新雪を踏むのは二度目の筈でした。しかしその実感も経験もまるで覚えがなく、彼女の一方的な行為は深夜まで続きました。彼女は私の上で「私の傍から離れないで欲しい」、「愛しているんだ」と独白の様に繰り返していましたが、私は既に愛だの恋だのという感情が分からなくなっていました。私に伸びて来る手が「愛」や「恋」によるものならば、私には到底受け入れがたいものの様に感じたのです。
泣きながら私を貪る彼女を私は無機質な目で見ていたように思います、困惑でも驚愕でも無く、私は荒れ狂う彼女の感情を前に単純にどう対応すべきか分からなかったのです。
気付けば場所は居間では無く彼女の私室で、布団に包まりながら朝日の差し込む丸窓を眺めていました。いつの間にか眠っていたのでしょうか、彼女に押し倒されてからの記憶が非常に曖昧でした。隣では私を抱きすくめた禊さんが寝息を立てており、いつか嗅いだ匂いが漂っています。彼女の表情はどこか満足げでありました。
ほろりと、不意に涙が零れました。別段悲しかった訳では無いのです、禊さんという存在は私にとって確かに普通以上の存在でした。しかしどうにも彼女の好意に答えられるだけの度量が私には存在しませんでした。その涙はこの結末に対する私の本心だったのでしょう、あったのは悲しみではなく喪失感でした。
私は何か呪いでもこの身に受けているのだろうか?
真面目に私はそう考えました。私の望む平穏や日常というのが悉く手から零れ落ちるからです。禊さんの事は嫌いではありませんでした、しかし彼女の好意と呼ばれるソレが最早『依存』と呼ばれる領域に達している事を、私は薄々理解していたのです。
それは彼女――由紀子さんと同じものでした。
「………逃げよう」
そう呟いたのは二度目。
まるで焼き増しの様な逃走でありました。
☆
手早く荷物を纏めて家を後に。四ヶ月過ごした私の部屋はそれなりに物が増えていて、しかし全ては持っていけないので大抵の物は置いたままにしました。商店で稼いだ金と元々持ち合わせていた路銀を合わせれば日本の端っこまで行く事も出来るでしょう。必要な分の衣類と生活必需品を風呂敷に纏めた私は、置手紙もなく家を抜け出しました。
途中世話になった商店の前で足を止めますが未だ店は開いていません。それはそうでしょう、まだ朝の五時です。人はまばらでこうして荷物を持って歩いていても怪しまれない程度には私は風景に馴染んでいました。
「……お世話になりました」
禊さんと室田さん、それに娘さんの花奈ちゃん。
この街での生活は私にとって素晴らしいものでした。どうか何も告げる事無く逃げ出す私を許して下さい。私は口の中で小さくそう呟くと、ぺこりと頭を一つ下げそのまま街の外へと歩き始めます。
次は何処へ行こうか。
人が居ない所が良いな。
もう、好きでもない人に縛られるのは嫌だ。
私はいつかこの街に来た時と同じように古びたバスに乗り何時間も掛けて街を離れました。商店で稼いだ路銀一月分を丸々使って日ノ本の端っこへ、私は兎に角北を目指しました。都市部から離れる様にバスと電車を乗り継いで距離を稼いだのです。途中宿に泊まりながらも足を止めず、馬鹿の一つ覚えの様に北を目指しました。
そうして丸々三日、随分と遠くに来た気がします。街も村も徐々に少なくなり、電車もバスもなくなってからは道なき道を足で進みました。都心から離れれば離れる程自然が多くなり、人の手が入っていない風景が広がりましたが今の私にとっては寧ろ心安らぐ景色でした。立ち並ぶガス灯や煉瓦の建物が無い事に安堵すら覚えます。
道なき道を行き、村から村へと、集落から集落へと渡り歩き数日。
辿り着いた土地は薬師と呼ばれる場所でありました。
麓に小さな――本当に小さな村が一つ。
私は交通機関さえない人里離れた山奥へと辿り着き、更にその村から山を登った中腹の辺りに一つの山小屋を見つけました。中には人が最低限生活出来そうな物が揃っており、近くには細くはありますが川もあります。
誰か世捨て人か、隠居した方が過ごしていたのかもしれません。しかしその小屋には人の気配がなく、また埃を被った生活品が長い間放置されている事を物語っていました。
「……此処に少し、厄介になろう」
私は暫くその小屋で過ごす事を決めました。幸いにして台所も、寝床も、風呂も、最低限暖を取れそうな囲炉裏もあります。それにこれからは夏の時期、その間この涼し気な山で暮らすのは大層良い考えに思えました。人のモノを勝手に使うのは良くないと思っていたのですが、麓の村で「あそこの山小屋には誰か住んでいるのですか?」と聞いてみると、誰も知らないと首を横に振りました。ならば少し間借りする位、許されるでしょう。
もし持ち主が帰って来たら素直に謝って出て行こう、そう決めながら私は荷を下ろしました。
最初の数日の生活は酷く苦労した事を憶えています。何せ本格的に一人で生活した事などなかったのですから、川の水を汲んで来たり小屋の掃除を本格的に行ったり、それに古びた小屋でしたので所々隙間が空いていた為、裏手にあった木材と工具でちょっとした修繕を行いました。
なにもかもが新鮮です、食料も基本的には自給自足でした。山で食べられそうなものを探したり、麓の村から野菜を分けて貰ったりしました。山菜の知識などさっぱりな私です、幸いなのは川から魚が獲れた事でしょうか。魚を獲るのに必要な道具は一式揃えられていました、この山小屋を建てた人物もこうして自給自足するつもりだったのかもしれません。
しかしそう上手く行かないのは世の常、魚も毎日獲れる訳でも無く山で見つけた茸や山菜、木の実などが主な食糧となっていました。村では金銭のやり取りが乏しく、持ち込んだ路銀は余り活用出来ません。
こんな事なら道中の村々で食料を買い込んでおくべきだったと後悔、それでもこの場所から離れようと思わなかったのは意地か、それとも単なる好みの問題なのか、私にも良く分かりませんでした。けれど人が全くいないという環境はある意味自分自身を見つめ直すにはこれ以上ない環境です。私は一週間ほどその小屋で過ごし、改めで自分の無力さを噛み締めました。
自分一人では生きて行く事も大変です、けれど同時に自分は独りぼっちという環境に存外強いという事が分かりました。隣に誰も居なくても私は不思議と寂しいと思わなかったのです。それが強みなのか弱みなのか、私には判断がつきませんでしたが。
少なくともこの生活を終わらせる『誰か』が居ないというのは私にとって酷く安心できる事だったのです。
☆
小屋で生活を始めて二週間目。
風呂を沸かす薪をえっちらおっちらと集めていた傍ら、私は山道で座り込んでいる人影を見つけました。最初は村人だろうか? と特に気にしませんでした、稀にですが木材や山菜を求めて麓の村人が山に登って来る事があったのです。その人影もまた、村人が山草やらを求めて来たのだろうと決めつけていました。しかしその人影は座り込んだまま微動だにせず、座り込んだ体の向きからして山に登っている最中の様でした。
もしや何かあったのだろうかと思い、私は薪を背負ったまま人影に近付き声を掛けました。どうせ間違いでも恥を掻くだけなのです、躊躇う必要はないでしょう。
「あの……どうかしましたか?」
誰かと会話するのは三日ぶりでした。若干擦れた声が出ましたがきちんと伝わった筈です、しかし相手は何か反応を見せるどころか顔さえ上げる事無く、そのまま沈黙を守ります。流石に様子がおかしいと思った私はその場に屈み、顔を覗き込みました。
女性にしては短く、男性にしては長い髪。実用性を重視した皮の服は猟師のモノです。背負われた村田銃から狩猟の為に山に登ったのだと分かりました。顔立ちは凛として目は閉じられています、珍しい事に女性の猟師でありました。
彼女は顔を赤くして浅い呼吸を繰り返しています。地面に座り込んだまま私に気付いた様子もありません。私が慌てて彼女の額に手を当てると、思わず声が出てしまう程に熱が出ていました。彼女は具合を悪くし、山道の道半ばで座り込んでいたのです。
これは拙い。
私は背負っていた薪を放り捨てると座り込んだ彼女を負ぶさりました。彼女が肩にかけていた村田銃は前にたすき掛けし、彼女自身を背負います。体力の無い私では負ぶさっただけで足が震えましたが火事場の馬鹿力、困った人を助けられるだけの力はギリギリありました。
私は一瞬村に降りるべきか迷いましたが距離的には小屋の方が近く、また村まで彼女を背負って降りるのは到底不可能に思えました。足を滑らせて転がり落ちなどしたら一巻の終わりです。
私はなるべく早く、しかし安全にも配慮しながら山小屋まで彼女を背負って歩き、一人分の質素な布団に彼女を寝かせました。戻って来た時、私は息も絶え絶えでしたが人の命が掛っています。すぐさま持ち込んだ風呂敷を漁って小さな薬箱を取り出しました。幸い、薬の類は街を出るときに沢山用意してありました、何分体が丈夫ではないのでそういう方面の準備に関しては万全だったのです。
夏だというのに長丈の服を着込んだ彼女の服を脱がし、私は川から桶で水を汲んで来ます。私には彼女の高熱が風邪のせいなのか、それとも暑さにやられたのか判断がつきません。その為、私は薬を飲ませた上で涼ませようと考えました。
桶に手ぬぐいを浸し、飲み水用の水鉢から一杯掬って彼女に薬と一緒に飲ませました。後は水に浸した手ぬぐいを絞り彼女の額に置きます。私は彼女の衣服を開けさせる傍ら、どこか怪我はしていないだろうかと方々に目を走らせました。
もしこれが風邪などではなく何かしらの毒蛇に噛まれた――或は毒を含んだ食物を食べてしまった場合、私にはお手上げでした。医療や毒物、その手の知識は欠片も持ち合わせていません。それに村に行ったところで無駄でしょう、あの村には医者の一人もいないのです。
こんな事なら父の書斎にある医学書でも読んでおけば良かった。私はそう悔いました。
私は毒による高熱でない事を祈りつつ、彼女の様子を五分程見守り今日の分の食料調達に出かけました。残念ながら食料の備蓄などというものはありません、その日暮らしが精一杯です。道中置いて来た薪を取りに戻り、川で魚獲りに挑戦、今日は仏様が私に微笑んで下さったのか四匹の魚を獲る事に成功しました。
私は喜びながら小屋に戻ると囲炉裏に火を点して魚の内臓を取り除き、鉄棒に突き刺して炙ります。病人には栄養が必要です、山菜だけでは到底回復は難しい様に思えました。既に日は落ち外は真っ暗です、小屋の灯りは囲炉裏と棚に収納してあった蝋燭が十本程。私はソレを刃物で薄く切り分け、少しずつ使用していました。
こんな場所です、ガスも電気も通ってはいません。
「こんな物しかないけれど……食べられるだろうか」
私はそう独り言を呟くと寝たきりの彼女の元へ焼き魚を持っていきます。本当は山菜と和えたものを食べさせようと思ったのですが、今の彼女に箸が使えるとは思えませんでした。料理は禊さんとの生活で大分腕を磨けたと自負しております、しかし碌な食材がないこの場所では腕を発揮しようがありませんでした。
私は彼女の上体を起こすと食べ易い様に箸で器用に骨を抜き、柔らかい身の部分を差し出します。彼女は差し出された香ばしい匂いに何度か鼻を小さく動かすと、そのまま口を緩く開きました。
ここぞとばかりに私は魚を彼女の口に近付け、押し付けます。ゆっくりと身を噛んだ彼女はそのまま何度か咀嚼し――呑み込みます。
良かった、食事は摂れそうだ。
私は安堵から胸を撫で下ろし、時間を掛けて彼女に食事を与え続けました。
食事を与えた後は看病を続けます、夏とは言え山の上では夜は冷え込みます。囲炉裏で暖は取れますが夜も深まって来た頃、カチカチと彼女が歯を鳴らし始めました。どうやら彼女のそれは暑さからくるものではなく単純に病気の様でした。私は彼女の着ていた服に加えて小屋にあった羽織を彼女に被せ、その上に布団を掛けてやりました。しかしそれでも寒さは拭えないのか表情は優れません。
暫く悩んだ私は囲炉裏の火をそのままに、彼女の隣へと身を潜り込ませました。人肌で暖を取ろうと考えたのです。私は彼女の為だと言ってその柔らかい体を抱きしめましたが本当は私自身も寒かったのです。
人肌はとても暖かく、ここ数週間独りに慣れ切っていた私にとってはまるで陽だまりの様に落ち着けるものでした。独りぼっちでも大丈夫、そう豪語していた私ですが初めて他人と過ごす良さを自覚した瞬間でした。
或は――女人と肌を合わせる悦びを教えられたからでしょうか。
私は努めて下心を殺し、暖を取る事に専念しました。そうして気張ってはみるものの温い体は冷え込む夏の夜に丁度良い眠気を誘い。
気付けば私は夢の中へと落ちていました。
誤字報告・修正ありがとうございます、とても助かっております。
因みに主人公にフラれた女性達は奇声をあげながらその足取りを追っています。いつか修羅場になる事でしょう。なんと羨ましい。