毎日投稿は大変ですね……。
「連太郎さん。ひとつ、聞いてもいいですか?」
左右につけた赤いリボンを揺らしながら、翡翠の瞳が彼を見つめる。どこまでも透き通った瞳を見た彼は、気怠そうに目尻を下げて「何だ?」と聞き返す。
「あの……どうして、ここでアルバイトをしているんですか?」
不思議そうに首をかしげながら、純粋な疑問をぶつける少女こと天海春香。
一方、質問を受けた彼はあくびを噛み殺しながら、さも当然のように答えた。
「そりゃぁ、お前。下心があるからに決まってるだろ。じゃなきゃ誰がこんなクソ安い時給で働くかっての」
「え……えぇ!?」
彼女は心底驚いた様子で、その瞳を大きく見開くと、体を守るように腕で身を抱きながら彼と距離を取る。
「ま、まさか……私たちのことを、ずっといやらしい目で……?」
まるで小動物のように、不安そうに彼を見つめる少女はひどく非力に見えた。一見すれば保護浴をそそられる姿に、彼は笑みを深くする。それが余計に彼女に不安を与え、天海春香は思わず「ひっ」と声を上げた。
「そんなわけないだろ」
しかし、そんな少女など何のその。張り詰めた空気を粉々に破壊するように、あっけらかんと言い放つと、「やれやれ」と行った様子で肩をすくめて、くつくつと喉を鳴らし始めた。
これを見て、彼女は自分がいいように弄ばれていたことに気がつくと、先程までの怯えは何処にいったのか。眉をひそめ、頬を膨らませて声を大にする。
「からかいましたね!?」
「騙されるほうが悪い。てか、最初に阿呆な勘違いしたのはどこの誰だよ?」
「そ、それは……連太郎さん、下心って言いましたよね!」
「あぁ、そりゃ言った」
「ほらっ、やっぱり!」
「だが、下心ってのは、邪な考えって意味じゃないっての。辞書引け、辞書。カバンの中に入れてるだろ?」
言われると、彼女はすぐさま自分のカバンの中から電子辞書を取り出した。パッドをパソコン初心者のようにタイピングした後、その顔には驚きが貼り付いた。
「……たくらみ、もくろみ、本心、内心、真意……?」
「そう。俺にも俺のたくらみってやつがあるの。おっさんにまんまと言いくるめられて、俺は今日も邁進中です」
呆れたような調子で言ってのける彼に、彼女の機嫌はますます傾いていく。
「じゃあ、連太郎さん。その下心って、なんですか?」
回答しだいで言い返してやる、といった好戦的な、真剣な顔で彼女は彼に訊く。これに彼は即答……するのではなく、気まずそうに視線を逸らして、「あー……」と言葉を詰まらせる。
言いたくない、という雰囲気の彼。しかし、天海春香は頑なに譲らず、ジッと彼を見つめ続けた。
「……はぁ」
しばらくの硬直の後、先に動いたのは彼だった。疲れた様子でため息を吐くと、先程までの威勢はどうしたのか。律子にイタズラがバレた時の亜美のように気まずそうな顔で。
「笑わないか?」
いつもは大きく見える姿が、子どものように小さく感じられた。吹けば飛んでいって、消えてしまいそうなほど、脆く感じられた。
「笑いません。……変な理由だったら怒りますけど」
それを聞いても、彼は警戒したような面持ちで、確認するように訊く。
「誰にも言いふらすなよ?」
「言いません」
「お前が期待しているような答えじゃないからな?」
「構いません」
「……頑固者が」
「いいから話してください」
ピシャリ、と言い切られては、彼もこれ以上、答えを先延ばしにするのは憚られ。
何度も口をモゴモゴと動かして、俯き、唸り、「くそっ」と悪態を吐き、頭を抱え、深呼吸を行い、ゆっくりと顔を上げると、縋るように春香を見たが。
「――」
彼女の瞳は絶対に譲らない、という固い意志が宿っていた。これはどうやっても折れないだろう。下手をすれば、この中途半端な話が他のアイドルにも伝播する可能性さえ考えられる。そうなれば面倒になるのは確実。逃げるという選択肢はなく、彼は大きくため息を吐くと。
「俺の下心は――」
天海春香は、その澄んだ瞳をまん丸になるまで見開いた。はにかんだ彼の顔は、年相応の少年のように輝いていた。彼女のいつも見る、擦れたような態度など嘘のように。純粋無垢な微笑みは、恥ずかしがっている姿は、とても綺麗で。
思わず、胸の前で両手をギュッと握りこむ。胸の奥底から、感情が溢れ出してきた。
「どうだ?」
彼はまだ恥ずかしそうに、後頭部に手を当てながら、顔だけは彼女に向けて、何かを期待したような視線はちっとも定まらない。
「連太郎さん!」
彼女の呼びかけによって、ようやく彼の視点が定まった。
天海春香。彼女の翡翠の瞳は、いつも以上に輝いていた。それこそ、ライブの時と遜色ないほど。会場のみんなで作り出す光の海のように。キラキラと眩しく。
「いつもありがとうございます!」
太陽のような笑顔が、彼の鼓膜に焼き付いた。
彼はその光景に目を奪われて。しかし、それでも自分には返すべき言葉があると、冷静な頭が言っている。
だから。
彼はどっしりと腰を据えて、落ち着いた様子で、ありのままに、はにかみながら。
「どういたしまして」
誰よりも嬉しそうに、言ってのけた。
「――――」
白衣の男から言い渡された言葉と共に、世界が暗転した。
自分が眠りから目覚めたと意識するより先に、彼はボロアパートの茶色い天井を認識した。まるで体が滞空しているかのような浮遊感は、己の現実への認識を曖昧にする。虚ろな瞳が周囲に泳ぐ。およそ目覚めとは思えない手応えの無さは、彼の思考を空白にするだけに飽き足らず、二度目の眠りに誘っていく。
――ピロロロロンロン、ロロンロン。
枕元に置いてあった携帯電話がバイブレーションと共に鳴り響く。765プロが誇る全体曲が着信音に設定されており、それを聞いて彼の意識にスイッチが入った。今まで新品のキャンパスのように真っ白だった思考は一転。「今何時だ」「今日の予定は」「そもそも誰からの電話だ」と次々と浮かぶ懸念に頭の中を埋め尽くされていく。
ほぼ無意識に携帯に向けた目が捉えたのは、「プロデューサー」という文字。何かあったのか、と心配に思う反面。まるでエレベーターに乗っている時のような重圧が、体中に掛かっていた。頭は覚醒したというのに、身体は石にでもなってしまったかのように動かない。いや、動かしづらい。携帯を持とうとする行動さえ、今の彼には100㎏オーバーのダンベルを持ち上げるに等しい重労働に感じられた。
気だるい体でも、着信音に鼓舞されながら、彼は必死に手を伸ばす。しかし、あと少しというところで、着信音は止まってしまった。
「……」
同時に、彼の思考能力も完全に停止した。まるで、補助輪を外された自転車のように簡単に倒れてしまう。今この場に、抱き起す者は誰も居ない。流されるがまま、重く垂れる瞼を受け入れると、その瞳はいとも容易く閉じてしまった。
ボロアパートの一室は、僅か六畳半ほどのスペースしかない。キッチンと風呂場は別についているが、エアコンは無く、空気を循環させるのは錆びついた換気扇だけ。
六畳半というスペースには、布団と、そこに眠る彼を除けば、あとは冷蔵庫と彼用の小さな机しか置かれていない。
その机の上には、黒一色の装丁が特徴的な、一冊のスケジュール張が開いた状態で置かれている。
『10時より機材搬入。衣装の損傷確認とクリーニングの申請。
11時より劇場の清掃を担当。
12時より贈呈されたフラワースタンドの整理。
12時半より一時間の休憩。桜守歌織も劇場に居るため、会話を試みる。
13時半より会場の清掃を開始。
15時より一時間の自由時間。休憩室にて現状の問題点の聞き込み開始。
16時より座席の点検を開始。また、搬入した機材の動作確認を行う。
18時より高木社長に現状報告。必要であれば翌日より個別に対談。
19時、帰宅。
※次回公演まで残り三日。全ての事前準備に支障がなければ、今後に変更なし。』
『備考:Fairyチームに支障なし。白。緑。八。
無。良好。
変更点:
要点:
方針:
』
ひっくり返した水が器に戻らないように。
物語の砂時計は、底なしの穴に砂を落とし始めるのであった。
次回に乞うご期待。