あれから2ヶ月、俺は毎日戸塚のいる病院へと訪れた。
小町の果てしない気遣いには正直うんざりしてしまうこともあるが、それでも感謝しているのだ。
おそらく小町がいなければ、俺の精神はかなり不安定になっていただろう。
残り半年も生きられないだろう女の子といる時間をかみしめようと、戸塚の声を耳に焼き付けようと、戸塚の顔を目に焼き付けようと。
それらの事をするのに、俺は必死になっていたのだ。
それは戸塚に対する愛情に見せかけて、実はただの逃げだったのかもしれない。
助かる可能性がゼロではないと戸塚が言っていたのに、俺は全然信じていなかった。
俺がシスコンでよかったよ、ほんと。
「今日は本を持って来たんだ。入院生活って暇だろ?」
「わぁ!これ前に僕が読みたいって言ってたやつ!ありがとう!」
両手でその本を受け取ると、表紙をじーっと見つめる。
戸塚はいつも中身を開く前に、こうして何分も掛けて表紙の隅から隅まで眺めるのだ。
「読んだら感想聞かせてくれ」
戸塚は、白く清潔なシーツにそっと右手を置いて、じっと見つめていなければわからない程小さく俯く。
「......うん」
「ところでなんだが戸塚...」
言おうとして、その先の言葉が喉を通ってくれない。
勝手に気まずくなってしまい、視線をふらふらと泳がせてしまう。
そんな挙動不審な様子の俺を見て不思議に思ったのか、戸塚は可愛らしく首を傾げる。
「どうしたの?」
「あぁ、いや、なに。どっか行きたい場所とか、あるか?」
勇気を出してみたものの、戸塚の反応を伺うのが怖くなってしまい俺の視線は段々と下に向かう。
それでも、これが俺の意思表示であり、決意表明なのだ。
こんな不器用な伝え方は、目の前の女の子と、家にいる妹にしか伝わらないのかもしれないが。
戸塚は、目を数回ぱちくりとさせると、微笑み、考える素振りを見せる。
「そうだなぁ...宇宙とか行ってみたいかな」
「え、宇宙?いやそれはちょっと難しいというか猫型ロボット呼んでくれというか...」
慌てる様子の俺を見て、あははっとからかうように笑う戸塚。
そうやって笑う戸塚に、少しだけ懐かしさを覚えた。
「冗談だよ八幡」
「ほんと心臓に悪いから...」
マジで宇宙飛行士の免許とか取りに行っちゃうから。男の兄弟とかいないから。
「うーん、海かなぁ」
「クリスマスに泳いだだろ?」
「ううん、プールじゃなくて、海がいいんだ」
「...よし、わかった。治ったら、行くか、海」
「ほんと!?約束だよ!!」
「ああ、約束だ」
そう言って、小指と小指が交差される。
戸塚が病気を治せる可能性は、僅か8%。
それは既に、戸塚さんに聞いていた。
戸塚が患っている肝臓癌、正確には小児癌というのにも関係しているらしいが、生存率が10%を切るのはめったにないらしい。
しかしそれを聞いた時、俺は不思議と落ち着いていた。自分でも驚くほどに冷静だったのだ。
信じているからだ。必ず直して、またいつものように二人で過ごす日々が返ってくると、信じているからだ。
だから俺は、
「それじゃ、また明日くる」
「またね、八幡」
その期待に裏切られる覚悟なんて、一切出来ていなかった。
*
翌日病院に着くと、やけに騒がしいなと思った。
その騒がしさは、201号室へと続くリノリウムを踏みしめるにつれて増していく気がした。
病院独特の匂いは、二ヶ月も通い続けたせいか、それともこの騒がしさに飲み込まれたせいなのかわからないが、前ほど気にならない。
201号室の付近まで来てみれば、数種類の色のスクラブに身を包んだ大人たちが、何やら一つの部屋を出たり入ったりと
この異様な空気に少しだけ気圧されている俺に、この二ヶ月で見慣れたナースが俺の前まで駆け寄ってくる。
「あの...比企谷さん」
「...」
「201号室の戸塚彩加さんの様態が急変しました。緊急手術のため、面会はお断りさせていただきます」
「......わかりました」
何故か俺は、落ち着いていた。
様態、急変、緊急手術。普段生活していれば聞きなれることのないそれらの言葉を聞いても、俺の精神が乱れることはなかった。
軽い深呼吸と会釈だけして、踵を返す。
ロビーまでくると、戸塚さんがベンチに座っているのに気づく。何故入るときに気づかなかったのだろうか。
「...」
そっと隣に腰掛けると俺に気づいたのか、やつれきった表情をちらと見せながら顔をあげる。
「落ち着いて、いるのね」
「...約束、しましたから」
言って、右手の小指をぎゅっと握る。
こんな状況にまでなっても、俺はまだ戸塚を信じている。
戸塚は、まだ生きていてくれると。
俺の約束を、守るために。
暫く沈黙が続くと、スーツ姿の若々しいビジネスマンがロビーを抜けてこちらに走ってくる。
「さ、彩加は...?」
となりの女性に聞きなれた名前を出したその男はきっと、戸塚の父親だろう。
シュッとしていて、身長も高い。如何にも仕事が出来そうなオーラを放ちつつも、今は不安に満ち溢れている様子だった。
「手術中よ...」
「...そうか。君は...」
視線をこちらに移し、何者かを問う。
俺が答えようとすると、それより先に戸塚さんが口を開く。
「彩加の恋人よ」
「始めまして。比企谷八幡です」
席を立ちながら、軽い会釈をする。
「そうか、君が...。話には聞いていたよ。彩加のこと、宜しく頼む」
得体の知れない娘の彼氏に娘を任せるとは、心が広いのだろうか。
「彩加は、君のことをすごく信頼していた。君の話をする時の彩加の笑顔は、本当に...」
言いながら、段々とその声がくぐもっていくのがわかった。
笑顔を思い出して泣いてしまうなんて、本当に、お別れみたいじゃないか。
一時間程経った後、やがて先ほどのナースが再びこちらに駆け寄る。
「手術が終了しました」
俺はまだ、落ち着いていた。
201号室までくると、戸塚の両親は俺に先に行けと目線だけで伝える。
スライド式のドアに手をかけた瞬間、今までの冷静さが嘘のように、心臓がドクン、と跳ねる。
冷や汗が背筋を伝うのを感じながら、ゆっくりとドアを開ける。
横たわった女の子が、視界に入った。
そこにいるはずの、戸塚の意識が、生命が感じられない。
全身に、鳥肌が走る。
ゆっくりと、部屋に足を踏み入れ、ゆっくりと、戸塚のいるベッドへと歩み寄る。
様々な医療器具に囲まれた戸塚が、植物のように横たわっている。
「嘘...だろ...」
女性の泣きわめく声が病室全体に鳴り響く。
俺の鼓膜は、それすらを受け入れてくれない。
戸塚の出す吐息に全力で耳を傾けなければならない。
戸塚の生命を、全身で感じなければならない。
それなのに、それを感じることができないのは何故だ。
涙はまだ、出てくれない。
その代わり、目の下あたりがさっきからずっと、きゅっと引き締まっている気がする。
細く白い手に、俺のそれをそっとかぶせる。
「癌の治療は、成功しました」
「.........え」
低い声がする方を、ゆっくりと振り返る。
「しかし、癌は脳へと転移していたため...」
「戸塚は......戸塚は生きてるんですか!?」
思わずその男性の両肩を強く掴んでしまう。
狂いそうなほどに、肺が苦しかった。
「落ち着いてください。残念ながら、意識はありません」
「...」
「ですが、奇跡的に生命は維持しています。今はコーマ、つまり昏睡状態です」
「昏睡、状態...」
聞きなれない単語に、脳は冷静さを取り戻す。
「治るんですか...?」
スーツ姿の男性が、恐る恐るに口を開く。
「昏睡状態から再び意識を取り戻したという例はあります。親しい人が寄り添い、声をかけ続ける、というのが最善の治療法です」
「そう、ですか」
まだ希望がある。
「待ってろ、戸塚...」
そう言って再び戸塚の手を握ると、枕元に一枚のルーズリーフが半分に折りたたんであるのに気が付く。
見ていいものなのかはわからない。それでも、見なければ気が済まなかった。
そこには、薄く、それでいて力強く、可愛らしい文字が、書いてあった。
『約束、絶対守るから』
それを読んだ瞬間、喉が壊れるくらい、泣き喚いていた。