仮面の理   作:アルパカ度数38%

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4章7話

 

 

 

「……あれ?」

 

 全員が見守る中、クイントさんが呟いた。

ゲンヤさんにギンガにスバル、僕にリニスの五対の瞳に見つめられ、不思議そうに目をこするクイントさん。

僕らはそれに目を見開き、驚きの余り硬直していた。

最も早く立ち直ったのは、ギンガとスバルである。

弾丸のように飛び出し、泣き叫んだ。

 

「お母さんっ!」

 

 輪唱が響き、クイントさんに2人が抱きつく。

流石に病み上がりだけあって、クイントさんは痛みに顔をしかめたが、すぐにそれを温かみのある表情に変えた。

クイントさんの両腕が、まるで壊れ物を扱うような繊細さで、ギンガとスバルを抱きしめる。

それから、視線をゲンヤさんと僕とリニスに順に向けてゆき、全員の顔を見終わった辺りで頭を下げた。

 

「ごめん、心配かけちゃったみたいね」

「ったりめぇだっ! この、馬鹿野郎……!」

 

 叫ぶゲンヤさんは、喉に何か詰まったような、今にも泣き出しそうな声で叫ぶ。

しかしそれを揶揄する人はこの部屋に一人も居ないし、そもそも僕とて今にも溢れ出そうな涙を必死で抑えている所であった。

そんな僕らへ再び視線を上げ、クイントさんはすぐさま僕へと視線を。

一瞬目を細め、それから真剣な顔を形作り、僕に向かって頭を下げた。

 

「ごめんね、ウォルター君」

 

 嗚咽を漏らすギンガとスバルが、不思議そうに僕とクイントさんを見比べた。

ゲンヤさんも首を傾げながら僕へ視線を、まだクイントさんの言葉について話していないリニスも同じようにする。

僕は、できる限りの笑みを浮かべながら、クイントさんへと一歩、二歩。

至近距離で、神速のデコピンを放つ。

 

「あいたァッ!」

「これで許してやるよ」

 

 肩を竦めながら僕が言うと、きょとんとした顔でクイントさんは僕を見た。

それから花弁が開くような、あの素晴らしい笑みを浮かべる。

見る人の胸をときめかせるような、瑞々しい笑みであった。

それを目にした僕の胸に、暖かな物と、同じだけの苦い感情が浮かぶが、僕はそれを噛み殺して笑い返した。

 

 僕は、それから一週間程ナカジマ家に滞在する事となった。

クイントさんの不在で一気に忙しさを増したナカジマ家を、リニスと共に手伝ったのだ。

当然ゲンヤさんもクイントさんもそれを固辞したが、僕らは半ば強引に手伝わせてもらう事にした。

せめて、生活のリズムができるまでぐらいは、手伝わせて欲しい。

関わった事件なんだ、もう少しだけ見守らせて欲しいんだ、と言って。

 

 クイントさんは、恐らく一生歩く事はできないだろうと言われた。

当然戦闘も出来ないし、両手も酷い状態で、元のように動くようにはならないそうだ。

流石に重い事実であったが、それでも娘にシューティングアーツを教える事ぐらいはできるけどね、と本人は笑っていた。

剛気な物である。

 

 ギンガとスバルは、余計に僕に懐くようになった。

元々学校から帰ってから僕らと遊ぶ事が多かったのだが、それがより頻繁になったのだ。

一週間で立つ予定の僕らは訓練も欠かさなかったが、その時でさえもギンガとスバルは物欲しげにこちらに視線をやり、遊ぼうとしてやるととてつもなく喜び出すのであった。

そんなもんだから、リニスは大体2人が家に居る時は2人に構ってやり、僕もできる限りギンガとスバルに構ってやるよう意識した。

 

 ゼスト隊は壊滅した。

唯一の生き残りであるクイントさんは、スカリエッティの存在や奴が管理局との繋がりを示唆した事を証言したそうだが、いつの間にかデバイスの記録を消されていた為、あまり信憑性のある発言とは見なされていないそうであった。

僕も結局自分が人造魔導師なのかその辺から攫われた子供なのか、確信は持てていない為、力添えする事はできなかった。

クイントさんは管理局を辞し、これからは専業主婦になる予定なのだと言う。

まずは車椅子に慣れて、それから家事もできるようにならなくっちゃね、と元気よく言っていたのが印象的だった。

 

 僕は、クイントさんへの気持ちに気づくと同時、なのはの僕への気持ちにも気付いた。

なのはは、恐らく僕に恋をしている。

けれど、結局のところ僕にできる事はあまりに少ない。

告白される前に振る事は僕自身でどれだけ残酷な事なのか思い知ったし、そもそも万が一にでも間違いだったら憤死物である。

なので僕は、なるべくなのはに気のない様子を見せつけつつ、自然消滅を願う事しかできないのだ。

告白されたとて、僕は、少なくとも今はなのはの気持ちに答えられない。

信念のためだけに生きるか、幸せにも手を伸ばすか、未だに決められていないのだから。

 

 そして一週間が経過して、僕は再び次元世界へと旅に出ようとしていた。

硝子張りの天井の高い施設の中、巨大な観葉植物に心洗われつつ、ゲート搭乗口でゲンヤさんとギンガとスバルの3人から見送りを受ける。

見送られる事のこそばゆさに、なんとも言えない気持ちを味わいながら、僕はゲートへとゆっくり歩いて行く。

 

「行ってらっしゃ~い、ウォルターさんっ!」

「おみやげ買ってきてね、ウォル兄っ!」

「気をつけていけよ~!」

 

 3人に手を振りながら、僕はゲートの内部へと続く通路を進んでいった。

正円形の魔法陣の刻まれた部屋に、僕とリニスの2人で。

中心に立ち、僕は次なる次元世界へ思いを馳せて。

 

 ――ふと。

 

 ――目が覚めた。

 

 無機質な部屋であった。

中央にある黒い棺は半分が開いており、その中には顔の血を拭き取られ、ただ眠っているだけのように見えるクイントさんが横たわっていた。

酷い状態の両手両足は残り半分の閉じた棺の影になっている上、首から下にかけられたシーツで隠されている。

僕はその部屋にあるこちらもまた簡素な作りのソファに腰掛けており、隣にはリニスが死んだような瞳でクイントさんを見つめていた。

僕らの間に、一切の会話は無かった。

クイントさんが集中治療室に運び込まれて、その後この部屋に運ばれ、そして今に至るまで、一切。

僕らは沈黙と精神リンクだけで、互いの心を交わし合っていた。

勿論十分な情報量では無かったが、例え口を開く力が僕自身に残っていたとしても、僕は簡単にクイントさんの最後の言葉をリニスに告げる事はできなかっただろう。

 

 そう、最後。

恐らく、あの言葉は永遠に最後である言葉で。

つまり。

 

 ――クイントさんは、死んだ。

 

 その事実を認めたくなくて、僕はグルグルと回る思考で、薄っすらとした睡眠と共に淡い夢を見て、すぐに覚醒するのを繰り返すばかりであった。

鈍くなった思考は何一つ考えられず、まるで僕らは時が止まったかのようだった。

停止した映像が再生ボタンを押す誰か無しに動き出せないのと同じで、僕らは時を動かす合図を待っていたのだ。

などと考えていると、ほら。

合図が急いでやってきた。

 

 たったった、と。

足音が四種類。

3人分の急ぎ足と医師の物だろう足音とが、こちらへと向かってくる。

扉の前で、止まる足音。

僕はリニスに顔を向け、残る全身全霊を賭して仮面を作った。

リニスが厳しい顔で僕を見て、目を細め、しかしハッキリと頷く。

僕はそれに納得し、視線を部屋の扉へとやった。

排気音。

扉が開き、外の光と、4人分の人間の影が室内に差し込む。

 

 

 

 ***

 

 

 

「では、失礼します」

 

 医者の声が何処か慇懃に響き、排気音と共に扉が閉まった。

クイントの死体が残る部屋に、立ち尽くしたウォルターら5人が残される。

会話は殆ど無かった。

最低限の受け答えをするゲンヤとクイントの死を告げる医者以外、誰一人喋ろうとしなかったのだ。

沈黙が横たわる中、スバルは呆然とウォルターを眺める。

ウォルターは、鋭い目つきでクイントを見つめていた。

その鋭さは穴が開きそうなぐらいの物で、その先には母が居る。

スバルは本当に穴が開いたら大変だな、とふと思い、口を開こうとしたが、不思議と声は出なかった。

代わりに、乾いた口が奇妙な音を鳴らすだけであった。

 

 が、それが切欠となり、時間が動き出す。

まず初めに、ウォルターがスバルら3人の方を向いた。

普段より幾分青白く見えて覇気が減じており、その瞳から感じる力は弱まっている。

しかしそれでも尚ウォルターの視線は、3人の背筋をピンと張らせるぐらいの力を持っていた。

スバルは、期待に胸を躍らせる。

これからウォルターは、母を蘇生させる方法を告げるのかもしれない。

次元世界を旅したウォルターだけが知る、秘術のような物があるのかもしれない。

もしかしたら、母は実は既にウォルターに助けだされており、此処に居るのは偽物なのかもしれない。

幾種類もの空想が、スバルの脳内で踊った。

しかし、それに反してウォルターは頭を下げたのであった。

 

「……すまない」

 

 聞こえなかったと問いただす事を許さないような、低く、ハッキリと通る声。

気力と意思に満ち溢れた声は、スバルの中に確かに届き、強制的にその言葉を脳裏に刻んだ。

すまない。

その四文字をだ。

 

 すまないってどういう意味だろう、と一瞬思ったスバルと対照的に、ギンガはその意見を一瞬で理解したのだろう。

ギンガは弾かれるように飛び出し、ウォルターの胸元を掴んだ。

皺が寄る黒いシャツを、引っ張りながら小声で言う。

 

「どういう……事ですか……」

「クイントさんが死んだのは、俺の責任だ」

 

 弾かれるようにリニスとゲンヤが顔を上げ、ウォルターを見つめた。

ギンガは全身をぶるぶると震わせている。

スバルはその言葉の意味が最初分からなかったが、徐々に頭に染みこむように理解が進んでいった。

 

 ――ウォルターの所為で、母が死んだ。

少なくともウォルターはそう言っている。

 

 ウォル兄がそんな事する筈が無い、とスバルは反射的に思った。

何故ならウォルターは次元世界最強の魔導師で、心もとっても優しい、スバルにとってのスーパーマンだったからだ。

そんなウォルターが母を殺すような事をする筈が無いし、母を殺すようなミスをする訳が無い。

と思ったものの、すぐにスバルは、それならウォルターが嘘をついている事になることに気づく。

ウォルターが、人の生き死にに関する嘘をつく筈がない。

だから、ウォルターの所為で母が死んだのは事実な訳で。

矢張り反射的にそう思ったスバルは、はっとウォルターに関する思考が堂々巡りになっている事に気づく。

 

「貴方の……ミスだったと、そう言うんですか?」

「そうだ」

 

 スバルの思考がその辺りに至った所で、ギンガがウォルターに問うた。

スバルより思考の到達が早いのに、流石自慢の姉だな、とぼんやりスバルは思う。

そんなスバルを尻目に、ギンガが何かを噛み殺すような声で続けた。

 

「詳しい事を、教えてください」

「できない」

 

 どうしようもないほどに、拒絶は強く、確かであった。

ゲンヤは歯噛みし顔を背けつつも、どうにかそれに踏みとどまる。

しかしギンガは、一瞬目を見開き、すぐさま叫んだ。

 

「何で……教えて下さいよっ!」

「できない」

「教えて……、貴方のミスはどうでもいいから、せめてお母さんの最後をっ!」

「できない」

「何でっ!?」

「…………」

 

 ぴしゃぁん、と。

唐突に、ギンガはウォルターにビンタを繰り出した。

避けるのも容易な筈のギンガの一撃を、ウォルターは抵抗無しに食らう。

顔が逸れ、頬は薄っすらと赤く腫れた。

ギンガは歯を折れんばかりに噛み締め、ポロポロと涙を零しながら叫んだ。

 

「教えてよ!」

「できない」

「何でウォルターさんが! 次元世界最強の魔導師が居て! お母さんは死んだの!?」

「俺の力が足りなかったからだ」

「何で! ウォルターさんの力が足りなかったの!?」

「……言えない」

 

 ぴしゃぁん。

再びビンタをされたウォルターが、今度は顔の反対側にも紅葉を作られる。

緩慢な動きでウォルターが顔を正位置に戻すと、ギンガは半歩下がり、構えた。

ギンガのトレーニングを何時も見ていたスバルだから、分かる。

それは、シューティングアーツの構えだった。

直後魔力がギンガの体に収束。

 

「やめろギンガ!」

 

 ゲンヤが止めようと飛び出すよりも早く、ギンガが咆哮する。

 

「答えろぉぉおっ!」

 

 スバルの目では捉え切れない超速度を持ってして、ギンガの拳が飛び出した。

が、それすらもウォルターの前では児戯に等しいのだろう。

一刹那の後、乾いた音と共にギンガの拳はウォルターの手に受け止められていた。

何時もトレーニングを見ていたスバルにすら、何時ウォルターの手が動き出したのか、それすらも分からない。

超絶技巧と言うべき恐るべき能力を発揮するウォルターに、それゆえに、スバルの中にあるどろりとした何かが強く蠢く。

 

「何で……何でっ!?」

 

 泣き叫ぶギンガ。

スバルは、そんな姉の言葉にならない言葉に共感ができた。

ウォルターの強さが、より具体的に見せつけられたからこそ、その力でも母が助からなかったとより分かる。

それはまるで、母は決して命の助かる運命では無かったと、そう見せつけられるかのようで、余計に辛い。

スバルは、両目から涙が溢れるのを感じた。

涙が頬を伝うのを感じて、初めて自分が泣いている事に気づく。

 

「何で、何で、何で、何で……!?」

 

 叫ぶギンガに、ゆっくりとゲンヤが近づき、後ろから抱きしめた。

ギンガは嗚咽を漏らしながら体の向きを変え、ゲンヤに正面から抱きつくようになる。

それから、ゲンヤとスバルの視線が合った。

 

「スバル、お前、なんて顔をしてやがんだ……」

 

 その言葉に、ギンガもまたスバルの顔を見つめ、直後硬直した。

自分は一体どんな顔をしているんだろう、と思い、スバルは両手で顔を触る。

全くの無表情であった。

まるで感情を表情に伝えるスイッチが切られてしまったかのような、そんな感覚。

そう思ってから、自分はロボットだったんだと思いだし、スバルは少しだけ寂しさを覚えた。

 

「スバルぅ……!」

 

 ギンガがゲンヤの腕の中を飛び出し、スバルを抱きしめる。

その2人を覆うように、その上からゲンヤが腕を回した。

3人の体温が集まっていると、スバルは少しだけ胸が暖かくなるのを感じる。

けれど、まるで胸の中にポッカリと穴が開いていて、胸の中の暖かさは、そこに吸い込まれてしまうかのようにすぐに消えていった。

スバルは、全身が脱力しそうになるのに、全身全霊を賭して抵抗する。

今のスバルは、全力で体に力を入れて、ようやく立てている状態だった。

 

 スバルは、母が死んでしまった事が悲しかった。

けれど同じぐらいの質量を持って、それがウォルターの所為だと言う事がスバルの胸に響いていた。

なぜなら、スバルにとってウォルターは絶対の存在であった。

日常で格好悪い所はあっても、ウォルターは完璧な強さを持つ存在だと、スバルは信じて疑わなかったのだ。

そして何より、スバルにとってウォルターは、力に正しさがある事を教えてくれた存在であった。

 

 スバルは、物心ついた時から力を恐れていた。

誰かを傷つける事を恐れていた、と言い換えてもいいかもしれない。

誰かを傷つける事で、自分が傷つくのを恐れていた、とも言えるだろう。

力を使って悪者をやっつけて、いじめられていた誰かを救う事はできる。

けれど、それで悪者はどうなっちゃうのだろう、と何時もスバルは思っていた。

悪者は何時もやられっぱなしで、それは悪いことをしたから当然なんだけど、それでも可哀想だ、と。

 

 そしてスバルにとって、悪者とは自分の事でもあったのだ。

スバルは、子供特有の鋭さによって、自分が社会正義に反する生まれの存在だと感じていた。

機械の体が疎ましくて仕方なく、みんなにバレたらどんな風に扱われるか、そんな想像をするだけで心が凍りつくようであった。

自分は、悪い生まれの、生まれつき悪い子供なんだ。

どんなに楽しい時間でも、どんなに母の愛を感じていても、スバルの中にそんなしこりが常に残っていた。

力を振るえば回って最後には自分に返ってくるような気がして、スバルはずっと力を恐れていたのだ。

 

 ――それを解消したのは、ウォルターだった。

 

 ウォルターは社会正義よりも、自身の信念を優先する男であった。

それだけなら他にもそんな人間は居たが、ウォルターは自分の命や他人の命よりも自身の信念を優先する、稀有な男であった。

加えて彼は、それを何時も成し遂げていた。

彼の熱く燃え盛るような英雄譚の中で、人々は確実に彼に感化され、心を燃やしていったのだ。

作り話を疑った事もあるが、時折ウォルターが見せる自分の影響力への過小評価が、彼の話に真実味を加えていた。

 

 こんな風になりたい。

激烈な思いが、スバルの中に渦巻くようになる。

ウォルターは社会正義に裁かれる事を、恐れてはいなかった。

決して逃げようともしなかったし、それを当たり前の事だと受け入れる圧倒的覚悟が彼にはあったように、スバルには思えたのだ。

それでいて、ウォルターは力の行使を躊躇う事は無かった。

必要な時は必要なだけ、精緻な調整を持ってして力を使い、最大限の効力を上げている。

少なくともスバルの目には、ウォルターがそんな風に映っていた。

父も母も姉も少なからずそういう所があったが、スバルにとって最も鮮烈に見えたのは、ウォルターであった。

 

 そんなスバルにとってのヒーローのウォルターが、家にやってきた。

それだけでも嬉しいと言うのに、初日に早速ウォルターはスバルと2人きりになり、言ったのだ。

 

 ――俺はお前の事、弱虫だともトロいとも格好悪いとも思った事は無いんだけどな。

 

 スバルは、背中に羽がついたのかと思うぐらい、内心舞い上がった。

理由も分からず嬉しさと恥ずかしさが胸の中を渦巻き、ともすれば涙が出そうなぐらいであった。

その時すぐに姉が帰ってきたので涙は引っ込んでしまったけれど、スバルはそれを切欠に自分に少しだけ自信を持てるようになってきたのだ。

自分を悪者と思わなくなってきた。

そうしたら、力を振るう事から闇雲に目を背ける事が無くなり、母や姉が誰かを助けようとする事が心の奥底から綺麗に見えるようになった。

そしてそれは、遠いテレビの向こうのような風景ではなく、スバルの歩いていける地平にあるように思えた。

スバルは、こっそりと自主トレーニングを開始した。

学校の宿題と偽り、母にこっそりトレーニングの仕方を聞き出し走りこみから始めた。

どんどんと体ができてくる実感があり、ウォルターが再び旅立ったら、母に言ってトレーニングに入れてもらおうと思うようになって。

 

 ――クイントは死んだ。

ウォルターの所為で、死んだ。

 

 スバルは、今触れている筈のギンガとゲンヤから遠く離れた所に立っているような気がした。

心がしわしわとしぼんで、枯れていくのを感じた。

何のために今全力で立ったままでいようとしているのか分からなくなってきて、もう眠りたいと思うようになってくる。

涙だけは止まらなかった。

せき止める物のなくなったダムのようで、涙は永遠に流れ続けるようにスバルには思えた。

 

「ウォルター」

 

 ゲンヤが、ウォルターに視線を向けずに言う。

呆然とスバルが視線をやると、ウォルターは直立不動のまま立っていた。

スバルにはそれが、全ての罵詈雑言を受け入れようと言う姿勢の現れのように思えた。

 

「すまん、少しの間でいい、此処から離れていてくれないか。

俺に、冷静になる時間をくれ。

……俺は、間違っても今のお前をなじる真似をしたくないんだ」

 

 ウォルターは、一瞬目を閉じ、それから見開いた。

頷くと、硬直していたリニスの手を取り、ゆっくりと部屋から出ていく。

その瞳が僅かに寂しさを携えているように思えて、スバルは少しだけ不思議に思った。

けれど、それすらもどうでもいいように思えて、スバルは思考を閉じる。

ただ、両目から流れ落ちる涙だけがスバルの表情に残った。

 

 

 

 ***

 

 

 

 一歩一歩、僕は踏みしめるようにして歩いていた。

足を上げようとすると、足が鉛のように重く感じられる。

まるで、何人もの死者が僕の足に縋り付いているかのよう。

けれど僕は、それを無視して、縋りつく死者を引きずるように足を上げる。

僕の耳に、死者達の悲鳴が木霊したような気さえした。

それでも僕は、必死で足を前に繰り出し、歩んでいく。

 

「ウォルター……」

 

 何処へ向かっているのか、まるで見当がつかなかった。

頭の中が霞がかったかのように薄暗く、思考は明瞭さを欠いている。

辛うじて、人とぶつかるような事は無かった。

代わりに人の顔がなんだかぼんやりと見えて、僕はまるで自分以外にこの世に人間が存在していないような錯覚に陥る。

 

「ウォルター、止まってください!」

 

 リニスの声に、僕は思わず足を止めた。

一瞬後に、僕は果たして次に歩き出そうとした時に歩き出す事ができるのだろうか、と思ったが、それがどうでもいいことのように思えてすぐに辞める。

代わりに、リニスの方へ振り向く事に僅かな恐怖を覚えた。

もしリニスの顔もぼんやりと表情の分からない顔にしか見えなかったら、どうしようと思ったのだ。

迷う僕の肩に手をかけ、リニスは僕を振り向かせる。

リニスの顔は、ハッキリと明確に見えた。

その表情は怒りと悲しみに満ちていたが、それでもその顔を見る事ができた事に、僕は密かに安堵する。

 

「ウォルター、一体何を考えているんですか!?」

(ナカジマ家への対応の事かな?)

 

 秘匿念話で返すと、すぐに騒ぐ愚を理解したのだろう、リニスは僕の肩を掴む力を緩めた。

ゆっくりと頷く彼女の瞳には、真っ直ぐな光が満ちている。

その光には見る人に真実を言わせようとするような力がこもっており、疲れ果てた僕にはそれに抗う力は残っていなかった。

ギンガやスバルに言わなかった事を、彼女には言うのか。

自身を糾弾する声が僕の体の中を反響するが、僕はその声から目を背け、念話越しに口を開く。

 

 僕はリニスと別れてから再び会うまでの事を、一言も漏らさず語った。

そう、僕は一字一句違わずクイントさんの声を覚えていたのだ。

自身の記憶力の良さを呪ったのは、生まれて初めてだった。

今までは、UD-182の言葉を心に留めておける素晴らしい力だと思っていたのだけれども。

 

 リニスは、最後まで聞き終えると、崩れ落ちそうな程に脱力した。

慌てて僕はリニスを支えると、近くにあるベンチに向かい、彼女を座らせる。

真っ青な顔をした彼女を労るように背を撫でていると、不意にリニスが涙を零した。

 

「ごめ……ウォルター、今辛いのは私なんかより貴方の方なのに……!」

「いいんだよ、リニス」

 

 少しだけど、精神リンクでリニスの心が伝わってくる。

リニスは、クイントさんよりも僕の事を悲しんでいた。

僕の境遇があまりにも悲しくて涙が出てきて、すぐにその原因を突き止め、自分が友人の死よりも主の境遇に悲しんでいる事に気づき、そしてその事に倫理的な自己嫌悪を覚えている。

そしてそれが僕に伝わり、僕に慰められている事にリニスは涙を零していた。

 

 10分ほどそうしていただろうか。

リニスはゆっくりと涙を引っ込めると、不意に僕の事を見つめた。

リニスの瞳は先程までと同じ真っ直ぐな光で満ちており、同じ現実を前に僕より早く確かに立ち直ってみせる彼女の眩しさが、僕には少し眩しく見える。

わずかに目を細める僕に、リニスは念話で言った。

 

(ウォルター、貴方はクイントを殺そうなどとしていない。私が保証します)

(……分かっているさ。そりゃ、当初は混乱したけどね)

 

 僕は、多分死んだ目をしていた事だろう。

リニスは、納得の行かない目で僕を見つめ続けている。

 

(でも、理屈では分かっていても、感情ではそうも行かないみたいでさ。

僕がクイントさんを殺したも同然だって、僕は自分の中で叫び続けている。

分かっているんだ。

それが無力感に理由があって、それを解消すれば無力感から開放されるって言う、希望からくるものだと言うことは。

クイントさんが死なずには済む可能性が十分にあって、それは達成できた事かもしれないって思いたがっているだけだと言うことは)

(ウォルター……)

 

 リニスは僕を抱きしめようとしたが、僕は周りに視線をやり、やんわりとそれを拒絶した。

衆目のある場所で、ウォルター・カウンタックは慰められることなどできない。

 

(それに、リニス以外にどうしてもクイントさんの死に様を説明したくなかった。

ううん、できなかった。

ギンガとスバルを傷つける事になるって分かっていても、できなかったんだ。

……僕の心が、弱いから)

 

 リニスは、ぶるぶると首を左右に振った。

けれど同時、それが僕の目に慰めにしか映らない事を自覚していたのだろう、力ない動きであった。

 

(適当な嘘をつけばよかった。

けれど僕には、嘘を考える力すらも残っていなかったんだ。

僕は、無力だ。

どんなに力が強くなっても、心が強くなっていない)

(そんな事は無いっ!)

 

 叫ぶリニスの声にも、精神リンクで分かる彼女の精神にも、確信が満ちていた。

彼女は僕の心が強くなってきていると、信じているのだ。

けれど僕は、その言葉を受け入れる事ができなかった。

だって僕は、自分の心の弱さで年下の女の子を2人もずたずたに傷つけてきたばかりなのだ。

一体誰が、自分の強さなんて物を信じられようか。

 

(それに……、ウォルター、今からでも真実を言うのは遅くないです。

貴方は、クイントからお願いされたのでしょう?

2人が真っ直ぐに育ってくれるよう、その目標になってくれないかって!)

 

 僕は、じっとリニスの目を見つめた。

リニスは少しだけ視線を震わせた後、ゆっくりと目をそらす。

 

(今更何を言っても、都合の良い嘘にしか聞こえないさ。

だから僕は、ギンガとスバルにとって、母親殺しの男に過ぎない。

そんな僕が2人の目標になる方法なんて、一つしか思いつかないんだ)

 

 息を、深く吸い込み、吐いた。

 

(僕は、幸せよりも信念を選ぶ。そして信念を、貫き通し続ける)

 

 リニスの瞳が、動揺に揺れる。

彼女の思考が定まる前に、僕は畳み掛けるように続けた。

 

(なんだかんだ言って、誰かの命よりも信念を優先し続けてきた僕がギンガとスバルにできる事は、2人に自分の信念に従った生き方をさせる事ぐらいだ。

けれど、母親殺しの僕の言葉は決して2人には届かないだろう。

ならば僕にできる事は、結果を出し続け、彼女らの先を歩み続ける背中で語りかける事しかできない。

そうやって歩む事で、僕の心の言葉がたどり着く事を、信じ続ける事しかできない)

 

 そんな事は、とリニスの唇が動く。

けれど音は成さず、吐いた息は風となって消えていった。

 

(それに、僕はクイントさんの死を決して無駄にはできない。

クイントさんの死から、何か大切な物を学び取らねばならない。

それが何か悩んで得た答えは……、やっぱり幸せよりも信念が大事だっていう事なんだ)

 

 息を呑む音。

僕は視線をリニスの瞳に合わせたまま、続ける。

 

(僕はナカジマ家の、そしてゼスト隊の暖かな日常に慣れ、心を緩めてしまった。

剣を置く事すら選択肢に入れてしまった。

その心の緩みは、確実に僕を弱くしていただろう。

少なくとも、僕が幸せの為に割いていた時間の一部を、レアスキルの鍛錬に使っていたならば。

そうすれば、僕はもう少し早くクイントさんを見つけられた)

(……それは、生死を左右できない程度の小さな差に過ぎません)

 

 うん、と僕は頷いた。

 

(けれど、その差が積み重なればクイントさんを助けられたかもしれなかった事は事実だ。

僕にとって、クイントさんの死を糧にする方法はこれしか思い浮かばない。

かと言って、クイントさんの死から何も学び取らない事は、誰よりも僕自身が許さない。

だから。

だから、僕は――)

 

 言って、僕は掌を返し自身に向けた。

五指の間が適度に空いたそれを、顔に向けて触れる寸前にまで近づける。

その行為は、多分仮面をかぶる所作に似ていただろう。

 

 僕は、両目を閉じる。

すると僕の脳裏には、一枚の仮面が思い浮かべられた。

仮面は、UD-182の顔と同一の物であった。

あの炎のような表情をしているその仮面は、不思議とヒビ割れ、砕けそうになっている。

その仮面が、鈍く光り輝いた。

すると今にも壊れそうだった仮面は、再び元の姿に戻っている。

いや、折れた骨がより太くなって再生するように、より強固な仮面となって。

 

 瞳を開ける。

リニスに視線をやると、彼女は呆然とした目で僕を見つめていた。

暫く視線を交わし続けていると、彼女はいきり立ち、違う、とでも言いたげに口を開こうとする。

その瞬間であった。

聞き慣れた声が、耳朶に響く。

 

「あれ、ウォルター君っ!」

 

 弾むような元気に溢れた声。

高町なのはの。

僕に恋していると思わしき、彼女の声が。

 

 

 

 ***

 

 

 

「あれ、ウォルター君っ!」

 

 視界にその人の姿が入っただけで、思わずなのはは叫んでしまった。

すぐにウォルターは視線をなのはにやり、怪訝そうな顔からすぐにあの活力に満ちた顔に変わる。

ウォルターの炎のような表情は、健在であった。

その事実に、単にウォルターからもらう炎の分だけでなく、何か暖かな感情が湧いてくるのをなのはは感じる。

それが嬉しくて、急ぎなのははウォルターの元へと車椅子を駆った。

半ば腰を浮かせようとしたウォルターは、その急ぎようを見て苦笑し腰を下ろして待つ。

 

「そんなに急がなくても、俺は消えてなくなりゃしないさ」

「あ、う、うん、ごめんね」

 

 無言でウォルターは、ぽん、となのはの頭に手をやる。

恐らくは軽く罰を与えるというポーズなのだろう。

けれどなのはは、ウォルターの体温が至近に感じられると言う現実に、思わず頬を赤くした。

何時もの燃え盛る炎のようなウォルターの印象とは異なり、ウォルターの体温は平均程度で上気したなのはの体温よりやや低い。

心地良いぐらいの冷たさに、なのはは思わず目を細くし身を任せたくなるのを、必死で自制する。

今の自分は車椅子で散歩していた事もあり、薄っすらと汗をかいている。

汗臭いなどと思われたら、憤死してしまうかもしれない。

なのはは驚異的な精神力を発揮し、口を開いた。

 

「ウォルター君、今日は次元世界に旅立つ日だったんじゃあないの?」

「あぁ、そうなんだけど、ちょっとした事で予定が崩れちゃったんでな。ミッドチルダで足止めさ」

 

 そう言ってのけるウォルターの顔には、一片の嘘偽りも見当たらなかった。

なのに何故だろう、なのはは一瞬だけウォルターの表情が陰ったような気がして、ウォルターの顔を覗きこむ。

何時も通りに凛々しい表情で、何もおかしい所は見当たらない。

気のせいだったのかな、と思いつつ、なのははウォルターの挙動一つ一つに敏感になっている自分に気づく。

桃色の妄想が脳内に浮かびそうになるのを気力で阻止し、言った。

 

「そっか、残念だったね」

 

 と言いつつ、なのはは自分があんまり残念そうな声を出せていない事に気づく。

矢張りなのはは、ウォルターと一緒に居られる時間がとてつもなく大切で、掛け替えの無い物だと思っているのだ。

その事に改めて気づき、なのはは薄っすらと頬を染める。

 

 なのはは、ウォルターとお茶をしてから、ずっとウォルターに抱く気持ちが何なのか考え続けてきた。

いや、答えは殆どあの日に出たも同然であった。

けれどその答えで本当にいいのか、なのははずっと精査してきたのだ。

それは臆病さからくる感情なのかもしれない。

自分にそんな感情が芽生えるなんて想像だにしていなかったし、そんな事はずっと後のことで、今は関係無いのだと思っていたのだから。

 

 けれど、こうやってウォルターと直接会った瞬間、なのははその感情に半ば確信を持てるようになった。

そう思うと、自分の中にあるその感情がとても大切な物なのだと余計に確信できるようになる。

とても嬉しかった。

ばかりか、誇らしくもあった。

元々持っていた憧れから、その感情を持てる事が単純に嬉しくもあった。

そして何より、ウォルターに感じるその感情がそうなのだと知り、自分がウォルターに持つ感情が素晴らしい物だと心から認められた事が嬉しかったのだ。

 

「ウォルター君、それでも不貞腐れた感じじゃあないよね?」

「ん? そうか?」

「うんっ!」

 

 故になのはは、確信していた。

自分の心が出した答えが正しい物なのだと、確信していた。

 

「ウォルター君、格好いい!」

 

 ――私は、ウォルター君に恋しているんだ、と。

 

「そっか、ありがとな」

 

 言葉はそっけないが、僅かに口元を上げながら言うウォルターの表情は、少しだけ照れているのだとなのはには分かる。

なのはは、にっこりと満面の笑みを作った。

天上に昇るような心地で、心にいっぱいになった感情が顔に溢れだしたみたいだ、となのはは思う。

自分で抑えようとしたとしても抑えきれないだろう笑みを受けて、ウォルターもまた笑みを作った。

あの、燃え上がるような激烈な笑みを。

なのはの心を捉えて離さない笑みを。

 

 ――曇り一つ無い、満面の笑みをウォルターは浮かべた。

 

 

 

 

 


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