翌朝、私が目を覚ますと――昨日の女性は何処にも居なくなっていました。
朝目覚めた私が隣に寝ていた筈の彼女に目を向けるともぬけの殻となっていたのです。たった一日で体調が回復する事は無いでしょう、私は驚き慌てて周囲を探し回りました。しかし彼女らしい影は一つもなく、念のためと往復で数時間かけて村に行ってみれば「そんな人は見てない」と首を横に振られました。
とぼとぼと山小屋に帰って来た私はすっかり火の消えた囲炉裏を掻き混ぜつつ、昨日のアレは夢か何かだったのだろうかと考えました。もしや人肌恋しくなった己が見せた妄想や幻覚の類? だとすれば私はとんだ馬鹿者です、何がひとりでも大丈夫でしょうか、全然駄目でないですかと。
私は村で少々の路銀と交換した野菜を台所に置き、そのまま敷いたままの布団に顔を埋めました。未だ彼女の残り香がある様な気がしたからです。けれどそんなモノは欠片も感じられず――あれは夢だったのだろうかと落胆しました。
「布団干そう……」
人は手が届くものを求めようとする、私はその罪深さをよくよく噛み締めました。布団を外に干して魚を獲りに、昨日はあれ程調子が良かったのに見る影もなく成果は無し。山菜を少し集めると風呂を沸かす為に川の水を汲み、薪を集める。喪失感は動いて埋めるしかありません、私は生きる為に体を動かし続けました。
そんな喪失感に彩られた日の夜。
小さな風呂に入って身を清め、夜は野菜と山菜を軽く炒めて味付けしたものを食べました。そのまま干したての布団に入って眠りに入った私でしたが――ふと夜中に目が覚めたのです。それは柔らかな感触と温もりを感じたからでした。
見れば自分の隣、直ぐ横に寄り添うようにして件の女性が眠っていました。
その表情は酷く安らかで、病魔に犯されている様な様子は微塵もありません。
私は自分の体に抱き着いて眠る彼女を見て夢か現実か分からなくなってしまいました。彼女の整った顔立ちに手を這わそうとしましたが私に抱き着いた彼女の腕のせいで手を上げられそうにありません。強引に動いて彼女が起きてしまったら――或は何かの拍子にこの『夢』が醒めてしまったら。
そう考えた途端、私は急にこの女性に触れることが怖くなりました。
故に私から彼女を抱きしめる事は無く、ただ擦り寄る様にして彼女にくっつき暖を取る事しか出来ませんでした。
そして翌朝、案の定と言うべきでしょうか――彼女は居なくなっておりました。やはりアレは自分の見せた夢か幻覚の類、そう決めつけて落ち込んでいた私ですが枕元に何か風呂敷がある事に気付きます。
それは私のモノではない風呂敷です。
恐る恐る解いて中を見てみれば、何かの葉で包んだ肉と数本の蝋燭、それに僅かばかりの金銭が入っておりました。それを見た途端、私の中に湧き上がる喜びの感情。それは彼女が夢や幻などでは無く、実在する一人の人間だと分かった事から来るものでした。こんな事をする人を私は彼女以外に知りません、村人がこんな事をする理由は無いのですから。
頂いた肉はその日の内に焼いて食べ、残りは燻製にして保存する事にしました。燻製については由紀子さんから教えて貰った知識でした。どんな知識がいつ役立つか分からない、実家の母が言っていた言葉を思い出し懐かしさに駆られます。
蝋燭は後暫くは大丈夫そうでしたが大変助かりました、金銭については恐らく村での取引を行う為でしょう。何はともあれ先立つものです、有り難く頂戴しました。
その日から件の女性は毎晩毎晩、私が寝静まった頃に決まって隣に潜り込んでいました。ふと夜中に目が覚めると彼女が横で寝ており、朝起きると既に姿は消えております。例え夜中に目が覚めずとも枕元に添えられている風呂敷から彼女が来た事だけは分かりました。
中身は大抵動物の肉で、時折毛皮で作った服や靴、生活必需品などの時もありました。包まれていた風呂敷は綺麗に畳んで枕元に置いておくと、翌朝には新しい風呂敷が置いてあり畳んでいた風呂敷は消えています。
まるで昔話で語られる恩返しの様でした。
一度夜遅くまで起き、彼女を起床したまま迎えようとした事もありましたが何分夜更かしなど余りした事が無い人間です。囲炉裏の灰を弄って時間を潰すも夜半過ぎた頃には船を漕ぎ、決まって布団の中で目が覚めました。恐らくやって来た彼女が布団に寝かせてくれたのでしょう、そう言う日は何とも決まりが悪く落ち着きませんでした。
そんな生活を続けて一月、いつも通り彼女が隣で寝息を立て私が運良く夜中に目を覚ました日。私は恐る恐る彼女の首に腕を回しました。それは今まで触れる事を忌諱していた私にとっては大胆な行動です。
もうこの夢幻の様な関係に辟易としていたのです。触れそうで触れられない、この砂の城の様な彼女は確かに存在していると、そう自分に言い聞かせたかったのです。誰も傍にいない独りぼっちの生活、けれど夜ばかりは人肌を感じる事が出来る。そんな事を毎晩毎晩繰り返されて私はいい加減彼女と話がしたくて仕方ありませんでした。背丈は私より小さく、けれど体つきは確りしていて鍛え抜かれています。恐らく私がきつく抱き締めた所で簡単に振り解いてしまうでしょう。
けれど私はそれでも良いと彼女の体を強く抱き締め、逃がしてなる物かと彼女の首筋に顔を埋めます。僅かに身動ぎした彼女が私を抱く腕に力を入れ、私は深く息を吸い込みました。
女性と肌を重ねる事を教えられたからでしょうか、私は初めて由紀子さんと禊さんの感情を理解した気がしました。自分でも驚く程、私は彼女の存在を欲していたのです。或はそれこそ私の身を蝕む呪いでした。
「どうか明日、私の傍にいて欲しいのです……お願いします」
「………」
彼女が寝ているのか、起きているのか。それすら分からないまま私は蚊の鳴く様な声で呟きます。呟きながら私は己の愚かさと醜さを再確認しました。
あぁ、私は。
他人の感情を受け入れる勇気も器も無いというのに。
私自身の感情は受け取って欲しいと願う。
屑で塵芥な――どうしようもない人間なのだと。
胸の内に湧き上がった自己嫌悪と嘲笑は睡魔と夜の蚊帳に消え、私は彼女を強く抱き締めながら微睡に身を委ねました。
☆
朝、目が覚めました。
その日の目覚めは酷く穏やかであった事を覚えています。大抵は暑さと寒さの混在する、何とも言えない夏の朝に陰鬱とした気分で起床していましたが、その日は隣にある仄かな暖かさに覚醒を促され不快な感情は一切芽生えませんでした。
そっと瞼を開くと、私を見つめる二つの瞳と視線が交わります。
至近距離からじっと、まるで観察する様に私を見る女性。彼女を日の光の下で見るのは初めての様に感じました。それ程に彼女の印象は闇夜に塗れていたのです。長いまつげを僅かに震わせ彼女は私を見つめ続けます。
私も彼女の整った顔立ちを暫く見つめ、思考の靄が晴れてきた頃を見計らって告げました。
「―――藤堂、重虎と言います」
「―――ヨミ」
彼女は自身をヨミと名乗りました。苗字は語られる事無く、私は彼女と視線を交わしたまま何度か口の中でその名前を繰り返します。当時の時代を考えると珍しい名前でした、故に憶えやすくもあります。
ヨミは私の腰の辺りに腕を回したまま暖を取っています。いえ、それが暖を取る為の行為なのか、それとも別の意図があっての行為なのか私には分かりませんでした。私は暫く彼女と体温を交換し合い、穏やかな沈黙を守ります。彼女と交わした一言、それが何よりも嬉しかったのです。
「ご飯、食べませんか」
「……うん」
私がはにかんでそう口にすると、彼女は静かに頷きました。
彼女はとても無口な女性でした。体形は小柄で髪は女性にしては短く、ぱっと見は少年の様な出で立ちでしたが顔立ちや体つきは確かに女性のモノで、なにより声は少女の様に澄んでいました。
彼女の持参した肉を鍋で煮込み、丁度村から買って来た少量の米と山菜を和えて粥を作ります。彼女は出された朝食を無言で食べ、私はその様子をニコニコと見守っていました。彼女は何かを聞かれれば答えるし必要があれば質問もしますが、自分から話題を広げる様な事はしませんでした。しかし時折此方に視線を向けるので私に無関心という訳ではないのでしょう、それが分かるだけで私は随分と心に余裕が持てました。
「この小屋はヨミさんのものでしたか、すみません、勝手に住み込んでしまって」
「ん……別に良い、偶に使ってる別宅みたいなものだから」
「各地を転々としながら狩猟を?」
「………うん」
どうやらこの小屋は彼女の持っている別宅の一つの様で、ヨミさんは各地にこの小屋の様な家を複数所有しているとの事でした。何でも獲物を仕留めては村や町に売り払い、その金で生活しているのだとか。
こう見えてお金はある、とは彼女の弁。
見た目に依らず腕利きの狩猟者らしいのです。彼女の父親も腕利きの狩猟者でこの小屋はその父の代に建てたとの事でした。私は彼女の話に頷きながらもう体調は良いのだろうかと思い、問いかけました。
「体の調子はもう良いんですか? あの日、突然いなくなったからビックリしたんですよ」
「………ごめんなさい」
「あぁ、いえ、責めている訳ではないのですが」
「気付いたら家に居て、知らない男の人が居たから……逃げた」
「…………それは、すみません」
「重虎は悪くないよ」
そりゃあ見ず知らずの男が家に居たら警戒心の一つや二つ抱くでしょう。肩を落としながら謝罪すれば彼女は首を横に振る。昼間こっそり小屋の周辺で観察している内に私が人畜無害な男である事を悟ったらしいのです、全く気付きませんでした。枕元に置いてあったあの風呂敷は彼女なりの恩返しで、私が食料集めに四苦八苦していた事を見かねて持って来てくれたと。
「私からすればこうして家に住まわせて頂いているだけでもう恩返しどころか……寧ろ私が何かヨミさんに支払わなければなりません」
「別に、此処には大きな獲物が居ないから滅多に使っていなかったし……でも重虎、何でこんな山奥に来たの?」
「あー……それは、ですね」
私は純真な瞳で見つめられ疑問符を浮かべながら問いかけられた内容に言葉を詰まらせます。家を放逐され職を探した所までは話せるでしょう、しかしそれ以降の事を語るには余りにも羞恥が勝り――何より己の悪い部分を彼女に見せたくないという醜い感情が私の舌を鈍らせました。
「……実家を勘当され職探しの旅に出ていたのですが――何と言いますか、自分は人の輪の中で生きるには少々問題があるようでして」
「問題?」
「……まぁ、対人恐怖症の様なものです」
私は笑ってそう嘯きました。
「私とは話せてるよ」と目をパチクリさせるヨミさん、私は笑いながら「私も、それは不思議に思っているんです」と言った。
本当はもう、あんな事になるのは懲り懲りなのに。私は確かにヨミさんを求めていました。あの夜の一過性のものならばまだ良かったでしょう、しかしその感情は今も変わっていません。
「不思議だね」
「えぇ、そうですね」
「……重虎なら、誰とでも仲良くなれそうなのに」
椀を揺らしながらそう呟いたヨミさんの言葉に私は何も返す事が出来ませんでした。確かに私は家族を除いて対人関係でヤキモキした事はありません。仲良くなろうと努力すれば、大抵と人に歩み寄る事が出来た気がします。もしかしたらそれは私自身も気付いていなかった才能だったのかもしれません。
けれどヨミさんの言葉が正しくとも、それが常に良い結果を生むとは限りませんでした。ある意味私が口にする『呪い』とはこの才能も含まれていたのかもしれません。私は僅かに顔を俯かせると力なく言葉を紡ぎました。
「仲良くなっても……いえ、【なりすぎても】良い事はないんですよ」
「どうして? 仲が良いって、良い事」
「そうですね、基本的には良い事です」
「基本的じゃないと悪いの?」
「……さぁ、私も良く、分からないんです」
私には彼女に上手く説明できる程の自己分析も、言葉の数もありませんでした。
何より説明の過程で私の殻が破られる事を嫌ったのです。ヨミさんは酷く純真で無学で、けれど人生の生き方を知っている芯の強い女性でした。私より余程素晴らしい人間です。
人としても、生き方としても。
「……そう言えば、ヨミさんは何故毎晩私の布団に?」
「寝床は此処しか無かったし、それに――重虎、温かいから」
話題を逸らそうと私が疑問を飛ばせば、ヨミさんは僅かな恥じらいも見せずに淡々とそう答えました。確かにこの小屋は彼女のモノ、本来は此処に住む筈だったのです、寝床が他にないのは当然でしょう。私は罪悪感を覚えると同時、「私は温いですか」と苦笑を零しました。
「うん、私、誰かと一緒に寝た事、なかったから」
「えっ、一度もですか?」
「うん、大体……小さい頃からずっと独り、鉄砲は子どもでも撃てる、獲物を一発で仕留められなかったら何日もかけて追う、だから森で大抵一人で寝ていた」
一緒に寝ると、温かくて気持ち良いね。
ヨミさんはそう言って緩く笑いました。彼女は人肌の温もりを知らずに育ったらしいのです、斯く言う私も幼少期に母に抱かれて眠った記憶はあるものの、人肌の温もりを思い出したのは由紀子さんと肌を重ねた頃でした。「今日も一緒に寝て良い?」と首を傾げるヨミさんに私は数秒ほど間を置いて頷きました。
「私はまだ此処に居ても良いのでしょうか?」
「どうして? 重虎がいないと困る」
「えっと、それは何故……」
「重虎は優しいし、料理は美味しいし……それに温かいし」
私は湯たんぽか何かなのでしょうか。
彼女にとって温かさとは余程大切な事なのでしょう。しかし真顔でそう告げるヨミさんに私はそれ以上何かを問う事が出来ませんでした。何より行く宛の無い身です、このまま此処で暮らして良いというのなら大変助かる事でした。
「それに多分、私もう、重虎がいないと寝れない」
「………え」
「寒いの嫌い」
清々しい程にきっぱりとそう告げるヨミさん、その表情は仏頂面。私はその言葉に暫く面食らうも一拍置いて思わず笑ってしまいました。どうして笑うのと若干不機嫌になったヨミさんに私は謝りつつ、「なら、私は湯たんぽ代わりになって恩を返しましょう」と言いました。すると彼女は一つ頷き、「冬も安心」と言います。
夏場は良いかもしれませんが、冬をこの小屋で過ごすのは大変でしょう。私は苦難の予想される生活に、しかし笑って頷く事が出来ました。
由紀子「すみません、実は私の夫が行方不明で……えぇ、黒髪で線が細く、息を呑んでしまう程の美男子なのですが…………はい、はい、そうですか……すみません、ありがとうございます」
禊「すまない、此処に私の恋人が滞在していたと聞いてな、背丈は私と同じか少し小さい位で、かなり整った顔立ちの男性だ、恐らく一人だった筈なんだが……何か知らないだろうか?」
花奈「私が商店を大きくすれば、きっと重虎さんの耳に入るでしょう、そうすればきっと帰って来てくれます」
室田「……そんなに婿入りは嫌だったのかね」