IS インフィニット・ストラトス ~クロガネを宿し者~   作:Granteed

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第四十四話 ~秘めたる想い~

裸足で砂を踏みしめる感覚が、足裏を刺激する。自分達以外の音は打ち寄せる波の音だけ。そんな静かな砂浜を統夜と簪はゆっくりと歩いていた。

 

「統夜……重くない?」

 

「全然。寧ろ軽いぐらいだって」

 

背中におぶっている簪に向かって返事を返す。何度も同じ質問を繰り返す簪に、もう何度目か分からない笑い声が小さく漏れた。

 

「いいから。遊びすぎた罰だとおもってなさい」

 

先程まで砂浜で二人きりの夜を楽しんでいたのは良かった。しかし、途中で簪は波に足を攫われて、足首を捻ってしまったのである。幸運なことに大事には至らなかったものの、歩いて旅館に戻るのは避けたほうが無難だった。そこで、統夜が簪を背負って帰る事を提案したのである。

 

「……分かった」

 

背負われた当初こそ、“重くない?”や“……やっぱり歩く”などと繰り返していたがその度に統夜に反論されていた。統夜に諭された結果、今度こそ大人しくなった簪が統夜の背中で体を縮こませる。

 

「なあ簪、何であんな事言ったんだ?」

 

「あんな、事……?」

 

「いや、いつもの簪にしては珍しいなと思ってさ。いきなり遊ぼうって誘ってくるなんて」

 

「あ、そ、それは……」

 

口を閉ざして何とかその疑問から逃げ出そうとするも、今いる場所が統夜の背中である以上逃げ場など今の簪にはない。

 

「統夜が、海にいい思い出が無いって言ったから……」

 

「ああ、言ったな。それがどうかしたのか?」

 

「少しでもいい思い出、一緒に作れたらって……」

 

目を閉じて、後ろにいる彼女の温もりを実感する。思えばこの体の事を吹っ切れたのも、自分の中の事とけじめを付けようと思ったのも、初めて力を使う決意をしたのも彼女が発端だった。心の中で何度したか分からない感謝の言葉をあらためて口にする。

 

「……ありがとう、簪」

 

「ううん。私こそ……統夜には色んな物を、たくさん貰ってきたから──」

 

首に巻きついている細い腕に力が込められる。耳元で囁かれたその言葉は、統夜の頭を直撃した。

 

「本当にありがとう、統夜……」

 

今まで聞いてきた中で一番甘いその言葉は、統夜の耳を通って脳をかき乱す。後ろを振り返りたい衝動に駆られたが、何とか理性で抑える。感情の暴走を切欠に、今まで意識していなかった背中に当たる柔らかな二つの感触が、統夜の意識を苛んだ。

 

「あ、あのさ簪。ちょっと悪いんだけど、もう少し体重を後ろにかけてくれないか?」

 

「……やっぱり私、重──」

 

「違う違う!!重いなんてこれっぽっちも思ってないから!!」

 

「じゃあ……何で?」

 

「そ、それとは別に俺の意識が危ういというか、精神衛生上そうしてくれた方がありがたいというか……とにかく俺がヤバい」

 

「……分かった」

 

渋々と言った様子で、簪が統夜の背中から少しだけ離れる。しかし、そんな些細な違いでも統夜にとっては大きな違いだった。理性が破壊される危機を切り抜けた統夜は、砂浜を超えて旅館へと続くあぜ道を昇る。

 

「今更だけど、こんな夜中に抜け出して大丈夫なのか?」

 

「統夜は、どうやってきたの?」

 

「窓から抜け出してきた。一夏もどっかに行ってるみたいだったから、バレる事は無いと思う」

 

「私は、普通に旅館の玄関から……」

 

「じゃあ、普通に戻れるかな」

 

旅館をぐるりと囲む塀に沿うようにして、玄関へと向かう。そして旅館の玄関に辿り着く、そのタイミングで統夜が立ち止まった。

 

「……統夜?」

 

「静かに」

 

背中の簪を一言で黙らせて、玄関へと意識を向ける統夜。玄関口が僅かに開く事で出来た隙間から、光が外に漏れている。特に変哲も無い玄関だったが、統夜の発達した超感覚は簪が気づかない程の何かを捉えていた。

 

「……やばい、話し声が聞こえる」

 

「ほ、本当?」

 

「ラインバレル、気づかれないようにセンサー展開。人数と会話の内容を確認しろ」

 

暗闇の中で、ネックレスと統夜の瞳が同時に輝く。主の命を受けた従者は求められた結果を即座に示した。

 

「……げっ、織斑先生と一夏達だ。しかも勝手に外に出てたせいで怒られてる」

 

「じゃ、じゃあ私達も?」

 

「何とか戻らなきゃいけないけど、玄関が塞がれてるからなぁ……」

 

今の状況では玄関は使えない。この旅館では玄関以外の出入り口は従業員用の物しかないため、統夜達がそこを使うことは出来ない。一見、八方塞がりの最悪の状況だった。しかし、人間という範疇を超えている統夜にとって玄関を使わずに部屋に戻る事は朝飯前だった。

 

「……よし、これで行こう」

 

「な、なにか思いついたの?」

 

簪の言葉には答えず、元来た道を戻っていく。塀に沿って戻る中、上を見上げた統夜がなにかを見つけた。

 

「……あった」

 

「あれ、何?」

 

「俺たちの部屋だ……よし、誰もいないな」

 

統夜が見上げているのは、旅館の二階から飛び出ている小さいバルコニーとでも言うべき空間だった。念には念を入れ、ラインバレルのセンサーで周囲と室内をチェックした統夜は早速行動に移る。足裏を叩いて土を落とした後、靴を履き直すと背中の簪に語りかける。

 

「ごめん、怒るんだったら後でな」

 

「……?」

 

「よっと」

 

簪が返事をする前に、統夜が行動に移る。持ち前の腕力で簪を一瞬だけ空に飛び上がらせた。重力に従って落下してきた簪を、今度は体の前面で受け止める。

 

「え、えっ?」

 

俗に言うお姫様抱っこをされた簪は呆けた声を上げるだけだった。腕の中にすっぽりと収まっている簪を確認した統夜は夜の闇の中、己の瞳を一層輝かせる。

 

「舌噛むかもしれないから、少し口閉じてて。あと、声も出さないでくれ」

 

返事を待たずに、膝を屈伸させて力を溜め込む。簪が問いかけようとするが、それより早く統夜が跳躍する。

 

「ふっ!!」

 

両足を開放して、簪と一緒に空を飛ぶ、重力に逆らって飛ぶその姿は、まるで鳥のようでもあった。

 

「~~~~っ!!」

 

勿論、飛び上がった後に待っていたのはただの落下である。声にならない叫び声を簪が上がる中、統夜は目測通りにバルコニーに無事着地した。木組みのバルコニーが統夜の体重でぎしりと小さく軋めいたが、それすらすぐさま夜の闇に消えていく。

 

「えっと、確かここの窓が……」

 

正面の一面ガラス張りの窓に手をかけて横に引く。特に抵抗も無く開いた窓から、統夜は薄暗い部屋へと侵入した。簪を畳の上に降ろしてから一息つく。

 

「はぁ、やっと着いた」

 

瞳を元の色に戻しながら、手探りで壁を撫で回す。目的の物を発見してその部分を叩くと、あっという間に暗かった部屋に光が灯った。

 

「……簪、どうしたんだ?」

 

先程から一向に動かない簪を見て声をかける。何故か彼女は畳の上に体を横たえさせて、全く動こうとはしなかった。

 

「……抜けた」

 

「なんだって?」

 

小さな声を聞き取ろうと、統夜が簪の口元に耳を寄せる。しかし、帰ってきたのは言葉ではなく、意味の分からない殴打だった。

 

「っ!?」

 

頭頂部を叩かれて思わず顔を離す。そこまで痛くはないのだが、目の前の少女からいきなり叩かれた事に対して統夜は驚きを禁じ得なかった。無意識の内に距離を取りつつ、統夜は先程の言葉を再び繰り返す。

 

「か、簪?どうかしたのか?」

 

「……腰」

 

「腰?腰がどうかしたのか?」

 

そこでやっと簪が顔を上げる。その双眸は彼女が流す涙で濡れていた。心なしか、頬も先程より赤みが差し、顔全体が小さく震えている。何を言われるのかと身構えた統夜の前で、簪がぼそぼそと呟いた。

 

「腰……抜けた」

 

「……はい?」

 

 

 

 

「……なあ簪、機嫌直してくれよ」

 

「やだ」

 

ぷい、と簪が頬を膨らませながら顔を明後日の方向に向ける。開け放たれた窓から星が瞬く空を眺めながら、統夜は頭を抱えた。

 

(どうしたもんかなぁ……)

 

とにかく水着のままでは体調が心配なため、部屋に備え付けられていたシャワーに簪を放り込み、一夏と自分用に準備されていた浴衣に着替えさせた。終始押し黙っていた簪だったが、シャワーから出てきたあとが大変だった。

 

(あそこまで怒ることないだろ……)

 

統夜のいきなりの行動に簪は大変お冠となっていた。いくら統夜が言い訳を重ねても“統夜が悪い”の一点張りで取り付く島も見せてはくれない。一応まだ腰が抜けているらしく、統夜の助けがなければ碌に動けないはずなのだが、意地を張っているのか統夜の手は一切借りなかった。

 

「……」

 

「……統夜が悪い」

 

気づかれないように後ろを向くと、簪と真正面から視線を交わしてしまった。今だにへそを曲げている簪は統夜の顔を見るたびに呪詛の言葉を吐き続けている。そしてとうとう我慢の限界に陥った統夜は苛立ち混じりに簪に食ってかかった。

 

「あーもう!何でそんなに怒ってんだよ!?」

 

「だ、だって……いきなりあんな事するから……」

 

統夜の勢いに若干押され気味になるものの、しっかりと反論をする簪。確かにいきなりやったことは自覚しているが、何故そこまで怒っているのか分からない統夜は更に言葉を重ねた。

 

「だからそれは謝っただろ。もう機嫌直してくれてもいいじゃないか」

 

「見せたく……なかった」

 

「何を……?」

 

「統夜に……見られたくなかった。あんな……私の姿」

 

「……もしかして、さっきの?」

 

そこで簪が体の向きを入れ替えて、統夜を真正面から見つめる。

 

「統夜の支えになるって決めたのに……あんな弱い所、統夜に見せちゃった……」

 

「簪……」

 

「統夜にずっと支えてもらってきたから、今度は私がって思ったのに……結局私は弱いまま……あんな恥ずかしい所、見せたくなかった」

 

(……ああ、だからか)

 

数時間前に、砂浜で言われた事が脳裏に浮かび上がる。彼女はいい加減嫌気がさしていたのだろう。頼るばかりの自分に、頼られる事の少ない自分に。実力はあるのに滅多に評価されたことのない、思いはあるのにそれを行動に移せない、そんな彼女が初めて自分から心に決めた最初の行動があれだったのだ。

 

「ふふっ……はははっ」

 

「……なんで、笑うの?」

 

「案外俺たち、似た者同士なのかもな」

 

ずっと心の中で葛藤するばかりで、前に踏み出す事を恐れていた自分。姉と比較されるばかりで、スポットライトを当てられる事が滅多になかった彼女。互いに弱みを見られる事を恐れた結果、誰よりも多く互いの弱みを見てしまっているのは皮肉な結果なのだろうか。

 

「……どういう事?」

 

「いや、何でも無いよ」

 

そんな彼女が相手だからこそ、自分はこんなにも望むのかもしれない。もっと彼女の力になりたい、もっと彼女の傍にいたいと。段々と膨れ上がっていく思いに背中を押されて、統夜は簪に近づいて、右手を彼女の頭に乗せた。

 

「……」

 

体が強ばるのを感じたが、拒否の言葉は見せない彼女を見て手を動かす。同時に、心の中に溢れる言葉をそのまま口にした。

 

「別にそんな事考えなくてもいい。簪が弱くたって、俺は何も思わない。寧ろ、そんな簪だからそばにいて欲しいって、俺は思うんだ」

 

「……本当?」

 

「ああ……簪が疑問に思うなら、はっきり言うよ」

 

それは自然な動きだった。まるでそうなることが決まっていたかのように統夜の体が動き簪の隣に収まる。簪は目を大きく見開き、隣に座った統夜をまじまじと見つめた。

 

「俺の傍にいてくれ、簪。君が望む限り、俺は君のヒーローであり続けるから」

 

「……」

 

「挫折もするし、泣き言も言うカッコつかない英雄(ヒーロー)かもしれない。でも、もう意思はぶれない。俺が心から誓った最初の……いや、二番目に大切なことだから」

 

「統夜……」

 

「こんなのでも、簪の英雄(ヒーロー)になっていいか?」

 

「うん。それと……こんなの、じゃない」

 

簪の頭が統夜にもたれかかる。頬を紅潮させたまま、簪は統夜の顔を見上げて口を動かした。

 

「私の一番のヒーローは……いつだって統夜だから……よ、よろしくお願いします?」

 

何故か疑問系で表現された簪の疑問の返事替わりに、再び頭を撫でてやる。顔を緩ませながら右手を動かし続けていた統夜だったが、ふと驚愕の事実に気づいた。

 

(……あれ?これって告白してるのと一緒じゃないか!?)

 

先程の自分の言葉を頭の中で反芻する。正気に戻った頭の中で繰り返される言葉の数々は、今になって考えると顔から火が出そうなほど恥ずかしい物ばかりだった。

 

「な、なあ簪。さっきの事だけどさ……」

 

「……なに?」

 

向けられた簪の顔は、はっきり言って異常だった。頬は類を見ない程紅潮し、目は嬉しさの余りか融けきっている。慌てて簪の正気を取り戻そうと両肩を掴んだ統夜だったが、逆に簪に肩を掴まれて畳の上に押し倒された。

 

「か、簪!?」

 

「……」

 

無言のまま簪が統夜の上に乗りかかってくる。いつもの様子はどこへ行ったのやら、今の彼女は目の前の獲物を捕らえようとしている狩人(ハンター)だった。自分の肩を押さえつける手を無理やり外そうと試みるが、力が入らない上に目の前の簪の姿に意識を奪われて行動に集中出来ない。

 

「簪!!ストップ、ストップ!!」

 

「何、が……?」

 

自分が暴れる事で、簪の着ている浴衣がはだけていく。勿論、その下には何も身につけてはいない。そのため、統夜が動くたびに肌色の面積が増えていく。同時に、目の前の簪を見て統夜の頬も紅潮していく。

 

「な、何考えてんだ!?早く離してくれよ、な?」

 

「嫌……」

 

統夜の静止を振り切って、簪がゆっくりと顔を降ろしていく。垂れた髪の毛が天幕となって部屋の光を遮断して、薄暗い空間を作り出す。二人の鼻の頭が触れ合いそうな距離で、統夜は最後の抵抗とばかりに口を動かした。

 

「ちょ、ちょっと!洒落にならないって……!」

 

「統夜は……嫌?」

 

その一言を言われて統夜が押し黙る。勿論、簪の事は特別に思っている。しかし、それとこれとは話が別だ。何より今そんなことをされたら、自分がどうなってしまうか分からない。しかし、彼女の瞳は痛い程真っ直ぐ統夜を見つめ、声色は真剣そのものだった。そして、その様な聞き方をされたら統夜に反論する術は残っていない。

 

「かん、ざし……」

 

「……私は、統夜の事──」

 

「とーやん、いる~?」

 

不意にドアを叩かれて、二人の体が跳ねる。揃って廊下に繋がる扉を見てみれば、誰かがノックを繰り返していた。しかも、その誰かとは二人の共通の友人である。いくらIS学園の一年生が多いと言っても、この旅館で統夜の事をそう呼ぶ生徒は一人しかいない。

 

「俺が出るからとにかく簪は隠れてて!!」

 

「わ、分かった!」

 

わたわたと動き出して隠れそうな場所を探す。統夜も立ち上がって扉へと近づいていく。簪は数メートル離れたところにある押入れを急いで開けると、中に飛び込んだ。

 

「あ、とーやんいたんだ。何度呼んでもしても出ないからいないかと思っちゃった」

 

「ご、ごめん。ちょっと外を眺めててさ」

 

襖の隙間から漏れてくる声は予想通り、自分の友人の物だった。光の差さない空間で一人丸まっていると、段々と頭が本調子を取り戻していく。

 

(……わわわわ私、何してたの!?)

 

先程の自分の愚行を思い出して顔から火が出そうになる。先程の行為は頭の中に嫌にはっきりと残っていた。

 

(ととと統夜に近づいて……それで……)

 

そこから先は覚えていない。というより自分の記憶から消し去りたかった。横に置いてあった布団をバシバシと叩いて、何とか浮かんできた考えを消そうと試みる。

 

「あれ?とーやん、何か部屋から変な音聞こえない?」

 

「あ、ああ!今窓開けてるから、隣の部屋で騒いでる音が届いてるのかも……そ、それよりものほほんさんこそ、どうしてここに?」

 

「かんちゃんがいないの。お風呂も旅館のロビーも見てきたんだけど、どこにもいなくって」

 

慌てて布団を叩くのをやめて、両手を頬に当てる。いつもならば冷たい両手も今ばかりは謎の高熱を発していた。そのせいで、段々と先程の行為が鮮明に浮かんでくる。

 

(で、でも……統夜もまんざらじゃなかった……のかな?)

 

目の前で慌てていた統夜を思い出す。もしかしたら、あと少しで目的を達成できたかもしれないが、通常の思考に戻った簪にとって先程の行動は恥ずかしすぎる行為だった。穴があったら入りたいとおもいつつ、現在進行形で押入れの中に隠れながら外の声に意識を傾ける。

 

「……ちょっと外を見て回ってるんじゃないのか?ほら、今日は星も綺麗だし」

 

「うーん、でも外に出ちゃダメって織斑先生が言ってたし……」

 

「少し位なら大丈夫って思ったんじゃないか?と、とにかくここに簪はいないよ」

 

なんとか取り繕うとしている統夜の声が聞こえてくる。どうやら本音は自分を探しにここまで来たらしい。少し嬉しいと思う反面、もう少しタイミングを送らせて来ても良いではないかと思うのもまた事実だった。

 

(あれ……でも隠れる必要、あるの?)

 

今来ている相手は本音である。知らない仲ではないし、何より自分と統夜の共通の友人でもある。しかもよくよく考えてみれば、自分の統夜に対する秘めた思いをも知っている彼女に対して隠れる理由がなかった。

 

(そ、それに最近……)

 

自分の事を思ってか、よく相談にも乗ってくれるし、事あるごとに統夜の話題を降って来たりもする。そんな心安い本音に対して自分が隠れる必要は何一つ無いはずであった。いや、あるはずもない。

 

(もしかしたら……本音が私の事を見直すかもしれないし……)

 

拳を握りながら意思を固める。本音と自分は本来ならば従者と主の関係であるはずである。今は親友の関係となっているが不満は無いし、その関係が心地良いのも事実だ。しかし、彼女に対していいところを見せたいと思っているのもまた事実だった。

 

(ここで私と統夜が一緒にいる所を見せれば……本音も私の事、見直すかも)

 

考え方が明後日の方向にぶっ飛びつつあるが、それを止める役割が誰もいないため簪の思考は止まらない。飛び出る前にはだけていた浴衣を元に戻すと、意を決して手探りで光が差し込んでいる所に手をかける。

 

(……今──!)

 

「簪、どうしたんだ?」

 

「へぶっ!」

 

自分が引くより早く、何者かの手によって襖が開かれる。襖を引こうとしていた簪はその力の入れどころを失い、勢い余って畳の上に伏してしまった。鼻の頭をさすりながら顔を上げてみると、そこにいたの頬の赤みが抜けた統夜だった。

 

「な、何やってんだ?」

 

「……本音は?」

 

「もう帰ったけど……」

 

「……私も帰る」

 

「そ、そうか?それじゃあ……」

 

統夜が簪の手を引っ張って体を起こしてやる。廊下へ続くドアまで二人揃って行くと、簪は無言のまま、部屋から去ろうとした。

 

「統夜……」

 

「な、何だ?」

 

「……ううん、何でも無い」

 

何かを言いかけてから、簪は踵を返して振り返る。統夜に向けられた表情は、何時ものあの笑顔だった。

 

「統夜、また明日」

 

「ああ……また明日、な」

 

ぱたんと小さい音を立てて、ドアが閉じられる。こうして長いようで短い、多くの思い出と確かな決意を残した臨海学校は、静かに終わりを告げた。

 

 

なお、臨海学校から帰った後、統夜と簪が互いに顔を見る事が出来ないと言う事例が何日か続き、散々楯無と本音に弄られ続けたのはまた別の話である。

 


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