神様失格   作:トクサン

11 / 12
終焉の地

 

 どこで私は人生を間違えたのだろう?

 凡愚は凡愚なりに身の程を弁え、慎ましやかに生きていたと自負しております。特に目立つ事も無く、華族として生きられぬのならば田舎で畑でも耕し平穏にのんびりと生きられればそれで良かったのです。雨風凌げる家に多少の金銭、それに飯、後は穴の空いていない服さえあれば人間生きては行けるのですから。

 

 華族として生きて来た人間としてはおかしいと言われるでしょう、けれど私にはそれで十分でした。それ程難しい夢でも無いでしょう、ない筈なのです。

 不出来な弟を持つ兄は私に良く言いました。「お前には才がないが顔は良い、別段家の事は気にするな、俺がキッチリ継いでやる、偶に遊びに来い、お前は金持ちの女でも引っ掛けて婿にでも入れ、そして俺が気軽に遊びに行けるような家庭を築いてくれれば言う事は無い」と。

 

 兄は優秀でした、同時に懐の大きな男でありました。華族然とした旧時代のお堅い人間ではなく、どこか楽観的でおちゃらけていながら礼儀と伝統を何よりも重んじる『優れた人』でありました。金持ちの女でも引っ掛けろという部分には少々言いたい事もありましたが私の無能を案じての言葉だったのでしょう。今では笑い飛ばす事も出来ない助言となっています。私は兄を心から尊敬し信頼しておりました。

 

 反して姉は言いました。「男は甲斐性、稼いで家族を養ってこそです、故に必要なのは不断の努力、無理を押して尚邁進する愚直なまでの向上心、その点重虎にはあらゆるものが欠けております――まぁどうしようもなくなったら私が養いましょう、嫁入りは曜子に任せます」

 流石にそれは男としてどうなのかと当時はしかめっ面をしていましたが、今では彼女の言葉が正しかったのだと骨身に染みて感じています。因みに曜子は私と姉の妹であり、彼女も「どうしようもの無い時は私が兄様を養います、嫁入りは姉様がしてくれるでしょうし」と言っていました。互いに互いが嫁入りは相手がしてくれると思っているのだからすさまじい、彼女達は元から誰かと結婚する気がありませんでした。

 

 ここだけの話ではありますが私には幼少期の記憶がありません。この歳になって小さい頃の事を覚えていないというのは珍しい事ではないとは思いますが、私には『欠片の記憶も存在』しないのです。家族の事は分かります、友人の事も分かります、日常的な知識もあります、けれどその間に何をして過ごしたのか、どんな思い出を作ったのか、私には何も分からないのです。

 

 私はその事について誰にも何も聞きませんでした。兄や姉に「小さい頃の私はどんな人間でしたか?」と問う事はありませんでした。何故なら家には白黒の写真一枚、存在しなかったのです。家族は私が幼少期に在った時の【何か】を恐れている様でした。

 

 父はこうなる事を予測していたのだろうか? 

 私はぼんやりとした思考でそう考えました。柔らかいヨミさんの胸の中では無く、一人きりの冷たい座敷に敷かれた布団の中、私は自分がどれだけ気を失っていたのかも分かりませんでした。

 

 特に体を縛られている事も無く、私はゆったりと手を布団の中から抜き出すと首元に宛がいます、禊さんに絞められた場所です。鏡もないため痣になっているかどうかも分かりませんがあの感触は今でも鮮明に思い出せます。

 そして最後、彼女が浮かべた薄ら笑いも。

 

「本当に貴女って間抜けと言うか、阿呆と言うか……まぁそのお蔭で私は此処を見つけられた訳ですけど」

「何だ、喧嘩を売っているのか? 何なら今すぐ頭蓋を叩き割って土に埋めてやるぞ」

「やめて下さい、猪と取っ組み合いの喧嘩をするつもりはありません、そもそもどちらかが発見したら互いに報告し合う約束でしたよね? それを違えて私を出し抜くなんて――ほとほと貴女の身勝手さには呆れます」

「ふん、何を偉そうに、大体お前では重虎を抑え込めまい? 居ようが居まいが同じ事だ」

「【そういう意味で言った訳じゃない】、って事分かっていますよね、私は重虎と離れたくないんです、一秒でも一分でも」

「………ふん、余り私の前で不快な事を言うな、殴りたくなる」

「殺したくなるの間違いでは?」

「これでも気を遣っているんだ、察せ」

「貴女が気を遣えるなんて驚きですね、もっと直情的で馬鹿――いえ、何でもありません」

「お前本当に教職者だったとは思えない人間だな」

「そちらも」

 

 私の頭上、障子の向こう側から話し声が聞こえてきました。聞き覚えのある声――禊さんと由紀子さんです。ただ禊さんの口調は過去のソレと比べて随分ぶっきらぼうと言うか、冷たく鋭利な刃物の様な口調に変わっていました。

 

 私は未だ焦点の合わない瞳を彷徨わせながら二人の会話を聞いていました。察するに二人は手を組んで私を探していたのでしょう。あの時、禊さんに襲われた時から薄々理解はしていましたが。

 彼女達の性質は非常に似通っておりました。外見も性格も全く違うというのに彼女達の根底にある執着性は全く同一のものだったのです。

 

「……それで、どうするんだ」

「どうするとは?」

「態々重虎を囲う為に好きでもない、寧ろ殺意を抱く様な人間と手を組んだんだ、契約はまだ続いているんだろう?」

「当然です、これからが本番でしょう、一人で駄目なら二人で――業腹ですが私一人ではなし得なかった事です、例え重虎を共有する事になっても……それでも彼が消えてしまうよりは何百倍もマシですから」

「同感だ、まぁ精々『どちらかがイカれる』までは続けるとするさ、尤もそう長く続けられるとは思わないけどな」

「――えぇ、そうですね」

 

 そう言うと二人は別々の方向へと歩いて行きました。障子の前に見えた影が消えて行きます。私はその姿を見送りながら何をする訳でもなく、ただ脱力し布団に身を任せていました。

 何をする気も起きなかったのです――逃げ出す気力すらありませんでした。

 この時の私は半ば諦めの境地にありました。何を諦めたのか、逃走? 彼女達から離れる事? 或はヨミさんの家へと戻る事? いいえ、私がこの時諦めたのは私の『人生そのもの』でした。

 

 あの煮えたぎる様な黒色の瞳に見つめられ、私は心底その瞳に恐れを抱いてしまったのです。熱烈な愛情、凶器に等しい想い。それをぶつけられる事に私は『無感情で在る』事で対処してきました。けれどそれを繰り返す程、逃げれば逃げる程、彼女達はその想いを膨れさせ私の影を血眼になって探します。

 

 私はこの時恐怖症に陥っていました。

 女性恐怖症――いいえ、もっと限定的なものです。

 自身に対する強い愛情を直接ぶつけて来るような存在、つまり禊さんや由紀子さんの様な『狂人』、それらを目の前にすると私は体が石の様に硬直し瞳が濁っていくのが自分でも分かりました。一人ならばまだしも二人いるのです、一体どうしろと言うのでしょうか。

 恐怖から来る自閉、つまり自己防衛のための逃避。それは物理的なものではなく、精神的なものでした。

 

 つまり廃れた人――その第一歩目だったのです。

 

 

 ☆

 

 

「重虎が居なくなって随分と大変だったんですよ? 母を預けて民宿を閉めて、本邸の方はそのままにしましたが民宿は売りに出してしましました、私塾を一身上の都合という体の良い理由で辞め、あとは貴方の足跡を探しながら旅をして――ふふ、でも辛くはありませんでした、だって他ならぬ貴方を探す旅ですもの」

 

 私が目を覚ましてから一時間程。食事を手に部屋へとやって来た由紀子さんは目を開いたままぼうっとしている私を見て微笑み、「良く眠っていましたね」と言いました。其処にはいつか見せた蛇のような執着性が欠片も存在せず、まるで良妻の様に甲斐甲斐しく私の世話を焼きました。

 

 私はもう起き上がる事さえ億劫でした。もう自力で何かをしようとする精神力が存在していなかったのです。

 

 彼女はそんな私を見て落胆や失望を露わにする事無く――むしろ喜々として体を起こす手伝いをし、自ら食事を与えました。熱ければ自身の吐息で冷まし、私の口元にそっと飯を運びます。彼女は何も話さず、相槌さえ打たず、ただ『生きているだけ』と言う様な有様の私を見て恍惚としていました。私には彼女の感性が理解出来ませんでした――いえ、理解しようともしませんでした。

 

「食事は一日に三回、交代で運んできますから……それとごめんなさい、この家は『貴方が好きだと言ったあの土地』からは少し離れているんです、本当は嫌なんですけれど――えぇ、本当に、身の毛がよだつ程嫌な事ではあるのですけれど、今はあの女と協力しないといけないから、この家には三人で住みます」

 

 そう語った時の彼女の顔を私は極力見ない様にしていました。見ずとも分かります、きっと憎悪に塗れた酷い表情をしているのでしょうから。

 

「この家の中でしたら自由にして貰って構いません、けれど決して外に出てはいけません、良いですか? 【決して外には出ない様に】――分かりましたか?」

 

 食事を摂り終わった私はぼうっと顔を俯かせたまま彼女の声を聞き続けます。返事も無く、相槌も無く。彼女は特に何の反応を見せる訳でも無くしゃべり続けていましたから。

 けれどその問いだけは違いました、何の反応も見せない私に由紀子さんは唐突に両手を突き出して私の顔を挟み込むと、ぐっと力を込めて自分の方に引っ張りました。私の顔が力に負け彼女の正面を向き――黒く汚濁した瞳の前に晒されます。

 彼女の表情は笑っていました。

 

「分かりましたか?」

「――――は…ッ…ぁ」

 

 あの黒い瞳に晒され、無感動で居ようとした私の精神に罅が入ります。人間を突き動かすのはいつだって恐怖です。私は色を失った瞳に幾ばくかの光を取り戻し、小さく一つ頷きを返しました。

 

「ふふっ、良い子です」

 

 彼女はそう言って満面の笑みを零すと私の唇に接吻を落しました。そして数秒ほど唇を重ねた彼女は満足そうに顔を離し、「それでは、また」と空になった椀を持って部屋を出て行きます。私は呆然とその後ろ姿を見送り、トンと障子が音を立てて閉められると同時に詰まっていた息を吐き出します。

 恐怖は私の胸を強く締め付けました。

 

「っ、は……に、逃げなきゃ……逃げないと……!」

 

 幸か不幸か。再びあの瞳を直視した事で私は恐怖に突き動かされました。無理だと分かっていても動かずにはいられない、今まで諦めの境地に至っていた私の体が急激に息を吹き返し布団を跳ね飛ばしながら立ち上がります。彼女の出て行った障子を静かに開けると、私は彼女の向かった方とは逆の道へと早歩きで進み始めました。

 

 用意されていた家はとても広い物でした、少なくとも禊さんの実家程の大きさはある様に感じます。私の部屋の前には中庭が広がっていて、一体どれほどの金が掛ったのか見当もつきません。兎に角今は由紀子さんの居ない方向へと急ぎました。

 

 幾つかの扉を潜り、廊下を真っ直ぐ歩きます。そして恐らく外へと通じる扉――草履や下駄が並べられた玄関か裏戸と言える扉を見つけました。私は喜々としてその扉に近付き、思い切り力を込めます。

 しかし。

 

「ッ、開かない、何で……!」

 

 がたがたと音が鳴るばかりで扉は開かない。何故だと半狂乱になりながら扉全体を見てみれば取っ手の部分に何やら南京錠が括りつけられていました。まさかそんなモノが付けられているなんて想像もしていなかった私は衝撃を受けます。

 

 どう見ても南京錠は新しいもので態々『この為だけに』扉へと付けられた事が分かります。分厚い金属の塊であるソレはちょっとやそっとでは壊れそうにありませんでした。少なくとも石か何かで殴り付ける程度ではビクともしないでしょう。寧ろ扉の方を壊した方が早い気さえしました。

 

「鍵……鍵が、必要なのか」

 

 私は呆然と呟きます。持っているのは由紀子さんか禊さんでしょう、少なくともこの広い屋敷の中から小さな鍵を探し出すのはとても難しい様に思えました。つまり私が逃げ出す事は―――

 

「えぇ、こうなる事は分かっていましたから、その為に用意したんです」

「!」

 

 背後から声がしました。誰の声だなんて言うのは分かり切っているでしょう、私が恐る恐る振り向けばそこには割烹着姿の由紀子さんが立っていました。とても柔らかい笑みを浮かべたまま、私を見て。

 

「この家も元々はとある高官の別荘だったらしいのですが偶々売りに出されていて私と禊の二人でお金を出し合って買ったんです、広くて良い家でしょう? それでも結構古い建物だからって格安で譲って頂いたんです、かなりお歳を召した方でしたから隠居する為の身辺整理という所でしょう、お蔭で『防犯対策』もやり易くて助かりました――それで重虎、どちらに行くおつもりで?」

「……あ、ぁ」

 

 彼女が笑みを浮かべたまま、しかし欠片も『笑う』事無くそう問いかけます。一歩一歩近づいて来る彼女に対し私は硬直して動く事が出来ませんでした。決して見つかってはいけない人に見つかってしまった、後悔と悲壮感が私のその時感じた全てです。

 

 由紀子さんは私の目の前に立つと指を一本立て、私の唇に押し付けます。その動作は艶やかであり、しかし同時に悍ましさを感じさせるもの。由紀子さんの瞳はこれ以上ない程に濁っておりました。

 

「あれ程『駄目だ』と言ったのに……私の言う事、聞かなかったんですね」

「ち、ちが……私は……」

「いいえ違いません、見たものが全てです、そして謝って済むのならば警邏は要らない――人は自分の損得に関係の無いものを憶えようとはしません、教師をやっていて良く私は知っています、将来何の役に立つか、それを明確化しないと生徒は積極的に物事を学ぼうとはしないんです、特には子どもは……大人だって一緒です、自分に関係の無いどうでも良い事は知らんぷり、だから教えないといけないんですよ、【言う事を聞かないと酷い目に遭う】って事を」

「―――」

 

 由紀子さんが一歩進むごとに私は一歩下がります。そうして繰り返していくと私の背中は扉に当たり、彼女は私に密着して囁きました。その口調は酷く官能的であり同時に氷のような冷たさを伴っていました。

 

「知って下さい、この家での過ごし方、規則と罰則を――貴方はもう決して逃げられはしないのですから」

 

 





 そろそろ神様にならないとね(無慈悲)

▲ページの一番上に飛ぶ
X(Twitter)で読了報告
感想を書く ※感想一覧
内容
0文字 10~5000文字
感想を書き込む前に 感想を投稿する際のガイドライン に違反していないか確認して下さい。
※展開予想はネタ潰しになるだけですので、感想欄ではご遠慮ください。