「おいハインツ、起きやがれ」
「…」
ジェネフはランデル中将との話を終えた後、戦車の収集場に向かい、ずっと睡眠を取っていた人狼を起こす。戦車内からも寝息を立てている声が聞こえる。おそらくはエドガー伍長だろう。
彼は大声で人狼を起こそうとするが、野戦帽のつばで隠されている瞳が開かない。渋々彼はポケットからホイッスルを取り出して耳元で鳴らす。
すると人狼は速攻に身体を起こして戦車の陰へと移り、臨戦態勢へと移行していた。
きっと人狼は笛の音が敵襲来の合図だと勘違いしたのだろう。戦車内からも慌てふためいている様子が聞こえている。キューポラから顔をひょっこりと出したエドガーが現れた。
「敵襲ですか!?」
「違う、てかよくもまあ俺がランデル中将と話してる間に寝ていやがるんだ。俺なんか三徹中だぞ」
「知りませんよ、個人の自由なんですから」
「へっ、まあいいか。お前ら朗報があるぞ」
「何です?どうせ下らないことでしょう」
「…」
「おいそこの二人! 普段から俺はちゃんとしてるだろうが!!」
自己弁護に呆れるエドガーはそれを裏付ける証拠を言い放つ。
「夜抜け出して風俗行ってた人が何を」
「はいそれとこれとは関係ナッシング! 本題は風呂入れるぞ」
「…ようやくですか」
本来ならば喜ぶのだが、先程のやり取りと疲労で本当に喜んでいるのか怪しいものである。人狼に至っては立ちながら寝る寸前までに陥っている。もっと喜ぶだろうと踏んでいたジェネフは真逆の仕草に戸惑いを感じていた。
「身体を浸かれるんだぞ、どぼーんって」
「知らないです。後で入りますからお先にどうぞ、僕らは寝てるんで」
「折角の風呂なんだから一緒に入るしかねぇだろ、さあ行くぞお前ら」
彼は乱暴にエドガーを引っ張り出し、ずるずると海へと向かう。人狼もまたもや彼に起こされ、半ば強制的に連れ攫われる。エドガーは引っ張られている際に睡魔に負けて寝ようとしていたが、ジェネフの熱いビンタを喰らって起こされる。
すれ違う兵士たちからは奇異的なものを見る目で見られているが、彼らにとっては気にすることもなかった。
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まだ六月のパ・ド・カレーの砂浜、輸送船が行きかうのが目視でき、資材や機材、弾薬が砂浜に集中して置かれている区域もあった。気温は暖かいが水温は二か月遅れである。太陽はさんさんと砂浜を焼き付け、砂浜で遊ぶ分には問題は無かった。
そしてそんな中、三人の人影が砂浜で遠目から見ると謎の運動を行っている。
「うぅ、何で海で泳がないといけないんですか・・・」
「ははっー! 気にすることはない、鮫やクラゲは居ないから多分」
「絶対水冷たいよ、死んじゃいますよ」
「人間そう簡単には死なないから安心しろ」
三人は実質下着一枚となって準備運動をして身体をほぐしていた。女性が見ればセクハラという意味の悲鳴が上がるだろう、人狼を除いては。
人狼の傷だらけの褐色肌に太陽が照らされて黒光りする。肉体は立派という言葉だけしか表現がしようがない。二人も負けてはおらず、そこらの兵士よりも鍛えられた肉体が露わとなっている。
スオムスに居た頃、人狼のコートが水で濡れてしまい乾かして預けた時があった。その際は意図せずに上半身裸となってしまい、一同をパニックに追い込んだことがある。
勿論、悲鳴などではなく、単純に驚嘆する者や惚れ惚れする者、あるいは性的に興奮する者が表れていた。穴吹は顔を真っ赤に染めながらも目を逸らしてはおらず、ウルスラがペタペタとその肉体を触っていたりした。その中の反応で面白かったのは意外にもビューリングであった。彼女は一見動揺していないようにも思えたが、煙草の向きを逆にしていた。
思い出に浸っているとジェネフが声を掛ける。
「おいおい、競走しようぜ」
「…」
「競走ですか? 何処まで」
「無論、あの海まで」
「やめましょうよ、のんびりしましょうよ」
「…」
人狼は黙ってクラッチングポーズを取る。それを見てジェネフはニヤリと口元を緩めた。子供のような笑みであった。
「おいおいコイツもやる気だぜ」
「ですけど…」
「よーいどん!」
「あっ!?」
突如として初めの合図を言うジェネフ、先に飛び出したのは人狼で、みるみるうちに差が開いていく、彼も負けじとせわしく足を動かしている。不意打ちを喰らい、鳩が豆鉄砲を食ったような表情を浮かべたエドガーも気を取り戻し、愚痴を零しながら走って向かう。
最初に到着したのは人狼で、肩まで浸かっていた。二番手のジェネフは少し遠くまで泳ぎ、身体に付着した汚れを落としつつも水泳を楽しんでいた。最後は当然エドガー、彼は息を切らしながら腰まで浸かり、のんびりと身体を洗う。
「気持ちー」
「身体の不浄物質が流されていきますよね」
「そうだろう」
「…」
「それハインツ!」
人狼に近づいたジェネフは海水を掬って浴びせる。顔に当たり顔中水で濡れた人狼は顔を振って落とすと水滴が飛び散る。ジェネフは悪びれもなく水泳を続けていた。
「何してるんですか車長!」
「ははっー! やっぱり楽しまないとな」
「だけど宣告なしに攻撃はよくないですよ」
「そんなお前にもこうしてやるからな!」
と言うと彼は水中に潜水を始める。水面には彼の姿が見えない、エドガーは辺りを見渡し始め、後に到来する攻撃に警戒を強める。海水の透明度はあまり良いとは言えず、何処に潜っているのかが把握できずにいた。
そして、エドガーの近くの水面が泡立ったと思うと間髪入れずに彼が飛び出してきた。
「うおおおお!!」
「うわあああああああ!?」
驚いた拍子で尻もちを水中の中で行ったため、自然と顔も海水に浸かる。鼻にツンと独特の痛みが刺し、また海水を飲んでしまったせいでむせる。急いで顔を出す。
「げほげほ!!」
「はっはー! 油断はしてないと思うがまずは気配を探れのが一番だぜ」
「……そんなの無理ですよ、ごほっ」
「そうじゃないと生き残れないぜ、俺はできるが」
自慢げに話すジェネフ、しかしそんな中、彼に忍び寄る黒い影が襲来していた。それは彼よりも大きい影である。ふわりと身体が浮く感覚に包まれながら彼は察した。そう、自分が飛ばされているのだと。
己を飛ばした正体を確認するために下を向く、そこには人狼の姿が存在した。まさかの伏兵に彼は叫んだ。
「ハインツゥ!! がぼっ!?」
彼は見事に頭から着水した。水しぶきがエドガーと人狼に飛来する。プカプカとジェネフは浮上してきた。血こそは流血していないものも顔は赤く染まっている。衝撃による作用だろう、彼もむせながら鼻を抑えている。
「手前奇襲はないだろ!」
「先の貴方が言えますか? ハインツよくやったね」
「おぉん!? これでも喰らえや!」
「ぶぎゃ!?」
先程潜っていた際に引きちぎった海藻をエドガーの顔目掛けて投げてぶつけた。ハリセンで叩かれたような効果音を出し、たじろいだ。顔には海藻がべたりと張り付き、まるで擬態迷彩を着た狙撃手のようだ。ゲラゲラとジェネフは指を指して彼を嘲笑う。
「これさえ喰えば禿げないぜ、はははは!!」」
「……ブルーベリー手に入れたら目にぶち込んでやる」
目からはハイライトが消え、顔に影が差し込んだ。ボソリと呟いた言葉は彼の本心だろう、その発言を聞きとれなかったジェネフは何を言ったのかを訊く。
「えっ、何か言ったか? ヤバめの内容だったけど」
「さあ何でしょう?」
「絶対ヤバいやつだろが! おい!」
二人がやり取りをしている時、水中では人狼が何かを持って浮上してきた。その行動に気づいた彼らは人狼が何を持っているのかを確認するために近づいた。
「おいおい、どうしたんだよハインツ」
「何ですそれ?」
「…」
人狼は当然の如く二人にそれを突き出した。それは半透明なモノでゼラチンのようにプルプル震えている。二人はその正体を知っていたため、全速力で後退しながら叫んだ。
「クラゲじゃねーか!!」
「ハインツ早くそれを離さないとマズいよ! できれば遠い方に投げて!」
「…」
人狼は何故逃げて離せと命じられたのかを理解できないままクラゲを遠くのほうに投げ飛ばした。半透明の体は日光を鈍く反射させ、水面に着水した。
彼らは急いで人狼に接近する。
「はぁ、ハインツ手を出せ」
「…」
出された手を確認していくジェネフ、その後安堵の息をこぼしながら手を離す。
「ったくクラゲには刺されてないようだな、安心だ」
「…」
「でも何故クラゲなんかを捕まえに?」
「うーん…」
唐突に始めた奇行に頭を抱えるジェネフたち、頭から発光した電球が表れそうな勢いで、この謎を解き明かしたエドガーは声を上げる。
「もしかしたら喜ばせようとしたのでは?」
「どういうことだ」
「つまりは普段からお目にできないクラゲを僕らに見せて喜ばせようとしたんです」
「あー、成程なぁ」
「そうだろうハインツ」
「…」
人狼は彼の問いに静かにコクリと頭を振る。
「ありがとうねハインツ。そうだ後で甘いものでもねだりに行こうか」
「…」
「ちょっと待った、ちょっと待った。煙草も在庫がないから俺も行くぜ」
「えー、車長は駄目ですよ。恨んでます」
「何だとッ!?」
ジェネフは肩を掴んで彼を押し倒そうと押してくる。若干悲鳴交じりの声色で彼は抗議をする。
「押し倒そうとしないでください! ホントそういうところですよ!!」
「…」
「ハインツ! この人を放り投げてください!」
「…」
彼が言うと人狼はがっしりとジェネフを捕らえて、遠くの方に投げ飛ばした。
「うわあああああああ!?」
彼は先程クラゲが落ちたところに凄まじいまでの水柱を建設して着水した。かなり痛いだろう。
「うぎゃあああ! おい、さっきのクラゲ居るじゃねーかッ!」
遠くからは彼の悲鳴が聞こえる。それを無視してエドガーと人狼は浜辺に上がり、いつの間にか置かれている軍服に着替え始めていた。彼の悲痛な叫びが響くも誰一人として助けようとする者がおらず、三十分後に半泣きで砂浜まで自力で上がった哀れな姿があったという。
浮き輪
色んな種類があり、歴史は長い。
一般的にはビニール製のものが用いられる。幼い子供や泳げない人の遊泳の補助や釣りなどのアウトドア、及び水難事故の救助などに用いられる。
何気に北斎が浮き輪を描いている絵がある。