【完結】魔法少女リリカルなのは ーThe Ace Chronicleー   作:春風駘蕩

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10.戻らないもの

 どこまでもどこまでも、白く曇った景色が続く、朧げな印象を与える空間。

 まるで雲の中にでもいるような、それにしては自分の姿がはっきり見えると言う、奇妙な得体の知れないどこか。

 

 そこにアインは、たった一人で立ち尽くしていた。

 キョトンとした様子で呆け、あたりをゆっくりと見渡し、眉間にしわを寄せる。深い眠りから覚めた直後ように思考は鈍く、うまく情報をまとめられない。

 ひたすら戸惑う様子を見せ、アインはやがて、ぼそりと呟いていた。

 

「―――ここは、どこだ…?」

 

 あれだけ傷つき、苦しみ、血反吐を吐いていたのに、全身を襲っていた激痛も不快感も、何もかもが綺麗さっぱりなくなっている。全てが夢であったかのように傷は跡形もなく、五体満足の自分が目の前にある。

 

 何が起こったのか、どうしてここにいるのか、ここは本当にどこなのか。

 疑問が後から後から湧いて出て、その処理が全く進まず、ますます混乱するアイン。自分が直前まで何をしていたのかも全く思い出せず、首を傾げてばかりになる。

 

「……ケンザキ」

 

 悶々とした女騎士の思考を止めたのは、彼女の背後から声をかけた一人の男だった。

 それを耳にした途端、アインはひゅっと息を呑み、勢いよく振り向くと、大きく見開いた己が目に声の主の姿を焼き付ける。

 

 十数年間一度も忘れたことはない、たった一度でいいから再会し、気持ちの全てをぶつけるように抱きしめたかった、愛おしい男。

 アインはわなわなと震えると、無言で見つめてくる彼の元へ、無意識に走り出していた。

 

「ハジメ…ハジメ!」

「……来るな、ケンザキ」

 

 泣きそうな顔で笑みを浮かべたアインが、両手を広げて抱きつこうとする。

 しかしそれを、ハジメは厳しい声で止め、首を横に降る。強い後悔と悲しみに満ちた表情で、きつく唇を噛み締めながら、同じく愛する女の抱擁を拒絶する。

 

 思わぬ反応に、アインはひゅっと息を呑みながら立ち尽くし、唖然とした様子でハジメを凝視する。

 

「ハジメ……?」

「俺達はもう…交わることはない」

「お前…何を言って…」

 

 困惑気味に問い返し、なおも近づこうとするアインだが、彼女の体は意思とは裏腹に動いてくれない。

 

 途端に、アインの脳に凄まじい量の記憶が蘇る。

 何故自分がここにいるのか、何が起こったのか、そして目の前にいるこの男に何が起こったのか、全てを思い出す。思い出してしまう。

 

 呼び出された邪神、異形となり邪神と融合した少女騎士、それに立ち向かう少女と騎士達。そして駆けつけた異形の騎士と、自らが振るった刃の重さと、切ったものの鈍い感触。

 自らの意思で封じていた記憶が、激流のような勢いで飛び出し、アインの心を激しく苛み始めた。

 

「嫌だ……嫌だ、嫌だ…! どうして…嘘だ……! 私は……私は!」

「無茶をしたものだ…こんなにも傷ついて、こんなにも弱って、俺はお前に、そんな風になって欲しくはなかった」

 

 頭を抱え、滝のような汗を流すアインに、ハジメは険しい顔で拳を握りしめる。指の間から血が流れるほどに強く、自分で自分を苛むように、爪を皮膚に突き立てる。

 

 アインは愛する男の元に、ふらふらと吸い寄せられるように近づこうとするが、何故か二人の距離は近づかず、それどころか遠ざかって見える。まるで二人の間に、見えない壁が出来上がっていくような、そんな錯覚に陥らされる。

 手を伸ばしても、覚束ない足取りで走り出しても、一向にそばに近づけないハジメを凝視し、アインはボロボロと涙を流す。

 

「俺の存在が、お前を変えてしまった……やはり俺は、存在すべき者ではなかったんだ」

「違う…違うんだ、ハジメ。お前は何も悪くなどない。この決断をしたのは私だ…私が全ての元凶なんだ! 私が…!」

「そうさせたのは、俺だ」

 

 悲痛な声で呼びかけ、遠ざかっていく彼を呼び止める女騎士。時間が経てば経つほど、ハジメが語るごとに距離は伸び、ハジメはの姿はみるみる小さく、なっていく。

 

 なんとなく、直感的な何かで、アインはこれが最後なのだと確信する。

 遠ざかるハジメの姿が見えなくなれば、今度こそ自分達は会うことができなくなるのだと、そう感じ取る。

 途端にアインは、より早く強く走り、距離を縮めようとする。しかしそれでも、ハジメはどんどんと遠ざかっていた。

 

「すまなかった、アイン……だが、たとえ時間を巻き戻せるとしても、きっと俺は同じことを繰り返しただろう。お前と共にいられない時間など、今の俺には……想像する事もできない」

 

 懸命に走り続ける女騎士を見つめ、異形の男は瞼を閉じる。

 視界を暗くすると、そこには彼のあらゆる記憶が走馬灯のように流れていく。

 

 現代に目覚め、遊戯の駒として戦い、人間の姿を偽ったことで人間の心を有してしまった。

 古の遊戯は止まることなく、戦いが激化する中、一人傷だらけになりながらも剣を振るう、一人の女騎士と出会った。

 

 幾度もぶつかり、刃をぶつけ、感情をぶつけ合った彼女に対し、いつしか抱いていた経験のない想い。怪物である自分が抱くはずのなかった、抱いてはいけなかった想い。

 決して許されない、しかし決して忘れられない日々が、アイゴ・ハジメという男の中にあり、彼を満たしていた。

 

「ここにいるのは、アイゴ・ハジメと名乗った男の最後の残滓だ……いずれ俺は消える。重大なエラーを起こしたバトルファイトも…どうなるかはわからない」

 

 自分の胸に手を当て、申し訳なさそうに目を伏せながら、ハジメは告げる。

 もう、お互いの姿はかすむほどに遠く、見えなくなってくる。どれだけ走っても、空を飛んでも届くことのない距離が、二人を引き裂いていく。

 それでも諦めず、走り手を伸ばし続けるアインに、ハジメは泣きそうな顔で笑いかけた。

 

「だがお前はもう…戦わなくてもいい。もう十分だ。お前がこれ以上傷つく必要はない」

「…ダメだ、私は……」

「命を奪うことが罪だというのなら、生きとし生けるものはみな罪人だ。お前一人が責められていいはずがない……お前はお前の守りたいもののために生きたのだからな」

 

 たった一人、孤独に罪を背負って戦い続けた女に向ける、最期の言葉。

 何もかもを背負おうとした女を、この時間を持って赦そうとする言葉を、ハジメは震える声で告げる。

 

 ふと見下ろすと、ハジメは自分の両手がうっすらと透けていることに気づく。手だけではない、足先も透明になっていき、徐々に広がりつつある様を目撃する。

 ゆっくりと、とっくに薄れていた感覚が消え去っていくのを感じながら、ハジメは苦笑をこぼした。

 

「……そろそろ時間のようだ。俺はもう…消える」

「まだ…まだ逝くな! 私は……私はまだーーー」

 

 消えていくハジメに、アインは泣き叫び、いやいやと大きく首を横に振り、幼子のように駄々をこねる。

 みっともなくとも、恥を晒しても構わない。二度と手を離したくないのだと、愛する男の残滓を追い続けようとする。

 

 そんな彼女に、ハジメは困ったように眉尻を下げ、しかし慈愛のこもった眼差しを向け、最後にもう一度だけ口を開いた。

 

「さらばだ、    。俺を生かしたいのなら、お前はずっと俺のことを覚えておいてくれ……この醜い、最悪の化け物を」

「ハジメ―――」

 

 笑うハジメの姿が、まばゆい光の中に消えていく。

 最後にかすかに残っていた気配までもが消滅したその瞬間、アインは愕然とした様子で固まり、手を伸ばしたまま立ち尽くす。

 

 そして彼女の意識も、真っ白な光の中に飲み込まれていき、そしてーーー

 

 

 

「アイン…アイン!」

 

 鼓膜を震わせるその声に、アインはハッと瞼を開く。

 一瞬で意識がクリアになり、白く無機質な天井が、そして、すぐそばから顔を覗き込み、泣き顔で見下ろしてくるリンディに気がついた。

 

「リンディ……」

 

 掠れた声で名を呼ぶと、リンディはボロボロと涙を流し、唇を噛み締め身を震わせる。

 親友はもう二度と目覚めないかもしれないと、不安に打ちひしがれていた彼女は、親友が自分の名を呼んでくれたことで安堵の息をつく。

 

 ぼんやりとはしているものの、アインの目の焦点ははっきりしている。彼女はまっすぐにリンディを見つめ、次いで辺りに視線を巡らせた。

 

「…ここは、アースラか」

「今、負傷者を搬送し終えて、治療に当たらせているの。…犠牲者への対応は、まだ手付かずのままだけど」

 

 聴覚に意識を集中させれば、別のどこかからアースラスタッフ達の声が聞こえてくる。医療室はすでに怪我人で一杯なのか、ざわめきやうめき声がかすかに聞こえてくる。

 

 かく言うアインも、限界を超えて酷使した肉体はもう動かず、痛みもほとんど麻痺している。まるで鉛のような重さに苛まれ、凄まじ違和感で気分が悪く感じられる。

 全身に包帯が巻かれて動きづらいだけでなく、顔の半分も包帯で覆われて視界が半分消えている。肌が露出している箇所は、もうほとんど残っていなかった。

 

「なのはさんとフェイトさんが、あなたを心配していたわ。二人とも、最後の一撃の時にかなり消耗していたけど、命に別状もないわ」

「…そうか」

「あなたが目覚めたことを知ったら、きっと元気になるわ。今はちょっとバタバタしてるけど、あとで必ず時間を作るから、その時にでも……」

 

 アインの意識が戻ったことでよほど安心したのか、リンディは上機嫌で報告してくる。まだ目尻が赤く腫れ、涙が滲んでいたが、それを誤魔化すように弾む声をあげる。

 

 腰を上げ、彼女の覚醒を皆に知らせようとしてか、いそいそとアインの前から立とうとするリンディ。

 そこへ、アインの小さな問いの声が響き、彼女を立ち止まらせた。

 

「リンディ……ハジメは」

「っ…」

「……そうか」

 

 ピタリと動きを止め、息を飲むリンディ。

 彼女のその態度だけで、アインは全てを理解し目をそらす。

 

 気まずげに背を向けたまま、顔を見せようとしないリンディを前に、アインはふっと深く息を吐き、天井を仰ぐ。

 白い天井を見つめる、傷ついた女騎士の目は、まるで死人のように虚ろになっていた。

 

「結局私は…誰一人大切な者を守れないままだったわけか」

「そんなことないわ! あなたはちゃんと…多くの人を」

「…その多くの人の中に、私が想っている者は何人いたのだろうな」

 

 慌てて振り向き、アインに自虐の言葉を否定するリンディだが、アインはその慰めを拒絶する。どれだけ労られようとも、残った結果が全てを物語っているのだと、親友の言葉を受け入れない。

 

 開き直ることもなく、嘆くこともなく、アインはベッドの上でため息をつく。

 今の彼女に、かつての活力は残っていない。自分の行い全てにおける罪の重さに呆れ、ひたすらに自分を責め続ける。それは彼女が異形になったときよりも酷く、重い症状だった。

 

「…すまない、リンディ。私にとってはもう、顔も知らない有象無象のことなんてどうでもよくなってしまったんだ」

「アイン…!」

「最後まで守りたかった者達……そいつらがもうこの世にいないというのなら、私は敗北したも同然なんだ。最強の騎士なんておこがましい…最低最弱の、どうしようもない負け犬なんだ、私は」

 

 フッ、と自嘲の声をあげ、目を細めるアイン。

 虚ろな目は天井だけを映し、一切の光を宿さない。まるで本当に死人になってしまったかのようだ。

 

 リンディはその姿を見ていられず、何度も口をまごつかせ、結局何も言葉を発せられないまま、暗い表情でうつむき黙り込む。

 どんなに慰めの言葉をかけても、気遣っても、今の彼女がそれを受け入れてはくれないのだとわかってしまったのだ。

 

 

「挙げ句の果てに…自分の娘まで手にかけて。一体私はどこまで堕ちれば気が済むのだろうな?」

「アルビノ……インシグニア・ジムニーの遺体は、まだ見つかってはいないわ」

「時間の問題さ。あいつの遺した命さえ…私は壊した。愛した男と言っておきながら、私はこの手にかけた。世界のためと言いながら、私は結局体面をとったんだ」

 

 あのとき初めて知った、この世でたった一人の自分と血の繋がった存在。

 愛する男との睦で生まれた唯一の娘と、自分がずっとなりたいと思っていた母にしてくれた最愛の男。

 孤独だった少女が、長年絶えることなく願い求め続けていた〝家族〟が、あの日あの瞬間、たった一度だけ集まっていた。

 

 それを彼女は、壊してしまったのだ。

 それを手に入れ、守るためならばどんなことでもしようとさえ思っていたのに、最後には全てを自分の手で砕き跡形もなくしてしまった。

 

 どうしようもない自分の有様に、アインの自嘲は止むことを知らない。

 長い間、そうやってくすくすと自分自身を嗤い、体を揺らしていたアインは、やがてため息混じりにリンディに告げた。

 

「しばらく一人にしてくれ……眠りたい」

「…わかったわ。あとで…また来るから」

「ああ…」

 

 心配そうに顔を歪め、名残惜しそうに何度も振り向きながら、リンディは病室を後にする。

 

 リンディが病室から出て、扉が閉じられると、アインをしんと沈黙が包む。

 誰もいなくなった病室のベッドの上で横になり、虚空を見上げていたアインの両目から、ボロボロと涙が溢れ出してくる。

 やがて嗚咽が聞こえ出し、先ほどとは別の感情で体を揺らし、アインは小さく引きつった声を漏らした。

 

「ハジメっ…!」

 

 今の彼女の心の全てを表したような、切なく悲しい声。

 誰もいない孤独な空間で、アインはじっと身じろぎもできないまま、ボロボロと泣き続けていた。

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