作:たかお


オリジナル現代/日常
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 その一瞬で人は変わる。

 文体の調整テストも兼ねて投稿。

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 ぴったり3000字!




 とある老婦人の独白である。

 齢を感じさせぬ朗々たる口調で、背筋はぴんと伸ばし、前だけを見て語り始めたその独白に、聴衆たちは何か超然としたものを感じたという--

 

 最近は街中ではめっきり星は見えなくなりまして、星明かりですとか、星影なんて言葉は遠い昔のことのようですが、私がまだ20やそこらのころは、それはもう夜空はたいそう美しくありました。もっともそれが普通でしたから、そうした星々の1つ1つをいちいち数え上げることはありませんでしたが、例えば方角を探る際などは星座や一等輝く星を頼みにして歩いたりと、星は今よりも生活に根差しておりましたから、やはり今は淋しく存じます。

 

 私には大戦直前に知り合った恋人がいました。髪を短く切り揃え、目鼻立ちがすらりと日本人離れした、彫刻のように彫りの深い顔立ちはなんともいえず美しく、普段表情を表に出さない彼がひとたび小さく顔を綻ばせたときなどは、面立ちの均整を崩すように浮かぶ笑窪がかえって魅力を湛え、そうした造形は、あまねく神々が私1人のためだけに特別に用意して下さったように、私の瞳には映るのでした。

 

 あれは夢か幻か、日本軍が連合軍を相手に連戦連勝を続けていた昭和17年に、南太平洋方面への任地が決まった彼はその招集の前日、軍袴を纏って私の元へとやってきました。私も彼も、戦死の可能性などいささかも信じず、再会の絶対なる予感があり、私たちが交わす言葉の裡には別離の悲劇はなく、私自身も少しの間の留守を預かる心境でした。後年思いがけぬ形でこの予感は現実のものとなるのですから、若い2人の宿命への盲目的信仰も、存外馬鹿に出来たものではありません。

 

「南方で皇軍は戦線を優位に進めている。君は何の心配もいらない」

 

 そう言ってまた私の為だけに設えた笑窪を見せると、あとはいつもの逢瀬と変わりなく、私たちはその日の夕方にはお別れ致しました。

 しかし、その後ご存知の通り戦争は激化し、昭和19年になるころには、大本営がいかに糊塗しようとも、私どものような一般国民にも日本軍の劣勢は察せられて、不安と動揺が街中を包み、世相は沈んでいきました。そのうち市街地が米軍の爆撃に曝されるようになり、空襲警報のけたたましいサイレンの音に絶えず悩まされるようになると、私も家族共々疎開することになり、長年過ごした街の景色を瞼に焼き付けてから、母方の親類の元へと身を寄せたのでした。

 

 それは米軍の空襲が日ごとに激しさを増し、大東亜戦争の趨勢が決定的になっていた終戦の年の、若葉の季節のことです。疎開先はとある半島の先端に位置する小さな漁村で、住居は小高い、見晴らしのよい丘陵地にあり、晴れた日などはそこから街を一望して、地平線の遥か彼方までも見渡すことのできる立地で、空を見上げると名前もわからない渡鳥の羽搏きが心地よく響き、地に目を落とすと新緑がめいめい芽吹いて、自然の法則、雄大な秩序は戦前よりもむしろ輝きを増して見えたもので、これは戦で喪われた人間の生命が大地や海に帰還する様を、自然が祝福しているかのように思えて、兵隊さん達の死がこうして新たな命を育んでいるのだ、という不思議な確信を致しました。

 このように私の思考や思想の楽天は生来のものでしたから、戦時下で、時局はいよいよ厳しさを増しているのにもかかわらず、私と私を取り巻く連関は平和から少しも切り離されることなく、不断の循環を続けて居りました。

 

 そんなある日、私の元に一通の手紙が届きました。手紙は彼からでした。私たちは別離以来、絶えず手紙の遣り取りをして、互いの平穏無事なる幸運を確かめ合って居りましたが、ちょうど前年の冬ごろから手紙はぱったり途絶え、初めて私は不安に駆られました。そんな中でのしばらくぶりの音信に、私の不安は霧散して、心踊らせながら封を切りました。しかし、律儀に三つ折りにされた一枚の紙のざらついた感触を指で楽しんでから開きましたところ、その内容は私の期待するものとはおよそ掛け離れておりました。

 

 私は泣きました。ひねもす泣き喚き、世の不条理を芯から憎みました。次いで私たちの愛をたやすく捻り、無益な戦争をなおも強いる御国を、初めて心の底から憎みました。ああ、宇内を統べる神仏の御加護があの人にどうか与えられますように。私は仏教徒ではありましたが、仏様にとどまらず、それこそ敵国の、基督の神にさえ深く祈りを捧げました。そうして日が傾き、太陽は赫々とした光を携えて、空に棚引く巻雲を染めながら、少しずつ、少しずつ、西の方へと沈んでいき、ついに夜が訪れました。

 

 夜は真っ暗闇ではありません。地には家々の電灯が、空には星々の明滅が、おのおの夜に色を添えています。この世には決して、完全なる闇というものはない。そういう確証を得られただけでも、それに僅かな救いを求めたりして、私の心は絶えず駈けめぐり、悲しみと喜びと、絶望と希望とが混ざり合い、泣いているのに突然笑い声を上げたりと、まるで気が狂ったような心境でした。そんな折のことです。

 突然、夜空に一等明るい光が瞬きました。鈍い光を放っていた星の一粒が、一条の光を投げかけて、それでもうその流れ星は消滅しました。あっという間の出来事でした。

 

 私はこの時、その一瞬こそが彼の死を暗示したものに違いないと思いました。私が彼の生還を星に願う機会を逸したのは、私の愛の不足によるものではなく、彼が既に死んでいるからなのだと信じました。私がこの時感じた安堵のほどは、今でも鮮明に覚えています。

 

 

 

 さて、それから40年の月日を経て、彼の生存を知りました。生きていたのです。再会の経緯はまったくたわいもないものでこの場で語るに及びませんが、私たちは40年の時を跨いでついに籍を入れることになったのです。 2人とも、還暦を迎えていました。

 

 しかし、永い月日はお互いの純粋なる愛を、黒く濁らせてしまっていたのです。当初の感動が過ぎると程なくして、私は夫に深い憎しみの感情を抱くようになりました。

 私は今頃になって私の安堵を裏切った目の前の老人に、惜しみなく軽蔑の眼差しを差し向けずにいられません。そう、彼は死んでいなければなりませんでしたのに。それでなければ、この世において運命だとか、奇跡だとか、そういうあらゆる美しい言の葉も、総て虚しく朽ち果ててしまうように思いました。

 

 私はもう一度老人の表情を伺います。

 老人は私の内心の憎悪をいっこう解さず、長年にわたって染みついた阿諛の表情を浮かべて私を見返して居ります。その皺くちゃの顔の、なんと醜悪なことか!

 私は何ゆえこのような男を好きになったのでしょうか。男は今ではただ醜い脂肪の塊と成り果てた不快な笑窪を浮かばせて、みっともなく生にしがみついています。私には、その時の彼の表情が、どうにも耐えられなかったのでした。

 

 

 

 

「それが、あなたが被害者を殺害した動機ですか?」

「はい」

「後悔はなかったのですか?」

「ありません。彼をこの手で殺めたことで、ついに私たちは再会を果たしたのですから」

 

 --もっとも、一同の感動は長く続くことはなかった。なぜなら検察によって、この老女が被害者に多額の保険金をかけていたことが明かされたからである。女はこれに有効な反駁を行えず、口調はすっかり嗄れてしまった。聴衆によれば、この公判の数時間で女はすっかり老いさらばえたように見えたという。

 金は愛に勝る。


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