1.Why here?
まだ、島の住民もようやく起き始めるかといったぐらいの早朝。
周囲を森に囲まれた古びた建物の奥から、ドォンドォンと大気を震わせる音が響き渡ってきた。
吹き抜けになった、年季の入った瓦屋根の下に置かれた、大人の身の丈を優に超える巨大な太鼓の前に仁王立ちした少女が、露出の高い着物をまとって一心不乱に撥を鼓面に叩きつけていた。
しなやかに鍛えられた筋肉が盛り上がり、噴き出す汗がキラキラと宙に舞い、大きく膨らんだ乳房が着物の中で弾み揺れる。されどその足は決して揺らぐことはなく、地面に深く突き刺さっているかのように力強く踏みしめて、猛烈な音撃を大気に響かせる。
「ハァァァァァ‼︎」
雄叫びと共に繰り出される最後の一撃が、太鼓を突き破らんばかりの勢いで鼓の中心に叩き込まれビリビリと地面にまでも伝道する。
撥を振り抜いたままの体制で固まっていた少女ーーー明日歌だったが、しばらくしてから撥をヒュンヒュンと回して腰のホルスターに戻し、ゆっくりと直立の体制に戻りつつ残心する。
「ーーー……フゥ」
深く息をつくと、体にこもった熱が徐々に抜けていくのを感じながら今日の朝練の結果を脳内で反芻する。
若干、軸が乱れた覚えがあった。体に巡る力はいつも以上にみなぎっていたが、逆にそれが空回らせていたように思える。修行が足りない証だ、と反省する。
そんな彼女の後ろから、ザクザクと砂を踏みながら近づくものがいた。
「よく頑張るねぇ。ほれ、今日獲れた魚だよ」
「おお、嫗。いつもすまんのうぅ」
歩きづらい山道を登って魚の入った箱を持って現れた老婆に、明日歌はパッと雰囲気を変えて笑顔を見せる。
この老婆は、明日歌やカブキが鬼として戦っていることを知っている数少ない者で、こうしてよく差し入れを持って来てくれる気のいい人だった。
脂の乗っている魚をわざわざ自ら持って来てくれる彼女に、明日歌も気を許していた。
「明日歌ちゃんのおかげで、最近は安心して眠れるよ。本当に感謝しても仕切れないねぇ」
「気にせんでくれ。それがわしの仕事じゃ」
優しい笑みを浮かべて魚を渡してくれる老婆に、明日歌は気持ちが軽くなるのを感じる。あまり人には知られていないこの仕事だが、こうして感謝されるとやはりやっていて良かったと思う。
すると、老婆はさっきとは打って変わって、明日歌を心配するような不安げな表情に変わった。
「昔はねぇ、こんなにあやかしが出てくることなんてなかったのにねぇ。明日歌ちゃんのお師匠さんがいた頃は、滅多に出てくることなんてなかったのにねぇ……」
「……そう、なのか」
気にしたことはなかったが、魔化魍にも旬があるのだろうか。自分がいる時期に増えていると言うのなら、これまで以上に気をつける必要がありそうだ。などと考えていると、老婆がやって来た道の方から一人の若い娘が登って来た。
「あ、ここにいた! もうやめてよフラフラするのは……」
現れたのは老婆の孫娘だと言う女性で、最近島の漁師と結婚したと聞く。さっき明日歌がもらった魚もその漁師がとって来たものなのだろう。
「何言ってんだい。明日歌ちゃんにお礼をしようと思ったのに……」
「おばあちゃんこそ何言ってんの。妖とか妖怪とか、そういうのは作り話でしょ」
娘は老婆と異なり、明日歌が担っている仕事を知らない。それゆえ、老婆が度々明日歌のことを話しても妄想か作り話としか思っていないようだった。
「もう、おばあちゃんたら……明日歌ちゃんもごめんね? おばあちゃんの変な話につき合わせちゃって」
「いやいや」
明日歌は若干引きつった笑みを浮かべ、娘の話に合わせる。娘はその反応に、やはり祖母が無理をさせているのだろうと勝手に感じたようで、何度も頭を下げながら祖母を促してその場を離れた。
自然にちゃん付けして年下扱いしていることには、あえて触れなかった。
「……知らぬが仏、か」
特に嘘をついたわけではないのだが、何も知らずに平和を謳歌しているものを見ると、どうにも複雑な気持ちになる。自分のように苦労している者を知らないというのは、腹立たしいが向こうからすれば幸せなことなのだろう。
もし、自分や師匠が本当に鬼となって戦っていることを知ったなら、あの娘は一体どんな反応を返すのだろうか?
そこまで考えて、「まぁ関係ないか」と独りごちて朝練の道具を片付け始めた。
(……じゃが確かに妙じゃ。ここ最近は確かに多すぎる)
これまでは魔化魍が現れるにしても、月に数度だったりと多くはなかった。だが最近はほぼ毎日、それも日に何度も現れたりすることもあり、明らかに頻度が変わっているのは明らかだった。
(いつからじゃ……? わしが来た時はまだここまで酷くはなかった……)
明日歌は振り向き、ざわざわと風が出て揺れ始めた森の方を見つめる。
長く過ごしてきたこの島だが、自分の知らぬ場所で何かが起こり始めているのかもしれない。それも、自分一人の手ではどうにもならないほどの、大きな何かが。
「……あの人たちに伝えておいてよかったかの」
そこまで考えて明日歌は複雑な顔になる。
頼りにはなるのだが、苦手な人も混じっていることを憂いて。
「おう」
山を降りた明日歌は、山道の入り口で待っていた青年に気づき、思わず顔をしかめた。
片手を上げて声をかけてくる一護に対し、深いため息を吐いて返答とした。
「なんじゃおぬし。まだこの島におったのか」
「あいにく学校行事だからな。理由もなきゃ帰れねーよ」
「その学校行事をサボってきておるくせによう言うわ。あとで面倒なことになるぞ?」
「ほっとけ。教師の目をかいくぐってきたんだよ」
ばつが悪そうな一護の言い訳に、明日歌はけたけたと笑った。
だが、すぐに笑みを消して一護の目をじっと見つめる。昨晩のような殺気は感じなかったが、それでも有無を言わせない迫力をまとった力強い眼差しだ。
「それで、何をしにきた。昨日も言ったが、死神ではなんの役にも立たんぞ」
「……わかってる。けどな」
しかし一護も一歩も引かず、憮然とした態度で明日歌を睨み返す。思わず明日歌の殺気が強くなるが、一護も同じだけの覇気を纏って真っ向から対立する。
まるで木々が怯えるようにざわめきを起こし、やや強い風が辺りを吹き抜けていった。
「お前には借りがある。何もしねぇでのほほんとしてるなんて、俺にはできねぇよ」
「…………」
一護はそう明日歌に返し、両者の間にしばらく沈黙が降りる。じっと互いに睨み合い、無言のままその場に居続ける。
やがて、一護をにらみつけて居た明日歌はフッと微笑みをこぼし、殺気を霧散させた。
「なんじゃ。存外いい男ではないか。……まぁいい。好きにするがええ」
「けっ。お前に褒められても嬉しくないな」
呆れたとばかりに肩をすくめる明日歌に皮肉を返すと、一護はプイとそっぽを向く。
だがふと、気になったことを明日歌に尋ねた。
「で、お前は何やってんだ?」
「本土に応援を頼んでの。魔化魍の数が増えよったんで、人をよこしてもらって迎えに行くところじゃ。……最近は、どこも人手不足でのう」
一護の質問に、聞きたくなかったとばかりに明日歌は顔をしかめて腕を組む。相当気に入らない内容らしい。
「仕事はきつい、保険もきかん、その上ある程度の資質もいるというもんで後継者がおらんでのう。わしもしばらく後輩を見たことがない。故に、挨拶はしっかりしておらんとのちに響くんじゃ」
「……世知辛いな、おい」
「世の中というんはの、大概が世知辛いもんじゃ」
見た目は幼いくせに、明日歌は妙に達観した表情と声でそんなことを言う。すれた子供が大人ぶっているようにも見えたが、ちらりと見えた目が洒落にならないほど濁って居たので一護は何も言わなかった。
どこの世界も、人に知られて居ない仕事というものは激務のようだ。
「…………はぁ」
世の中の不条理さに、一護が思わずため息を零した、その時だった。
「あいっかわらず、マヌケ面晒してやがるな、一護!」
「!」
聞き覚えのある声に、思わず一護は目を見開く。そして、はっと振り向いてさらに表情を変えた。
一護に背後から声をかけた、黒ずくめの着物をまとい、腰から刀を提げた二つの人影。片や不機嫌そうに眉を寄せた小柄な少女、片やニヤリと不敵な笑みを浮かべた赤髪の男。
「ルキア、恋次⁉︎」
一護と深く関わり、戦友とも言える関係となった二人の死神、朽木ルキアと阿散井恋次だった。