【完結】魔法少女リリカルなのは ーThe Ace Chronicleー   作:春風駘蕩

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㊗️50話到達


7.アインという女

「で…なのはさんとユーノくんは、私じきじきのおしかりタイムです」

 

 アースラの一室の中で、手を組んだリンディがやや厳しい眼差しでなのはとユーノを見据える。

 有無を言わさぬ怒気に心当たりしかない二人は暗く沈んだ表情でうつむき、肩を落として説教を受けていた。局の者達にも予想外な事態が起きたとはいえ、言いつけを破った結果とんでもなく恐ろしい目にあったのだから。

 

「指示や命令を守るのは個人のみならず、集団を守るためのルールです。勝手な判断や行動があなた達だけでなく、周囲の人達も危険に巻き込んだかもしれないということ…それは、わかりますね?」

「はい…」

「まぁ…うちにもそれが守れない困った子がいるのであまり強くは言えませんから、今回は特別に…あくまで特別に不問としますが」

 

 苦虫を噛み潰したように、非常に気まずそうに告げるリンディに、なのはとユーノはホッと安堵のため息をついた。

 しかしリンディは、肩を落とす二人を再びきつく睨み釘をさす。

 

「ただし、二度目はありませんよ? いいですね?」

「はい…」

「すみませんでした」

 

 二人が心底反省していることを認めると、リンディはようやく怒気を納めて椅子に座りなおす。

 目論見が甘い子供達への注意喚起は終わった。次は自分たち大人が気をつけなければならない事案が待っていた。

 

「さて……問題はこれからね…」

 

 リンディが何について考えているのか察し、なのはは悲痛な目でリンディに問いかける。

 重大な命令違反をした、リンディのいう困った子はもう一人いるはずだった。しかし彼女は今、アースラの治療室でずっと眠り続けており、一切面会を謝絶されていた。

 夥しい量の血を浴びて暴れ狂う騎士の姿を思い出し、肩を震わせるなのははためらいがちにリンディに問いかけた。

 

「アインさん………大丈夫なんですか?」

「心配はいらないわ……今のアインはどんなに傷ついても、死ぬことはない。……死ぬことが許されていないの」

 

 だから心配しなくても大丈夫だ、とリンディは語るが、現場を目の当たりにしていたなのはたちからすれば、信用に欠ける言葉であった。

 焼かれ炭化した体、切り裂かれた片腕、撒き散らされる大量の緑の血、そしてアインの苦痛混じりの咆哮。全てがいまだに、鮮明に思い出せた。

 

「昔からああ(・・)なのよ……正義感が強いっていうよりも、自分がその場に向かって解決しないと気が済まないっていうのかしら。とにかく自分が傷つこうが死にかけようが御構い無し……こっちはそのせいでハラハラしっぱなしだっていうのにね」

 

 リンディは昔を懐かしむような、どこか遠くを見つめる眼差しで虚空を見やる。

 ユーノは前々から気になっていた、アインに対するリンディと他の局員たちとの距離感の違いを思い出し、やけに親しげな彼女に思い切って尋ねてみることにした。

 

「……アインさん、いつから管理局に?」

「……ちょうど、あなたと同じくらいの歳の頃ね。私はその時は本局に、アインは地上本部……こっちで言う所の警察とか自衛隊でいいのかしら? 都市の治安を守る部隊にいたの」

 

 リンディは少し寂しげに微笑み、かつての記憶に想いを馳せる。

 そばに控えていたクロノは無表情を貫きながら、やはり少し気になっている様子で横目を向けていた。

 クロノだけではなく、なのはたちへの説教を見守っていたエイミィも、そして待機していた他のアースラクルーたちも、そして地上本部の局員たちも、いい噂を聞かない女騎士の過去が気になるようで、離れた場所から様子を伺っていた。

 

「お互い本来なら顔を合わせることもなかったはずなんだけど、如何してかよく関わることが多かったの。ほとんど凶悪な犯罪者がらみだったけどね……思えば、あの頃が一番楽しかったわね」

「……アインさんは、何者なんですか……?」

 

 なのはの表情に混じる怯えに気づいたのだろう。リンディはすぐ近くに控えているクロノやサクソ、様子を伺っているエイミィや三頭狼(ケルベロス)の面々に目を向け、深いため息をついた。

 やがてリンディは覚悟を決めたように、もしくは諦めたように物憂げな表情のまま語り始めた。

 

「もう………二十年近く経つのかしらね」

 

 リンディは記憶のページを一枚一枚めくり、ゆっくりとと思い出していく。

 かつて自分も、そしてミッドチルダのすべての人間が巻き込まれることとなった忌まわしき事件の全貌を。

 その結末を担った、血に濡れた過去を持つ女騎士の姿を。

 

「あの子は…自分の願いのために全てを投げ出したの。地位も名誉も、そして…………自分自身でさえも」

 

 局員たちから向けられていた嫌悪の眼差しが、わずかに強くなる。

 数多の人々がその命を奪われた事件、その被害者も何人か混ざるこの場において、アインのやった行いは憎悪の対象となり得た。

 それ故にまずは、アインが()()()()()()()()を語らねばならなかった。

 

「私は出会った当時から……私はあの子が()()()()()ことを悟ったわ」

 

 

 ―――アイン・K・アルデブラントは、ミッドチルダにおいても名門とされる貴族の血を引いて、この世に生まれてきた。

    しかしその血は半分だけで、残りの半分は何の変哲もないただの一般人から受け継いだものだった。

 

 ―――アルデブラント家は、かつてベルカの戦役において〝剣聖〟と呼ばれた一人の傭兵が武勲により爵位を得て、貴族への仲間入りを果たした血筋であった。

    子孫の多くは、ベルカ戦役において最強と呼べる剣技を受け継いでおり、一族はその戦闘能力により財を築き、現代まで繁栄を誇ってきていた。

    しかし、長い年月の末に高潔であったはずの一族の精神は堕落し、最強の剣技はいつしか錆びつき、酒と欲に溺れ、富と権力を笠に着るようになっていった。

    現代のアルデブラント家次期当主であった男も、例に漏れぬ下種を絵にかいたような存在であり、若かりし頃にアインの母を無理矢理手籠めにし、孕ませた後碌な援助もなく捨てるような碌でもない 男であった。

    いくら貴族であろうとも許されない狼藉を働いたにもかかわらず、アルデブラント家は金にものを言わせてその事実を隠し、味方を得られなかったアインの母は、たった一人ひっそりと生きるほかになかった。

    長い間事実の隠蔽のために拘束され、もう堕ろすこともできないほど重くなった腹を抱え、貧しい日々を生きなければならなかった。

 

 ―――そうしてアインは、父親のいない娘として生まれた。

    一人の愚かな男の性欲処理の結果にできた、誰にも望まれることなく作り出された命。存在するだけで母の命を蝕む呪われた娘として、アインは生まれてしまった。

    自分の存在が望まれていないことを、アインは物心つく前から何となく察していた。他の同年代の少年少女たちとは明らかに待遇の異なる生活と比べてしまい、どうしようもない虚しさを覚えながらも、アインは何も言えずにただそこに在るだけであった。

    日に日に痩せ衰えながら、それでも腹を痛めて産み落とした娘を守るために必死になる母に痛々しさを感じながら、アインもまた必死に日々を生きていた。

    しかしそんな生活も、そう長くは続かなかった。

 

♠︎ ♦︎ ❤︎ ♣︎

 

 どんな世界にも、光の当たらない日陰がある。

 それは人も同じことで、眩しい太陽の元を大手を振って歩くことのできない、それを許されない人間はどこにでもいる。

 そんな者達が集まる、廃棄された街がある。犯罪率の上昇や人口の減少、様々な要因で住まう人間の質が低下した場所があり、それは魔法の世界ミッドチルダも例外ではなかった。

 

「……母さん、今日はこんなに稼げたよ…」

 

 スラム街の奥の奥、家と呼ぶにはあまりにも粗末な小屋。扉を開けるだけで全体がきしむその中で、母娘は暮らしていた。

 ボロ布を重ねて作られた、腐臭のするベッドの上で眠る女性に、野良犬の毛のように乱れくすんだ金色の髪の少女が、数枚の貨幣を見せて儚げな笑みを見せる。

 体は十分な食事も得られずガリガリにやせ細っていて、いまにも折れてしまいそうなほどに弱々しい少女―――アインは母に心配をかけさせないと、気丈に笑みを浮かべていた。

 

「もう少ししたら、この間の荷物運びの分の給料が入るから、そのお金で母さんの薬を買えるよ。……余ったら、新しい毛布でも買おうか。最近、冷えてきたから……」

 

 日に日に痩せていく母の横顔に唇を噛み締めながら、アインは母の体に新しく手に入れたボロ布を重ね、ぬくもりを与えようと努める。

 凍える風がそのまま入ってくるほど朽ちた屋内だが、明日のパンさえ手に入れられない親娘にとっては貴重な寝床。

 アインがこの世に生まれ、母が病魔に侵され寝たきりになってからは、この小さな空間こそが守るべき国であった。

 

「……ごめんね」

 

 背を向ける娘に、母はいまにも途切れそうなか細い声で語りかける。

 本来であれば自分が命を賭してでも守らなければならないたった一人の子供、憎い男の血が混じっていても、それを理由に親の務めを放棄する気にはなれなかった。

 だが、自分の意地で受け入れたつもりの生活も、時とともに強い後悔が募るようになっていった。

 

「私がもっとしっかりしていたら……あんな人に捕まることもなかったのにね………本当に…ごめんね……」

「……もう、その話はもう終わりだって言っただろう? 母さんが悪かったところなんて一つもない……大丈夫だよ」

 

 アインは知っている、母がいつも眠っている間に涙を流していることを。何度も何度もうわ言の中でアインに謝り、あの男への恨み言を口にし続けていることを。

 そして―――いつからか、寝言の中に少しずつ彼女の本音が混じり始めていたことに、アインだけが気づいていた。

 

「―――ごめんね。貴女を……産まなければよかったね」

 

 はっきりとした悲しみと申し訳なさ、同時にわずかな憎しみの混ざったその声を聞いたアインは、ピタリと手を止めて唇を噛む。しかし無理やり口元を歪め、無様な笑顔を浮かべて誤魔化すような眼差しを母に送る。

 優しい母がこれ以上壊れないように、アインは必死に自分の苦しみの感情に蓋をしていた。

 

 

 ―――母の呟いた言葉は、アインの心を壊すには十分すぎた。

    自分の命に、存在に価値を見出せないアインの根源は、この瞬間から生まれていたのだった。

 

 ―――結局アインの母は、自分がアインをこの世に産み落としたことを後悔しながらこの世を去った。たった5歳の少女を残し、愚者に人生を滅茶苦茶にされた女は、ほかの誰かを恨むこともできずに儚く短い生涯を終えてしまったのだった。

    天涯孤独となったアインはその後、何の悲運かアルデブラント家に引き取られた。アインの母の訃報をどこからか知り、仮にも血筋を引いている少女に利用価値を見出した当主―――血縁上の父親が接触してきたのだ。

    母への暴挙を知っているアインは当然それを拒否しようとしたが、無理矢理アルデブラントの屋敷へと連れていかれてしまった。

 

 ―――そこで待っていたのは、より悲惨な地獄であった。

    当主の正妻と妾の子らが、自分たちよりも圧倒的に立場の弱いアインに目をつけ、執拗に暴力や罵倒で責め立てるようになったのだ。

    特に理由があったわけではない。些細なアインの行動が気に入らず、そして父親から受け継いだ弱者への嗜虐願望が合わさり、苛立ちや日々の不満のはけ口としてアインに向けられてしまったのだ。

    父親に似た悪魔のような笑みを浮かべ、殴る蹴るの暴行を加え、口汚く罵って来る者達を、幼いアインはただ身を丸くして見上げることしかできなかった。

    腹違いの兄弟や義母達、ときには実の父親にまで直接的な暴力を、中には性的な悪戯まで与えられ、アインの精神はわずか数日でボロボロに傷つけられていた。

    当時のアインは、すでに生きることを諦めていた。ただ苦しみばかりが続く人生に価値を見出せず、最初のころには上げていた悲鳴もある日を境に一切こぼさなくなってしまった。

 

 

「もう…いやだ……!」

 

 屋敷の隅の隅、物置程度にしか使われていなかった埃まみれの小さな一室で、アインは膝を抱えながら涙を流した。

 アインは屋敷に引き取られ、アルデブラントの姓を授けられた。しかしその後は養子とは名ばかりの粗末な扱いしかされず、与えられるものも最低限のものばかり。

 

「母さんもいない……家族もいない…! あんな男に生かされるのはもうごめんだ……! こんな地獄で生かされ続けるぐらいなら、いっそ………」

 

 一部の使用人たちからも都合のいい奴隷のように酷使され、皹や火傷を負ったアインの手はもはや子供の手には見えない。

 この地獄から逃げることも叶わないアインの目は、窓ガラスを叩き割って手に入れた鋭利なガラスの刃を映していた。

 掴むだけで手のひらからは血が溢れ出す、鋭いガラスの破片の先端を自分の胸に突きつける。

 

「何を勝手なことをしている」

 

 だが刃は、いきなり横から襲いかかってきた衝撃でアインごと吹っ飛ばされる。

 顔の半分に走った鈍い痛みに目を見張り、ガタガタと震えながら見上げたアインが目にしたのは、気だるげながら下卑た笑みを浮かべる身なりのいい長身の男性。

 甘い顔は数多の女性を虜にしそうなフェロモンを放っているように見えたが、じっと目を見れば人をものとしか認識していないような濁った瞳に気づける。

 

「お前の全ては俺のものだ……大した役にも立たないなら、せめて死ぬ瞬間まで俺の役に立てろ」

 

 そういって男性―――アインの父であるアルデブラント家当主は、怯えた表情を見せるアインを愉しげに踏みつけ、悦に浸る。

 アインはギリギリときつく歯を食いしばりながらも、その屈辱に耐え続ける以外になかった。

 

 

 ―――アインに死ぬことは許されなかった。

    アインの血を別の貴き血に混ぜる、つまりはどこぞの有力貴族の子を産ませ、さらなる権力を得ることを考えていた当主は、食事もとろうとしないアインに無理矢理管を刺し、強制的に栄養を摂取させることで強引に生き永らえさせていた。

    生きることも死ぬことも望まれない哀れな少女の地獄の日々は、一年も続けられることとなった。

    しかしある時、アインを取り巻いていた地獄の日々は唐突に終わりを迎えた。

 

 ―――アルデブラント家に何者かが侵入し、一家全員を惨殺してみせたのだ。

 

 

「ごはっ……き、きさま…‼︎ こんなことをしてただで済むと………」

 

 当主が血走った目を向け、目の前で自分を見下ろす黒い影を睨み唾を吐きかける。

 吐いた唾に混ざるドス黒い赤色は、当主の胸の中心に突き立てられた刃によるもの。既に流れ出した夥しい量の血が、彼の命がじきに尽きることを表していた。

 黒い影は舌打ちすると、突き立てた刃を引き抜き当主の首に向けて一閃した。

 

「ぎゃああああああああああ‼︎」

 

 単純作業のついでのような淡々とした作業によって、当主は無様な絶叫を上げて沈黙する。これまで散々悪事を働き、それを闇に葬り好き勝手に世を荒らし回っていた男にしては、あまりにあっさりとした最期であった。

 アルデブラント家の屋敷は、あっという間に全ての気配を絶たれた。当主もその妻も、そして子供達も全員凶刃によって命を奪われ、物言わぬ骸となって床に転がされていた。

 

「……誰にも望まれることなく、しかして自ら命を断つことも許されなかったか。哀れだな、小娘」

 

 最後に残った一人、屋敷の隅の物置でぼんやりと座り込んでいたアインのもとにも、黒い影は姿を現した。

 彼女の装いを見て全てを察したのだろう。それまでの淡々とした動作とは異なり、一撃に全力を込めるようなゆっくりとした構えがとられる。慈悲ともとれる感情が、アインを映す目に宿っていた。

 

「…お前に恨みはない」

 

 窓から差し込む月光を反射する刃が頭上に掲げられていっても、アインの表情が動くことはない。

 怯えも悲しみも、解放されることへの喜びさえもない。ただただ一切の光を失った「無」の眼差しで、黒い影を見つめているだけだった。

 

「だが、許しは請わない」

 

 そう短く告げられ、黒い影の振るった刃がアインの肩から腰までを斬り裂く。

 わずかな沈黙の後、アインの胸元からから大量の血液が噴出し、あたりを真っ赤に染めていく。やがてアインは最後まで冷え切った無表情のまま、血の海の中に倒れこんだ。

 

 

 ―――堕ちた悪徳貴族は、こうして誰の目にも止まらぬうちに粛清された。一部の世間は好ましい顔を浮かべていたが、おぞましい事件であることには変わりがなかった。

    まだ年端もいかない子供にまで手をかけた殺人鬼は当然恐れられ、一刻も早い拿捕が願われていた。

    しかし被害者の中で、心臓にまで届きかけた重傷を負いながらも、アインは一命をとりとめた。生き残ってしまった。

 

 ―――名門貴族を襲った悲劇はすぐさま管理局によって取り扱われ、大規模な捜査網が敷かれた。数十人が捜査に投入され、徹底的に事件は調べ上げられた。

    しかし捜査は難航し、犯人の情報も何も見つけることはできなかった。無惨に殺害されていた被害者からは何の痕跡も残ってはおらず、捜査によって明らかになった夥しい数の悪事の発覚により、犯行の動機も確定することは不可能に近かった。

 

    たった一人生き残った少女―――アインにも聞き込みが行われたが、明らかな暴行の痕跡の残る少女は、その質問に対する答えを一切口にしようとはしなかった。

    長年にわたる傷跡を目の当たりにした魔導師たちはその痛ましさに思わず瞠目し、いつしか少女から事情を聞き出すことよりも、どうにか反応を引き出すことに専念するようになっていった。

    しかしアインはどんなに優しい声をかけられたとしても、まるで良くできた人形のように沈黙するだけで、彼らに心を開くことはなかった。

 

 ―――こうしてアインは牢獄から連れ出されたものの、依然として彼女は壊れたままであった。

    孤児を引き取る施設にいったん預けられたアインは、笑うことも泣くこともせず、施設にいたほかの子供たちと話すこともなく、長い間一人で静かに過ごしてばかりいた。

    日に日に痩せていく彼女に、事情を知らされた施設の職員たちは会話を試みるものの、そのどれもに反応を示すことはなかった。

 

 ―――その日常に変化が現れたのは、意外にも数日後のことであった。

 

 

「……何だ、お前」

 

 いつも通り、何をすることも何を見ることもなく、虚ろな目で虚空を見つめていたアインの元に歩み寄る、一人の女性の姿があった。

 アインが施設にきて数週間、その頃には誰もがアインの心を開くことを諦め、いずれきたる安らぎの時までそっとしておくことが暗黙の了解となっていた。

 そんな彼女に近づいたのは、アインがそれまで会ったことのない種類の人間だった。

 

「懐かしさに駆られて久々に来て見れば……えらく辛気くせぇ顔したガキがいたもんだな。名前は?」

「…………」

「名前を聞かれたら答えるんだよ。おら、言って見ろ」

 

 顔を両側から挟み、無理やり振り向かせた女性が乱暴な口調で問いかける。

 アインは変わらず表情を変えることはなかったが、女性の有無を言わさぬ態度にわずかに興味を持ったのか、それともさっさと離してもらおうと思ったのか、久しぶりに口を開いてか細い声を発した。

 

「…――――」

「…何だ、言えるじゃねぇか。だがその顔は頂けねぇな。ガキのくせに死人みてぇな顔晒してるんじゃねぇよ」

 

 アインは抵抗も嫌がることもしなかった。腹が立っていた、ただなんとなく、そんなしょうもない理由で暴力を受け続けてきた彼女は、もう傷つけられることに対してなんの感情もわかなくなっていた。

 しかし目の前の女性は、アインを攻め続けてきたものたちの見せる眼差しとは、全く異なる色を見せていた。

 じっとアインを見つめていた女性は、しばらくしてニヤリと笑みを浮かべ、アインの頭をわしわしと掻き乱し始めた。

 

「よし、決めた。お前はあたしが預かる。異論は認めねぇ! 以上!」

 

 

 ―――アインの人生は、またも第三者の手によって変えさせられた。

    しかし今回に限って言えば、その変化は決して悪いものではなかったようだった。


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