「と、つか...?」
一色が素早く俺から離れ、気まずそうな表情のまま自席に着く。戸塚の方は見ていなかった。
そして、”二人だけの空間”は一色から戸塚へと変わる。
戸塚は何も言わず、ただ困惑した表情で、切なそうな表情で俺を見る。正確に言えば、俺の方は見ていないのかもしれない。
戸塚は何も言っていない。しかし、聞こえた気がするのだ。
『何してるの?』と。
それは、言ってこそいないが確かな冷たさを含んでいたのだ。
戸塚から感じた初めての拒絶だった気がした。
弁明するための言い訳が浮かばない。俺は無実なんだと、証明できる方程式が浮かばない。
当たり前だ。俺は無実ではないのだから。戸塚があのまま部室に来なければきっと...。
「戸塚...」
俺はもう一度、弱々しく名前を呼ぶ。呼んだ理由は、きっとなにもない。
戸塚は何も言わずそのまま部室のドアを勢いよく閉め出て行った。
タンタンタンと廊下を叩く音が部室内に響く。
俺はただ、どんどん遠ざかるその音を聞くことしか出来ず、体はまるで金縛りにあったかのように固まっていた。
「え、と...せんぱ」
「ヒッキー!行かなきゃだめだよ!」
体を揺さぶられてやっと我に帰る。
揺らしたのは、当人である俺よりも必死な顔を浮かべる由比ヶ浜。
そう、由比ヶ浜はどこまでも優しい。きっとこの子はわかっているのだ。
俺がこのまま戸塚を追いかけなかったらどうなるのかを。
きっと、由比ヶ浜も同じ経験をしているから。
「でも...」
なんて言って戸塚に謝ればいいというのだ。
これは、未遂であるからとはいえ完全に浮気だ。
戸塚の笑顔を見ていたいと決意を固めていたはずなのに、俺はできなかった。
そんな俺に何が...
「いいから、行きなさい。今あなたにできること...いえ、すべきことはそれしかないわ。もし仮に私達の誰かが弁明に行ったとしても、ただの慰めにしかならない。それはあなたのためにも、戸塚君のためにもならない。違う?」
ああ、その通りだ。俺はきっと間違った。勘違いをしていた。
戸塚彩加という女の子が、きっと誰よりも寛容であると。そうやって理想を押し付け、自分を許してきた。
一番嫌っていたはずなのに、それは二度としないと自分を戒めていたはずなのに。
由比ヶ浜と雪ノ下にはまた迷惑をかけてしまった。
その二人に目線だけで礼を伝える。
一色は、俯いたせいで表情が見えない。
「一色、すまない。お前のせいじゃない。これは全部俺の責任だ。だから...」
「そんな、気を遣わなくても...」
声はかなり震えていた。
「終わったら、ちゃんと謝る。それまで待っててくれ」
言って、俺は椅子の横に置いてある鞄を置き去りにして部室を後にした。
――――――――
何が起きているのかわからなかった。だから逃げ出してしまった。
胸が苦しくなった。背負った鞄の重さは感じなかった。今も感じていないかもしれない。
僕は逃げるべきじゃなかった。逃げないで、ちゃんと話を聞くべきだった。
もしかしたらただの誤解かもしれない。勘違いかもしれない。
そう自分に言い聞かせたのに、涙が止まらない。止まってくれない。
誰にも会いたくない。こんな顔、見られるわけにいかない。
あの場面がたとえ勘違いだとしても、もう見たくない。
会いたくない。彼に会いたくない。これは、拒絶かもしれない。
それなのに、迎えに来てほしいと、矛盾している自分が嫌になった。
――――――――
無我夢中で走り出したが、戸塚がどこへ行ったのかなんて確信はない。正直言ってわからない。
屋上にも行ってみたがいなかった。
下駄箱を見ると、戸塚の外靴は入っていなかった。
「外か、どこだ...」
思い当たる場所をいくつか考えてみる。テニスコートか、駅周辺か、それとも以前行った水族館か。
しかしどこもピンとこなかった。わざわざ県境の水族館まで行くとも考えにくい。
「公園...」
そうだ。風邪を引いた前日、戸塚から会いたいとメールが来てそのあと、二人であの公園にただ吸い込まれるように入っていったのだ。
そこに、戸塚はいる気がした。
そう思い至った途端、再び強く地面を蹴る。
外は、すでに暗くなり始めていた。
*
電車を降りて改札へ向かう。あの日のように、改札の奥で戸塚が待っていることはない。
電車でのインターバルがあったとはいえ、滅多にしない運動のせいで冬だというのに汗だくだ。
中のYシャツが張り付いて気持ちが悪い。
喉と肺もなんとなく痛い気がする。
それでも俺の足はまだ動いてくれる。
戸塚になんと声をかけるのかなんて考えていない。
いや、考えるほど余裕がないだけなのだ。
それでも伝えなければならない。
あの日、理屈、義務、責任、そんな言葉をすべて蹴散らして戸塚と歩んでいくことを決めたのだ。
だから...
スピードを緩めることもなく走り続け、ようやく明かりも人影も少ない公園に到着する。
「はあ、はあ...戸塚...」
「はち、まん...」
戸塚は、いてくれた。
戸塚がいてくれたことの安堵で、どっと体に疲れがのしかかる。
「...戸塚」
前と同じベンチに座っている戸塚に歩み寄る。しかし、
「...来ないでよ」
その言葉は、俺を制止させるには十分だった。
わかっていたことだ。戸塚は俺を拒絶している。
しかしそれで引き下がってはここまで来た意味がない。
由比ヶ浜と雪ノ下が背中を押してくれた意味がない。
俺は止まってしまった足をもう一度持ち上げる。
「来ないで!!!!」
初めて聞いた戸塚の大声だった。
こんな状況なのに俺は、そんな声も出すんだなと思った。
相変わらず胸は苦しい。戸塚の表情は伺えない。また、両手で顔を覆い隠しているからだ。
それでも俺はわかった。戸塚の表情が。
そしてそんな顔をさせてしまったのは間違えようもなく俺なのだ。
「俺は、一色とそんな関係になるつもりはないし、キスだってしていない。するつもりだってない。これは嘘じゃない」
言いながら歩み寄る。
「来ないで...」
顔を隠した両手の横から、涙が溢れだしているのがわかった。
「俺が戸塚を好きだってのは変わらない」
どの面下げて言ってんだよと、自分に対して猛烈な怒りが湧き上がる。
「じゃあなんで!!あれはなんだったの!!!あんなの、あんな距離で、おかしいよ...」
叫んだのと同時に、戸塚は両手を顔から離す。目が真っ赤になっていた。
――――――――
違う。僕はこう言いたいんじゃない。
それなのに、勝手に口が動いてしまう。
八幡が困った顔をしている。ごめん。ごめんなさい。
――――――――
どう伝えればいいのかわからない。
どうしたら伝わるのかわからない。
ドラマやアニメでは主人公の親友が、本音をぶつければいいんだ、なんてかっこいいアドバイスをくれるが、恐らくそれは今通用しないし、俺の本音はもう伝えている。それでも戸塚はきっと許してくれない。
いや、きっと戸塚も困っている。
戸塚自身も、どうしたらいいのかわかっていないのではないだろうか。
――――――――
どうしたらいいかわからない。
僕は怒りたいんじゃない。ただ仲直りをしたいだけなんだ。
なのに、素直な言葉が出てくれない。どうしたらいいのかな。
相変わらず涙は止まってくれない。
――――――――
かといって、どうするのかなんて結局決まってる。
本音を伝えてもだめなら、伝え続けるしかない。
それで拒絶されても、避けられても。
それが俺の気持ちなのだから。
だから、主人公の親友はきっといつも正しい。
――――――――
あの場面を見て僕はすごく嫌な気持ちになった。
その理由はわかっている。八幡のことが好きだから。
わかってる。わかってる。それを伝えなきゃ。伝えたい。
なのに、あと一歩だけ勇気が足りないんだ。
――――――――
伝える。今伝えるんだ。
こんなに小さな肩を震わせて、胸を押さえて、それでもずっと一人で悩み続けてきたこの女の子と寄り添うって決めたのは俺だ。
「...」
――――――――
少しだけ沈黙が続いた後、僕よりも15cmくらい背の高い男の子が僕の目をまっすぐとらえる。
一瞬ドキってしちゃったけど、僕はその目を合わせることができない。
もうすこしだけ、勇気が足りない。
僕に勇気をください、八幡。
――――――――
「好きだ」