かつて、千葉県某所に、霜月夢唯という名の女の子がいました。
夢唯は、色んなものが嫌いでした。まず夢唯自身のことが嫌いでした。下ネタっぽい苗字が嫌いで、キラキラネームっぽい名前が嫌いで、夢唯の思い通りになってくれないくせ毛が嫌いで、女の子のくせに少し低めの声が嫌いで、ちんまい体つきが嫌いでした。
夢唯以外の人も嫌いでした。偉そうにソファーにふんぞり返ってテレビを見ているお父さんが嫌いで、一々ルールにうるさくて神経質ですぐ怒鳴るお母さんが嫌いで、能天気で何にも考えてなさそうなバカの権化のお姉ちゃんが嫌いで、勝手に友達だと思い込んで接触してきて夢唯のペースを乱してくるクラスメイトが嫌いで、事あるごとに夢唯に突っかかってくるクラスメイトが嫌いで、クラスで陰湿に行われているいじめを放置している担任の先生が嫌いで、なぜかライバル視してきてテストの度に成績を自慢してくる塾の子が嫌いでした。
人以外にも夢唯の嫌いなものはいっぱいありました。例えば日本の気候が、春夏秋冬が嫌いでした。春は桜の花弁がやたらと夢唯の視界を邪魔してくるから嫌いで、夏は太陽が殺意を込めた光を放ってくるから嫌いで、秋は通学路のイチョウ並木通りに落ちている銀杏が臭いから嫌いで、冬はただの不法侵入者を『サンタ』だと歓迎する風潮が嫌いでした。
他には夢唯の身近の道具も嫌いでした。鉛筆はすぐ折れるから嫌いで、消しゴムは大して筆跡を消してくれないから嫌いで、定規は結局まっすぐ線を引けないから嫌いで、コンパスは針が紙に穴を開けるから嫌いで、ランドセルは背負っていると『お前は子供だ』との超巨大なラベルを貼られているように感じるから嫌いでした。
夢唯の嫌いなものはジャンルを問わず多岐に渡りました。例えば料理の場合、肉料理は嚙みにくいから嫌いで、魚料理は骨を取り除く作業が面倒だから嫌いで、野菜料理は苦いから嫌いで、卵料理は食感がグチャグチャして気持ち悪いから嫌いでした。
嫌い。嫌い。嫌い嫌い嫌い嫌い嫌い嫌い。
夢唯の心は、何もかもが嫌いという感情であふれていました。何か明確な理由があるわけではありません。あるいは、理由を忘れてしまっただけかもしれません。とにかく夢唯は、世界に存在するあらゆるものが嫌いで、嫌いで、嫌いでした。
夢唯は己の心の中に蔓延する『嫌い』を誰にも明かさず生きてきました。
夢唯は、嫌いで埋め尽くされた、自分の思考が普通ではなく異常だと気づいていて、この世の人々は異常な人に優しくないとわかっていたからです。だからこそ夢唯はあくまで普通の女の子に徹してきました。
しかしある時、夢唯の人生に転機が訪れました。
「ねぇ、夢唯。ずっと聞きたかったんだけどさ、夢唯はどうしてそんなにつまらなそうな顔してるの?」
「……何の話です?」
夢唯が10歳の時の、ある日の夜。自室で、いつも能天気なただのバカでしかないはずの16歳のお姉ちゃんが、いつになく真剣な表情をして問いかけてきた時、夢唯は内心で非常に驚きました。しかし驚きを顔に出さず、夢唯は砂名の出方をうかがうことにしました。
「いやさ。私が天宮大学への受験に合格したら、一人暮らしが確定するじゃん? そこからは毎日夢唯と顔を合わせられなくなっちゃうなって思って、寂しくてさ。夢唯のきゃわいい姿を目に焼きつけてから一人暮らしを始めようって気分で、ここ3か月くらいずっと人間観察レベルで夢唯のことを見てたんだよ、実は」
「えと、なに気持ち悪いことしてるですか」
「うぐ、夢唯の冷たい視線が刺さる……。で、さ。気づいたんだよ、夢唯が本心を上手に隠して、周りの人が望んだとおりの言動をしているって。凄い演技力だとは思ったよ? 私も今まで全然気づかなかったしね。でもある時、私はついに気づいた。気づいてしまった。だから、今日ばかりはごまかさないでほしいな。どうしてそんなにつまらなそうに生きているの?」
「仮にお姉ちゃんが見抜いた通りだとして、どうしてボクの心に踏み込んでくるのです? ボクがつまらなそうにしていたってお姉ちゃんには関係ないことなのではないですか? ボクが隠したがっていることにどうして踏み込もうとするのですか?」
「そりゃ姉妹だからさ。お父さんお母さんの雰囲気的に、さすがに3人目を産む気はなさそうだし? 世界にたった1人しかいない、オンリーワンな妹の隠された一面をもっとよく理解したくもなるじゃん? つまりは私の好奇心が、夢唯の秘密を知りたいって、夢唯の秘密を紐解いて実績解除したいって叫んでいるのさ」
「人の気も知らないで、自分勝手なお姉ちゃんなのです」
「うーん、耳が痛いなぁ! それで、教えちゃくれないのかい?」
砂名は夢唯が拒絶の構えを見せても決して引かずに、おどけた口調ながらも真剣な眼差しを夢唯に注いできました。砂名の追及を逃れる術は残されていないようでした。
「……」
夢唯は砂名の問いに答えず、押し黙りました。怖かったのです。己の心に渦巻く、濃縮された『嫌い』という感情を表に出して、砂名に軽蔑されることが怖かったのです。また、どこで誰が夢唯の話を聞いているかわかったものではなく、それゆえもしも夢唯の気持ちがお父さんとお母さんに知られてしまった時に、2人から失望されるのが怖かったのです。いきなり手のひらを返されて、夢唯への態度を急変させてくるのではないかという可能性が、とにかく怖かったのです。
「なるほどね。ならこうしよう」
「わッ!?」
すると砂名は夢唯の様子から何を読み取ったのか、夢唯の小柄な体を小脇に抱えて、夢唯の部屋の窓を開けてベランダへと出ました。そして足を踏み込んでベランダの手すりまでジャンプし、自宅の壁に設置されている、屋根まで続くタラップを軽々駆け上がり始めました。
「お、おおおおおお姉ちゃん!? 落ちる、落ちるです!?」
「だいじょぶだいじょぶ。このスーパー砂名ちゃんに任せなさい! こう見えて力持ちなんだよ、私?」
「知らないのですよ、そんなこと!?」
霜月家は2階建ての一軒家であり、夢唯の自室は2階にありました。そのベランダから砂名は夢唯を片手で抱えて屋根まで上ろうとしています。砂名が少し手の力を緩めてしまえば最後、夢唯は地上に落下してしまいます。夢唯は恐怖のあまり動揺の声を響かせるも、当の砂名は夢唯の感情を置き去りにしてマイペースにタラップを登っていきます。そうして。夢唯が17回死を覚悟した時に、ようやく砂名がすべてのタラップを昇り終えて、屋根の上へと到着しました。
「ほら、ここ座って」
「あい……」
砂名の腕から解放された夢唯は半ば腰が抜けた状態で、砂名に言われるがままに屋根に座りました。しばし荒い息を繰り返し、ふと上を見上げて――夢唯は声を失いました。夜空が、星空がきれいだったのです。夜空の星はいつ地球に落下してくるかわかったものじゃないから嫌いだというのが夢唯の気持ちだったはずですが、そんな夢唯のちっぽけで鬱屈とした心境を吹き飛ばすほどに澄んだ夜空が、夢唯のはるか上空で展開されていたのです。
「ここさ、最高の場所なんだよね。うちって田舎じゃん? 周りに背の高い建物ないじゃん? だから屋根の上から見える星が最高でさぁ。……楽しかった日も、怒り心頭だった日も、悲しくてたまらなかった日も、何にもせずにだらけたくなった日も、私はいつもこっそり屋根に上ってた。澄んだ空を、星を見ていると、心が洗われて、もっかい頑張ろうって気持ちになれるからね」
「お姉ちゃんでも、そんな気持ちになるのですか?」
「そりゃそうさ。能天気な奴には能天気な奴なりの悩みを持っている。そういうものだよ。頭の良い人からすれば、そんなくだらないことで悩んでんのかよバカだろって思うかもしれないけどね」
「……ボクがどう思っているか、気づいていたのですね。ごめんなさい」
「謝ることじゃないよ。私が能天気なバカ野郎なのは周知の事実だしね。ま、とにかく。これが私の秘密。今まで誰にも教えてこなかった場所さ。……ここなら誰の目もないし、誰にも聞かれない。安心してほしい。だからさ、夢唯の秘密を教えてほしいな」
砂名が体育座りの状態で夢唯に微笑みかけながら、改めて問いかけてきます。砂名は夢唯の気持ちを察して、己の秘密をあっさりと、先に夢唯に明かしました。誰にも聞かれることのない場所を夢唯に教えてくれました。夢唯にはわかりませんでした。どうしてただ同じ血を分けた妹ごときのために、姉が秘密をさらしてまでして、踏み込んでこようとするのかがわかりませんでした。面倒くさい性格をした妹の根幹に関わろうとするのかがわかりませんでした。
「どうして、お姉ちゃんはそんなにボクのことを暴きたいのですか?」
「そりゃ実績解除してトロフィーゲットしたいから――はさておき。夢唯に幸せに生きてほしいからだよ。どうせ人生は泣いても笑っても1回きりなんだから、思う存分楽しまなきゃ損っしょ。だから、つまらなそうな顔をしてる夢唯のことは放置できない。私が今日、乙女ゲーの男キャラのごとく夢唯に執着しているのはそういう理由なのだよ」
夢唯は震える声でもう一度だけ質問しました。対する砂名は、夢唯に慈愛に満ちた眼差しを添えながら、己の正直な気持ちを吐露しました。
砂名の微笑みはとても輝いていて。夢唯が持っていないあらゆる素敵なものをすべて持っているようで。羨ましくて、妬ましくて。夢唯の嫌いで埋め尽くされた暗い心に、何か別種の一筋の光が、新しい感情が差し込んだような、そんな気がして。
「ボク、は――ただ、色んなものの嫌な所ばかりが目についてしまって、楽しく生きる方法がわからなくなっているだけなのです……」
夢唯はこの日、ひた隠しにしてきた己の本心を明かしました。夢唯にとって、嫌いなものしか存在していなかった世界で、初めて嫌いじゃないものができた瞬間でした。
◇◇◇
それからというもの。夢唯は暇を見つけては砂名を自宅の屋上に誘い、己が抱え込んでいた『嫌い』の気持ちを次々と暴露しました。
「ボク、『霜月』って苗字が嫌いなのです」
「そうなの?」
「だって、『シモ付き』なのです。それで、ボクは一人称が『ボク』だから、余計に男子にからかわれるのです。『お前実は男だろ』って。ボクが内心で嫌がってるのをわかってて、しつこく言ってくるのです。ホント、ムカついてならないのです」
「ほうほう、その発想はなかった。しっかし難儀よのぅ、その男の子。きっと夢唯に振り向いてほしいだけなんだろうが、その方法が致命的に夢唯と相性が悪いようだ」
「お姉ちゃん? 何を言っているのです?」
「んにゃ、こっちの話。ところで、その夢唯をからかってる子について、あとで情報教えてね。私が直接、人類は誰しも心に1本、筋の通った
「何の話をしているですか……。それで、お姉ちゃんは『霜月』って苗字をどう思っているですか?」
「私は好きだよ。『霜降り肉』のイメージだしね」
「それで好きなのですか? 人間に無残にムシャムシャ食べられる運命でしかないのに?」
「だって霜降り肉だよ? 高級お肉! それってよだれダラダラレベルで食べちゃいたくなるほどに魅力的な女性ってことでしょ? 最高の賛辞じゃん。はぁぁ、私を美味しく食べてくれる、
「相変わらず頭がお花畑なのです」
ある時は、夢唯は砂名の腕に抱かれて座りながら、『霜月』という苗字が嫌いだと明かしました。『シモ付き』と解釈されるから嫌いだと夢唯が主張すると、砂名は『霜降り肉』という解釈を夢唯に与えました。それは夢唯の思考回路ではまず導けない、まったく新しい解釈でした。
「ボク、名前も嫌いなのです」
「どうして? 夢唯って、良い名前じゃん。かわいいイメージもあるし」
「確かに『むい』って語感は良いのです。ただ漢字が嫌です。『夢』はともかく、何なのです『唯』って。これのせいでボクは、名前を呼ばれるたびにいつも後ろ指差されているような気分になるのです。『お前の人生は、
「にゃるほど。そういう発想もできるのか」
「お姉ちゃんは自分の名前、どう思っているですか? 『砂名』って名づけられて、どんな気分なのですか?」
「苗字はともかく、名前の方はあんまり意識してなかったなぁ。強いて言うなら、恋愛系の小説の文豪がペンネームとして使ってそうなイメージで、私にはあんま似合ってないけど素敵な名前だなぁ、くらいには思ってたけど。しっかし、そっかー。『夢唯』って呼ばれるのが嫌だとは知らなんだ。それなら、呼び方変えよっか。愛称って奴だ」
「え?」
「そーだなー、むむむ…………決めた! ムイムイ、ムイムイにしよう。このふんわりとした名前なら、ただの夢だってバカにされることもないし、魔法少女アニメのきゃわいいマスコットキャラクターみたいで良い感じっしょ」
「ムイ、ムイ……」
「どう? 気に入った?」
「……はい、意外となじみそうです」
「やったぁ! 私のネーミングセンスが死んでないようで何よりだぜ」
ある時は、夢唯は砂名に髪を整えられながら、『夢唯』という名前が嫌いだと明かしました。『
夢唯が嫌いだと思っている対象について話す度、砂名は夢唯が嫌っている理由を聞き出してから、夢唯がその対象を嫌いに思わずに済むように代替案を提示してみせました。そうして、夢唯の嫌いを解消できる可能性を示した後に、決まってこう言ったのです。
「結局。そこに転がる事実は変えられない。事実を変えられないなら、せめてその事実への見方を変えるしかない。視点を変えれば世界は変わる、鬱屈とした世界もバラ色に塗り替えることができる、というのが私の持論の1つでね。つまり何が言いたいかというと……どうせ1回きりの人生なんだから、何でもかんでもネガティブに考えずに、ポジティブに捉えて過ごした方が人生楽しめると思うぞ、悩み多きわが妹よ! 少しはこの脳みそすっからかんなお姉ちゃんを参考にしてみると良かろう」
砂名はどこまでも道化に徹していて。
おどけていて、ふざけていて。
だけど、確かな芯を持っていて。
「……前向きに検討するです」
「遠回しに拒否られた!? お姉ちゃん悲しい! ハートブレイクぅ!」
「一々大げさなのです、人の心はそう簡単に壊れたりしないのですよ……」
砂名のおかげで、夢唯は少しずつ人生を楽しく生きられるようになりました。砂名との対話を経る内に、嫌いなものが減っていって、嫌いじゃないものが増えていく。そうして、砂名と幾多もの本音をぶつけ合うことで、夢唯は初めて好きなものができました。能天気でバカっぽくてウザくてうるさい砂名を煩わしく感じつつも、砂名のことが大好きになりました。どんどん砂名に心酔してきました。
夢唯と砂名との対話は、砂名が大学生になり、天宮大学とほど近いマンションで一人暮らしを始めてからも不定期で継続されました。中学1年生となった夢唯は週末に機会を見つけては、砂名の部屋を訪れて対話を重ねました。以前のように自宅の屋上で星を眺めながら会話することはできなくなりましたが、もはや夢唯にとって砂名と会話する場所は重要ではなくなり、砂名さえいてくれれば他の状況は一切気にならなくなっていました。
砂名はいつだって、夢唯の来訪を心から歓迎してくれました。夢唯の『嫌い』についての話題の他、お互いに気に入った漫画やアニメ、映画を紹介しあったり。練習した料理を振舞いあったりと。姉妹としての交流を積み重ねていきました。
そのような夢唯にとっての至福の一時に変化が訪れました。7月以降、砂名が夢唯とあまり積極的に会ってくれなくなったのです。夢唯の来訪を砂名が申し訳なさそうに断り始めるようになったのです。
夢唯は、反省しました。砂名には砂名の人生があり、夢唯にばかり時間を使えないという、ごく当たり前の事実に改めて気づいたからです。夢唯は、大好きな砂名の人生を邪魔したくはありませんでした。夢唯が邪魔したせいで、砂名の充実した人生に影が差すことを激しく恐れました。そのため、夢唯も砂名と積極的に会おうとはしなくなりました。
その折。8月上旬に、両親から夢唯に衝撃的な一報が届きました。
砂名が大怪我を負い、大学病院で外科手術を受けた、という内容でした。
「お姉ちゃん! どうしたのです、その怪我!?」
夢唯は中学校を無断欠席して単独で砂名の病室へと駆け込みました。夢唯の視界に入ったのは、全身の至る所に包帯を巻き、右腕にギブスをした痛々しい砂名の姿でした。夢唯は蒼白の表情で砂名に詰め寄りましたが、一方の砂名はいつもとまったく変わらぬ調子で笑いました。
「いやぁ、ヘリコプターが私の真上から墜落してきてさぁ! まさかいきなり空からヘリが落っこちてくるとは思わないじゃん? 運悪く下敷きになっちゃったんだよ。心配させちゃってごめんね?」
「……どうして、お姉ちゃんはそんなにへらへら笑っていられるのですか? 死ぬかもしれなかったんですよ?」
「まーそれは確かに。けど、生きてるんだから結果オーライだよ。死んでいたかも、だなんて実際に起こらなかったバッドエンドなIFルートのことを気にしてるだけ無駄ってものさ。それに、こうとも考えられる。私はこれから一生ネタにできる格好の話をゲットできたともね。だって空から墜ちてきたヘリの下敷きになっちゃうだなんて、人間早々経験できないよ? しかも何より、私に後遺症がない。最高の成果と言えるね。きっと世の微妙に売れない芸人たちは今頃、私のような経験をしたかったと血の涙を流していることだろうよ」
「おねぇちゃん……」
この時、夢唯は砂名のことを改めて評価しなおしました。砂名はポジティブに生きることを至上命題に据えているだけの普通のお姉ちゃんだと、今まで夢唯は評価していました。だけど、しかし己が唐突な事故で死にかけてもなお、さも当然のように普段と変わらぬテンションを維持する砂名から、夢唯は大器を感じ取ったのです。
「ところで、ムイムイ。再来月になるけど、10月9日って空いてる?」
「10月9日? えっと、その日は金曜日なので、放課後なら空いてるですよ?」
「頭の中ですぐさま曜日を計算してみせるムイムイったらチョー素敵。それに、金曜日とは都合が良い。ねームイムイ、10月9日に泊まりに来ない? 紹介したい子がいるんだ」
「紹介したい子、です?」
「イエス。とても面白い子だよ。ムイムイもきっと気に入ると思う」
「……」
「ムイムイ。怖がることないよ、この私が太鼓判を押した子なんだ。絶対仲良くなれる。ムイムイが心の奥に抱え込んでいる嫌いに思うことだって、否定せずにちゃんと向き合ってくれる、とても優しい子だから」
「お姉ちゃん……わかったのです」
砂名からお泊りの誘いを受けた夢唯は、砂名が紹介したがっている相手に対する漠然とした不安を抱きつつも、大好きな砂名の誘いを承諾しました。
それから2か月が経過して。未だ残暑が厳しい10月9日の放課後に。夢唯は砂名の待つマンションへと足を運びました。テクテクと階段を昇り、砂名の住まう303号室の扉の前へと立ち、インターホンを押し、そこで夢唯は扉が半開きになっていることに気づきました。
この世の中、悪意を持つ人間は山ほどいるというのに、なんて不用心なお姉ちゃんだろうか。ボクがしっかりと注意しなければ。
「お姉ちゃん? 入るですよ?」
夢唯は半開きの扉の中に声を送ってから、扉を開いて玄関に入りました。と、その時。夢唯は思わず鼻を手で塞ぎました。砂名の部屋中に、不快な異臭が蔓延していたからです。
バク、バクと。いつになく夢唯の心臓がひときわ激しく跳ね始めました。周囲に充満する不愉快な臭いの正体に気づいたからです。今までの人生でしっかりと嗅いだ経験こそありませんでしたが、夢唯は察したのです。これは、血の臭いだと。
「……おねえ、ちゃん?」
のどが異様に乾きます。汗が頬を伝います。呼吸が荒くなります。どこからか幻聴が聞こえてきて、めまいも襲ってきます。夢唯の脳内を嫌な予感がどんどん侵食していきます。だって、ここはお姉ちゃんが借りている部屋である以上、ここで血を流せる人物はごく限られているのですから。それこそ、もしもお姉ちゃんが加害者の場合は、お姉ちゃんと交友関係のある人物が血を流している可能性が高く、逆の場合は――。
「――ぁ」
異様に長く引き延ばされた時間の中、夢唯が恐る恐るリビングに足を踏み込んだ時。夢唯の視界が、赤で埋め尽くされました。そこには夢唯の良く知る人物が床に倒れ伏していました。砂名が、お姉ちゃんが、腹部に大穴を空けて、大量の血を流して、倒れていました。
夢唯は己の目を疑いました。自身が性質の悪い悪夢の中に囚われているのではないかとの考えが脳裏をよぎりました。しかし目の前の光景は、いくら夢唯が現実逃避に走ろうとも、夢唯に否応なく残酷な現実を突きつけてきます。
「ぉ。ねぇ、ちゃん……?」
夢唯はかすれた声で、砂名を呼ぶことしかできませんでした。砂名の目からは意思の光が消え去っていて、砂名が夢唯の声に反応することはありませんでした。
霜月
霜月
次回「残機となった女の子」