男がその道を歩く度に砂利と靴とが擦れる音がする。周りが寂れて、閑散としているせいか、その音が妙に響く。風は殆ど吹いていない為、草木が揺れる音もしない。鳥や小動物達は慌ただしく活動する事もなく、何処か淋しい。日が昇り、空気中に熱が帯び始める季節ではあるが、男はゆったりとした外套を着用している。目元つけている眼鏡は、雲の動きによって度々レンズに日光が反射して橙色に光り、フレームとの色の差異が際立つ。そんな気候の中、彼は淡々と一歩、また一歩と進んでいく。
彼は自身の家からかなり離れた位置まで来ると、水平に延びている線路を遠目で見つけた。彼はそれに沿って曲がり、また暫く進む。歩行速度は長時間歩いていても変わる事は無く、一定の速度を保ち続けている。そして小さくて粗末な建物に到着すると、彼は足をようやく歩みを止めた。その建物に人は居なく、券売機と彫られた簡易的な木箱と埃まみれの長椅子があるだけだった。彼はそこで切符を券売機から取って、あばら家をくぐり抜け、その先の石造りの建築物の上でぴたりと動きを止めた。そこには文字が彫られた板が数個と鉄製の長椅子が一つあるばかりで他は何も無い殺風景な駅であった。彼はその椅子に目を向けることも無く、ただ、駅の上に立ち尽くしている。
十分程して遠くの方から白い煙を大量に吐き出しながら黒い蒸気機関車が近づいて来た。汽車は徐々に速度を落として彼の前に止まった。プシュと音がして扉が開くと彼は中へと入り、隅にぴたりと背中を合わせる。数分経つとガタガタと音を立てて扉が閉まり、汽車は煙を噴き出して、また走り始めた。
彼は一呼吸を置いて次第に重心を後ろにずらす。それから顎に手を当て、目を瞑る。
(取り敢えず、薬。後、香辛料も買っておくか……となると必然的に彼女の所に行く事になるな)
彼はこれからの予定を立てながら頬、そしてこめかみにまで指を伸ばす。今日の予定が粗方立つと今度は違う思考が彼の脳に広がり始める。
(それにしても……本当に何を考えいるのだろうか。全く読めない。年頃の女というのは元来こういうものなのだろうか……)
指が頬を撫でたり、引っ掻いたり、今度は鼻に触れたりと先程よりも指が慌ただしく動く。彼の表情にははっきりと表れないのだが、彼の指だけは止められないのか、はたまた無意識に動かしているのか、忙しそうに顔のあらゆる箇所を行ったり来たりしている。
(一先ず病気が長続きして貰っても困るし、妖精に効く薬でも処方して貰うか。それと、彼女の為に何か買ってあげた方が良いのだろうか。機嫌取りとはいかなくても少し何かしてやるべきだろうな)
プシュ
(もう次の駅か……)
真後ろで空気音が聞こえて扉が開くと、目は開き、腕は降ろし、彼は反対の扉へとゆっくりと歩みを進めた。
金を支払って改札を抜け、俺は街を徘徊し始める。徘徊と言っても行き先はもう既に決まっており、寄り道をする気は無い。しかし、俺の格好は街に似つかわしく無く、歩くという何の変哲もなく平和的な意味合いよりかはそういう風に見えてしまうだろう。まぁ、持ち合わせている服もこれと似たものかこれより地味で目立たない物しかない。別に身嗜みに気を使う様な趣味や職に就いていない為、これで良い、これで満足だ。ただ、この格好は周りからの目を引き、不審感を募らせるようで、俺に対して訝しむ視線を感じる。いつもの様に人通りの少ない道を使っているが、足速に彼女の元へと向かうとしよう。
駅から十数分ほど歩き、目的地である一軒の古びた館に到着した。扉を引いて、中に入ると何時もの様に呼び鈴が甲高い音を立てて、部屋中に反響する。中は相も変わらず火はついておらず、薄暗い。自然光だけに頼っている上に、日の当たりが悪い立地のせいで外よりも暗いだけでなく建物内部の方が冷え込んでいると来る度に思う。
「いらっしゃい…………ってアンタか。思いの外早く来たみたいだけれど、もしかして香辛料の分量を間違えて使った?」
呼び鈴の音に反応してか、俺が扉を閉める頃には彼女はもう目の前にいた。
「それ以外にちょっと用があってな、何時も通り、香辛料を頼む」
「ハイハイ、何時ものね。少し待ってて」
彼女は短い髪を靡かせて、店の奥へと戻る。
「それと薬を頼む。妖精用のだ」
「薬?アンタ体調でも悪いの?」
「妖精用のだ。俺のじゃない」
俺が奥で作業している彼女に呼びかけると姿を見せぬまま返事がする。予想外の反応なのか何時もより声が甲高い。何に勘違いしてか的外れな返答だ。
「あー、あぁー?あっそう。取り敢えずアンタの薬じゃないのね。んで、症状は?」
「症状……症状か。先ずは高熱だな」
俺は額に手を当てて彼女の状態、様子、行動、仕草を思い返す。
「ハイハイ、それで?」
「でも食欲はあったな」
「……それで?」
「それと……そうだな、それぐらいか……あるとしたら情緒不安定ぐらいだな」
「はぁ?それは違うでしょう」
「違うのか?」
「アンタ風邪をなんだと思っているの?」
情緒不安定が症状な訳あるか、そんなの風邪で不安になってるだけだと、遠目にうっすら見える彼女の顔は呆れている様だ。そんな顔で見られるのは心外ではあるが、それは置いておこう。だとすれば……これまでの一連の行動は風邪に対する不安からくる奇行と考えるのが合理的か。
「なら、妖精に効く一般的な風邪薬を処方してくれ。高熱で唸っていただけだと思われるからそれでだけでいい」
「ふーん……あっそ、少し待ってて」
それだけ言って彼女の口は閉ざされ、代わりに聞きなれない音が鳴り始める。数種の薬草を取り出してすり鉢に入れて潰し混ぜ合わせている音は極めて小さいのだが、辺りに響いてよく聞こえる。俺はその様子を眺めていたがある事に気がつく。
「そう言えば、今日はラジオを流してないのか?」
この店は何時なら不快な電波音を発しながらラジオが流れていて、薬を精製する音も普段なら聞こえない筈。少し何時もと店の感じが違うと思っていたが、なるほどそういう事か。
「んー?あぁ、そうそう。ラジオが壊れたから直してもらいに行こうと思ったんだけど、面倒臭くて行ってないんだった」
俺はラジオが置いてある店の奥へと進み、台座の上にあるそれを手に取った。衣囊から何時も使っている針金を出して、ネジを回す。板を外し、軽く息を吹きかけて溝の埃を飛ばす。その後、針金を小さなへこみに突き刺す。そしてネジを嵌めなおして、調節器具を回し、国営放送へと周波数を合わせる。そうして、電源を入れるとジリジリと回電波を発してラジオを受信し始めた。
「流石、ものの数分で直すなんて」
「いや、ただこのラジオを初期化させただけだが。しかもこれはアイツが作ったものだろう。お前なら直せるだろう?」
俺はこびり付いた埃を払い落として台座の上に置き直す。
「いやまぁ、そうだけどさ……」
『「続いてのニュースです。一ヶ月前に行方を眩ませているダーナマフィア家の次女、ネルン様の行方はまだ分かっていません。一説によれば妖精の生息区域の外へと誘拐されたという情報もありますが、未だ消息は不明です。ネルン様は赤い目と白い髪を持っていて、身長は約百五十センチ程。何か情報をお持ちの人は……」』
「へぇ……最近はこんな事もあったんだ」
彼女はのんびりと欠伸をしながらこちらと目を合わせると口に当てた手と表情が凍り、目は見開いた。
「え、アンタ……もしかしてこの薬って……」
薬の入った袋と俺の目を交互に見合わせながら俺に険しい表情を向ける。
「さぁ、何の事だかな」
どうやら彼女は察したようで、表情が一気に暗くなっていく。
「正気……?アンタらしくないんじゃないの?」
「そんな事言われても仕方ない。これはアイツからの依頼だ」
「だからと言ってこんな仕事、何時もなら断るでしょ?でもどうして?」
「これは仕事じゃない。依頼だ」
俺はそれだけ言うと、手招いて薬を寄越す様に促す。彼女は観念したらしく、深く溜息をついて手に持っていた紙袋を寄超してきた。
「ハイハイ、何があっても知らないから」
「心配するな、どんなに事が大きくなってもお前には被害が及ばないようにする」
「だといいんだけど……」
彼女は薬と香辛料分の料金を受け取ると店の奥へと帰って行く。
「商売っ気が無いな、アイツと違って」
「何か勘違いしてるけど、ここ、診療所も兼ねてるから」
確かに、それもそうか。俺は踵を返して扉に手をかけた。店から出る時に呼び鈴の音と共に、お大事に、と申し訳程度の声量だがそう聞こえた気がした。