【完結】魔法少女リリカルなのは ーThe Ace Chronicleー 作:春風駘蕩
切り立った崖の上、激しく波が打ち付けてくるその上で、巨大な二本の角、正しくは牙を生やした金色の異形が佇む。
武器を持つその手は真っ赤に濡れ、先ほどまで生きた誰かが流していた温もりを保っている。醜悪に歪んだ異形の顔は、どことなく愉悦に満ちていた。
「……追い詰めたぞ、ハートのキング」
そこへ、銃を構えたダイヤの騎士、サクソが颯爽と現れ、銃口を突きつけたまま異形に向けて告げる。
ゆっくりと振り向き、殺気を迸らせる異形と相対するが、仮面に隠された表情はためらいが生まれていた。
このまま戦い、封印してもいいのかという、そんな迷いだった。
(アルデブラントが一体、何を考えているのかは俺にはわからない……あの男の言った通り、ジョーカーを封印してもこいつを封印しても、どのみち世界は終わる)
ヘヴンズロードを、新たに現れたアンデッドを討った時にこぼしていた、部下である女騎士の言葉。
共に戦い、道の半ばで深い傷を負わせてしまった彼女を疑うわけではない。だが、 それでも無視できないほど不穏な影を、アインは残していた。
(アイゴ・ハジメの出した案も使わず、どうやって人類の滅亡を防ぐつもりだ、アルデブラント…!)
ジョーカーアンデッドを封印する、つまりハジメを犠牲にすればミッドチルダの人類を救うことができる。現状それ以外に、この事態を収束させる手段など見つかっていない。
それを拒絶したアインの考えを悟れず、サクソは目の前の異形、ジョーカーを除いた最後のアンデッドを見つめ、拳を震わせた。
(…どのみち俺は、弱き人々に害をなす化け物を封印しなければならない)
「これが俺の使命……そうだな、サテラ…」
異形の手についた赤い雫を見やり、サクソは揺れていた己の意思を定めていく。己の意思に迷いを抱き、失ってしまった最愛の女性を思い浮かべ、サクソはキッと表情を改める。
組織の人間としてではなく、騎士として戦うために。
「うおおおおおおおおお‼︎」
雄叫びをあげ、サクソは異形に向かって突進する。その手に自身が持つ最後のラウズカードを握りしめ、異形に飛びかかる。
直後、激しい水飛沫が上がり、その中で妖しい緑色の光が弾けた。
そして、滅びの刻は始まった。
地下深くの空間、岩石で下部を覆われた謎の金属モノリス。
それが突如、薄暗い緑色の光を放ち、表面をぐにゃりと歪めていく。まるで波紋のような変形が生じたその中心から、漆黒の光沢を放つ悪魔のような貌が覗き、ズルズルとその体をあらわにする。
真っ黒で節くれ立ったその醜悪な姿は、一般家庭に出没し忌み嫌われるかの昆虫とそっくりで、見たものに整理的な嫌悪感を生じさせる。
「■■■■■■■■■‼︎」
「■■■■■■■■■■■‼︎」
「■■■■■■■■‼︎」
「■■■■■■■■■■‼︎」
「■■■■■■■■■■■■‼︎」
現れたのは一体だけではない。
モノリスの歪みを出口として、十体百体千体と瞬く間に数を増やしていく。一体だけでも恐怖をもたらすのに、それが一つの巨大な塊に見えるほど大量に押し寄せてくる光景は、絶望をもたらさずにはいられなかった。
ギチギチと耳障りな音を響かせて這い出た異形たちは、真っ黒な波となって生まれ出でた世界へ侵攻を開始する。
その世界の全ての命を、無に還すために。
「ぎゃあああ‼︎」
「いやっ…助けて……きゃああああ!」
つい数秒前までは平穏だった人の街は、一瞬にして悲鳴がこだまする地獄へと化す。それまで暴れまわっていた異形による被害とは比べ物にならない、天災格の脅威が人々に襲いかかった。
「撃て! 撃ちまくれ!」
「こいつらをこれ以上進ませるなぁぁぁ‼︎」
事態の深刻さに、やや遅い段階で管理局の武装局員たちが動き出し、正体不明の異形たちに向けて攻撃を開始する。非殺傷設定を解除した情け無用の全力砲撃が、至る所で異形たちを飲み込み爆発を生む。
だが、それらは全て無意味だった。尋常ではない不死性を持つ異形たちにはいかに強力な魔法も通らず、加えて数え切れない数の暴力にあっという間に追い詰められていく。
「だ、駄目だ…!」
「この世の終わりだぁぁぁぁ‼︎」
「■■■■■■■■■■‼︎」
「■■■■■■■■‼︎」
もはや誰も勇気を保てず、怖気付いた局員たちは我先にと迫り来る異形の軍勢から逃げ出していく。真っ先に逃げ出した上官を追い越さんばかりに、人目も憚らずに逃走する。
異形たちはそれを、鼠を弄ぶ猫のような残忍さで追いかけ、次々に捉えては強靭な顎で食い散らかしていく。あたりには鮮血が飛び散り、地獄にさらなる凶悪な彩りを加えていった。
そんな中で、ただ一人抗い続ける騎士の姿があった。
【ABSORB QUEEN. EVOLUTION KING】
「ウェエエエエエエエイ‼︎」
黄金の光を迸らせ、大剣が異形たちに向かって振り下ろされる。凄まじい量の魔力が破壊の嵐となって吹き荒れ、異形たちをあっという間にバラバラにし、跡形もなく消しとばしていく。
考えることも馬鹿らしくなるほど強力な力で、その場からは消しゴムで消したようにごっそりと異形たちの姿が消えていく。
しかしすぐに、建物の影や下水管から新たな異形たちが現れ、群れとなって騎士の前へと進み出てきた。
「これが……世界の終わり…⁉︎」
その光景を、鎧を纏ったムーヴが唖然とした様子で凝視し絶句する。
無数の屍が転がり、街は見る影もないほどに破壊され、あちこちで火の手が上がる。かろうじて逃げ延びた人々も、刻一刻と迫る死に冷静さを保つ暇をなくしていた。
「お父さん……! お母さん…!」
再び派手な雷の嵐を吹かせていたアインは、大剣を下げ聞こえてくる声に足を止める。
血だまりに沈む一組の男女と小さな影。おそらくは両親と弟妹であろう骸を前に、幼い男児が意味のない呼びかけを続けている。泣きじゃくるその姿に、同じ場にいたムーヴはきつく歯を食いしばった。
「何やってるんですか、アインさん…! こんなのを…どうやって抑え込むっていうんですか…⁉︎」
共に戦い、窮地を救ってくれた恩人であるアインが思うことなら、きっと何か策があるのだろう。そんな信頼を抱いていたムーヴは、徐々にそれが揺らぐのを感じる。
こんな惨劇をどうやって解決するのか、ムーヴには微塵も想像できなかった。アインの友人、リンディにも。
[アイン! アインってば! あなた一体何を考えているの⁉︎]
「おあああああ‼︎」
[こうしている間にも、ミッド中にこいつらが溢れているのよ⁉︎ 一体一体相手をしたところでなんの意味もないわよ⁉︎]
開きっぱなしになっている通信から、リンディの泣き叫ぶような声が届く。だがアインはそれに一切の返答をすることなく、まっすぐに異形たちに挑み粉砕することをやめない。
川の水を人の手のみで汲み、流れを止めようとするような無謀な戦いに、リンディは親友の正気を疑う他になかった。
そんな中、アインは通信に気を向けることなく、異形の一体を叩き潰してから小さく呟いた。
「……足りない」
[え?]
「まだ…足りないんだよ」
戸惑いの声をこぼすリンディに応えることなく、アインは次なる獲物を探して剣を振り上げ、駆け出していく。
その目がリンディを見ることは、なかった。
[アイン!]
海がひっくり返ったのかと勘違いするほどに、激しく大量の雨が降り注ぐ。
異形の軍勢の断末魔の声が、いまもなお耳に余胤として残っているような気分に陥りながら、女騎士は彼の男と相対していた。
「…………やはり、お前が来たか。ケンザキ」
豪雨の中から、ジョーカーアンデッドは黒い目でアインを見つめ、口を開く。
人間の喉からは出せるはずのない、無数の声が混じったようの不気味な声でアインに語りかける。見るのもおぞましい凶悪な外見であるはずなのに、アインの中に異形に対する恐怖心は微塵もなかった。
「……ハジメ」
長い間戦い続けてきた女騎士はここで、初めて表情を歪ませる。悲しげに、苦しげに眉を寄せ、異形を凝視する。
ギシッと歯を食いしばり、必死の表情を浮かべて愛した男を凝視する。
「こんな未来に繋がる前に……、こんな結末を迎える前に……他になかったのか? 私たちにはっ……もっと、選べる未来があったはずじゃないのか…………?」
「……それは、あまりに傲慢な問いだぞ。ケンザキ」
ジョーカーアンデッドは厳しい口調で、しかしどこか哀れむような声でアインに語る。
口ではどんな言葉を吐こうとも、胸の内の真意は女騎士と同じだった。心を持ってしまったがために、こんなにも愛しい人間のために苦しむことになろうとは、彼自身も思わなかっただろう。
「俺たちは所詮、ゲームの駒だ。俺という存在がここにいるだけで、人類の敗北は決定してしまっている。……それを防ぐためには、俺を封印する他にない」
「ッ…………」
アインは唇を噛み締め、俯く。わかっていた。そんなことは。
わかっていて、これまでずっと見ないふりをしていた。この優しい異形を失いたくなくて、奪わせたくなくて、ずっと戦うことをためらってきた。
そうだ。こんな状況になったのは、全部自分の弱さが原因だ。
「ケンザキ、これは運命だ。……俺たちは、出会った時から戦うことが決まっていたんだ」
「…………嫌だ嫌だと駄々をこね、問題を先送りにしていた罰か、今のこのザマは」
雨雲を仰ぎ、アインは両目を手のひらで覆ってため息をつく。この惨状は他の誰でもない、自分自身が引き起こしたものだということだ。情けなくて涙が出る。
「…………うまくいかないな、何事も」
「…………そうだな」
力なく笑うと、頬を何か熱いものが伝っていく。何度目だろうか、この豪雨に感謝しそうになるのは。
今ならきっと、どんなに涙を流したって誰も気付きはしないだろう。たとえそれが、目の前にいるかの男であっても。
「―――決着をつけよう、ハジメ……いや、ジョーカーアンデッド」
「始まった…!」
リンディの部屋に集まった、一連の事件に携わってきた者達が、リンディから繋がれた通信に耳を傾ける。
音声だけが伝えてくる破砕音と金属音の大きさは、アインとハジメの戦いがどれほど凄まじいものかを物語っていて、誰もが息を呑んで立ち尽くす。何もできない己自身に、歯噛みしながら。
「一体どうするつもりなんですか、あの人は…!」
「わからないわ……私にはもう、あの子が何を考えているのかわからない…!」
ムーヴに問われれても、リンディに応えることはできない。
長年苦楽を共にしてきた、親友と思っている女騎士が何を想い、救いも終わりもない戦いに赴いているのか、想像することさえできない。
ただ一つ、確信していることがあるのならば。
最後に残っているのは、誰もが悲しみに沈む残酷な結末だという事だけだった。
「……一つだけ聞かせろ、クロスボード」
しんと静まり返った部屋で、サクソが同じ空間にいるケインズに向けて口を開く。その声は厳しく、一切のウソ偽りを許さないという強い意志が伺えるもので、直接それを向けられているわけではないムーヴも背筋を震わせた。
「なぜアルデブラントを適合者として見出した。たしかに実力も胆力も申し分はないだろう……だが、それだけではないはずだ」
問いかけられたケインズに、全員の視線が集まる。
リンディは親友を危険な事態に巻き込まれたことへの怒りを、ムーヴやサクソは現在の惨状に至る一因となった行為への糾弾の意を、その目に宿してケインズを睨みつけた。
ケインズは黙り込み、険しい表情で俯く。サクソが焦れたように立ち上がったところで、ようやく観念したように息を吐いた。
「アルデブラントでなければならない何らかの理由……それは一体、何だ」
「……始まりは、ある騎士の〝預言〟だった」
ケインズは、自身がBOARDの所長となる前、単なる一局員であった時、懇意にしている聖王教会のシスターに重要な予言をもたらされたことを思い出していた。
―――黒き石板のもと、古の祖たる徒が甦る
四人の騎士と不死者は争い、聖戦は悪意に穢される
闇より生まれし黒き蟲兵が世界を喰らい、世界は零へと還る
最期の選択は、蒼き騎士に託される
年に一度しか使えない上に解読が難解な古代ベルカ語で書かれているため、的中率こそよく当たる占い程度でしかない代物だった。
だが、ケインズはそれを戯言とは受け取らず、懸念すべき重要事項として取り扱い、精力的に動き始めた。全ての黒幕であったヘヴンズロードの協力要請を受け入れ、あらゆる伝手を使って事態を解決すべく一組織を作り上げた。
そして、奇しくもその〝占い〟は命中した。
「蒼き騎士……まさか」
「そうだ」
ケインズの告白に、リンディは思わず瞠目し通信画面を凝視する。
ケインズは小さく頷き、通信の向こう側で大剣を振りかざしているであろう女騎士の姿を思い浮かべる。
彼にとって、最初から重要だったのは適合者ではなかった。
アイン・K・アルデブラントこそ、彼が最も確保しておきたい最重要人物だったのだ。
「アイン・K・アルデブラントこそ、この戦いに終止符を打つ存在であると、私は睨んでいる」
「バカな‼︎」
険しい表情で語ったケインズの襟首に、サクソが思わず掴みかかる。
ガン、と壁に叩きつけ、怒りに満ちた目でかつての上司を睨みつけるサクソは、今にも拳を出しそうになるのを必死に堪える。リンディやムーヴも、非常な決定を下したケインズを睨みつけ、罵倒しそうになる口を必死に抑えていた。
幾度も窮地を救ってくれた部下に課された責務のあまりの重さに、サクソはケインズに対して激しい殺意まで抱いていた。
「そんな大役をアルデブラントに……あいつの背負わせようと言うのか⁉︎ 恥を知れクロスボード‼︎」
「罵倒も批判も覚悟の上だ。だが、私は謝らない……もうすでに賽は振られた」
襟首を掴む腕を無理矢理外し、ケインズは覚悟を決めた様子で言い放つ。
その気迫に、サクソたちは思わず押され、返す言葉を失わされた。
「世界がどのような結末を辿ろうと、我々にはただ見ていることしか許されてはいないのだ」
「ぐはっ‼︎」
「ぐおっ‼︎」
激しい衝突により、女騎士と異形は互いに逆の方向へ吹き飛ばされる。両者の間で大きな火花が散り、真昼のように明るく照らされる。
降り続く雨の中、両者ともずぶ濡れになりながらも闘気を衰えさせず、各々の武器を掲げて睨み合う。こんな状態がすでに数時間続いており、しかし両方とも互角の状態を維持していた。
「…っ、もはや何の意味もないと言ったはずだ! バトルファイトは終わった…! どれだけ戦い続けたとしても、世界の崩壊は止まらない! 俺達が……人類を滅ぼすんだ‼︎」
悪魔のようなハジメの貌が、悲痛に歪められているようにアインには見えた。
人間の中で唯一、異形たちに劣らぬ力を見せつけ、いかなる窮地をも乗り越えて見せた鋼の心を持った女騎士。そんな彼女が、誰一人救うことのできない絶望の未来を選ぼうとしていることが、ハジメには受け入れ難かった。
だがその言葉に、アインが返したのは嘲笑だった。
それがどうしたと言わんばかりの、冷たい呆れ顔だった。
「お前がいなくなるくらいなら……そんな未来も悪くはないさ」
「…! ケンザキぃぃ‼︎」
ハジメはその返答に、怒りとともに強い悲しみを覚える。
高潔な魂を持っていた、己が信念に忠実な女だったアインは、今はもうどこにもいない。自分という、彼女にとって初めて、全てを犠牲にしてもいいと思える男を見つけてしまったために、その生き様を歪めてしまった。
それがどうしようもなく、悲しかった。
「ウェエエエエエエエエイ‼︎」
「うおおおおおおおおおお‼︎」
悲鳴のような雄叫びとともに、女騎士と異形が真正面から突撃し、力を解放した刃を振りかぶる。黄金と翠、二つの輝きが雷のように迸り、目の前の相手に向かって研ぎ澄まされていく。
次の瞬間、両者は方向とともに力の全てを解放し、激突した。
地面に溜まった濁った水の中に、二つの人影が沈んでいる。
片方は背の高い男性、もう片方は制服を纏った女性。全身を雨水で汚しながら、うつ伏せに倒れた二人は身じろぎひとつせず沈黙を続けていた。
両者ともに、全身におびただしい量の傷が刻まれ、同じ色の血潮が流れ出していた。
「……ぐ、ぉ」
不意に、男の方がうめき声とともに体を起こし、前方で倒れ伏している女に視線を向ける。
視線を感じたのか、女の方もゆっくりと顔をあげ、直前まで刃をぶつけていた男に顔を見せる。美しい顔には痛々しい傷が刻まれ、男の胸にこれ以上ないほどの苦しみをもたらした。
だが、男の表情は次の瞬間、驚愕の形で凍りつく。女の頬の傷から流れる〝色〟に、思わず絶句していた。
「…………お前、それは」
「…大して違和感はないな。全能感もないし、苦痛もない。これが
ハジメの愕然とした声に、アインは苦笑を浮かべて体を起こす。
纏っていた制服はもう原型を止めないほどにボロボロになり、自身の肌の大部分が露出してしまっている。
しかし、目を奪われるのはそんなところではない。露わになった肌のあちこちに刻まれた深い裂傷、その全てから、人間どころか生物としてありえない緑色の血液が流れ出していた。
「お前一人が、あるいはただ一体だけのアンデッドが残ることで滅びが始まるなら、その前提を変えればいい。……つまり、新たなアンデッドが現れればいい」
「…そのための手段が、アンデッドとの融合……自身をアンデッドに変えるということか…⁉︎」
異形に変わり果てた自身の体を、アインはむしろ満足げに見下ろし微笑む。狙い通りだ、と自身の結末を喜んでいるようだ。
呆然とその姿を凝視していたハジメは、すぐにその表情を悲痛に歪めていく。自分のために、世界の全てを犠牲にしようとした彼女を止めるため、自身は刃を振るっていたはずだった。
だが、違った。
アインは最初から、自分を犠牲にして全てを守ることを考えていたのだ。
「………自分を大事にできていないのは、お前の方じゃないか…!」
ハジメはその場で膝をつき、女騎士の迎えた結末を嘆く。
かつて自分を封印し、愛してしまった女を守ろうとした時に、当の本人に言われた言葉。それを自ら破ってまで、自らの願いを貫いて見せた女騎士の意志の強さを、ハジメはただ悔やむ他になかった。
だが時は、彼に顔を伏せさせ続けようとはしなかった。
彼らの間のちょうど真ん中に、見覚えのある金属の物体がゆっくりと降り立ってきたからだ。
「モノリス…」
「無粋な奴だ。急かしにでも来たか」
アンデッドを管理し、バトルファイトを執り行う謎多き石版。
得体の知れない存在の意思を伝えるそれは、雨に濡れた不気味な光沢を放ってアインとハジメを前に鎮座する。
無言で睨む二人は、脳内に直接響く聞き覚えのない〝声〟顔をしかめた。
―――遊戯はまだ終了していない。
新たなプレイヤーとして、イレギュラーを認める。
一方的に告げ、モノリスは表面に波紋を生じさせる。
その奥で蠢いている、無数の黒い異形。世界の全てをリセットするために生み出される異形の軍勢が、今一度外に飛び出そうとその時を待っていた。
アインはそれを、冷たい目で見下ろす。愛しい男との最期の会話を邪魔されることに、苛立ちを抱く。
「……是が非でもリセットさせたいのだな。そうまでして世界を引っ掻き回したいのか、お前は」
―――戦え…。
戦え…!
戦え……!
その意思が何者なのか、何を理由にこの最悪の遊戯を執り行おうと考えたのかは、アインにもどんな人間にもわかりはしない。
執拗に決着を促すモノリスに向かい、アインは冷めた表情のまま歩み寄り、大きく拳を振りかぶった。
「黙れ、石ころが」
次の瞬間、アインの拳がモノリスに突き立てられ、凄まじい衝撃が周囲の雨粒を吹き飛ばす。
雷を纏った拳は、謎大き金属の板に深々と突き刺さり、その表面に罅を入れる。細かい亀裂は徐々に大きく広がり、石版の全体にまで広がると、一瞬で粉々に砕け散った。
「お前の命令そのものが運命だというのなら、私は運命と戦う。そして勝ってみせる…。それだけの力が、今の私にあるのなら……」
バラバラと地面に落ちた石版の破片はさらに崩れ、粒子状になって雨に溶けて流されていく。
跡形もなく消滅し、声も聞こえなくなったモノリスに向けて、アインは吐き捨てるように告げる。姿なき何者かに向けて、挑発するかのように。
ハジメはそんなアインを凝視し、言葉もなく立ち尽くす。すると不意に、アインが振り向き儚げな微笑みを見せた。
「……逃げろ、ハジメ」
優しい声音で告げられ、ハジメは目を見開く。
アインは声すら出せずにいるハジメを見つめたまま、一歩ずつ後ずさり距離を取っていく。ハジメの姿の全てをまぶたに焼き付けようとするように、笑顔のまま下がり続ける。
徐々に広がっていく二人の間隔は、二人に課せられた運命の重さを表しているようだった。
「私たちはもう……出逢う事はない。触れ合う事はない…………それでいいんだ。それが…私の答えだ」
それだけ言い切ると、アインはハジメに背を向け、どこかへと歩き出していく。一度も振り返ることなく、言葉もなしに永遠の別れを告げる。
自身の心がどれだけ苦痛の軋みをあげていようと、胸に引き裂かれるような痛みを覚えようと、決して彼女は振り返ろうとはしなかった。
「アイン…!」
ハジメはそれを追おうとして、しかし動くことができずに立ち止まる。
アインが己の全てを代価に手に入れた、全てを救う未来を壊す勇気が出せず、伸ばした手を虚しく下ろすだけとなる。
アインはただ、微笑みを浮かべて歩き続けた。目尻から溢れる雫を雨で誤魔化しながら、愛しい男の姿が見えない場所まで歩き続けた。
これが最善なのだと、自分の心を偽りながら。
―――さよなら…ハジメ。
私の……最愛の人。
こうして、世界は救われた。
全てを滅ぼす破壊者を守るために、同じ破壊者となることで、女騎士は愛しい彼と世界を守る道を選択した。
予言は、当たってしまったのだ。