翌早朝、陸奥は出立の準備を整えるや鎮守府の門を出た。
今にも雨を降らしそうな鈍色の雲に覆われた空の下、陸奥を見送るために鎮守府一同が整然と横並びに列を作っている。昨日の酒が祟ったのかちらほら顔色が悪い者がいるが、それでもこうしてきっちりと見送りに来てくれるのはありがたいものだ。
胸がほんのりと熱くなって来る。いつまでも浸っていたくなるような快さで、朝の風がもたらす肌寒さを忘れさせるようであった。
不意に、加賀が歩み寄って来た。
陸奥の目前に立った加賀は、口をせわしなくもごもごと動かす。言いたいことがあるけれど、言葉にすることが出来ないといった様子である。
にこりと陸奥は破顔した。
「俺がいない間も鍛錬を忘れるなよ。次に会った時、今よりも数段上達した腕前を披露してくれ」
頷いた加賀は、ようやくのこと言いたかった言葉を陸奥に届けた。
「行ってらっしゃい、姉さん」
言ってしまって恥ずかしくなったらしく、加賀の視線は足元の方に移る。
その様が随分と可愛らしい。込み上げる衝動を我慢せず、陸奥は加賀を抱きしめる。鍛えているからかしっかりとしながらも、女のなよやかさもある身体を。
加賀もおずおずと陸奥の背中に手をまわした。
「姉さん、何かあっても絶対に無理をしないで下さい。何もなくても無理はしないで下さい。武勇伝とか勲功話とかは聞きたくありません。ただ、無事で元気であるとだけ、風の便りがあれば幸いです」
耳元で震える声に、今度は陸奥が頷く番であった。
陸奥の知っている加賀は、いつも冷静で気丈な振る舞いを見せる女だ。だが、ここにいるのは大切な姉と離れることを寂しがり、不安に思う一人の女の子である。
妹の不安よ消えてしまえとばかりに、抱きしめる腕に力を込めた。
しばし抱き合っていると、長門が呆れるような眼差しを向けて来る。
「おいおい、何時まで抱き合っているつもりだ?」
「出来れば、何時までもこうしていたいものだな」
「ふむ。だったら妹たちよ、この私も雑ぜてくれ」
長門が陸奥と加賀の二人を自分の胸元へ収めると、みな、我も我もと駆け寄る。
押し潰されそうになりながらも、陸奥は心の中で幸せを噛み締めた。
(ここが俺の新しい故郷、この者たちが俺の家族だ)
ふと、自分を取り囲む一団より離れた場所にいる藤原と大和の姿が目に入った。苦々しいという様相を隠そうともしない二人に陸奥は笑いをこぼす。そうして、俺は必ずここに、家族がいる故郷へと帰って来るぞと意思を新たにした。
空はさらに深く鉛の色を濃くしていく。不吉と言われれば不吉な空模様であったが、そのようなことはお構いなしに、陸奥の心は晴れやかであった。
ごちゃごちゃと騒々しいな、と陸奥は思った。
これから向かう先のことを考えれば憂鬱さを無くせるものでもなかったが、せめて気を紛らわせようと道中の景色を眺めていたのだ。結果、紛れるようなものではなかった。寧ろため息の量が増えるばかりである。
電車やバスにも初めて乗ったのだが、馬の方が良かった。もっとのびのびと、自然の風を身に受けながら行くのが好みである。移動するだけでドッと疲労に襲われた。
そうこうする内に目的地に辿り着く。看板に『坂東鎮守府』の文字が記されてあるのを確認すると、陸奥は息を呑んだ。
「俺は地獄に戻って来たのだろうか」
鎮守府は不気味に静まり返っている。人が生活をしている空間とは思えないほど活気を感じ取れない。故郷の空とは違った青空の下だからこそ、余計に坂東鎮守府の異質な雰囲気が増しているように思う。建物の所々の赤さは、朱色と言った鮮やかなものではなく、黒に近いものがあった。何と言うか、おどろおどろしくて暗い。
鎮守府の門前で唖然と立ち尽くしていると、つかつかと一人の少女が近寄って来た。
この少女は白かった。雪で化粧を施していると言われても疑問にならないほど、真白い肌である。桃の色をした髪と並ぶと、その白さはさらに映え渡った。
案内役であろうか。陸奥が口を開く前に、少女が口を開いた。
「鬼怒だよ。案内するからついて来て」
鬼怒と名乗った少女は、言うや素早く振り返ってさっさと歩き出してしまう。陸奥がついて来ているかどうかなど一切確認しない。
このままでは見失ってしまいかねないと、陸奥は慌てて鬼怒の後を追った。
それにしても案内役とは到底思えないこの態度。いや、案内役云々の前に人としてどうなのかという態度だ。怒りを通り越して呆れしかなかった。
(ここは本当に坂東なのであろうか。変わっていることは重々覚悟の上であったが、ここまでとは考えていなかった。姉上、加賀、みんな、別れてばかりで何だが、俺はお前たちの下に帰りたい)
既に故郷へ帰ることしか考えられなくなって来た。異質な雰囲気を放つ鎮守府と少女、これだけの判断材料だが、この地で上手くやっていける気がしないのだ。
鬼怒の後ろに続いて建物の中に入ると、陸奥はうっと呻いた。空気が重たい。息苦しいという意味もあるが、身体を押さえつけられているという意味の方が強かった。
足を止めずに歩んでいると、坂東鎮守府に赴任している艦娘たちとすれ違った。誰もが鬼怒と同じように無機質な表情で、まるで陸奥が視界に入っていないとばかりに無視をする。
とうとう我慢が出来なくなった陸奥は、溜まったものを吐き出すように呟いた。
「随分と陰気なところだな」
聞き取った鬼怒が振り向きもせずに言った。
「直ぐに慣れちゃうよ」
坂東鎮守府はそれなりに広いらしく、暫くの間、鬼怒の案内が続いた。やがて案内先に着くと、鬼怒はドアを指さしてから感情の籠らない瞳を陸奥に向けた。
「ここだよ。無礼なことだけはしないでね。貴女はどうなっても良いんだけど、鬼怒たちに飛び火しちゃうからさ」
陸奥は忠告とも言えないその言葉を無視して、ドアの奥にいるだろう人間に自身の存在を声で知らせた。入れ、と一言だけ返事が返って来た。
許可をもらった陸奥は、先ほどまで鬼怒がいた場所に案内の礼だけをしてから部屋の中へと入る。部屋の中は豪華な調度品で満たされていた。掛け軸や龍の置物は金や緑、朱の極彩色で作られており、嫌なぐらい絢爛と輝いている。
そして部屋の主は、机を挟んで向こう側、豪華な椅子にもたれかかるように座っていた。座っているから正確には分からないが、それなりに長身な男性である。如何にも軍人らしい胸の厚い良さげな体格であったが、強そうな印象はない。それはこの男性が、先ほどの鬼怒のように色白な肌で、垂れた目に凛々しさが感じ取れないからの印象だった。
男性的な体格だが、顔の作りは女性のようである。
陸奥が部屋に入って直ぐ行ったのは、眉を顰めることだった。男性の肌は白いので、赤くなると分かりやすい。鼻腔をくすぐる臭いを念頭に置けば、何の赤であるのかは一目瞭然だ。
軍人でありながら無駄に煌びやかな部屋、漂う酒の臭いは、陸奥の不快感と不信感を煽るには十分だった。
(姉上はここをきな臭いと申しておったが……なるほど、こいつは臭いな)
空気も建物も人も何もかもが臭い。
陸奥は表情で自分の感情を悟られまいと、膝をついて首を垂れた。
この陸奥の行為に、男性は嬉しそうな声をあげる。地声とは思われない甲高い声だ。
「ほう、お前は自分の立場という奴を分かっているじゃないか。嬉しいな、本部はやっとお前みたいに賢いのを用意してくれたんだな。それに美しい。気に入った。俺は
ハハハ、と男性の笑いが部屋に響き渡る。
「ははっ」
陸奥は答えながら、何としても早く帰らなければ、と決意を固めるのであった。