陸奥の後ろで事態を見守っていた大和は、目の前で起きた出来事に知らず知らず身体を震わせた。これは現実のことなのであろうか。
深海棲艦たちに傅かれる陸奥は、艦娘を超越した何かのようだ。少なくとも、自分と同じ艦娘とは到底思えない。
大気を切り裂かんばかりの鋭い声が発されると、大和の背筋が固まった。同時に、深海棲艦たちはその場を離れて行く。まるで規律ある軍隊のように、きびきびとした動きだ。
大和は、異様な光景に息を呑む。
他の艦娘たちは、瞳を輝かせて陸奥に群がった。誰も彼も陸奥を褒め称えるばかりである。ひと際感激しているのは、陸奥の弟子である加賀だった。
「もう驚く以外にありません。まさか、言葉一つで深海棲艦を撤退させるなんて。そればかりか、深海棲艦たちはまるで家臣のように跪いていました。陸奥さんの威光は、深海棲艦にも通用するのですね。私は、貴女に指導されていることが本当に誇らしいです」
「そうほめ過ぎるな。俺もどうなっているのかさっぱり分からんのだ」
眉を顰めながら陸奥は言った。
それを謙遜の言葉と受け取った加賀は、ますます声音を高くする。今までに大和が聞いたこともないような声で、そうとうに興奮しているらしい。これでもかと陸奥に黄色い声を送る。
「過ぎるということはありません。本当に素晴らしいです。大和もそう思いますよね?」
加賀に声を掛けられて、大和の固まった背筋がようやくのこと解れた。はっ、と打たれたように反応し、おずおずと頷いた。
「そ、そう……ですね」
あまり芳しくない大和の返事も、興奮している加賀は特に気にすることもなく、頻りに、そうでしょう、と同意を促す。
確かに、陸奥の行ったことは史上初めてのことであり、驚嘆に値することなのは間違いない。大和はそこに異論は挟まない。
ただ、恐ろしかった。驚嘆する以上に、陸奥に対して不気味さと恐怖があった。
心が幻覚を見せているのだろうか、陸奥の姿が見上げるほどに大きく見える。このまま踏みつぶされてしまいそうだ。
「このまま各地の深海棲艦を陸奥が従わせてしまえば、戦争は終わるな。戦わずに終わるのならそれが良い。そうなると、陸奥は深海棲艦の王となるのかな?」
冗談めかして、長門は破顔した。
大和はその冗談に戦慄する。本当に冗談で終わってしまう言葉なのであろうか、悪寒が身体中を走り回った。
ふと、藤原のことが頭をよぎる。彼女がどうして陸奥を冷遇するようになったのか、秘書艦である大和も知るところではない。だが、今回の一件は、繋がりがあるように思える。
陸奥は、危険な存在なのではないか。
この時、大和の心には陸奥に対する疑念が生まれたのであった。
帰投した大和は、一目散に藤原の執務室を訪ねた。
書類に目を通していた藤原は来客の姿を認識すると、書類を机の上に放り投げ、来客に視線をやった。相も変わらない陰険面である。机仕事に入る時に掛けている眼鏡の奥の瞳が、怪しげな輝きを放っていた。
報告をしろ、と藤原は目で語る。
大和は、先ほど起きたことを包み隠さずに全て話した。話している途中、陸奥への恐怖が面に出てしまったが、藤原は気にも留めない。話の内容に聞き入っている。
「そんなことがあったのね」
報告を聞き終えた藤原は、眼鏡を外し机に置くと、眉間を三度、右手の親指と人差し指で揉んだ。機嫌が悪い時や、気分が優れない時の、彼女の癖である。
大和の話は、藤原にとって頭の痛い話だったようで、大きくため息までついていた。
藤原は、大和の目を夢据えて言う。
「今回の一件で、疑念を抱いたのが貴女だけ。これって、異常なんじゃないかしら。話だけ聞いてる私ですら、色々と訊きたいことがあるもの。それなのに、直に目撃して疑念や恐怖を抱いたのが貴女だけしかいない。他は、盲目に称賛の声をあげるばかり。これって、おかしな話よね」
藤原は言う、これが陸奥の恐ろしさだと。
異常なまでの求心力なのである。
陸奥は人を惹き付けるのだ。藤原も惹かれた人の一人だった。一目見て、神秘的と評するべきか、ともかく摩訶不思議な感覚に包まれたのだ。
この神秘的な感覚を放つ艦娘を、傍に置いておきたいと思った。
「けれども、そんな気持ちは二ヵ月もすれば真逆のものになったわ」
陸奥の傍には、常に誰かがいた。
姉の長門、教え子の加賀や諸々の艦娘たち、彼女たちも皆、陸奥に惹かれていた。陸奥が鎮守府にやって来て僅か二ヵ月で、殆どの人心を掌握したのだ。それも無意識にである。
このことを理解した時、藤原の中で陸奥は恐怖の対象に変わった。出来うる限り関わり合いになりたくなくなった。顔を見る度に暗い感情を隠せなくなった。
そうしてそれが、陸奥に対する冷遇へと続くのである。
「今日だって、本当は彼女を出撃させるつもりはなかった。出来れば、無駄飯ぐらいにしておきたかったわ。だけど、万が一のこともある。彼女の力は、私も素直に認めるところよ。だから、今回は例外だった。でもまさか……」
言葉を途中に藤原は口を噤んだ。
大和の脳裏には、藤原が後に続けようとした言葉が鮮明に浮かんで来る。よもや、異常なまでの求心力で深海棲艦までも虜にするとは、誰が想像出来たであろうか。
ぽつりと、藤原は呟いた。
「このままにはしておけないわね」
藤原が何かを決意したようであった。
その何かとは、陸奥を排除するということであろう。大和には藤原の心の中が痛いほど分かる。恐いのだ。陸奥が恐いから、もう恐くて我慢が出来ないから、排除してしまいたいのだ。近くに居たくない。
「どうするのですか?」
排除すると言っても、直接的に殺してしまうなんてことは出来ない。一番手っ取り早い方法ではあるが、陸奥を合法的に殺せる理由がないのだ。よもや、貴女は恐ろしい人だから死んでくれ、と言って殺すわけにはいかない。
大和の問いに対して、藤原はニィっと口角をあげた。何かいい方法があるのか、普段は病人の様に青白い肌を紅潮させて、大和に言う。
「あそこに行ってもらおうかしら」
「あそこ」
大和は鸚鵡返しに口にしながら、一体どこのことだろうかと考える。すると、一つだけ思い至るところがあった。もしそこだとすれば、高い確率で陸奥を排除出来るだろう。
しかし確実ではない。どころか、下手をすれば最悪の結果を招くことになる。
「それは危険ではないですか? 虎を野に放つようなものです。もし、陸奥を頂点にまとまってしまえば、この国を揺るがす事態になるかもしれません。御考え直しを」
藤原は怪しく瞳を輝かせながら、大和の不安を鼻で笑った。
「心配することはないわ。あそこの艦娘たちに反抗心なんて存在しない。陸奥を担ぎ上げて謀反だなんてことはあり得ないわね。そんな気があるのなら、当の昔にあそこの提督は八つ裂きにされてるわよ。見ていなさい、早ければ一か月もしない内に、猛獣の牙が抜かれるか、危険だと判断されて狩られるわよ」
きつく細い目をさらに細めて、藤原は言い放つ。
「組織というものには、必ず腐敗が存在する。でも、毒に使い道があるように、腐敗も役立てようと思えば、しっかり役に立つものよ。今回がまさにそれよ」
立ち上がる藤原を、大和は目で追った。
藤原は大和に背を向けて立ち止まる。身体は東の方角を向いていた。
「それじゃあ、決定ね。陸奥には、坂東鎮守府に移動してもらう」
一末の不安はあった。それで本当に良いのか、もっと別の方法があるのではないか、と頭の片隅で探る。けれども目先の恐怖が遠ざかることを実感した今、大和は不安を超える安心感を得ているのも事実であった。