頭上には満天の星空と月、足もとには摂氏一桁温度のノルウェー海の波面。夜の闇に染まった真っ黒の海面に星々が写り込み、穏やかな波が反射した光をゆらゆらと波打たせている様は、自然の作り出すもっとも価値のある景観の一つである。
しかし私の心に浮かぶ感想は『飽きた』の一言。あんまりにも飽き飽きしたのでこうして海面に座り込んで日記を開いてしまったほどだ。いい機会だから、夜が明けるまで私がノルウェー海を渡るまでの経緯を記しておく。
二十日前の九月下旬、盛夏が過ぎ去り残暑も穏やかになってきたころ、私の心にはある懸念があった。夏の間、隣人たちの存在感があまりに薄すぎたことである。
夏は山に緑があふれるのと同じように、そこを住処とする隣人たちの活動も活発になる。浮かれた気分の彼らは人の領域にもたびたび足を伸ばし、日本ではそんな彼らに触発された行き場のない魂がお化けや幽霊として目撃されることもある。
いくら「大戦」とやらのせいで隣人たちの領域が遠くなったとしても、夏の盛りには町にも出てくるだろうと踏んでいた私の期待を裏切り、一度も遭遇しなかった。それどころか、最近野犬騒ぎのあった墓地まで覗きにいっても、隣人たちの影も形もない。夏は彼らの領域に近い環境となる森がここまで静かなのは本来ありえない。
ただし彼らはいないわけではなく巧妙に身を隠していたようだった。目をじっと凝らせば木陰や梢の中にわずかな気配を感じるのだが、私が呼びかけるとそれさえなくなってしまう。
この反応を見て、彼らが私を避けているのだとようやく思い至る。
考えてみれば当然だった。永遠に生きたい、限りない命が欲しい、限りある生が怖い、そういった自然の摂理に真っ向から反対している人間の欲望から生まれたのが私である。自然の摂理から派生して生まれた彼らにとっては天敵のようなものだ。もしかすると町で彼らの姿を見かけないのも、私が外に出ている間彼らが身を隠しているのかもしれない。
日本で交流のあった隣人たちも、比較的近年に生まれた新顔たちばかりで、昔ながらの妖怪や八百万たちには会ったことがない。今思えば避けられていたのだろう。
中々に寂しい事実だが、町の人々との交流は普通にできるからそこまでショックではなかったけれど、町の人々が秋に予定している祭に参加できないことだけは無念だった。
町ではサマインと呼ばれるお祭りが毎年秋に開かれる。夏の終わり、冬の始まりを祝すこの祭りの間は、隣人たちの世界とこちら側の世界との境界があいまいとなり、妖精や精霊、死者の魂がやってくる。町人たちは彼らの目から逃れるため彼らの姿に扮して家々を訪ね歩き、ほどこしを求める。町中で魔よけの篝火がたかれ、食卓と炉端には家族の分とは別に帰ってきた死者のための一席が用意される。
要は、大戦で影の薄くなった隣人たちが、魔力を持たない一般の人々と交流できる大切なお祭りなのだ。私が参加しては隣人たちがお祭りの日に息苦しい思いをすることになる。
とはいえ外でにぎやかしく祭が行われている間引きこもっているのでは気が滅入る。そこで、思い切って祭の期間は遠出することにした。
行き先は古いヨーロッパの友人のところだ。ここ最近噂をとんと聞かなくなったけれど、彼らは普通の隣人たちとちがってしぶとく強い。数千年たったいまでもどこかでいきのびているはずだ。
結構な有名人の彼らだがやはりインターネットで所在はつかめなかったので、以前宝石を出品した連絡先に一品出品する旨を伝えるとともに、心当たりを聞いてみた。すると、ブリテンの西、北極海に浮かぶ火山島にある「竜の国」についての詳細な情報が返ってくる。
ドラゴンたちは昔と比べて大きく数を減らし、現在は生き残ったおとなしい種のドラゴンたちがその国で人目を避けて暮らしているらしい。私の友人もそこにいるかもしれないし、少なくともその手がかりはあるかもしれない。
連絡先にお礼を送るとともに転移の魔法もどきで品を送り、私は町を出た。チセが訪ねてきたときのために書置きを残して。
魔法もどきを使えば世界のどこにでも一瞬で行けるけれど、旅の風情を満喫するためにあえて徒歩を選んだ。ブリテン島の北端まで十日ほどかけて歩いた後、海の上を歩き始めて今日が二十日目の夜。
本当に飽きてきた。なにしろ星空と海面くらいしか見るものがないし、時折見かける漁船や軍艦にも声をかけられない。海を歩く人間なんて一般的感性でいえば奇天烈を通り越して恐怖でしかないからだ。魔法もどきで認識阻害と防寒をかけ、ひたすら歩く。山や谷を越える必要がない分肉体的には楽だが、精神的には海の方が何倍も辛い。
こうなったら竜の国へ急ぐほかないだろう。今までは日没とともに歩みを止めていたが、幸いオークションの連絡先の人からもらったスマホがあるため、夜の海でも方角は分かる。今日からは夜も昼も足を止めないこととする。
何ごとにも終わりはある。
今日ほどこれを痛感した日はない。
――――
アイスランドの広大な高原に穿たれた、ギャオと呼ばれる大地の裂け目に竜の国はありました。翼をはやしたたくさんの竜たちが峡谷のような裂け目の周りを飛び交い、鳥のような羽毛につつまれた二本足の竜が陸を走り回り、サイのようにずんぐりした竜が谷底の水場でのんびり日向ぼっこをするなど、今はめっきり少なくなった竜たちが思い思いに過ごしています。
そんな国の管理を任されている魔法使い、リンデルは谷を離れ、きょろきょろと周囲を見回しながら高原を歩いていました。分厚い毛皮のコートに身を包み、杖を手にした彼は、涼し気な目元を細くして遠方まで高原を見渡します。
「まったく、あまり遠くへ行くなというに」
小さくため息をつきながらリンデルは独り言ちました。
彼は、翼のある竜グィー種の雛の一羽が、エサの時間になっても戻ってこないため、探している最中でした。ドラゴンの雛は基本放し飼いですが、親がエサを調達してくると匂いをかぎつけて谷間まで戻ってきます。しかし遊びに夢中になって戻ってこず、エサを兄弟姉妹に食べられて食事を一回抜きにする雛がときたまいました。
一食ぬいた程度でへばるような種族ではありませんが、ドラゴンたちの健やかな成長を望む管理者のリンデルとしては、きちんと食べてほしい。そうした理由でリンデルは一人、高原を歩いて雛を探しています。
雛の体力を考えるとそう遠くには行っていないと考え、陸地の状態にかかわらず滑走できる特別なソリは使わず、なだらかな起伏の繰り返しでヒダ状になっている高原をしばらく進んで行きました。
すると、すこし離れた丘の頂上にひょっこり小さな影が現れます。その影は探しているグィー種の雛と同じく一対の翼が生えていて、その翼を広げ丘の向こう側に滑空していきました。
どうやら滑空遊びに精を出しているようですが、競争相手もいないのに一人で打ち込んでいるのを怪訝に思いつつ、リンデルはそちらへ近づいていきます。
「わーい! ボクの勝ちだね!」
「そうだな。よし、今のでキリよく10回目だ。そろそろ一番物知りな竜の居場所を教えてくれないか?」
「あと一回遊んでくれたら教えるよ!」
「ふーむ、日が暮れるなこれは」
丘の頂上に立って下を見てみると、ドラゴンの雛と人間の子どもが一人話しているのが見え、リンデルは目を見開きました。竜の国は人の町から離れたところにあるので、迷い込んだわけでもないでしょう。かといって魔力を持たない普通の子どもが意図して竜の国へ来たというのも珍しい話です。
驚きで足を止めたリンデルでしたが、竜の雛のはしゃいだ様子からその人間が悪いものではないと判断し、丘を下りながら声をかけました。
「うちの雛が面倒をかけてすまんの」
「ん?」
「リンデルー!」
竜ともども子どもが振り返ったことで、その顔貌があらわになります。切りそろえられた黒髪、東洋人特有の茶色い目、白い肌。幼いながらも体つきは女性のそれで、かろうじて女の子と分かります。紺色に白のラインが入った薄手の衣服は見るからに薄く、アイスランドの気候には合わないように見えました。
その子に対応する前に、リンデルは少し口調を強めて竜に向き合います。
「飯の時間だぞ。親も心配しとる。早う戻りや」
「分かった! うーろん、一番物知りなのはこの人だよ! また遊ぼうね!」
竜は丘の頂上へどたばたと駆け上がってから翼を広げ、竜の国の方へ滑空して姿が見えなくなりました。その場にはリンデルと女の子が残されます。
先に口を開いたのは、背伸びしながらあくびを漏らす女の子の方でした。
「ドラゴンでもヒトでも、元気な子供は癒しだな」
「いささか元気が手に余るときもあるがの」
「それも含めてだよ。――私はうーろん。物知りなあなたは?」
「リンデルじゃ。ここ竜の国の管理者をやっておる。して、うーろんよ」
穏やかな表情のリンデルは、気持ち表情を引き締めてうーろんへ視線を向けます。
「ここは幼子が一人来るには向かんところだ。一体何をしに来た?」
「昔の友だちを探している。大きな木の根っこをかじっている蛇のようなドラゴンに、心当たりはないか?」
「……ないのう」
どこかで聞いたような特徴でしたが、竜の里にはそんな個体はいないので否定を返すリンデル。
「では、お宝のためなら身内も殺せるくらい欲深くて、洞窟でお宝を死守するのが好きなドラゴンには?」
「ないのう」
「そうか。……そうか」
またも否定すると、うーろんは表情をほとんど変えないままわずかに視線を落とします。長年生きた経験から、うーろんの寂しげな気持ちを察したリンデルは、努めて明るく振る舞いました。
「立ち話もなんじゃ。ひとまず竜の国へ来るといい。お主の探すドラゴンについて、他の者にも聞いてみよう」
「そうするよ」
言葉少なに了承したうーろんを連れ、リンデルは竜の国へ足を向けます。
「ところでお主、その口振りといい、雛の遊びに付き合っていたことといい、もしや妖しの者か?」
「似たようなものだ。訳あって詳しくは言えないけど」
「ならよい。友が見つかるといいのう」
ドラゴンの雛がなついていた時点で悪人でないことは決定しているので、詳しくは聞かずに切り上げました。リンデルは頭の中で長生きなドラゴンの候補をあげながら、うーろんが探しているドラゴンのどこかで聞いたような特徴について考えるのでした。
竜の国の管理者としての仕事は、大変ではありませんが少なくはありません。先のように親からはぐれた雛を探すほか、健康管理、正確な頭数の記録、新しいつがいの把握、年老いた個体の世話など。
そうした仕事にあたるため、リンデルはうーろんを年老いた竜の集まる水場に案内した後、彼らから話を聞くといいと言ってその場を後にしました。
それから三時間ほどたった夕暮れ時、うーろんの元へ戻ってきたリンデルは目の前の珍事に「ほう」と興味深げな声をあげます。
「偉くなつかれておるな。ドラゴンにゆかりのある者か?」
くじらよりも大きく象よりもずんぐりむっくりした立派なウーイル種のドラゴンたちが、何頭も集まって寝息をたてており、うーろんはその集団の中心にいるようです。巨大なドラゴンたちの下敷きになっているかっこうですが、本人の申告通り普通の人ではないのでしょう。潰れて苦しがっている気配はありません。
「あるといえばある」
リンデルがドラゴンたちをどかそうと近づいていくと、先ほどの独り言に答えながらうーろんがドラゴンの腹の下から這い出てきました。彼女はほふくしながら体を引き抜き、小さくあくびをもらします。
「その縁あって、彼らの祖先とは親交があった。なついてくれるのはその名残だろう」
「そうか。それで、腹に潰されてまで話を聞いたかいはあったかの?」
ただでさえ長命なドラゴンの祖先と交流があったなら、うーろんの正体は何かの伝承に残っているような伝説の生き物かもしれない。湧き起る好奇心をおさえ、リンデルはうーろんに聞き込みの成果をたずねます。
「ダメだ。ここ最近の記憶を共有させてもらったけど、探し人はいなかった。彼らの記憶も薄れるような古くに死んだんだろう」
同胞と記憶を共有できるドラゴンの能力で探してもいないのなら、おそらくうーろんの言った通りなのでしょう。友人に先立たれるやるせなさを知っているリンデルは目を伏せ、うーろんの表情を見ないようにします。
「不死不滅の彼らも結局は――まあいい。それより、彼らの記憶に出てきた赤髪碧眼の少女にとても見覚えがある。彼女はチセか?」
「お、おお、そうだの」
思っていたよりあっさりした調子で話を変えたことに若干戸惑いつつ、リンデルは先日チセに杖を作ったときのことを思い出します。
「チセの師匠はワシの教え子のようなものでな。先日おせっかいついでに杖を作ってやったのよ」
「なるほど。ドラゴンの記憶では水没したり水浸しになったり火の鳥になったりしていたが、それについては?」
「長い話になる。時間も時間だ、夕餉を取りながらにせんか?」
リンデルが先ほど用意した客人用のテントを指して提案すると、うーろんは嬉々としてうなずき、主に共通の知己であるチセの話題で盛り上がるのでした。
「まだ脳みそが霞がかってる気がします……」
「呪いの類だからねえ」
ところ変わってエリアスの屋敷。パジャマ姿のチセはソファの上で膝をかかえてつぶやき、エリアスが短く答え、チセの身に起こったことについて説明を始めました。
チセは先ほど訪ねてきた灰の目なる人物に人狼の皮を着せられ、その皮の効果で狐となって野に出て行きました。あわや本能のままにあてもなく走り出す寸前で獣の姿となったエリアスに呼び止められ、自分の教えた「さみしい」の感情を実感しているエリアスになんともいえない気持ちを抱きつつ、屋敷へ戻ってきました。
「使い慣れれば便利だけど、酷いものをよこされたよ。使いたいときは僕に言ってね」
エリアスは人狼の皮の説明をそういって結び、ああいうのをユカイ犯っていうんだよとなおも灰の目に対してぶつくさ文句をたれています。チセとしては獣になったときのぼんやりした思考がどことなく怖いので、もう使いたくはないのですが。
「ところでチセ」
エリアスが人狼の皮をどこかへしまったかと思うと、真剣な雰囲気で正面からチセに向かいます。
「君、灰の目を知っている風だったけど。どうして?」
「えっ」
チセは灰の目を目にしたとき、四本腕、四本指、強い目力の特徴という覚えのある外見を前に、ほとんど無意識で「あ、この人が灰の目さん……」とつぶやいており、エリアスが耳ざとくそれを聞いていました。
「あいつは伝承に残っているようなものじゃない。僕も教えてないから君が知っているはずないんだ」
「え、えっと……」
本にのってたというありがちな言い訳を先に潰され、視線を宙にさまよわせて打開策を考えます。
まずは現状の把握から。情報源のうーろんはほぼ確実に蛇と呼ばれる、魔法使いや魔術師にとっての重要指名手配犯のような存在。魔法使いのエリアスがうーろんの正体を知れば不穏当な手に出るかもしれず、そうなると穏やかな日常が壊れてしまう。かといって真剣になっているエリアスに嘘をついても確実にばれる。
『別に嘘をつかなくてもいいだろ。名前だけじゃ正体までは分からないさ』
チセの考えを共有している使い魔のルツから助言が届き、チセは思考をまとめました。
「この前話した、町に住んでる精霊みたいな子から聞きました。その子の友だちに、四本腕四本指の灰の目って人がいるって」
「……友だち?」
エリアスの眼窩にともった光が困惑するように揺れています。
「数千年の時を生きている古い生き物の灰の目が、友だち? その子、本当に精霊? 古い神々の一柱か何かじゃない?」
「え、ええと……」
『すまん、チセ!』
横目でルツに助けを求めますがルツはふいと横を向いて落ち着きなくしっぽを揺らしています。正体をぼかして質問に答えたつもりが、逆に正体をものすごく怪しまれる結果となり、チセは激しく動揺しました。
「実は私もよくわからなくてですね」
「ふーん。じゃあ明日、そいつのところに案内してくれる? 実際に会って確かめてみるよ」
「そ、それは――?」
さて、事態が最悪の方向へ向かいはじめたその時、窓の外に以前顔を合わせたリャナンシーの姿が見えました。彼女の表情が泣く寸前のように歪み、窓に張り付いて口を「助けて」と動かしているのを認めたとたん、チセは無我夢中で屋敷を飛び出します。
結果としてうーろんの正体についてはうやむやとなりましたが、この件がきっかけで夏の終わりから冬の始まりまでチセが家に帰らないことになるとは、誰一人知る由もないのでした。