雨は、時として人を鬱屈とした気分にさせる。雨によって生み出されるじっとりと腐ったような生温い空気が、そうさせるのであろうか。陸奥もまた例外ではなかった。
坂東鎮守府に着任してより二週間、五月に入った現在は、梅雨と呼ばれる季節であった。
この二週間で、ため息の量ばかりが増えたように、陸奥は思う。憂鬱だった。外の天気と同じように、心も雨雲に覆われているような、そんな感覚だ。無論のこと、そのような感覚に陥っている理由は、雨だけではない。
「あいつは人間じゃないよ」
陸奥の居室に敷かれた布団の中で、鬼怒は身体を震わせていた。
ぶるぶると震える鬼怒の身体を、同じ布団の中に横たわる陸奥が抱きしめる。すると、鬼怒は安心したように震えを止めて、もぞもぞと陸奥の腕の中から抜け出すと、語り出した。
「あいつは鬼怒たちを化け物だって呼ぶけど、あいつこそよっぽど化け物だ。これは一年ぐらい前だったかな。生きたままの艦娘を斬って、身体の中を確かめたんだ。人間と同じような見た目をしているけど、中身はどうなんだって。それも一人じゃないよ。艦種ごとに一人ずつ。とても普通じゃない。気狂いでももう少しまともだと思うよ」
「そうか」
とんでもない話を聞かされた陸奥は、一言そう返すだけが精一杯だった。なにせ、これだけじゃないのだ。着任してから今まで、同じような話を何個も鬼怒から聞いている。
一応のこと、着任初日の源提督の発言で、陸奥の所有物もとい部下になった鬼怒は、朝から晩まで陸奥と一緒に生活を送っていた。当然寝る時も一緒で、寝る前に布団の中で、源提督のこれまでの所業を一日一つ、寝物語として陸奥に語っていたのだ。
初日からなので、今日の話で十四個目である。一個目、二個目の時は憤慨を露わにしていた陸奥だったが、十四個目ともなると、返す言葉もないというものだった。
そして、この源提督の凶行話こそが、憂鬱の主たる原因でもあった。
「とんでもないことだな」
今までの十四個の話を全て思い浮かべてから、陸奥は呟いた。
源提督の所業が、ではない。それもないことはないが、鬼畜外道の行いを平然とやるような男の部下になったことが、とんでもないことだった。また、そんな輩が現代の武士であるということが、ただただ恐ろしい。
陸奥は背筋に冷たいものを感じた。
「国は何をしているのだ」
自然と言葉が出て来た。中央の人間がこれらの悪逆をしらない筈がない。にもかかわらず、こうして坂東鎮守府の提督のままだということは、行為を黙認していることに他ならない。こんなことがまかり通っているというのは、本当にとんでもないことだ。
「鬼怒たちは、所詮人間じゃないから」
諦めと切なさの混じった声音だった。
その言葉に、陸奥はグッと胸を締め付けられるようであった。
艦娘は蝦夷と似ていると、鬼怒の言葉を聞いて思う。遙か昔、平安の時代にあって、蝦夷は蔑視の対象であった。彼ら自身は蝦夷であることに誇りをもっていたが、そもそも蝦夷という言葉自体が蔑称だった。また、王朝に帰順した蝦夷は俘囚と呼びならわされ、やはり人としての扱いではない。人と同じ姿をした化け物である。
馬鹿馬鹿しいことだ。蝦夷とも、そして艦娘ともかかわりをもっている陸奥にしてみれば、王朝の貴人や、国の人の方がよっぽど化け物だ。姿とかの話ではなく、その精神性がだ。
「鬼怒、そのような悲しいことを申すな。誰が何と言おうが、お前は、お前たちは人間だ。この俺がそれを認めよう」
「ふふ」
鬼怒がクスリと笑った。
何かおかしなことを言っただろうか、と陸奥が怪訝そうにする。
「いや、同じ艦娘の陸奥さんに認められてもねえ、と思ってさ。でも、とっても不思議。何だか、陸奥さんにそう言われると、根拠もなく自信が沸き起こって来る。自分は人間なんだって胸を張れるんだよ。それが何かおかしくて」
ありがとう、と鬼怒は言葉を続けた。
「陸奥さんのお陰だよ。この二週間、陸奥さんのお陰でこの鎮守府は驚くぐらい平和だ。平和って言っても、まだそれなりに危険があることはあるけど、でも、陸奥さんが来る前と比べたらこんなの可愛いもんだよ。全部、陸奥さんのお陰だ、本当にありがとう」
部屋の明かりが消えた中で、眩く輝くような笑顔だった。
陸奥は瞑目した。
二週間前ならば決して見ることが出来なかった笑顔、陸奥はふと、自分がこの鎮守府を去った時のことを考えた。それこそ二週間前であれば、何の躊躇いもなく故郷に帰るなり、別の場所に異動するなりしただろう。でも、今は違う。
陸奥は鬼怒を見捨てることは出来ない。この坂東鎮守府の艦娘たちを見捨てて、一人逃げ出すことに羞恥心や嫌悪感が生まれていた。
(鬼怒は、よく感情を面に出すようになった。鬼怒以外の艦娘たちも、少しずつだが、感情を取り戻しつつある。それは、この俺がいるからと言うのは、過言ではあるまい。この俺が抑止力となることで、彼女たちは安心感が芽生えているのだ。どういうわけか、あの男は、俺の諫言には耳を貸している。俺が一言口を出せば、艦娘たちへの危害は止まり、あるいは無くなる。しかし、俺がいなくなればどうなる?)
そんなことになれば、二週間前の坂東鎮守府に逆戻りである。下手をすれば、もっと酷い状態になるかもしれない。多くの艦娘たちの悲鳴と怨嗟の声が天を覆いつくすだろう。そうと分かっていながら、誰が見捨てられようか。
武士の道を志す身として、断じてそんなことは出来ない。本来武士とは、名を重んじ、弱きを救う存在である。強いだけの存在ではない。
(済まぬな、加賀。お前の下に戻るのはもうしばらくかかりそうだ。まあ、姉上たちとよろしくやっておいてくれ)
自分が戻って来るのを今か今かと心待ちにしている、妹分に心の中で謝罪すると、目を開いた。開いた先には、鬼怒の目が待っていた。何度か開閉を繰り返し、とろんと眼差しが垂れ始めて来ている。どうやら、眠たいらしい。
「ふむ、夜ももう遅い。今宵はこれまでにして、就寝しようではないか」
陸奥がそう言うと、鬼怒はゆったりと頷き、陸奥の方に身体を寄せる。やれやれしょうがないとばかりに、陸奥は鬼怒を抱きとめて、背中を一定の間隔で叩き始めた。二人で寝る時はいつもこうである。
鬼怒は気持ちよさそうに瞼を閉じると、ごにょごにょと言葉をもらした。
「陸奥さんはやっぱり不思議……お母さんとお父さん、二人と一緒にいるみたい」
そうして鬼怒は寝息を立て始めた。
安心しきった子供のような寝顔に、陸奥は思わず表情を綻ばせた。それから、この寝顔を守らなければならないという決意を新たにする。憂鬱になっている場合ではないと思った。いつの日か、それが近い日か遠い日か分からないが、この坂東鎮守府を解放しよう、そんなことも考えた。そうすることが、鬼怒たちを助けるということに繋がるのだ。どういう風に解放するかの具体的な方法は、この時は敢えて考えなかった。
陸奥は、父母が愛する我が子にそうするように、耳元で優しく囁く。
「良い夢を見よ。いずれ、その夢が現実のものとなろう。その日がいつの日になるかは分からぬが、なに、暫くの辛抱よ。だからそれまでの間は、夢の中だけでも、幸せにな」
言い終えると、大きな欠伸をしてから陸奥も眠りに入った。