IS インフィニット・ストラトス ~クロガネを宿し者~   作:Granteed

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第四十八話 ~たった一人の家族~

「はぁ!?あのメールの内容が嘘!?」

 

「その方が面白いでしょう。どうせ私が素直に数日後に戻っていたら、貴方が全部準備するんだから。家事くらい私にも手伝わせなさい」

 

キッチンでカルヴィナが包丁を振るっている。テーブルでぶつくさと文句を垂れる統夜の真正面に座っている簪は、カルヴィナをまじまじと見入っていた。

 

(この人が……統夜の、お姉さん)

 

クーランジュ家に戻ってきて30分、簪の視線はずっとカルヴィナに固定されていた。夕陽に照らされていた帰り道も、商店街で夕飯の食材を買っていた最中も、家に帰ってきてからも、話題の中心はカルヴィナだった。予定とは違えど帰ってきたのが素直に嬉しいのか、統夜の口から出る言葉も姉の事に関してばかりだった。

 

「そうだぞ統夜。前から言っている事だが、君は少し頼るという事を覚えたほうがいい」

 

カルヴィナの隣で寸胴鍋の中身を混ぜながら、アル=ヴァンがアドバイスを送る。二人が並んで料理の準備をするその光景は、何処からどう見ても夫婦のそれだった。

 

「まあ予定より早く帰ってきたのはもういいけどさ、それにしても俺と簪の後をつけてきたのはどういうことだよ……」

 

「だから何度も言ったでしょう。面白そうだったから、ただそれだけよ」

 

「……はぁ、分かったよ。俺もそっち、手伝うから」

 

立ち上がって足を踏み出しかけた統夜を、カルヴィナが空いている手で制す。隣にいるアル=ヴァンは鍋から手を離すと、着ているエプロンを脱ぎ始めた。

 

「貴方は最上階に行ってきなさい。久しぶりにアリーに揉まれてらっしゃいな」

 

「そういう事だ、統夜。腕が鈍っていないか、確かめてやろう」

 

「分かりました。じゃあ簪、一緒に──」

 

「統夜、その子をちょっと貸してくれないかしら?」

 

統夜なりの気遣いなのだろう。一緒に来る事を提案する言葉は、姉によって遮られた。まさか指名を受けると思っていなかった簪は意表を突かれて目をぱちくりとしばたかせる。男二人もカルヴィナの言葉を聞いて動きが固まった。

 

「わ、私……ですか?」

 

「ええ。アル=ヴァンの代わりをしてもらえないかしら?」

 

「……はい、私で良ければ」

 

「統夜、貴方のエプロンを貸してあげて。少し大きいかもしれないけど、その方がいいでしょう」

 

「分かった。簪、こっちに来て」

 

リビングから廊下へと繋がる扉を開けて簪を手招きする。席を立った簪は素直に統夜の後について行った。荷物も何もない廊下を進みながら、統夜が一つのドアに手をかける。

 

「じゃあ……入って」

 

「う、うん。お邪魔します」

 

カチリと音がして部屋に光が灯る。簪の目に飛び込んで来たのは、初めて見る男子の部屋だった。

 

「えっと、どこ仕舞ったっけな……」

 

統夜がクローゼットを開けて中を漁り始める。特にする事も無い簪は部屋の中をぐるりと眺めた。

 

(統夜の……部屋)

 

部屋の中に置かれているのは壁際にあるベッドと、勉強机が一つ。それと敷かれているカーペットの中心に茶色い小さな折りたたみ式のテーブルが鎮座している。机の本棚には中学校の時の物と思しき教科書類が綺麗に揃えられており、ベッドの上には寝巻きに使っているだろうジャージが脱ぎ散らかされていた。

 

「お、あったあった。簪、ちょっと付けてみてくれ」

 

伸ばされた統夜の手に握られているのは、薄い緑色の無地のエプロンだった。おずおずと受け取った簪は慣れた手つきでエプロンを身につける。統夜の思った通り、自分用のエプロンは簪には少し大きかったらしい。白いワンピースの上から、もう一つ淡緑色のワンピースを着ている様な格好になってしまった。

 

「やっぱ大きいな。俺の小さい頃のエプロンってあったっけ……」

 

再びゴソゴソとクローゼットを漁る統夜の後ろで、簪はエプロンの手触りを確かめていた。少しだけエプロンに残っている匂いを掬って顔の近くに持ってくる。簪にとってその匂いは嗅ぎ慣れた物かつ、安心出来る匂いだった。

 

「……統夜の、匂い」

 

「ん?簪、何か言ったか?」

 

「統夜。私、これでいい」

 

「いいのか?もう少し小さいやつの方がよくないか?」

 

統夜の問いに対して簪が首を左右に振る。クローゼットから頭を引き抜きながら、統夜はエプロン姿の簪をまじまじと注視する。

 

「まあ、紐で調節出来るし使えないって事は無いか。それにしても簪、姉さんに何かしたのか?」

 

「何もしてないけど……何かあるの?」

 

「いやさ、姉さんが初対面の相手にあそこまで興味を示すなんて珍しいなと思って」

 

統夜は自分の考えを口に出しながら、クローゼットの中からトレーニング用のジャージを取り出す。簪もエプロンにから伸びている紐を使って腰周りの部分を調整していた。

 

「統夜、準備はいいか?」

 

「あ、はい。今行きます」

 

聞こえてくるアル=ヴァンの言葉に返事をしながら、統夜はジャージを手に廊下へと出た。簪も統夜に続いて廊下に出ると、服を着替えたアル=ヴァンが玄関口で統夜を待っている。

 

「あ、じゃあ統夜……私はあっちに」

 

「うん。姉さんの所に行ってくれ」

 

それだけ言い残して、統夜はさっさとアル=ヴァンと外に行ってしまった。統夜達を見送った後、一人廊下に残された簪は踵を返してリビングへと戻る。

 

「ごめんなさいね、いきなり頼んじゃって。鍋の方、見てくれる?」

 

リビングに入るなり、キッチンにいるカルヴィナから声がかかる。簪は無言のまま、カルヴィナの後ろを通って鍋の前に行くと、中身を覗き込んだ。鍋の中では色とりどりの野菜が入ったシチューが煮込まれ、食欲が掻き立てられる匂いを発している。簪は鍋に突っ込まれていたお玉を手に取ると、ゆっくりとかき混ぜ始めた。

 

「……私に何か聞きたい事があるのかしら?」

 

「え?」

 

「あら、違うの?統夜と合流した時からずっと視線を感じていたから、てっきり私に聞きたい事でもあるのかと思っていたのだけれど」

 

「あ、あの……えっと……」

 

心の中を言い当てられて、咄嗟に言葉が出てこなかった。簪の隣で付け合せのサラダを作っているカルヴィナが、くすくすと上品に笑う。

 

「私の事はカルヴィナでいいわ、簪。それで、聞きたい事があるの?」

 

「……」

 

「何でも聞いていいわよ。勿論、言った事は統夜達には漏らさないわ」

 

「カルヴィナさんはどうして……私の事を知ってるって言ったんですか?」

 

取り敢えず、当たり障りの無い疑問をぶつけてみる。カルヴィナの答えは予想がついていたが、いきなり核心的な質問をするのは憚られた。

 

「あら、当たり前の事を聞くのね。まあいいわ、答えましょうか。それはね、貴方の事を統夜から聞いてたからよ。それこそ、嫌というほど」

 

「そんなに……」

 

「統夜がIS学園に入ってから、私達はメールで連絡を取り合ってたの。最も、内容は殆どあの子がIS学園で過ごした毎日の事だったけど。千冬の弟君が鈍感過ぎるとか、女子が多すぎて少し恥ずかしいだとか。メールに書かれている内容は様々だったけどその中でも一番多かった話題が、貴方の事なのよ」

 

「私の……?」

 

「一夏君やクラスメイトの話題が三割、私達の事についての話題を二割とするならば、貴方の話題は四割以上だったかしら。時にはメールの内容の八割方が貴方についてだった事もあったわ」

 

「ほ、本当ですか?」

 

統夜の事を憎からず思っているのは事実だが、彼の姉から聞かされるその言葉は衝撃的だった。動揺の余り、お玉をかき混ぜる手が上手く動かない。

 

「それだけ聞かされて、貴方の事を知らないとは言えないでしょう。さて、一つ目の質問はこんな所かしら?」

 

カルヴィナが視線だけで“次の質問は?”と問いかけてくる。驚きつつも、簪は頭をフル回転させて次の質問を捻り出す。

 

「あの、何で嘘なんかついたんですか?」

 

「ああ、さっきの事?だから言ったでしょう、統夜に負担をかける訳にはいかないからよ」

 

「本当に、それだけですか……?」

 

横に立つ女性の瞳を真っ直ぐに見つめる。今目の前にいるのは歴戦の“ホワイト・リンクス”ではなく、紫雲 統夜の姉、カルヴィナ・クーランジュであると自分に言い聞かせながら。瞳に戸惑いの色を浮かべながら、カルヴィナは質問に質問をぶつけた。

 

「何でそう思うのかしら?」

 

「なんとなく……です」

 

「女の勘って訳ね。まあ言ってしまえば、理由の一つはさっきも言った通り。ただあの子を驚かせてあげたかっただけ。ただ、もう一つは、あの子を一人にしたくなかったからよ」

 

「一人にしたく、なかった?」

 

「ええ。少し長くなるから、休憩がてら話しましょうか」

 

カルヴィナは作っていたサラダを脇に置くと、食器棚の中からコップを二つ取り出す。冷蔵庫を開けて中から麦茶を取り出すと、キッチンから出ていった。

 

「貴方もいらっしゃい。火は止めておいていいわ」

 

カルヴィナの言葉に従って、鍋にかかっていた火を落としてキッチンから出た。リビングのテーブルでは、席に着いたカルヴィナが持ってきたコップに麦茶を注いでいる。カルヴィナの対面におずおずと座った簪の目の前に、麦茶がなみなみと注がれたコップが置かれた。

 

「さっきの言葉だけど、こう言い換えてもいいかもしれないわね。私が、統夜を一人にしたくなかった、と……貴方、私と統夜の関係は聞いてるかしら?」

 

「あ、はい。統夜が教えてくれて……」

 

「そう。なら知っていると思うけど統夜のご両親が亡くなった時、あの子は文字通り一人ぼっちだった」

 

「だから、カルヴィナさんが統夜を引き取ったんですよね」

 

「その通りよ。でも恐らく、私が引き取った理由までは聞いていないでしょう?」

 

「引き取った理由、ですか……?」

 

「ええ。貴方は何だと思う?」

 

カルヴィナの問いかけに、簪は思考する。目の前にいる彼女を表す言葉は、完璧という言葉以外考えつかなかった。統夜から予め聞いていたが、いざ目の当たりにすると聞かされていたイメージとはかけ離れていた。統夜やアル=ヴァンに向ける温かい笑顔、初めて会った自分に対しても柔らかい物腰で対応するその姿勢、言葉の端々に感じる統夜への愛情。数々の要素を絡めて考え抜いた答えは、自然と口から出ていた。

 

「統夜を……一人ぼっちにしたくなかったから?」

 

「40点。的外れ、という訳ではないけど正鵠を射ている訳でもないわ」

 

「じゃあ、他に理由があったんですか?」

 

「ええ。それは、私が統夜を求めたからよ」

 

「カルヴィナさんが、統夜を?」

 

カルヴィナはコップを掴むと口元に運んで喉を潤す。しばしの沈黙を保った後、カルヴィナはコップを置いて二の句を継いだ。

 

「あの頃統夜は子供だったけど、勿論私も子供だった。研究所に勤めていた私は当時14、5歳。今の統夜とそう変わらない年頃だったわ。勿論、そんな子供がたった一人で生きていける訳が無い。その頃には年不相応の経験もしてたし、社会の厳しさも理解していたつもり。でも、どうしても一人の孤独からは逃れられなかった」

 

「……」

 

「ただ、傍らにはあの子がいた。紫雲博士達から頼まれたあの子が。私を見上げるあの目を見る度に思ったの。“私よりこの子の方が辛いんだ”“こんな若くして両親を失った辛さに比べれば私の苦労なんて何の事でもない”ってね。あの子の家族になると心に決めたのもその頃よ」

 

「凄いと……思います」

 

純粋な褒め言葉が口から漏れる。自分達とそう変わらない年齢でそこまでの思考に至れるという事は、文字通り年齢不相応の経験を積んでいたのだろう。しかし、話はそこで終わりではなかった。

 

「話にはまだ続きがあるわ。先程も言ったけど統夜を引き取ったもう一つの理由、それは私がたった一人の孤独に耐えられなかったから」

 

「孤独……」

 

「要するに、当時の私は統夜を言い訳に使ってたのよ。統夜は私を聖人君子の様に言っていたかもしれないけど、真実は全く違う。私は弱かったのよ、今も昔も。誰かに支えてもらわなければ満足に生きていけない。誰かに傍にいて欲しい、一人にして欲しくない。そんな我が儘な子供の願いで統夜を引き取った」

 

「その話、統夜には……?」

 

「ああ、もうしたわよ。ただ、帰ってきたのは私に対する侮蔑じゃなくて、謝罪だったわね」

 

カルヴィナはおもむろに席を立つと、壁際にある本棚に歩み寄る。その中の一つ、一組の姉弟が映っている写真を見つめながら口を開いた。

 

「統夜を引き取って数年後、良心の呵責に耐え切れなかった私は全てをぶちまけたわ。てっきり私は罵られるかと思った。だってそうでしょう?自分勝手な気持ちで統夜を引き取って、あの子を言い訳にしていたのだから。でも帰ってきたのは、そんな物とは縁遠い、感謝の言葉だったわ」

 

「……」

 

「“姉さんがどう思ってたにせよ、俺をここまで育ててくれて、守ってくれたのは姉さんだ。そんなたった一人の家族に感謝しないわけ無いだろ?”と言われたわ。その時は思わず泣いちゃったわね。きっと後にも先にも、統夜の目の前で泣くなんてあれだけよ」

 

目の前の写真立てを手に取って愛しげに撫でるカルヴィナの目は、僅かに濡れていた。簪もそんなカルヴィナを見て居住まいを直す。数秒後、目元を拭ったカルヴィナは写真立てを元の場所に戻すと、簪の方へと振り向いた。

 

「これが、あの子を一人にしたくないと思う理由よ。あの子は私が全力で守る、この世界の全てから。その力が私にはあると自負しているし、もう二度と家族を失いたくはない……まあ、純粋に統夜に早く会いたかったって考えもあったけど」

 

「……」

 

「ごめんなさいね、重い話をしちゃって。さて、質問はこれで終わりかしら、他に何かある?」

 

表情を戻したカルヴィナを見つめながら、簪は三度考える。そして極々自然な流れでふと頭の中に浮かんできた素朴な疑問をそのまま口にしていた。

 

「あ、あの……初めて会った時なんですけど」

 

「それって、さっきの時の事よね?」

 

「はい。何で私の事、“彼女”って……?」

 

言葉が出てくると共に、目の前で言われた言葉が脳裏に浮かんで来る。“デート”や“彼女”といった単語が浮かんで来ると共に、簪の顔が徐々に朱色に染まっていく。カルヴィナは腑に落ちない顔をしていたが、やがて何かに納得したかの様に手を叩いた。

 

「……ああ。もしかして貴方達、まだ付き合ってないの?」

 

「そ、そんな!つ、付き合ってるだなんて……」

 

「てっきり私とアルは付き合ってると考えてたんだけど。あの子が家に上げて、一緒に買い物に出て、あんな雰囲気の中公園で休んでいるのを見たら、それしか思いつかないわよ」

 

「で、でも……私と統夜はまだ、付き合ってません……」

 

「あら、“まだ”って事はこれからそうなる予定があるのかしら」

 

「そ、そういう訳じゃ……」

 

口から否定の言葉が出てこない。心臓は音を立てて胸を打ちつけ、余りの興奮に手足が震えてくる。カルヴィナはそんな様子を面白がっているようで、簪を見ながら口角を釣り上げて笑っていた。

 

「わざわざ統夜から住所を聞いて、わざわざ電車で一時間もかかる距離をやってきて、わざわざ家に寄るなんて、普通の女の子に出来る芸当じゃないわ」

 

「そ、それは……」

 

「まあ、勘違いは謝るわ。ただ、これだけは教えてあげる。それは統夜に取って貴方は大切な存在だという事」

 

「どうしてそんな事が言えるんですか……?」

 

「確たる証拠はここにあるわ」

 

カルヴィナが手招きする。簪は立ち上がってカルヴィナの隣に立って目の前にある数々の写真を見つめた。

 

「ここにあるのは統夜が大切にしている写真よ。これが私に引き取られる前の統夜を撮った写真。これに映っている二人が統夜の両親の恭介さんと咲弥さんよ」

 

「この人達が……」

 

黒縁の写真立てに入れられた写真を凝視する。そこには小さな子供を抱いて椅子に座っている女性と、傍らに立っている男性の姿が映っていた。女性は穏やかな笑顔を浮かべているのに対し、男性の方は仏頂面でこちらを見つめている。

 

「こっちは統夜とアルと私、三人で撮った写真。他にも色々あるけど、ここにあるのは全部、私や統夜の大切な思い出よ。ほら、これを見て」

 

「これ……」

 

大きめの写真立てに入れられている写真を見て思わず息を呑む。横に長いその写真には、二人の少年と、六人の少女が映っていた。映っている少年少女達は例外なく、全員満面の笑みを浮かべている。その中には統夜の隣ではにかんでいる自分の姿もあった。

 

「こんな風に笑っている統夜は本当に珍しいのよ。そもそも積極的に笑う様な子じゃないし、IS学園に入る前はこんな顔滅多に見せなかった。だから周りにいるこの子達が統夜にとって特別な存在だというのは、容易に想像出来たわ」

 

「……」

 

「この写真に映っている、そして統夜の口から何度も聞かされている。その上遠路はるばる家に来た。こんなにヒントがあれば、そう考えても仕方ないでしょう」

 

「で、でも私は……」

 

「ええ、分かってるわ。貴方と統夜は付き合っていない」

 

カルヴィナにはっきりと言われて、胸の奥がちくりと痛む。真実なのに、正しい事のはずなのに、何故か大声を上げてその言葉を否定したい衝動に駆られた。簪の心境を読み取ったのか、再びカルヴィナが笑う。

 

「ふふふ、そんな顔しないの。今現在では確かにそんな関係では無いかもしれない。でも貴方がそう望むのなら、きっと全てが上手く行くわ」

 

「でも……統夜は私の事、どう思ってるか……」

 

「今からそんな弱気な事を言ってどうするの。貴方も女なら、男を振り向かせる位の事をしてみなさい」

 

「そ、そんな事……まだ、分からないのに」

 

彼からはっきりと思いを聞いたわけでもない。確かにあの夏の夜、拒絶こそされなかったが、統夜の口から返事を聞くことは叶わなかった。逡巡する簪の横で写真を眺めながらカルヴィナが口を開く。

 

「いいのよ、それで」

 

「え?」

 

「人生の少し先輩としてアドバイスよ。たくさん悩んで、たくさん迷いなさい」

 

「悩んで、迷う……」

 

「貴方はまだ若いのだから悩みもするし、迷う事もあるでしょう。でも、それは悪いことじゃない。悩み、迷った時間が長ければ長い程、その先に出した答えは堅い物となるから。少なくとも、私はそう考えている」

 

カルヴィナのその言葉には確かな重みがあった。まるで経験した事のあるかのような言葉遣いは、簪の言葉に波紋を生む。そして胸中に生まれてきたのは一種の確信だった。

 

(やっぱり、この人は……統夜のお姉さん……)

 

立ち振る舞いが似ている訳でもない。考え方も、性格も共通していない。同じ血すら流れていない。だが彼女の言葉の端々に溢れているのは統夜への思慮であり、愛情だった。一人納得する簪の横で、一通り写真を眺め終えたカルヴィナは顔を横に向ける。

 

「そろそろ続き、作っちゃいましょうか。あと一時間もすれば男二人が“腹減った”って言いながら帰ってくるわ」

 

「はい」

 

はっきりと返事を返しながら、二人揃ってキッチンへと戻る。簪はお玉を、カルヴィナは包丁をそれぞれ持つと調理を再開した。

 

「そうそう。統夜が学園でどんな生活を送っていたか、聞かせてくれないかしら?」

 

「あ、はい……何から話しましょうか?」

 

「そうね。じゃあ、主に日常生活の話をお願いするわ」

 

「それじゃあ、私が統夜と会った時の話を……」

 

一人呟くように簪の口から流れ出す小さい言葉にカルヴィナは耳を傾ける。空の色が紅から黒へと変わる夕闇の時間、キッチンの中は二人の女性の会話で満たされていた。

 

 


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