長として美点とも欠点ともなり得る性質が、王としてどのように影響を及ぼすか諸官は甚だ不安がった。
次王登極直後の朝廷では、このような会話がよく聞かれたという。
「環辰が王になったならやる気を失くして失道なんて真似はせんだろう」
「いやいや、真面目が高じて戴の民を
「不安は残るが、まあ悪いことにはならんだろうさ」
秋官長として王宮勤めも長かった関係上、環辰の
「
即位の儀が終わり、初勅を出したしばらく後で環辰が出した新たな勅令がそれだった。
あまりにも下らない、器が小さい。そう言い切ってしまうことは簡単だが、神経質な彼にとって陰口というのは我慢がならないのだろう。事実それ以外の勅命、勅令は民よりもむしろ官吏を縛るものの方が多く、秋官として培った国家運営の要をしっかりと抑えていたのだから。
結果的に環辰は王として可もなく不可もなくといえた。朝廷が荒れきる前に先王が崩御したのも大きかっただろう。ともあれ王としては足りないところがありつつも、主に善政を敷くことができていた。
ただ一つの例外、自らの麒麟と非常に不仲という点を除いては。
──この男を王にしてはいけない。
直感的に理解した。この男、曜環辰とは私にとって最悪の王になると。絶対に選んではならない、選べば待ち受けるのは最悪の結末であると。あまりにも恐ろしい直感に支配されておきながら、結局私は麒麟として天啓に抗うことはできず彼を王とした。してしまったのだ。
王としての力量自体は、別に不足していたとは思えない。些事を気にしすぎる傾向こそあれ、しっかり務めを果たせていた。失道を何より恐れる私にとってはありがたい限りだったのだが。
「私を選ぶ麒麟がよりにもよって主を失った白麒麟とは、どうにも不吉なものだな」
誓約を交わした直後にかけられた最初の言葉がこれだった。
白は凶事の際に用いられる色であり、確かに縁起が良いとは言えない。しかしそれを直接口にする者が居るとは。秋官長は神経質だという話こそ聞いていたが、これ程とは思っていなかった。
加えて、彼はどうにも私のことを信用してはいないらしい。
白麒麟だからというのもあるだろうが、それ以上に私の内心に秘めた感情にも薄々察しがついているようなのだ。時たまこちらに寄越す視線が不吉なほど寒々しい。
もしかしたら、先の代王紺都弑逆の件で疑われているのかもしれない。なにせ彼は事件を調査していた秋官たちの元締めだったのだ、自らの麒麟が抱く危うさと弑逆を結び付けていても不思議ではない。
以来、私と今代の代王の仲は急速に冷えていった。片や自らの麒麟を信用せず、片や自らの王を警戒する。王は神経質な性質だから麒麟の警戒を知っていっそう腹立たしく思い始め、そんな麒麟は段々と王を疎ましく思って最低限の接触のみに終始する。
互いが互いの心を逆撫でする負の連鎖だ。終わりの無い悪感情は止まることなく加速し続け、ほんの数年足らずで私と彼の間に言葉はほとんど無くなった。他の官吏に聞いてみれば、このような事態は世界を眺めても異様な事態であるらしい。
それでも一度、状況の改善を図って自ら主上に声を掛けたことがある。
「主上は私の何が気に入らないというのか、教えてはくれないのかしら?」
「莫迦げたことを言う。貴様、王である私の力量を疑っているだろう。その懐疑に溢れた瞳、不吉な白髪、不遜な態度──どれもこれもが気に入らんのだ」
「滅多なことを仰らないでくだされ主上!」
いくつかは事実だから反論できないが、周囲の官吏たちにとっては目を剥くような発言だったらしい。しかし彼は制止の声も振り切って、さらに言葉を続けたのだ。非常に不快な笑みと共に。
「代麟、これ以降貴様が勝手に仁重殿から出ることを禁ずる。私の許可が下りるまで、何人たりともこの者を外に出してはならぬ」
「そんな……ッ! お考え直しくだされ、主上!」
誰かが叫んだ。しかし王は止まらない。
「私は麒麟が嫌いだ。どうして王の命が、麒麟という他者に委ねられなければならないのだ。王の命は王だけのものであって、麒麟のものではないだろう」
「その言葉、そっくりお返しするわ。麒麟の命は麒麟のもの、簡単に失道させてくれる王のものなんかでは断じてない」
「よくぞ言った代麟、ならば二度と私の前に姿を現すな」
「ええ、構わないわ。こっちとしてもせいせいするもの」
麒麟が王に逆らうことは基本的にできないし、ここまで不仲が発展すれば引き下がる事も出来なかった。実質的な軟禁を受け入れ、麒麟がこなすべき職務は全て王の下へと届けられることになった。
だけど、別に不満でもないのだ。外の様子はそれこそ前の代王のように使令を用いれば知ることが可能である。引き籠っていれば命の危険も特になく、暇なら適当に本でも持ってきてもらえば良い。あの王と顔を合わせずに済むのも僥倖だった。
しいて言えば、いざという時に王を排除することが出来ないのだけが不満なのだが──などとごく自然に考えてしまう自分に苦笑しながら、白鈴を鳴らす毎日である。
誰かが言った。王は狂ってしまったと。
登極から四十年余りも経過した頃だった。先王の崩御時期を鑑みれば誰もが不安になるこの節目に、またしても王はおかしくなり始めていた。
今回は下界の様子に心を奪われたとか、そういう理由ではない。元より彼は仙だったのだ、長い寿命との付き合い方は心得ている。それよりも問題だったのは、その過敏にすぎる精神性である。
全ての者から慕われるというのは、あらゆる全てに秀でるよりも難しいことだ。あちらが立たねばこちらが立たぬと言うように、王が何かを実行すれば必ずどこかで否定的な意見も出るだろう。それが世の常というものだ。
しかし環辰、この道理に不服であったのだ。皆の賛同を得られないなど仕方のない事なのに、必要以上に気にしてしまう。九の賛成と一の否定があるなら、どうしても一の否定に目が行ってしまう男だったのである。
秋官長大司冦の際ならばそれでも良かった。最後に決を下すのは王であり、あくまでも彼は奏上する者でしかなかったのだから。否定の意見があろうと王の言葉が全てであると割り切れた。
けれど今の彼は王であり、あらゆる全てを決めることが出来る者なのである。逆に言えば全てを決めねばならぬ立場になったのだ。その負担は大きく、ましてや慎重がすぎる彼にとって無視しがたいものでしかない。
王への諫言は、いつしか戯言として聞き入られなくなった。
王は自らの意見の正当性だけを求め、否定的な意見をことごとく封殺した。
王の言葉に背くというなら、罪として投獄までされ始めた。
王の言葉だけが正しく、それ以外の言葉は一切の価値を持たぬ恐ろしい世界へ。
あまりにも理不尽、そして都合の良い朝廷へと変革が進んでしまった。次第に国が傾き始め、安定していた国土は天意に見放されるようになり始めた。民は王の心が変わってしまったと嘆き、百官は王の改心を望んだ。
そして自らを否定された代王は、さらに否定する者どもを厳しく取り締まり始める螺旋へと陥った。次第に戴の国土には死臭が溢れ、挽歌が響き渡るようになる。時を同じくして例年にないような大雪に見舞われてしまい、春が訪れた頃には凄まじい数の民が凍死してしまっていた。
せめて、代台輔を解放すべきだと誰かが叫んだ。代王はますますその言葉に不満を表し、一層苛烈に成り果てる。自らだけが正しいと信じる、暗愚にして頑固な王へと。
誰の目からも天意が離れていっているのは明白であり、もはや止めようがなかった。
故に代麟が二度目の失道の病に罹ったのも、半ば当然の成り行きと言えたのだろう。
「このっ……愚かな麒麟が!」
「……ぅぐっ」
大の大人の拳が叩きこまれた。麒麟の身体は頑丈だが、それでも痛いものは痛い。またしても失道に罹り、身体が弱っている現状では猶更のことだった。
一言で示そう。この男は愚かだ。とても王の器とは思えず、また下らない人物としか言いようがない。どうしてこのような者を天の意思は選んだのか、疑問に思えてならなかった。
「何故、何故なのだっ!? どうしてお前が失道に罹るというのだ! 私の治世に間違いがあったと、天は、お前は、そう言いたいのかっ!」
「主上、そのように台輔を扱われては──」
「五月蠅いっ! この麒麟は私のものなのだ、どう扱おうと文句を言われる筋合いはない!」
本当に下らないと思う。ちっぽけな
どうして麒麟とはこうも不公平な生き方を強要されてしまうのだろう。自分で主を選ぶこともできず、王の行いにその命を握られ、果ては王の命には絶対服従ときた。こうして殴られ、ならば殺すかと決意しようとしても、身体はちっともいう事を聞いてはくれないのだ。
「そもそも、麒麟が王を選ぶこと自体が間違っているのだ! 王には辞職など選べず、生きるか死ぬかの二択しかない。あらゆる選択を麒麟に試されるなど耐えられるはずも無いではないか!」
「そんなに麒麟が嫌なら、泰山にでも訴えてみれば良いじゃない……次の王からは麒麟を用いずに選定してください、って……」
「ふざけたことを──いや、待て。その手があったか……!」
狂った王の顔に笑みが張り付いた。彼はすぐに身を翻すと足早に去って行く。何をする気なのだろうか。少なくとも良い事で無いのは確かだ。
「
『しかし……』
「いいから、早く……!」
胸騒ぎに襲われ、使令の中でも最も足が速い則詩に頼む。
そして翌日、王宮内がざわつきだした頃になって則詩は戻って来た。曰く、環辰は騎獣に乗って南西へと向かったという。つまりそれは──
「泰山に向かったというの……?」
泰山に存在する蓬廬宮は、常ならば女仙が侍り次代の麒麟を養育するためにある宮である。
それが、ほんの一日と経たぬ内に血の海として変えられていた。
鏖殺、そうとしか言いようのない有様だった。蛮行と表すことすら生温い。無事な者、息ある者は一人としていない。冬器の剣に貫かれ、衣服を血に染めて倒れ伏す女仙たちは一人の例外もなく死に絶えてしまっていた。
さらに追い打ちをかけるかのように炎が舞い上がる。出所はあろうことか麒麟の卵果を実らせる捨身木であり、真っ白な幹は凄まじい業火に包まれていたのだ。
「ああそうだ、何故もっと早くに気が付かなかった! 麒麟が王を選ぶのが間違いだというのなら、麒麟そのものが生まれて来なければ良いのだ! ふふっ、はははははっ!」
燃え盛る炎の前で狂ったように哄笑を上げているのは白圭宮から飛び出し代王、環辰であった。彼の纏う
余人では近づくことすら憚られる狂気を発す代の王。そんな彼に近づく女が居た。
「なんと、なんと惨いことをなさるか代王よ! そちの仕出かしたことの意味、分かっておるのかえ?」
「
若いようで、中年を越えているようにも見えた。着ている装いも、醸し出す雰囲気も、環辰がこれまで殺して回った女仙たちとは比べ物にならない格を感じさせて仕方ない。
しかしそれも当然のこと。彼女のこそは女仙たちの主にして、泰山に住まう本物の神仙の一人なのだから。碧霞玄君玉葉、この世ならざる世界の民である。
「分かっているとは、また恐ろしいことを仰るよの。麒麟がそんなに憎いのかえ?」
「憎いとも。どうしてこの世は麒麟が王を選ぶのだ。そのような節度など本来要らぬのだ。王の心が乱れるのも、民が惑うのも、全ては麒麟の存在にこそあるのだから」
「……もはや、尋常な言葉は通じぬとみた。このような凶行に走った王など長い歴史の中でもお主だけじゃろうて」
玉葉が嘆息した。何がこの王をここまで追い詰めたのか、今は問わない。重要なのは乱心し蓬蘆宮に侵入した挙句、女仙を鏖殺し捨身木に火を放ったという事実のみだ。王といえども、もはや見逃す訳にはいかぬだろう。
天へと向かい手をかざした。環辰が剣を構えた。しかし無意味だ、玉葉の手が下ろされた瞬間には雷がこの王を誅罰する。逃れる術などありはしない。
そうして、玉葉が手を下ろそうとした刹那に──環辰の腕が食い千切られた。
「な……!」
「ほう」
驚愕の声は二者から。一方は唖然とし、一方は感心したようにも見える。
とにかく環辰から腕を
次いで空から舞い降りる影があった。角の生えた巨大な鳥、
玉葉の目から見ても、それは狂気的な光だった。
彼女は使令によって王が喰われた跡地に近づくと、静かにすすり泣き、そして笑った。まだ生きていられる、唇はそのように動いていたが、音になってはいなかった。
「随分と見違えたの、代台輔」
「お久しぶりですね、玄君……」
皮肉ではなかった。確かに代麟、竜胆は見違えた。悪い方向性にだ。
「王を弑すという行いに、随分と躊躇いがないように見受けられる。もしやそち、初めてではないのかえ?」
「玄君に隠し事はできませんね。ええ、そうですよ。私が先王を弑し奉り、そして今また代王に弑逆しました。そうでなければ、私は死んでしまうから」
「なんと……」
生存への欲求。それが代麟の内にあることは知っていたし、同時に王が嫌いということも承知はしていた。
それでもなお、まさかここまでの凶行にまで及ぶとはついぞ予想すらしなかった。麒麟が自らの主を殺すなど尋常ではない。胎果、失道、愚王、その全てが揃ってもなお考えられないような事態である。
ましてや、二度もそれを為すなどとは……玉葉の記憶の中でも、初めてのことだった。
「これでまだ、代の麒麟は生きていられます。次の王をまた選んで、失道すれば殺してしまい、また選んでまた殺して……いつまでだって繰り返してみせる」
「……いいや、その必要はもうなかろうて」
ぱん、と乾いた音が響いた。玉葉が掌を合わせて叩いたのだ。それだけで捨身木の炎は嘘のように消え去り、元の白い幹が焦げ跡一つなく聳え立っている。代王の凶行は全てが無駄に終わっていた。
捨身木の細い枝には一つ、黄金に輝く卵果があった。代麟がそれを信じられないような目線で見つめる。だって現在、戴以外のどの国でも台輔失道の報は聞いていない。新たな麒麟の卵果が出来る余地など何処にもないはずだった。
ただ一つの例外を除けば、だが。
「あれを見りゃ。あの卵果は代果に違いなかろうて」
「それは……どういう……」
「天はそちを見逃さず、また許しもしなかったのじゃよ。二度に渡る王殺しの大逆を背負った麒麟、それはもはや麒麟とは呼べぬ存在であろう」
代麟の目が見開かれる。玉葉とて信じがたい。だがこの現状を正しく咀嚼するなら、この解釈を置いて他に無かった。
代麟は既に麒麟として認められていない。行った凶行ゆえか、麒麟らしからぬ歪んだ精神性が原因なのか。とにかく代麟の位は空位を見なされ、新しく捨身木に代果が成ったのだ。天の采配は時に気紛れだが、このような現象すら起きてしまうとは。
「今のそちは麒麟ではない。しいていえばただの竜胆であり……天意に見放され、妖力甚大な存在として妖魔とすら呼べるのかもしれん」
「私が、妖魔ですか……」
「そうとしか考えられぬ。およそ、あり得ざることだとしてものう」
妖魔の発生する過程は全てが謎だ。
同時に妖魔には女、つまり雌が存在しない。現れる妖魔は全てが雄であり、どのようにして数を増やすかすら定かではない。
だが、代麟──竜胆はもう妖魔と呼び表すしかない存在だった。女の妖魔など矛盾している。分かってはいてもそれしかない。
「さて、どうするかえ竜胆。妖魔として生きることが嫌だというなら、妾がここで終わらせてやっても良いが」
「……まさか。そのようなこと、望む訳がないじゃないですか」
即答だった。紫の瞳が怪しく輝きだす。
「麒麟でなく妖魔に墜ちたというのなら、むしろ私にとっては寿ぐべきことでしょう。これでもう、王に縛られない。王に命を握られず、弑する必要すらない。喜ばしいことばかりではないですか」
「よい、ならばまずは黄海に降りるがよろしかろう。今のそなたにも、使令は変わらずついておられる。まずはその心を癒し、自身と向き合ってみることが肝要かと」
「――お心遣い感謝いたします、玄君」
竜胆が静かに頭を下げた。ある意味で、彼女もまた正気ではないのだろう。妖魔に墜ちてなお生きていられるなら其れで良しと言ってのけるその精神、まともなものではない。
しかし、生きることに嘘も真も、正気も狂気もありはしないのだ。どれだけ存在が矛盾していようとも、力の限り生を望むことを悪いと言える生物などこの世にあるはずもない。
かくして、竜胆は黄海へと消え去った。そのしばらく後、黄海を席捲する大妖魔が誕生したと人界では騒がれるようになるのだが……それはまだ、先の話である。
黒器五十六年、秋、宰輔失道、よって卒す。
同じく十月禁中、泰山に代卵実る。余日を経ずして五山に蝕あり。代果、枝を離れて失せる。百神、千仙をして求索するも甚だならず。
六十四年、四月、泰山に白麟帰還す。天下に黄旗
六十九年、代王立つ。姓を硫、名を陶、字を紺都という。善く政を治めるも、後、人心に惑いて人道を廃す。よって宰輔失道し、これを弑す。
同じく五十三年、秋、代麟次王を選定す。姓を紀、名を突、字を環辰、秋官に位を賜り、大司冦に封じられる者なり。元を綱輝と改め、善く国を統べ、民大いにこれを寿ぐ。
綱輝、四十三年、代王乱心す。宰輔にあっては徒にこれを苦しめ、諸官にあっては非道を尽くす。以って天意離れ、宰輔失道す。上、大いに怒り、泰山に赴く。女仙を戮し、捨身木火をかけらるること甚だし。後、宰輔、これを追って泰山に入り、王を弑す。これより、代王の諡をして狂王とす。
宰輔、王を弑すこと二度、遂に天より見放さる。代果新たに実り、故、宰輔黄海に消えること幾星霜。未だ以って戴国に帰還することなし。
長いプロローグも終わり、次回からは少しづつ原作のキャラを出していこうかと考えております。
最後のガバ書き下し文については、これが理系の限界です。一応原作と見比べて何度も雰囲気を確認はしたのですが、平にご容赦いただければと……
後書き解説
冬器…仙や王、麒麟に妖魔は尋常の武器では傷つけることが出来ない。例外は国府の冬官府が作る呪の込められた武器だけであり、これを特別に冬器と呼ぶ。冬器には様々な種類がある。