あなたを想って響く 私の鼓動だ
聴こえるか この歌声が
あなたを想って響く 私の悲鳴だ
0.Legend of nobody
天正二年 神無月
荒々しい波が、岩ばかりの岸辺に向かって勢いよくぶつかり、激しい水飛沫を生じさせる。曇天から吹く風は重く、轟々と恐ろしげな音を響かせている。
荒れた海に向かい、ただ無言で岸辺に佇み祈りを捧げているみすぼらしい格好の者達がいた。一人を中心にして柵を張り、列を作って全く同じ姿勢でこうべを垂れている。
中心にいるのは、他の者とは違って真新しい白装束を纏い、貝殻や金属で作った装飾品を身につけている、若者のようだ。体の細さから、おそらく女性であろうと推察できる。
これは、生贄を捧げる儀式だ、と誰もが一目で理解する光景だ。
ふと、生贄の娘が顔を上げた。
荒れ狂う波の動きが変わり、一点を中心として大きな渦が発生し始めたのだ。
海水を飲み込んで行く渦の中心にはボコボコと白い泡が発生し、大きな波が広がっていく。その下には黒く巨大な影が近づき、その全貌を徐々に露わにし始めた。
そして、それは現れた。
蛇のように長い体に鰐のように長く伸びた顔と鋭い牙、鷹のように鋭い目に鮫のように硬い鱗、獅子のように豊かな鬣に鹿に似た角という、屈強な生物の肉体を掛け合わせたかのような歪で凶悪な外見の怪物ーーーオロチと呼ばれる魔物が、海中から堂々と姿を現した。
「ギィィァァアアアアア‼︎」
オロチは大気を震わせる咆哮を放ち、陸地に我が物顔で這い上がっていく。同時に、オロチの肩に乗っていた二つの人影が、冷たい目で生贄を見下ろした。
「約束を果たしに来た」
「約束は果たしたようだな」
全く感情を感じさせないほど平坦な声で、魔物とともに現れた存在ーーー童子と姫と呼ばれるオロチの同類が笑みを浮かべた。
烏帽子に立派な仕立ての着物を纏ってはいるが、常人とは明らかに異なる雰囲気を放つ彼らからは、恐怖感しか感じられない。
「お前たちは餌を差し出し、お前たちは生き残る」
「俺たちは餌を食い、俺たちはお前たちを食わない」
差し出された生贄をいまにも食い殺しそうなオロチを鎮めながら、童子と姫は人間たちとの契約を検める。
犠牲を払い、生き残る。まるで生きながら家畜となるような屈辱的な契約が、この生贄のいた村では長年行われていた。
そして今宵もまた、罪なき命が無残にも貪られようとしていた。
本来ならば。
「ギィァアアアア‼︎」
「!」
童子と姫が同時に表情を変える。生贄の娘に食らいつこうとしていたオロチが、苦痛の悲鳴をあげて飛び退いたからだ。
警戒心をあらわにして睨みつければ、生贄の娘が何かを咥えているのが見えた。
金色の小さなそれは、顔のような物が装飾された笛だ。三本の角を生やした鋭い目つきの顔が、娘に吹かれて甲高い音を鳴らしている。
笛の音は大気を揺らし、波紋を生じさせる。生贄の娘は口を離しても鳴り続ける笛を額の前にかざし、ニヤリと笑みを浮かべた。
途端に娘を中心として風が巻き起こり、空気を歪ませて娘の姿をくらませる。竜巻きのように巻き起こる風の中で、辛うじて見える娘の姿が歪んでいくのが見えた。
「ーーーハッ‼︎」
不意に竜巻の中から手刀が伸び、竜巻が切り裂かれる。その中から姿を現したのは、生贄の格好をした娘ではなかった。
全身を覆う青い不思議な光沢を放つ身体に、鎧のように巻きついた金色の管。腰の前には三つ巴の紋章が入った鋼鉄の帯が巻かれ、側面には円盤が備わっている。のっぺりとした顔には金の装飾が施され、三本の角が天に向かって伸びていた。
文字通り風を裂いて現れたその姿、まさしくーーー。
「……鬼か」
「……鬼だ」
姿を見せた介入者を前にして、半仮面の童子と姫が平坦な声で呟く。すると一瞬のうちに、童子と姫の顔が異形のそれへと変貌していった。
魔化魍と呼ばれる人を喰らう忌まわしき存在、その真の姿である。
鬼と呼ばれた者は、仮面の下から二人と一体を見据え、腰に下げた銃を持って身構える。
忌々しいと言わんばかりに、オロチが凄まじい咆哮を放った。
人が人と争っていた時代から。
魔物と人ならざる者の戦いは、人知れず起きていたのだ。