満月の夜、庭に咲き始めた山桜を肴に縁側で男は一人甘酒を飲んでいた。
トン、トン、トン。不意に、足音が近づいて。
「その甘酒をわたくしにもわけてくださいますか?」
隣に、薄紅色の着物を召した幼い姫が立っていた。
「姫の願いならば、聞かないわけにはいかないでしょう。」
「ありがとうございます。今宵は桜がとてもきれいで。月は・・・雲に隠れてしまいましたね。少し―残念です。」
「月に叢雲、花に風といいますから。仕方のないことです。」
「ええ。きっと、長くは続かないのでしょう。」
夜は静かに更けていく。
下弦の月が出ている。
「今夜も、隣にいて良いですか?」
「ええ、それが姫の望みであれば。」
まだ、桜は綺麗に咲いたまま。
夜は、更けてゆく。
満開の桜が舞っている。
「今宵は、月が出ていませんね。こうしていてもいいですか。きっと誰にも見られません。」
姫は男の手に手を重ねる。
「若様がわたくしを好いているのは知っています。けれど、わたくしは応えられない。それ若様もわたくしを娶ってしまえば、御家からは出られなくなる。であれば――。」
「姫」
「――わたくしは部屋に戻ります。」
「・・・」
桜が散るのが、惜しい。
上弦の月が空に浮かんでいる。
男の隣に、幼き姫はいなかった。
今日はいつもより少しだけ寒かった。
桜はもう5分は散っているだろうか。
――縁側に薄桃色の花が降る。夜は、寂寞として更けてゆく。
まだ満ち足りぬ月が、ほとんど葉に変わってしまった花を照らしていた。
「甘酒をいただいてもいいかしら。」
「ええ。姫のお望みなら。」
「ありがとうございます。」
「何故、姫は私が甘酒好きだと知っておいでなのですか?」
「正月の歳旦祭のときに甘酒ばかり飲んでいたでしょう?」
「気が付かれていたのですか。それは少し恥ずかしい。」
姫はクスリ、と微笑んだ。最後の夜は、更けていく。
朝、他の使用人達が慌ただしく動いている。先月から忙しがったが、今日は輪をかけて仕事に追われているようだった。それもそのはず。今日は姫の婚儀なのだから、忙しいのは当然だ。私自身もせわしなく動いている。だが、私の心は伽藍堂だった。それでも、婚儀は始まり、粛々と、淡々と過ぎてゆく。
祝いのうたげが始まったようだった。
祭囃子を音に聞き、男は今日も変わらず空を見上げる。今日は雲一つない満月だった。縁側に空しく風が舞い踊る。最後の花が夜空に散っていった。
世の中に絶えて桜のなかりせば春の心はのどけからまし