「あれは……オロチ⁉︎」
海面から顔を出した凶悪な龍を前にして、一瞬でアスカの顔が恐怖で凍りつく。
彼女の目の前で友が、血の繋がらぬ父母が、姉妹が、仲間が無残にも食い殺されてきたのだ。意を決し島を飛び出した時も、その時の恐怖は微塵も消えたことはなかった。
「なぜじゃ……⁉︎ なぜ奴がこんなところにおるのじゃ⁉︎ ……!」
顔を真っ青に染めながら、アスカはハッとなる。いつもよりうねりの強い海、立ちはだかるように現れたオロチ、そこから浮き上がった可能性に、思わずオロチの凶悪な形相を凝視していた。
「まさかこの波は……あやつが起こしたものじゃったのか⁉︎」
アスカの考えがまるであたりだと言わんばかりに、オロチは咆哮とともに尾をしならせ海をかき混ぜる。途端に強烈な波が引き起こされ、アスカたちの乗る小舟を転覆させんばかりにうねりまくる。
先ほどよりも格段にひどくなった乗り心地に、カブキたちは怒りで表情を歪めた。
「野郎……是が非でも俺たちを島に近づけさせないつもりのようだぜ」
「小癪な……!」
「言ってる場合じゃないよ‼︎」
言いながら、鬼たちは必死に小舟にしがみつく。まだ島までは遠く、足をつけられる場所はこの小舟の上しかない。全員が全員この荒海の中を泳げるわけではなく、このまま放り出されれば一瞬でオロチの餌食となることは明らかだった。
しかしだからと言って、オロチが待ってくれるはずがない。獲物をいたぶるように距離を詰めたオロチが、巨大な顎門を開いてカブキたちに襲いかかってきたからだ。
「行くぞ‼︎ しっかり掴まれ‼︎」
止むを得ず、鬼たちは不安定な足場において臨戦態勢に入る。音叉を、鬼の顔のついた笛を取り出し、一斉に鳴らしてそれぞれの額にかざす。
その直後、鋭く尖ったオロチの牙が小舟に食らいつき、一瞬で噛み砕き海の藻屑へと変えてしまった。衝撃で大波が起こり、アスカは真っ二つになった小舟の後ろ側ごと吹き飛ばされてしまった。
「うおわああ⁉︎」
意識を失わずに済んだのは、小舟の残骸から離れまいと必死に歯を食いしばってしがみついていたからだった。だがもはや、気絶していた方が幸運だったかもしれないとさえ思えるほど、悲惨な状況になってしまっていた。
海水でずぶ濡れになりながら、アスカは辺りを見渡す。
いない、みんな、誰一人。
オロチの一撃により粉砕された船の残骸が浮かんでいるだけで、鬼たちの姿はどこにも見当たらない。影も形も、肉片すらも見つけることはできなかった。
「そんなっ……!」
苦労してようやく見つけ出し、協力を約束してくれた鬼たちが。島を救う最後の希望が、こんなにもあっさりと沈められてしまった、そんな絶望がアスカを縛り付け、船にしがみつく力を奪い去っていく。
船の上でへたり込むアスカを、オロチの双眸がギロリと睨む。だが。
「ムオオオオオオオオ‼︎」
突如頭上から聞こえた咆哮とともに、オロチの顔ががくんと真下に落とされた。
はっと目を見開いて凝視すると、白い吹雪を吹き散らした筋骨隆々の白い異形が巨大な棍棒を振り下ろし、オロチの脳天に叩きつけている。黒い防具に、熊に似た金色の装飾のついた兜を備えた鬼・凍鬼が、身の丈にも達しる巨大な撥を小枝のように振り回し、しがみついたオロチの背中で怪力を発揮していた。
「ギャオオオオオオオオ‼︎」
オロチは凄まじい咆哮をあげ、背中にくっついている鬱陶しい存在を振り落とそうと大きく身をよじり、暴れ回る。凍鬼も負けじとたてがみをつかむ力を強め、力の限り棍棒で滅多打ちにする行為を続けた。
なおも暴れるオロチの顔面に、ビシビシと火花が散って何かが突き刺さる。ギロリとオロチが睨む先にいたのは、壊された小舟の先端部分に乗って何かを構えている、風を纏った青い三本角の鬼・威吹鬼だ。
管と柄が合わさった、銃に似た武器を構えた威吹鬼は引き金を引き、オロチの目を狙って銃口から火花を散らせる。硬いオロチの鱗に銃弾が防がれるが、鬱陶しさからかオロチは嫌がってアスカの方から徐々に距離をとっていく。
いらだたしげな唸り声を漏らすオロチの頭上を、一瞬影が覆った。かと思えば、オロチの頭に生えた角の一本がいきなり切り飛ばされ、陽光を反射しながら海に落とされた。
巨大な黒い烏、黒鉄の体を持つ烏ーーー鬼の使う式神の一つ、ケシズミカラスの上に乗った歌舞鬼が、桜吹雪とともに音叉の角を伸ばして生み出した刀を振りかざして接近したのだ。初めて明確な傷を残した歌舞鬼とケシズミカラスは再び高く飛翔し、もう一度刃を突き立てようと急降下を開始する。凍鬼と威吹鬼もそれぞれの武器を構え、自身の腰に巻いた円盤型の道具を外して構えた。
だが、自身の体に傷をつけられたオロチが黙っているはずもなかった。まとわりつく凍鬼も、鬱陶しい威吹鬼も、邪魔臭い歌舞鬼もすべて睥睨し、巨体をうねらせながら大きく口を開いた。
「ギャオオオオオオオオ‼︎」
強烈な咆哮とともに、オロチの口から巨大な火焔がいくつも発射される。荒波さえも一瞬で蒸発させる熱量を持った火焔が襲いかかり、上空を舞っていた歌舞鬼とケシズミカラスを盛大に吹き飛ばした。
「うおおおお⁉︎」
歌舞鬼とケシズミカラスは衝撃で均衡を失い、フラフラと海面に向かって墜落していく。
さらに火焔は無数に放たれ、遠距離から攻撃していた威吹鬼も、力ずくで振り落とされた凍鬼をも飲み込んでしまった。火炎に包まれた鬼たちは盛大に水しぶきを上げて海水の中に突っ込み、オロチの起こす荒波の中に沈んでいく。
先ほどまで優勢に見えていた鬼たちが再び視界から消え、アスカの表情がまた青く染まっていった。
「そんな……鬼が三人も揃っておるのにダメなのか……⁉︎」
また一人にされたアスカに、オロチが今度こそ狙いを定める。巨大な顎門を開き、小さな体を噛み砕き飲み込もうと涎を垂らす。
アスカは腰を抜かしながらも、決して悲鳴はあげまいと唇をきつく食いしばり、目を瞑る。無様な姿は絶対に晒してなるものかと、襲いかかるであろう痛みを覚悟して体を固くした。
「うおおおおおおおおおおお‼︎」
しかし、聞こえてきた男の咆哮にはっと目を見開く。ケシズミカラスの背に乗った歌舞鬼が刃を振るい、オロチに向かって再び滑空していったのだ。怒りのままに暴れるオロチが火焔を吐くも、ケシズミカラスは紙一重でそれをかわし、一気にオロチの目先へ肉薄する。
火焔の猛攻を躱した歌舞伎はケシズミカラスの背から飛び降り、刀を大きく振りかぶる。そして、目前にまで迫ったオロチに向けて刃を投擲した。
「ギャアアアアアアア‼︎」
放たれた刃は避けることも許さず真っ直ぐにオロチに向かい、血走っていた片目に深々と突き刺さった。絶叫を上げるオロチは激痛に暴れまわり、激しく波を起こしながら海の中に潜っていった。
足場を失った歌舞鬼と力尽きたケシズミカラスがざぶんと海に沈んでいく中、苦痛の咆哮を上げるオロチはアスカたちの前からあっさりと姿を消したのだった。
「カブキ、イブキ、トウキ! 大事ないか⁉︎ 返事をせよ‼︎」
船の残骸を巧みに操り、若干穏やかになった海の上でアスカが大きく声を張り上げた。
もうオロチが顔を出す様子はない。だが、先ほどの戦闘は鬼たちにかなりの負傷を強いているはずだった。あのまま海に放置していては命に関わるはずだ。
焦りながら、アスカはじっと海面を凝視して鬼たちを探し続ける。波の動きからして、アスカの進む方に流されていることは間違いないが、力尽きて沈んでいないか不安で仕方がなかった。
「どこに……⁉︎」
「ーーーぶはっ‼︎」
そんな中、視界の中で水しぶきが上がり、カブキが顔を出した。続いてイブキやトウキも顔を出し、むせ返りながら浮力を保っている。
「! こっちじゃ! 待っておれ!」
思わず目頭を熱くしながら、アスカは船の残骸で三人を迎えに行く。三人乗っても沈まないか不安だったが、まだ余裕はあったらしい。
残骸にしがみつく男たちは、一斉に安堵の声を上げて息をついた。
「た、助かったよ……」
「ム……」
「オロチは……?」
「傷は負わせたが、あの程度ではオロチを倒すことは無理だろう。……まだ、戦力が足りない」
顔をしかめ、悔しげに答えるカブキに、アスカは唇を噛み締める。
この男たちは強い。これまで見てきた男たちよりも確実に。
だが、そんな彼らが力を合わせても勝てないと言うのなら、一体どうすればいいと言うのか。一体どうすれば家族を救うことができると言うのか。先の見えぬ闇に少女の心は闇に覆われ、強大な敵に屈しそうになっていく。
「……一体、どうすれば……!」
身を切るような悲痛な声を上げ、アスカはガッと拳を打ち付ける。
そんな時だった。
「ーーーよう。手ェ貸してやろうか⁉︎」
不意に聞こえた声に、アスカの思考が一瞬だけ停止した。
「何⁉︎ ぬおお⁉︎」
つい体勢を崩し、海の中に頭から落ちそうになるのをカブキたちに救われる。ようやく落ち着き、体勢を立て直したアスカは、はるか上空から舞い降りてくる一つの影に言葉を失った。
陰った陽光を背に受け、ゆっくりと降りてくる影。神と木で作られた巨大な凧にしがみついた一人の男が、アスカたちに不敵な笑みを見せていた。
「とうっ!」
男は凧から飛び降り、空中で宙返りをしながら落下する。そのまま空中で構えを取ると、アスカたちのしがみつく残骸の上に見事に着地して見せた。
そのせいで残骸が思い切り揺さぶられ、カブキたちの表情が険しいものになったが、男は全く気にせずにすました顔をしていた。妙に格好つけた登場に目を見開いて硬直していたアスカだったが、しばらくしてようやく我に返った。
「お、おぬしは……?」
「ふっ。俺の名はキラメキ。……お前さんがアスカだな、話は聞いてるぜ。俺も付き合ってやるよ」
希望通りの反応を返されたためか、機嫌よく名乗りをあげる。
初めて聞くアスカは首をかしげたが、カブキたちは目を見開いてキラメキと名乗った男を凝視した。
「キラメキ……
「なんと!」
アスカは改めて目を見開き、キラメキの前で居住まいを正す。いきなりのことで驚いたが、まさか鬼だったとは。
しかし、なぜあったこともない鬼がアスカの名を知り、事情にも通じているのか。理由がわからず、アスカは眉を寄せる他になかった。
「だが、なぜこんなところに……」
「なぁに、ちょいと人に頼まれてなぁ」
意味深な笑みを浮かべるキラメキに、アスカは訝しげに眉を寄せるのだった。
「ーーーお前は、手を貸すつもりはないのか?」
ある村に建っている小さな家の前で、ヒビキが一人の男を訪ねていた。男は振り返ることもなく、一心不乱に鍬を持って畑を耕し続けている。それはまるで、ヒビキの誘いから必死に耳をふさぐための方便のようにも見えた。
「ハバタキよ」
ヒビキに名を呼ばれた男は鍬を振り下ろし、土に突き刺してからようやく動きを止める。しかしやはり響の方を見ることはなく、バツが悪そうな表情で肉刺のついた手を見下ろしていた。
「……俺は」
ハバタキは視線を上げ、自分の家とその中にいる家族の方を見つめる。ヒビキもそれを見つめ、それでも一歩も動こうとはしなかった。
「俺にはもう、守るものがある……」
鍬を担ぎ、逃げるようにハバタキはヒビキから離れていく。しかしその表情は苦しげで、内なる痛みに必死に耐えているかのようにも見えた。
ヒビキの語った少女の苦しみから目をそらすことに、そして家族を免罪符にしている自分を嫌悪し、ハバタキは自分を責めているようにさえ見えた。
「女房に、結婚するときもう鬼の力は使わないって約束したんだ。……この手はもう武器を握る手じゃなくて、鍬を握る手なんだ」
その答えに、ヒビキは黙って去ろうとする。ハバタキも察しているのか、背中を向けたまま家に戻ろうとする。
「……悪いが……俺は」
「何言ってるんだい」
不意に聞こえてきた声に、ヒビキとハバタキの足が止まる。情けない顔をしていたハバタキが顔を上げると、自分の家の中から一人の女性が顔を出した。
「みどり……」
「迷ってるってことは、あの子のために何かしてやりたいってことだろう? それにね、気づいてないわけないだろう?」
呆れた顔で見つめてくる自分の妻に、ハバタキは困惑の表情を浮かべて後ずさる。緑と呼ばれた女性はずんずんと力強く地面を踏みしめ、ハバタキの元へと近寄っていった。
「あんたが私に内緒で、こっそり体を鍛えてることぐらいお見通しさ」
フッと微笑んだみどりはそう言って、ハバタキの手についた肉刺に愛おしげに触れる。手のひらについたものは、鍬を持ってついたもの。だがハバタキの持つ肉刺は、本来つかないはずの指にまでついている。
「行っておいでよ。帰ってくるの、待ってるからさ」
「みどりぃ……」
優しく笑みを見せながら、夫の背中を押すみどりにハバタキはみっともなく泣き顔を晒し、大きく手を広げて妻を抱きしめる。みどりもそれを受け止め、しょうがない人だと言わんばかりに頭を撫でていた。
そんな夫婦から、ヒビキは呆れた顔で視線を外すのだった。
アスカは目を見開き、キラメキに詰め寄っていた。キラメキの語った経緯の中にあった名が、到底聞き逃せないものだったからだ。
「響鬼が……⁉︎」
「喜べよ、お嬢ちゃん。お前さんの頼みを受けて、動き出そうとしている奴らがいるんだからな」
驚愕に目を見開くアスカの前で、キラメキはニヤリと不敵な笑みを浮かべて見せた。
今まさに、何かが変わろうとしている、何かが起ころうとしている。そんな期待を帯びた目でキラメキを見つめる少女は、湧き出る高揚感を抑えられずにいるのを感じていた。
「これまで全く前例のねぇ、七人の鬼が集結する時だ」