サクラは酔いしれ、夢を見ている様です。
ゆったりとした雰囲気の中、静かな店内にお洒落な音楽が流れている。
湯気が揺らめきながらも立ち上り、その中には仄かに香る紅茶の匂いがした。
サクラは店員に、何時も頼んでいるダージリンを淹れてもらう。
湯気の向こうには少し怒り顔のいのが居た。
整えた眉を吊り上げ、神経質に一定のリズムで机を人差し指で叩いている。
それを見て見ぬふりをして、サクラはティーカップに口をつけた。
「ねぇ、」
目の前にいる少女の澄ました顔に、いのが我慢が出来ない感情を露わにした。
彼女には珍しい、余裕のない雰囲気だ。
「何で私に黙ってのよぉ。」
「…なんの話?」
「分からない?贈り物よ、お・く・り・も・のっ!アンタの部屋に、見た事が無いくらいの高価なモノが増えてきてるって、アンタのお母さんに言われちゃったの」
ああ、その話か。 サクラは知られぬようそっと溜息を付いて、ティーカップをソーサーの上に置いた。
あの高そうな、否、実際に高価で底辺の者には一生目にかかれない打掛をサクラに贈り、そして、サクラはそれを受け取った。
半ば、無理矢理であったとしても、受け取った事には変わり無い。
それから気をよくした青年は、次々とサクラに物珍しい飾り品を、事有る毎に贈ってくる様になった。
断りを入れてその品に触れぬ様にしても、その行動は無駄と分かってしまう。
此方に戻って来た時、ポーチや腰に違和感を感じ、見やれば丁寧に包まれたその品が括りつけられているのだ。
わざわざ過去に戻ってまでも、彼に返すとなると失礼な行為では無いか。
サクラはそれを考えると、返す事に気が引けてしまう。
そして、結局は返す事もなく、その品を引き出しの肥やしにしてしまうのであった。
こうなってしまえば、[受け取った]と思われても仕方が無い。
そんな数多く贈られた簪の中でも、サクラのお気に入りのモノは琥珀のモノだ。
琥珀の色も殊更珍しく青緑色をしている。
樹液の元である樹は、最早この時代には無い太古の樹である。
チャクラに反応する樹はあっても、この樹はチャクラを溜める樹であった筈。
絶滅した植物の辞典の中に、この青緑色の樹液を出す樹が記してあった事を記憶している。
その琥珀玉の中に、見た事もない蝶が混入していた。
蒼い蝶が羽を広げ、今にも飛んで行きそうな位に生き生きと輝く光の中を羽ばたいている。
翼は欠けている事なく、触覚の先に足まで揃っている物だった。
他にも簪、櫛、紅、耳飾り…。
珊瑚、翡翠、水晶、真珠、月長石…。
数々の飾り物達。
着物は大き過ぎて受け取るのに、戸惑いを隠せなかったが、試しにと肩に掛けられ、似合うと言われてしまえば断れない。
「…貰い物よ。只の貰い物」
「貰い物っ…!?しかも[只]って、感覚可笑しくなってない?アレが[只の貰い物]ですって?」
-サクラ。アンタ、大名の所に輿入れでもするつもり?!
絶対大名か、名のある地主さんでしょう!どう言う事よぉ!
「可笑しくないわ。それに、彼は大名じゃないし、大地主でもないの。でもね、それなりに収入は有るみたいよ。じゃないとこんなの持ってくるわけないじゃない」
「自分の身を削ってるかもよぉ…?好きなサクラの為ならーって」
「そんな事する人じゃないわ」
にしても、あんな高級品、私でも見た事が無い、と。いのがサクラに聞こえる程の小さな声で、息を詰めて続け様に言ってきた。
母、メブキが娘のサクラを心配して、親友のいのにでも相談を持ちかけたのだろう。
部屋から持ち出した品の一つを、彼女に見せ、それに大きなショックを受けたようである。
母親が心配する程の高価な贈り物を男にされ、其れをどうって事無い様にしている[嬉しい悩み]を抱えたサクラが羨ましくて仕方が無い。
「もう!なによぉ~自分だけモテちゃってさっ」
人生に三度あるモテ期と云う時期が到来したのかと思う程、サクラの周りから甘い匂いがするのだ。
その匂いをいのは知っている。
何もしていない等と言っているが、サクラは確実に綺麗に成っていた。
瞳に優しさが増し、柔らかい笑顔をよく見せるようになり。
一つ一つの仕草にも、同性のいのも目を奪われてしまう程に魅力が溢れているのだ。
恋をすると女は綺麗になると云う。
それは相手の男を喜ばせ、綺麗になった女が側に居ると、男は[人]としても[漢]としても大きくなる。
また男は頼りがいが出る。
そして再び、男に刺激された女は更に綺麗になる。
その輪が上手くいっていると、男女は恋に、愛に飽きることがない。
と、いのは母に聞いて育った。元々両親そろってロマンチストである。
愛はいつしか相手を思い合う[尊敬]となり、互いに尊敬し合うとなれば、熟年離婚など云う愛想が尽きた終点には成らないのだとも聞いていた。
その教えを元に、いのは考える。
(つまり、その[輪]の周りが良いって事…?)
そして、澄ましたまま紅茶を嗜んでいる桃色の少女をジトリと見た。
皮肉を込めて、昔に付けた嫌味なあだ名を女子プロレスのリング名の様に言ってやる。
「デコリーン・サクラもやるわねぇ…」
-ちょっと、私にも紹介しなさいよ。と言うか、会わせなさい!!
サクラに惚れている男の話を聞いていると、自分もドキドキすると同時に、焦れったさに苛つく時があるのだった。
何故迫られているのに、自分も思い切った行動をしないのだと、叱りつけた事もある。
すると、サクラは何か言いたそうな顔をした後に溜息をつくのだ。
彼女も何か思う事が有るのだろう。
そして、全く関係無い様で、有る様なサスケと恋人(仮定)との接点。
話に聞いた少年や、青年とやらは兎に角、容姿がサスケ似ている。
だがよくよく話を聴くと、性格は丸っきり違う。
そして、少年と青年の性格や容姿が似ていた。例えるならば、少年の成長後が青年の様な形である。
しかし、短期間で人が成長する訳がない。
いのは多分兄弟共々で惚れられたのだろうと簡単に考えていた。
サクラから聞く彼等の性格は、甘えたがりであるが格好つけに走ったり、一人で考え込む事はするが、何処かでちゃんと知ってほしいとサインを出している。
放っておくと拗ねて後々面倒臭いのだ、とも言っていた。
「頼りになるのよね。癪に触るけど、女性の扱い上手いし…」
風が冷たいと、然りげ無く自分の着ていた上着を肩に掛けてくれる。
川沿いを歩く時は川側を歩き、サクラに飛沫が掛からないようにしてくれた。
二人で散歩をして、座るには丁度良い岩の上にサクラが座ろうとすると、彼はサクラが話に夢中にしている隙に、サッと岩の上にあった葉や砂埃を払ってから座らせる等々。
いのもその話を聞いていて、ほぅ…っと、甘い吐息をついてしまう。
それと同時に、今時そんな男居るのかと疑問に思ったりもした。
いのも数ある男とお遊びとして付き合いをして来たが、そこまでレディファーストの男は聞いた事がなかった。
「それ今考えて付け足したんじゃない?」
「そうね…、素敵でしょう?」
サクラはニコリと笑って言った。
何と云う余裕だ。いのは内心舌を巻いた。
同時に作り話ではなく実話である事と、その扱いにサクラも満更では無い事も再確認する。
「もう[落ちてる]わね。完璧に!」
いのは自信有り気に言ってのけると、サクラはダージリンをゴボリと吹き出した。
その反応に、何を今更と冷えた目線をいのは送る。
「なぁに、その分かり易い反応」
「え…だって。それは受け取ったって言うよりも、無理矢理、」
渡されたもの。と最後まで言う前に、いのは己の人差し指をサクラの噎せた所為で赤く染まった鼻の先を押すようにして、何度もグリグリと痛みを加える。
「いた、いたぁい!!」
「ほら、痛がりなさい。痛がりなさいよ!」
-この浮気者!サスケくんの気を良い感じに引いておきながら、自分は他の男とお楽しみなんて、いい身分よホントッ!!
バシバシと肩を力強く叩かれても、サクラは困ったような笑顔を崩さなかった。
青年の話は、良い事だらけではないのである。
それを、サクラは身をもって体験していた。
*
(空はこんなに青いのに…)
何故自分の心は曇り空として写しているのだろう。
大きな桜の樹の下で、サクラは空を見上げながら詩人の如く思いを綴り、そしてその余りの臭さに自傷気味の薄ら笑いを浮かべるのであった。
(いのには「羨ましい」って言われても、嬉しくないのよね。これが)
高値の品を渡されても、未来でそれを付けて何処かへ行く訳でもない。
(相手の名前を教えてもらってその正体に怖がっている訳じゃないけど、もし私が余計な事をして、彼の未来を返してしまったら…。それって、それだけでも重罪よ)
誰が判断するのだ。サクラしか知り得ない失態と、今自分達が掴んだ未来に何か影響が出ないかを恐れている。
だが、そればかりに気を取られていては青年に申し訳が立たない。
サクラの事を想い、品を選んできているのだろう。言葉も選んでいる様な素振りさえ見せる。
そして、先程は何処へ行く訳でもないと語ってみたものの、贈られた品を使い、纏め結い上げた髪を飾りたててみれば。青年は嬉しそうに目を細め、サクラの頬を撫でてくる。
まるで、顔をよく見せて欲しいと言っているかの様だ。
その嬉しげな顔の見たさに、時折自分を飾り立てるサクラも、どっちもどっちだと心の中では分かっている。
しかし、少しでも。
喜んで欲しいと思っている己も存在してるのだ。
ここまで来ると、気を此方に向けようとして光り物を送りづつける鴉の様である。
大きな黒い鴉は、若い桜の木を己の好きな様に飾り立て喜び、満足しているのだ。
(私は宛ら飾り木…か)
頭の中で思い浮かべた図に、クスリと笑ってしまう。
まるで、西洋の行事に乗っかってイベントを楽しむ、あの気を色とりどりに飾り付けるのと同じだと。
色気の無い例え方でも、大体合っているのが可笑しくてしょうがない。
桜の樹に付いていた枯葉の殆どは、風に煽られ散り散りに成り何処かへ旅立って行ってしまった。
すっかり裸になってしまった枝の隙間から見た空は、カラリと晴れてサクラを見下ろしている。
吹いた風が知っている匂いを運んできた。
そして肌で感じる、彼のチャクラ。
それ等に気づき、サクラは目を瞑って、桜の樹に体を預ける。
ふわりと漂ってきた匂いに、サクラは我慢が出来ずに笑ってしまう。
「何が可笑しい」
「もう…挨拶がそれ?相変わらずねっ」
サクラを驚かすつもりで、気配を消してきたのだろうか。
そっと足音を立てずにやって来ても、彼の匂いとチャクラで分かったなど知れても、相手が喜ぶだけで面白くないので黙っておこうとサクラは決めた。
あの戦場で感じていたチャクラの質とは全く違うモノに、最初は驚いたものだ。
別人と決め付けていた所為で、頭から弾け飛んでいた考えが蘇る。
サクラを包むその温かさと柔らかさに、荒野の戦場で感じた鋭く痛いモノは感じない。
桜の樹へと、片腕を使い半身の体重を掛ける。
覆い被さる形で逃げ道を塞がれ、それも相変わらずだとサクラは余裕を見せながら溜息を付いた。
腕の下に出来た隙間から抜け出そうと、サクラは身を小さく捩りながら脱出するも、腕を掴まれてしまう。
「何処へ行くんだ」
「只の散歩よ。気になるなら、貴方も付いてくれば良いじゃない?」
敢えて素っ気ない態度で示せば、青年は黙ってサクラの後ろを付いてきた。
今日こそは高値のものは受け取らない、絆されない、馬鹿にされない、と決め事を順々に心の中で復唱する。
知らぬ間に、ポーチに入れられている贈り物も背後を取られなければ、入れられないだろうし。
甘い言葉や、口説き文句を言われ、横倒しになどされてはイケナイと心に決める。大体、易い女だと思われてしまえば、それはそれで御終いである。
変な事に驚いたり、ちょっかいを出されそれに乗ってしまう事も駄目だ。きっと、後々引き出されて小馬鹿にされ、揶揄うネタになるだろう。
(私が落ちたですって?違うわよ。今から本番だって教えてあげるわ)
貢物をされても、どんなに優しくされても、昔の様に無邪気なだけではない彼の下心も見えてしまいそうで、サクラはその度に気を引き締めるのだった。
「今日は俺に付き合ってくれないか」
「あら、何処へ行くの?」
「それは言えないな」
当然だ、と言いたげなその顔は、未来に残してきた黒髪の青年と被って見えた。
何を根拠に堂々としていられるのか分からない箇所が、丸っきり同じなのである。
「面白かったら良いけどね」
「気にいると思うぞ」
(き、気に入る…?)
ニィっと笑う彼の表情に、少し嫌な予感がしたのは言わずもがな。
しかし、それに興味を唆られている事も真実である。
サクラは仕方が無いと口ばかりの出任せを言い、今度は青年の後ろを大人しくついて行った。
・ ・ ・
山小屋にしれは立派過ぎるそれは、屋敷と言い表すには余りにも質素であった。
戸には他者が無断で入れぬように、何か術を施している様である。
其れを解きながらも、サクラに足元に気をつけろと注意を促す。
開かれた戸から、中の様子を伺えば何やら書物や必要最低限の家具が揃えられた、生活感が有る空間があった。
「入らないのか」
頭の上から声を掛けられ、見上げれば、不思議そうな顔でサクラを見ている青年と目が合った。
「え、でも。此処って」
「俺の隠れ家だ。暇さえあれば来ていたが…最近は全く来てなかったからな。気になってはいたんだが…」
語りながらも慣れた足取りで草履を脱ぎ、小屋の中へと入っていく青年の後ろをサクラは慌てて追いかけようとする。
青年は雨戸を開け放つ。薄暗かった部屋に光が差し込み、空中を漂っている埃が目で確認出来た。
此処からも書きかけの書物や、しおりの挟まった本や、巻き直しの途中であった巻物が見える。
それ等を見ながら早く上がらなくてはと、急ぎながらもサンダルを脱いで、それをキチンと揃えると。
視界の端に映った脱ぎっぱなしの草履が気になった。
そして思わず、同じ班員の金髪の青年を怒る口調で言ってしまうのである。
「こらっ!ちゃんと揃えなさいっ!」
自分でも驚く程大きな声が出て、ギョッとしただ、それ以上に青年は驚いたの肩をビクつかせて勢い良く振り向いていた。
そして何処か浮いている足取りでサクラの横に来ると、自分の草履を揃え、サクラの顔をまだ驚いた顔で見返すのだ。
サクラはそれを見て、満足そうに言う。
-そうそう、それでいいのよ。
-…こんな叱られ方をするのは、餓鬼以来だぞ…。その頃も、こんな叱り方をするのは…いや、これは黙っておこう。
俺にこんな叱り方をするのは、アンタ位しか居なかった、と言いたかったが、サクラの満足気な笑顔を見ていると言う気も失せてしまう。
背にジットリと可笑しな汗をかきながら、青年は気まずそうに目を逸した。
今日はしてやったぞ。と、心の奥底で小躍りする。
しかし、青年はまだ久々に聞いたサクラの大きな声に、ドギマギしている様子だ。
「何よぉ。小さかった頃は叱られても、小生意気な事に文句を返して来たくせに」
肘で突くと、口を一文字にしてムッとしてみせた。
何か言いたそうに口を少し開いても、中々言葉が出てこない様である。
「…む、昔は昔だ」
「あらそう。何だか、私が一回姿を見せなくなってから大目玉は貰ってないみたいね。ふふふっ…久しぶりに怒られたから色々とショックが大きいでしょ?」
「バッ、馬鹿!そんなんじゃねぇ!」
顔を真っ赤にさせ、戦慄き、手を拳の形にしてまで否定をするも、目が泳いでいるので全く説得力がない。
きっと長い黒髪で隠された耳の、赤く染まっている事だろう。
(こんな顔もするんだ…。違う、こんな顔もするんだったね。外見が幾ら変わっても、こう云った所は変わってないもの…)
気まずそうに隣で、目を合わまいとする青年を盗み見る。
青年はいつの間にやら、律儀に正座までしていた。
サクラはそれが可笑しくて仕方が無い。
堪えていたそれが、徐々に堪えている行為すら可笑しく思えてきて、遂には腹を抱え、声が裏返るまで笑った。
その様子を顔を赤らめ何か言いたそうにしながらも、青年は少し安心した様な、そして何処か寂しげな影をチラつかせた。
しかし、サクラは笑い過ぎて涙を目の端に溜めている為に、その表情を確認する事は出来なかった。
話に聞けば、何か術を考えたり、誰にも邪魔をされたくない時に良くこの場所に篭ると云う。
鷹小屋に篭る時も有るそうだのだが、ここは違う意味で落ち着く為に足を運んでしまうのだと。
しかし、本当の理由まではサクラに教える気はない。
知られても良い話ではあるが、今日は気が進まなかった。
それはサクラを此処に招待した[本当の理由]も含めて、言難い内容でも有り。
彼が[望んでいる]結果に繋がるモノでもある。
この隠れ家は元々、再びサクラとこの近くで会えるのではないかと期待を込め、誰も使っていなかった山小屋を住みやすくしたものだ。
小屋へ足を運ぶ毎に、周りを見渡し、あの見慣れた桃色を探し歩いた事もある。
思いふけりながら、山々を歩き、その面影を探したのは今ではいい思い出であった。
その姿は、まるで母親と逸れ、探し歩き回る子供の様であった事を彼は知らない。
「それで、ここは隠れ家…でいいの?」
「そう言う事だ」
-俺の居ない時でも、好きに使ってくれ。
戸の封はチャクラに反応して解ける様に細工しておく。
然りげ無く言われた言葉に、最初はサクラも流してしまいそうになったが、少し頭の端に引っかかった。
青年の言った言葉を記憶から手繰り寄せて、確認の為もう一度頭の中で再生してみる。
俺の居ないでも、好きに使え。 そして、[隠れ家]と云うワード。
明確になっていくその言葉の裏に隠された本心に、サクラは身を固くした。
(何々っ!飾りの貢物の次は[別荘]!?)
考え過ぎと思ってはみたが、どう考えてもソレであった。
サクラはその規模と重要性に気づき、再度固まってしまう。
どうした。何を驚いている。 そんな青年の気遣う言葉も、頭を熱され混乱させられたサクラは一言応えるので精一杯だ。
「でも…。何で急に…」
-会うなら、今まで通りに森の中でも良いじゃない。
最もなサクラの返しに、青年は少し黙り込んでしまう。
伏せられた横顔は、何処かで感じ、体験した事がある、今にも砕け綻んでしまいそうな雰囲気だった。
それに対し、サクラは息を詰まらせた。
あの、夕暮れが頭から離れない。
「…また、会えなくなるの?」
「少しの間だ。また、忙しくなる」
急に来てしまうほんの少し別れ。
それはいつも唐突過ぎて、何度もサクラを困らせる。
幾ら楽しいひと時を過ごしたとしても、この世が戦国である事は変わり無い。
未来を変えてしまう云々よりも先に、考える事など他にも沢山あった筈だ。
それを今更悔やんでも仕方の無い行為だとも、分かっている。
分かってはいるものの、それを考える時間を避け、遠ざけようとしている自分も居た。
そっと肩を抱かれ、引き寄せられてもサクラは否定などしなかった。
広く、そして厚みの増した胸に身体を預け、その心音を聴く。
絆されるな、甘えるなと自分を如何に強く戒め様とも、この温かな体温には逆らえないのだ。
このひと時を無駄にしては成らないと、本能が告げている。
それを無視することが出来ない。
二人で巫山戯合い、つまらない冗談を言い合い馬鹿をやって腹を抱えて笑い。
時に小さな理由から口論が始まり、知らぬ間に収まっている。
どちらとも言わずに、手を、指を絡ませた。
こうしている間だけ、サクラは[未来から来た]事を忘れ、青年も己が[うちはマダラ]である事を忘れられるのだ。
「何か不思議ね…」
「ん…?」
「だって、こうして二人で黙って居ても、時間は進んでいくし。…私達には、私達の生活の為にまた、お互いが居ない日常に戻らないといけないなんて」
(夢、みたいよ。そうね、例えるならばコレは夢だわ。)
どんなに心地の良い夢であっても、覚めてしまえば現実よりも儚いモノと化す。
朧気な、霞の掛かった楽園には長く居られない。
白と黒が別れた、目まぐるしく変わる現実へと目を向けなければならない。
「私も、戻らないといけないから…」
「まだ時間はあるか?」
「もう少しだけ…。それまで、手を繋いでて良い?」
「…ああ。」
その短い返事にすら幸せを感じてしまうのは、もう[落ちて]しまった結果なのか。
サクラはこの温かな微睡みの中に、身を預けてしまうと、悩んでいたそれもどうでも良くなってしまう。
只、この時間を大切にしたかった。
(陳腐な言葉に、シチュエーションと切り捨てたモノに夢中になってしまうなんて。馬鹿にしなければ良かった…)
どんな恋愛小説も、ドラマも、映画も。
今の時間に比べれば、胸が痛くなる程に切なくなるモノはない。
黒い服に顔を埋め、甘える様にして頬を胸に擦り寄せれば、頭上から低い笑い声が聞こえてきた。
少し動く気配がしたかと思えば、髪を撫でられ更に強く掻き抱かれる。
その強過ぎる程の力にさえ、サクラは酔いしれ目を閉じた。
そして、ふと何かを思い、サクラは青年を見上げると、彼と目が合った。
合った瞬間、行われる行為は決まっていたもので。
サクラは少し背伸びをし、青年は身を屈めた。
目を瞑ったまま青年を待つサクラの柔らかな唇を軽く啄むと、徐々に深く方向を変えながらも違った方法で体温を共有する。
(戻れなくなってもいいなんて…)
-やっぱり、私、何処か可笑しくなっちゃったんだ…。
最初はその様な行為を含めず、姉弟に似たモノであった二人の関係は。
少年がサクラに異性を感じ始めてから、全てが変わった。
逢い引き。
世からはそう言われているこの二人の秘密の時間は、名の通り、公然ではなく秘密裏に会う事だ。
未来でどんなに悪名高く言われようが、今前にしている青年はサクラしか知らない。
その黒く光を離さない瞳も、動きを見逃さまいと光る紅い瞳も。
硬い質で、少し癖の有る長い黒髪も。
筋張った傷だらけで、それでいて、すらりとした指に大きな掌も。
伸びやかで、均等の取れた逞しい四肢も。
こうして身を預け、安心出来る胸元も。
全て、この瞬間はサクラのモノだ。
彼が将来背負う事になっている一族の物でもない。
雇った大名の物でものない。
彼が言ってくれた。
彼がそう言ってくれたのだ。
(…戻りたくない)
その言葉は、今まで我慢して来たサクラの心の声だった。
ずっと無視をしていた。
気付かないふりをしていたあの感情が、熱され、溶け出した証拠だ。
しかし、この言葉を言ってしまえば青年は嬉々としてサクラを受け入れ、サクラを連れ出してくれるだろう。
[未来]に戻れなくなるやも知れぬ。
(だから駄目…。これは仕舞っておかなければ成らない言葉よ…。)
誰のものとも分からぬ液が、口の端からつるりと糸を引き流れ落ちていった。
青年はそれすら丁寧に舐め、またサクラの頬や広めの額に唇を寄せる。
少女の鼻から抜ける甘い声と、青年の少し荒い息が混ざり合う。
(お願い…。終わらないで…)
-時間が、進まなければ、いいのに…。
サクラの思いは、誰にも告げられぬまま。
甘い吐息と共に、空気に溶けていった。
-サクラ…。
何処かで、名前を呼ばれた気がした。
それが嬉しくて、サクラはにこりと微笑んだ。
*
彼女の柔らかな身体に触り、体温を分け合う。
そうする事によって、道具とされ、扱われ、捨てられる為だけの己の身体に熱が生まれ。
また[人]に戻れるのではないかと、錯覚してしまう己が居た。
鍵の掛かっている引き出しの奥に、仕舞い込んでいた包みをそっと、丁寧に取り出す。
そして、包を開き、中身を確認した。
戦に行く前に、必ず胸元に忍ばせているものだ。
それは、少し汚れた一枚の布であった。
随分と色褪せては居るが、薄桃色の正方形の布である。
右端には、桃色の糸で何やら、何かが縫い込まれていた。
それは人の名であるようだ。
青年は、その字を指でなぞる。
これも戦場に行く前に、必ず行う行為であった。
其れを包の中に仕舞い直すと、廊下から足音が聞こえてきた。
真っ直ぐ青年の自室へと向かってくる足音は、彼の弟のものである。
「兄さん、入るよ」
すっかり声も低いものに落ち着き、背も幾分か高くなった弟は、用意が出来たのか火薬の入った包みや巻物を腰に下げていた。
部屋に入るよう、青年が許可すると一礼をして中に入る。
家族と言えども、一族の若者の中で実力のある兄を尊敬しての態度であった。
「準備出来てるのに、何で部屋に戻るの」
-いつもそうだよね。
気になってはいたが、どうしても忙しそうな兄に聞けなかった。
そんな小さな疑問を、今のうちだとぶつけてみる。
すると、青年は胸の辺りを摩る様にして困ったように笑った。
「大切なものをな、取りに来たんだ」
「お守り?」
「そうだな。俺にとってはそれ以上に、効力のあるモノだ」
その兄の言葉に、弟は目を輝かせる。
同時にい神やら、仏やらを滅多に信じぬ兄が持っている[守り]に興味がわいた。
「後で見せてよ」
「幾らイズナの頼みでも、見せられないな」
それを言い、皆が待ってると上手く逃げて見せれば。
弟は頬を膨らませた。
-なんだいそれ。兄さんのケチ。
頭に手を置き、宥めると少し弟の機嫌が良くなる。
そして、頼もしい笑みを見せると、兄を見上げて言った。
「今日も頑張ろうね」
「…ああ」
彼の[効力のある]胸元に仕舞い込んだ正方形の布には、桃色の糸で刺繍がされていた。
[春野 サクラ]
彼が最初に[彼女]と出会った時。
足を捻挫した、少年だった頃の彼を治療してくれた[お姉さん]が、彼の足に固定として巻いてくれたものであった。
名前を伏せ、身分を明かさないと暗黙の了解があったものの。
自分は最初から彼女の名前を知っていた。
だから、教えたのだ。
彼も教えるつもりでいた。
彼女の名前は、まさにその人に付けるべき名であった。
桃色の艶やかな髪。
優しげな色。
甘い、香り。
彼はまた生きて、彼女に合うべく。
胸元の[お守り]に誓う。
『俺は孤独を連れ、そして行く。』