意識が覚醒すると、流理は真っ先に周囲の気配を探った。
どうやら、すぐ傍には誰も居ないらしい。
目を閉じて意識を集中させると、少し離れた位置に二人居るのを聴覚で感じ取った。
魔術を使おうと試みるが、どの術式も一向に起動しない。
こちらは早々に諦めて、流理は音を立てないよう慎重に上体を起こした。
懐を探ると、所持していた式札を始めとする触媒の類は全て没収されている。
残っていたのは、逃走の途中に仕舞っておいた変装用の学生帽だけだった。
流理は浅くため息をつくと、帽子を被って気を取り直し、改めて周囲を注意深く観察する。
ここは牢屋の中だった。
一見、何の変哲もないような場所だが、魔術師を閉じ込めておく為に専用の改造が施されているのだろう。
魔力に頼らない力任せの牢破りなどできる筈もなく、脱獄に見切りを付けた流理は、廊下に繋がる扉の前で直立不動の姿勢を保つ軍服の男達に声を掛けた。
「おはよう、周防宮流理。随分と疲れが溜まっていたようだな」
「ええ、お陰様でグーッスリと眠れましたよ。ところで、小生のことをご存知のようですが、貴方はいったいどこのどちら様でしょうか?」
「大日本帝国陸軍大佐・冴木京次だ。丸一日も寝ていた挙句、真夜中になって漸く目覚めたところ恐縮だが、早急に貴様と取引がしたい」
「はて取引・・・・・・脅迫の間違いでは?」
見張り役に声を掛けた後、流理の前には再び例の男――名は冴木というらしい――が立ちはだかっていた。
取引、それも今のご時世に軍の人間から言われてもキナ臭いしかしない。
できれば関わり合いになりたくなかったが、囚われの身では取れる選択肢など非常に限られていた。
流理はふてぶてしくも不承不承という
「どうやら勘違いをさせてしまったようだが、こちらとしては一方的に有利な条件を通す為に貴様を拘束した訳ではない。寧ろ腕に覚えのある者にとっては良い話となるだろう」
「強引に持ちかけられた『良い話』とやらが本当に良かった試しなんてご都合主義的な御伽噺の中にしかないと思いますが、まあ一応信じるという前提で話を進めましょう。それで、あれだけ野蛮な方法を取るに見合うだけの『良い話』とやらは何で御座いましょうか?」
「聖杯戦争だ」
それはまさに御伽噺ですね――と、流理は反射的に茶化そうしたが、冴木の鋭い眼光が軽はずみな言葉を飲み込ませる。
この話が御伽噺、ましてや冗談の類ではなく、真実であることを目で物語っていた。
流理は飄々とした態度を少しだけ引っ込めて冴木へと向き直る。
「・・・・・・噂には聞いたことがありますが、実在していたとしたら驚きですね。わざわざ軍が動くなんて、よっぽど明確な証拠でも掴んだということでしょうか?」
「そうだとも。貴様にもその証拠を見せてやる。大人しく私に付いて来い」
牢屋から連れ出されて向かった先は、地上ではなく更に地下深く潜った場所だった。
人払いをしてあるのか、周囲に他者の気配はない。
歩きながらも幾つか探りを入れ、流理は聖杯戦争にまつわる事情を把握していった。
「聖堂教会と魔術協会による一世一代の共同作業により、既に過去最大級の聖杯を召喚する準備は整えられている。後は参戦各国が代表となる魔術師と英霊を召喚し、戦いの舞台へと赴くだけだ」
「それで小生を魔術師として参戦させたいと・・・・・・。いやはや、随分と酔狂な人選を行いますね。国家の命運が懸かっている状況で、とても正気とは思えない」
「我々としても選択の余地があれば良かったのだがな。生憎、国内で組織的なしがらみを持たず、尚且つ超一流と呼べる腕前を持ちながら『表』に留まってる間抜けなど貴様を措いて他に居なかったのでな」
「成る程、つまり聡明な小生が実家からの追跡を掻い潜る為に敢えて『裏』を避けていたのが裏目に出た、という訳ですか」
流理は自らの言葉に少量の毒を含ませつつも、冴木から返ってくる刺のある言葉をのらりくらりと受け流していた。
そんな流理を忌々しく思いながらも、聖杯戦争に関して懇切丁寧な説明を冴木は行っている。
「口の減らん奴め。是非とも、その余裕な態度を戦いの最後まで貫き通してみせて欲しいものだな」
「どうして貴方は、小生が仕事を引き受ける前提で話を進めているのでしょうかね?」
会話を弾ませ?ながら螺旋階段を降って行くと、暫くして地下の最深部へと到着した。
先行していた冴木が流理へと向き直り、一切の誤魔化しが効かない厳かな調子で問いを投げる。
「聖杯戦争に勝利すれば、国益に反しない限りで優先的に願いを叶える権利を与えられる」
怪しげな新興宗教の勧誘でも、もう少しマシな殺し文句を謳うものだが、話の単純さが逆に真実味を引き立てている。
流理が神妙な面持ちで耳を傾けていると、冴木は言葉を続けた。
「もしも貴様に、魂を賭けるだけの願いがあるならばこの先へ進め。ないならば引き返せ。私はどちらの決断も尊重しよう。立ち向かうことから逃げたからといって貴様を責めたり、ましてや始末することなどしない。己の未来は自らの選択によって切り拓くべきものだ。だから精々、貴様の後悔しない道を突き進むことだな」
「・・・・・・・・・・・・願い、か」
脳裏を過ぎったいくつかの即物的な願いは、思い浮かぶと同時に消え去った。
瞳を閉じて深く自問自答を繰り返すと、最後に残っていたのは、過去に取り零してしまった痛みを伴う記憶の残滓。
時と伴に薄れつつも決して忘れられなかった面影を瞼の裏に描き出し、流理はゆっくりと眼を開いて決断した。
「もし、本当に聖杯があらゆる奇跡を起こせるなら、死んだ・・・・・・いや、この手で殺した兄を黄泉帰らせたい。それが小生の願いだ」
「とても魔術師のそれとは思えない感傷的な願望だな。それは嘘偽りなく貴様の本心なのか?」
「ええ、それこそが魂を賭けてでも望むことで、小生の・・・・・・『僕』の望む全てだ!」
力強い光を灯した流理の瞳を見て冴木は確信する。
この男になら日本の――この国に生きる人々の未来を託しても後悔はしない、と。
冴木が周防宮家について調査した際、最も強く関心を寄せていたのは流理が一族と袂を分かった理由についてだ。
そこで冴木は鈴木を通し、周防宮家の中でもそこそこの地位にありながら不遇な立ち位置に居る者を炙り出して接触を図った。
そうして得られた情報を精査して流理の動機を予測した結果、彼は魔術師らしからぬ「心」を持っていたからこそ、
自ら最良の研究環境を捨て去るなど、魔術師としては暗愚の一言に尽きるだろう。
しかし、純粋な魔術世界から離れていった冴木の見解としては、己や血族の損得でしか動けない典型的な魔術師より、他者の死を悼んで悔やむことのできる人間性こそが信ずるに値するものだと思えた。
損得を動機とする人間を動かすのは容易いが、それは同時に裏切られるリスクも高いということになる。
だからこそ、信念を持って他が為に手を差し伸べることのできる人物をこそ、冴木は聖杯戦争の代表として選んだのであった。
流理は冴木の見込んだ通りの人物であった。
一方、それと同時に冴木には一つだけ気になる点もあった。
最終確認の意味も含め、冴木は流理の核心へと触れる。
「貴様が本気であることは理解した。だが、私には一つの疑念がある。この件を引き受けるということは聖杯『戦争』に参加することを意味する訳だが、貴様に人が殺せるか?」
決意を滲ませた瞳が微かに揺らぐのを冴木は見た。それで疑念は確信へと変わる。
「やはり貴様、我々と交戦した際に兵を
一般的な戦略としては、敢えて殺傷力の低い爆薬等で体の一部のみを吹き飛ばし、負傷兵とすることで敵の負担を増やすというものがある。
しかし、それは長期的な「戦略」として意味をなすものであり、先日の即応的な「戦術」が要求される戦況とは噛み合わない。
ましてや魔術的に強化された敵へ手心を加えるなど自殺行為にも等しく、多勢に無勢であったのなら敵兵を一人でも多く確実に息の根を止める方が賢明な判断である。
だからこそ、冴木は手塩にかけて育てた部下の身代わりとなる人柱として多くの憲兵を作戦に導入していたのだが、誰一人として死亡はおろか後遺症が残る程度の傷も負わされていなかった。
お陰で当初の想定よりも楽に包囲網は完成したのだが、その段階では冴木に違和感の正体は判別できなかった。
しかし、今になって思い返してみると、あの時柄にもなく冴木が憤ってしまったのは、理想通りの人物だと思っていた流理が想定以上に甘かったからだろう。
自ら不利な状況に陥ろうとも五百人を相手に立ち回ったのはある意味賞賛に値するが、それを成し得たのは偏に流理が冴木達よりも格上であったからに過ぎない。
今後、己と同格以上の相手と争う際、その甘さは致命的な隙となる。
より確実な勝利を期するべく、冴木は敢えて突き放すようにして流理自身の奮起を促すように仕向けた。
「覚悟がないのならば去れ。命を奪えぬ者に戦場に立つ資格はない」
「・・・・・・いえ、必要とあらば再びこの手を汚してみせましょう。そして必ずや聖杯を持ち帰ることを約束します」
弱々しく揺らぎかけていた流理の瞳に、再び火が灯るのを冴木は幻視した。
それはどこか危うい印象を受けるものだったが、これ以上の追求をするのは躊躇われる程に強く妖しい輝きを放っていた。
冴木は無言で正面へと向き直り、前に進んで堅く閉ざされていた扉を開いた。
私としては「空の境界」のような物語を目指している積りなのですが、やはり力量不足を痛感させられます。
次回タイトルは「英霊召喚」の予定です。
それでは皆様、乞うご期待。