【完結】魔法少女リリカルなのは ーThe Ace Chronicleー 作:春風駘蕩
1.揺れる心
「―――僕の知っていることは、これで全部だよ」
最後までなのはを気遣った穏やかな口調で、インシグニアは話を締めくくった。
しんと静まり返った訓練室の片隅で、隣りに座る少女を見下ろして、剣の騎士は痛ましげに表情をゆがめた。虚空を見つめたままなんの反応も返さないなのはの姿は、あまりに見ていられないものだった。
何も苦しめたかったわけではない。大人たちの確執がどうして起きたのか知ってもらい、巻き込まれないように気遣ったつもりだったのだ。
「確かにそもそもの原因は、ジンガーが言った大事件が起きた事だ。誰もが予想できなかったし、人が傷つくことは避けられなかったし、止めることはかなわなかったと思う。……でも、あの人の行動が事態を悪化させたっていうのは間違ってない。その点では、僕も彼を責める気にはならない」
膝の上に置かれた手がギュゥッと握り締められ、なのはの動揺を伝えてくる。信じたくない、だけどジンガーらの態度に納得してしまう過去の因縁を聞かされ、どうすればいいのかわからなくなっているようだった。
インシグニアは困ったように頬をかき、少女の苦しみを和らげてやろうとしてか、小さな背中を優しく撫でてやった。
「……さすがに、あの事件のすべてがあの人の責任だとは思っていないよ? でも、少なくとも根本的な部分であの人の浅はかな行動が起因になっていることは間違いない」
それでも何も答えを返さない少女に、インシグニアは痛ましげに眉間のシワを深め、少女に触れることもやめてため息をつく。
ただ慰めるだけでは、この少女の苦しみを和らげることはできそうにない。
周りに流されながらも、懸命に自分のとるべき道を探し続けていたと言う強い子だ。選択肢を与え、自分で心の整理をつけさせたほうがいいのかもしれない。
「君にとっては余計なお世話だったかもしれないね…。でも、これ以上傷つく君を見たくなかったんだ。これ以上あの人に傷つけられる前に、真実を知っていてほしかったんだ……」
俯く少女の表情は何も見えない。迷い、悲しみ、不安、もしかしたら怒りも混ざって頭がぐちゃぐちゃになっているのだろう。
信頼していた大人に「裏切られた」ショックは、相当に大きいようだった。
「あの人もそれをわかっていて、君を突き放したんだ。癪だけどあの人のその厚意だけは、正しい判断だったって僕は思う。……これ以上深入りする前に、あの人とは距離をとっておいた方がいいよ」
先ほどアインがなのはに見せていた冷たい態度も、自分の状況を自覚している彼女にしてみれば必要なことに見えた。
罪を犯したとはいえ、管理局員という善の存在であることは間違いない。自分の都合に関係のない少女が巻き込まれることを懸念したその行為だけは、評価に値するものだった。
「…じゃあね。それと……ごめんね」
これ以上聞かせるのも酷だろうと、インシグニアは腰をあげてその場から離れていく。
その横顔に憐憫を滲ませて、剣の騎士はなのはの隣を後にした。
しばらくなのはは虚空を見下ろしていたが、やがて気だるげに顔をあげると壁に背を預けて天井を仰ぐ。深い息を吐いて、閉じていた瞼を開くと、その中からは切なげな光が覗いて見えた。
「……あれは、ただの夢じゃなかったんだなぁ」
思い出されるのは、アインと最初に出会ったーーーいや、再会した日の朝に見た夢。自分の記憶にはなかった、しかしどこか懐かしい感覚を覚えた光景。
あれはもしかしたら、この未来を予知したがゆえに蘇ってきた記憶なのかもしれない。でなければ偶然にしてはあまりにも不思議で、誰かが仕組んだもののようにさえ思えてしまう。
「アインさん、私と初めて会ったふうに見えたから、全然わからなかった。……知ってて、黙ってたんだ」
そう呟くなのはの目に浮かぶのは、騙されていたことへの怒りではなく、教えてくれなかったことに対する悲しみと寂しさ。
分かってはいる。自分の過失で家族を失いかけた少女に名乗ることが、どれだけ勇気のいることなのか。幸せに笑っている少女の前で、かつてその相手を苦しめたなどという罪を告白することが、どれだけ苦しいことなのか。
受け入れられたかはわからない。だがそれでも、胸の内を教えてくれなかったことは辛く感じた。
「私を守ろうとしてくれたのはただ優しいからじゃなくて……あの時のことを、ずっと忘れていなかったからなのかな」
颯爽と自分やユーノを助けてくれた姿を見たときは、絵本の中から出てきた優しくて強い騎士のように思えていた。
しかしその優しさの根元が、助けた少女への後ろめたさだったのかと思うと、まぶたの裏に浮かぶ姿が徐々に曇っていくように思えた。
―――悪い人がいて、その人が正義の味方に倒されれば平和が戻り、みんなが笑顔になる。
そんな事もあるのだろうが、現実のほとんどはそんな簡単なものではないという事を、私も理解している。
―――昔自分が悲しかった時にも、冷たい現実に泣かされた時にも、そこには「悪い人」などいなかった。
物心ついて、おそらくは一番人恋しい時期に見ていた、一人ぼっちの夕暮れ。
事件が原因で病院のベッドに寝たきりとなり、自分を抱き上げることもできなかった父。
始めたばかりの翠屋を一人で必死に切り盛りしながら、夫と三人の子供の面倒を見なければならなかった母。
剣の鍛錬どころか、学校さえ休んで家業を手伝うことも多かった兄。
それらを手伝いながら、一人ぼっちになってしまう妹を構ってやろうと懸命だった姉。
末の妹はただ一人、何もできぬ自分に悔やむばかりだった。
―――父の事件の原因となった相手を憎むのは簡単だった。
憎んだところで悲しみが終わるわけではなかった。
すでに発生してしまったどうしようもない悲しみを止める方法など、そう簡単には存在しない。
―――それでも折れずにいられたのは、あの日出会った騎士が寄り添ってくれたからかもしれない。
帰らぬ家族を想って泣きじゃくる私を不器用ながらもあやし、悲しみをぶつけても何も言わずに受け止めてくれた。
ずっと忘れていた想い出が、次々に蘇ってくる。
悲しみのあまり、忌まわしい記憶として封印してきたそれが、今になって鮮明に蘇ってくる。
―――でも、もし……もし例えば。
―――かつて自分を支えてくれた正義の味方が、本当は自分と家族を悲しみの底に陥れた張本人だったときは、どうすればいいのだろうか。
「………私、もうわからないよ。アインさん…」
誰よりも力強い味方に感じ、頼りきっていた青い鎧の心優しき騎士。
それが全て幻だったとすれば、これまで抱いてきた憧れの気持ちはどうなってしまうのだろうか。
答えを見出せずにいるなのははただ、訓練室の隅で小さくうずくまる他になかった。
アインは虚空を見つめながら、頻繁に地球、海鳴市を訪れる因縁のきっかけとなった日のことを思い出す。
もう忘れ去ってしまいたい、しかし忘れることは許されない忌々しい後悔の記憶が、今もなお彼女を苦しめ続けていた。
「……あの時、士郎はあんな大怪我を負うはずではなかった。あんな事態に巻き込まれるはずがなかった。……すべて、私のせいだ」
「………全部が全部あなたのせいじゃないわよ」
リンディはアインを気遣い、自分を責め続ける友人を慰めようとする。
リンディの観点からすれば、高町士郎が巻き込まれた一件にアインの責任は見受けられない。過去に彼女が関わった事件、その被害者の遺族の無念が暴走し、ほとんど関係のない知人が狙われたというだけのこと。
事件そのものにしても、アインは当時に全力を注いでいたことはわかっているため、遺族の復讐は言うなれば逆恨みのようなものに思えた。
「ただ…いろんな事情が重なって、間接的に関わってしまっただけで………」
「それでも…! それでも私の行為が、あの事態を招くきっかけになったことは事実なんだ…!」
けれどそんな言葉は、アインにとってはなんの意味もない慰めの言葉でしかない。
どんなに言い繕ったところで、周囲のあらゆる悲しみは自分の行いが根源にあるのだと信じ込み、自らの心をボロボロに傷つけていく。
敵に容赦なく、味方にどんなに理不尽な目にあわされようとも守ることをやめない騎士は、自分自身に対しても優しくなれずにいた。
「私の成すこと望むこと……すべてがほかの誰かの不幸を招く。呪われている…いや、呪いそのものなんだよ、私は…」
ポツリと呟かれる言葉が、アインの胸の痛みを顕著に表す。
遠くを見つめるその目は疲れ切っていて、なのはが見て憧れた輝きは微塵も残されていない。憐れに土に汚れ、錆びた鉄のような印象を抱かせるほどに、今のアインは煤けた様子を見せていた。
「どうしてみんないなくなってしまうんだろうな……母も、仲間も、組織も、愛した人も、何もかも私の手の中をすり抜けていく」
「……ダインさんのことは、それこそあなたのせいじゃないでしょう? それに仲間も……第七特機隊のみんなはまだ生きてるじゃない」
リンディが口にした名称に、それまでずっと無表情で立ち尽くしていたアインは初めてくすりと微笑を浮かべる。
ずいぶん長く耳にしていなかった、自分がかつて所属していた部隊の名を聞き、アインは胸の奥が締め付けられる、苦しくも心地よい感覚を抱いた。
「ああ……懐かしいな。魔法もろくに使えない、落ちこぼれと呼ばれた私が送られた実験的な機動部隊。そうだ…みんな、元気かな」
「そういえば、あの頃からあなたたち無茶ばかりやってたわよね……いつか全員まとめてクビになるんじゃないかってヒヤヒヤしてた」
二人の若かりし頃、リンディがキャリア組として経験を積んでいた時、アインはその部隊で暴れまわっていた。
とある事情から犯罪者、またはそれに加担するものに過剰とも言えるほどの憎悪を抱いていた彼女は、度々問題を起こしてはジウ館に呼び出されるということを繰り返し、リンディの肝を冷やさせていた。
アインにとって、管理局員とは単なる合法的に敵を叩き潰せる都合のいい役職でしかなく、しかし捨てがたい確かな力を持て余された結果、組織の掃き溜めのような場所へ押し込まれたのだ。
「そうだったな……だが、あそこにいた時が一番楽しかった」
決していい目では見られない、同じ落ちこぼれの溜まり場だったそこは、アインにとってはどこよりも居心地のいい場所だった。
存在すること自体望まれなかった自分が唯一ありのままでいられる、何よりも尊く大切な場所であった。
「初めて…………家族とはこんな感じなのか、と思えたんだ」
懐かしげに呟くアインだが、その目が称えているのは相変わらずの悲しみの色。
できることならもう一度戻りたい、そう思えるほどに愛おしい時間なのに、それが叶わないことをわかっている分、思い出すだけで苦痛に感じているようだった。
「だが、あいつは死んだ。管理局の最強のアイアンマンになって世界中の美女を守ると言ったあいつは、他の誰かを庇って死んだ。……私が大好きだったあいつは」
リンディはそう言って俯くアインを見ていられず、自身も苦痛に表情を歪めて目をそらす。アインの想う友は、リンディも深い面識があったからだ。
アインのかつての心の支えとも言える存在であった彼は、リンディにとっても掛け替えのない友人の一人となっていた。
しかし、彼はもうこの世のどこにもいない。
唯一無二の存在を失った時のアインは、当時彼女を嫌っていた者も悪態をつくことをためらわれるほどに憔悴し、陰鬱な雰囲気を放っていた。
「あいつだけじゃない……私が愛した人はみんな不幸になる。ともに生きたいと私が願った相手は、みんな私よりも先に逝ってしまう」
生まれてから幼い頃までは何も得られず、せっかく手に入れたものは奪われるか無惨に壊されてしまう。失うことそのものを運命付けられているような彼女にとって、自身にただ近づくことさえ危険なことに思えてしまっていた。
「この世に生まれてきたこと自体が間違いだった私には、幸福など許されるわけはないのかもしれないな…」
立ち尽くし、虚空を見つめ続けるアインの目に映っているのは、どうしようもないほどに深い諦観の念だけであった。