「……ん? なんやこの匂い」
ニシキの呟きに気づけたのは、完全に偶然だった。ようやく胸の高鳴りも落ち着き、うつらうつらとまどろみ始めた時に、焦げ臭い匂いが鼻についてきたのだ。
囲炉裏の火は消した、灯りの火も消した、なのにこんな匂いがするというのはどういうことなのか。周りを見れば、うっすらと周りに黄色い光が見え、鬼たちの顔が見えるようになっている。
その理由を察した瞬間、アスカの表情が一瞬で青く染まった。
「……まさか!」
ガバッと布団をはねのけ、アスカは戦慄の表情を浮かべる。完全に目が覚め、次いであらゆる感覚が鮮明になっていく。
匂いや灯りだけではない、パチパチと家の外で弾ける音が鳴り、熱気がアスカたちを取り囲んでいる。
燃えている、とアスカはようやく完全に理解した。
「皆、起きよ‼︎ 火事じゃ‼︎」
「あ? 何言って……ってなんじゃこりゃぁあああ⁉︎」
のんきに眠りこけていたキラメキが、周囲の状況の変化に悲鳴じみた声をあげた。すでに他の鬼たちは目を覚まし、脱出しようとしているが、すだれがかかっていたはずの入り口にはいたか何かが貼られ、向こう側から何かで押さえつけられているのか動かすことができなかった。
閉じ込められたのだとわかった瞬間、アスカは呆然と言葉を失った。誰が、とか何故、などと考える余裕もなく、このような暴挙に出たことに愕然とする他になかった。
固まっているアスカを気付けるように、トウキが険しい形相で怒鳴り声をあげた。
「ぶち破るぞ‼︎」
「……あ、ああ、構わん‼︎」
アスカはその叱責にハッとなり、困惑しながらも許す。すぐにアスカはトドロキに抱え上げられ、煙を吸わないように顔を覆われる。
「おおおおおおお‼︎」
両腕を交差して前に構えたトウキが、雄叫びと共に壁に向かって突進する。元から壁の薄いあばら家だったことが幸いし、さしたる抵抗もなくトウキは大穴を開けて外に脱出することができた。他の鬼たちもそのあとに続き、轟々と火を上げる家屋の中から次々に飛び出していく。
最後にニシキが飛び出した瞬間、アスカの家はガラガラと屋根から崩れ落ち、完全に潰れてしまった。穴や罅から吹いた風で乾ききっていたためか、アスカの家はあっという間に燃焼し、真っ黒に染まっていってしまう。
我が家が消える様を呆然と眺めていたアスカだったが、首を振って我に返り、家の前にへたり込んでいる鬼たちの方を振り返った。
「皆、無事か⁉︎」
「お、おお!」
「なんとかな……!」
「カブキ!」
「ここにいる……」
全員の無事を確認し、アスカはほっと安堵の息をつく。火事ぐらいで鬼がどうにかなるなど、長く旅をしてきたアスカは微塵も思わなかったが、それでも万一のことを思うと肝が冷えた。
すると、へたり込むアスカの背後に、無数の気配を感じて振り向く。暗闇の中、燃え続ける家からの灯りで照らし出される人影に、アスカの目は人を殺せるほどに鋭くなっていった。
「貴様ら、なんの真似じゃ‼︎ わしがいうたことをもう忘れたんか⁉︎」
アスカと鬼たちを取り囲む、集落の人間たちにアスカは怒鳴りつける。何度も言った、何度もわかってもらおうとした、なのに、この仕打ちはあまりにも許せるものではなかった。
だが、それでも住人たちの眼差しは変わることはなかった。
「黙れ! もうわしらは……そいつらの言うことなんざ信じられん‼︎」
「お前たちのような人殺しは、さっさと出て行け‼︎」
皆一斉に罵倒するばかりで、興奮のせいか口も回らず、何を言っているのさえ聞き取ることもできない。だが、人殺しという単語だけははっきりと聞き取れた。
「なんの話だ⁉︎」
「しらばっくれるな化け物ども! 田吾作が殺されてたのは、お前たちの仕業じゃろうが!」
暴挙に出た住人たちをにらみつけていたカブキたちだったが、その言葉に反論が止まる。いつも受けていた蔑みの言葉ではない、はっきりとした憎しみの言葉に理解が追いつかなかった。
「なんだと……⁉︎」
「何を根拠にそんなことを‼︎」
「これが動かぬ証拠じゃ‼︎」
住人の一人が、鬼たちに向けて金属製の何かを投げつけた。
飛んできたそれを受け止めたニシキがそれーーー自分が盗人として使っていた刃物の一つを見て目を見開く。
「これは……確かに俺の。でも、なんでや⁉︎」
困惑するニシキをよそに、住人たちの罵詈雑言が悪化していく。激しい憎悪が場に満ち、住人たちの姿が熱気のせいか悪鬼のように歪んで見えていた。
「ま、待てお前たち! こやつらはそんな連中ではない! 冷静に……‼︎」
アスカは必死に住人たちを抑えようと声を上げる。このままではまずい、取り返しのつかないことになる前に怒りを沈めねばと前に出る。
だが、突如どこからか飛んできた小石がアスカの額に当たり、アスカの声は途中で遮られてしまった。
「うるせぇ! そもそも孤児のお前に頼った俺たちが間違ってたんだ‼︎」
「どこのガキともしれねぇガキを! 長が気まぐれで拾ったからって仲間面しやがって‼︎」
「こんなことになったのも全部お前のせいだ疫病神が‼︎」
「……何を、言っておる?」
生暖かい液体が流れ出る自身の額に手を当て、膝をついて呆然となるアスカに、住人たちは次々に蔑み罵る。鬼に対してぶつけられていた憎悪が、そのままアスカにまで向けられているように見えて、アスカは何も考えることができなくなっていた。
「何を、……言って」
これは一体、誰だ。こんなにも醜く誰かを非難する者たちは、一体なんなのだ。
どうして自分が、こんなことを言われなければならない。自分はただ、仲間を、家族を救おうと必死だっただけなのに。
少女の純粋な想いは、偏見と差別、そして憎悪の心に簡単に踏みにじられていた。
アスカの心は、徐々に徐々に黒く、塗りつぶされていった。
「おう……ちょい待てや」
それは、鬼たちもまた同じだった。
蔑まれるのはいい、慣れたことだからだ。憎まれるのもいい、救えなかったこともあるからだ。
だが、大切なものを守るために奔走し、苦心した少女を。鬼を偏見で見ることなく人と同じように接し、誰よりも勇敢で心優しい清らかな少女も扱き下ろし、あまつさえ見殺しに素養とした畜生にも劣る連中を、許す気にはとてもなれなかった。
「ここまで言われて……黙ってられるほど懐深くないんやコラァ‼︎」
「仏の顔も三度まで……もはや止まる理由はない‼︎」
「気に入らん……全くもって気にいらんぞ‼︎」
憤怒の形相へと変わったニシキ、トウキ、ハバタキが音叉を取り出し、打ち鳴らして自身の額にかざしていく。錦のような光に、吹雪に、羽毛に包まれた男たちの姿がたちまち鬼に変わり、獣じみた唸り声をあげて旋風を振り払った。
ギロリと集落の住人たちを睨み、一歩ずつ踏み出していくトウキたち。先ほどとは打って変わって、恐怖に怯えて後ずさる男たちに迫っていく鬼たちの前に、残る三人の鬼が立ちはだかった。
「待てお前ら! アスカちゃんの気持ちを無下にするつもりか!」
「ちょっ、ダメっすよ皆さん! 人を守るのが鬼の役目っすよ⁉︎」
「冷静になってください!」
なんとかなだめようとするキラメキ、トドロキ、イブキだが、怒りに満ちたトウキたちに止まる様子はない。それどころかますます怒気を強め、トドロキたちをも睨みつけていた。
「そのアスカの願いを無下にしたのはこいつらだ‼︎ もはや、俺たちがこいつらを守る理由などない‼︎」
「どけぇ‼︎」
力尽くで押し通るつもりか、それぞれで得物を取り出していく。鈍い光を放つ鬼の武器に、集落の人々は恐怖の表情を強め、悲鳴をあげて一斉に距離を取っていった。
「ちょっ……ああもう!」
説得が無駄だと指したトドロキたちは、自分たちも鬼に変ずる楽器を取り出して鳴らし、額に翳していく。雷電を、風を、旋風を纏い鬼に変じ、人々に自ら仇なそうとしているトウキたちに躍りかかっていった。
「み、皆! やめてくれ! もう……もう……‼︎」
家族と思っていたものたちからの心ない言葉に硬直していたアスカはようやく我に返り、ぶつかり合っている鬼たちに悲痛な叫び声をあげる。
なぜこんなことに、誰がこんなことを。混乱したままの頭ではどんなに考えてもわからず、ただ必死に呼びかけることしかできない。しかし頭に血が上った鬼たちには届かず、少女の声が虚しく響き渡る。
「……諦めろ、アスカ」
目に涙を浮かせるアスカを、傍らに立っていたカブキが止める。虚ろな目で見上げるアスカに哀れみを覚えながら、カブキもまた不快な表情を隠しきれていなかった。
「さすがに……我慢の限界だ」
カブキの言葉に、アスカはがくりと膝をつき、鬼たちが互いに争っている光景を呆然と見つめた。
あんなにも頼もしかった鬼たちが、今は怒りに支配されて力の限りに暴れている。片方はそれを止めようとしているが、力加減ができないのか一方的にやられるばかりで、周りに被害が及んでいる。
そこにいたのは確かに、〝鬼〟という名の化け物だった。
アスカは今、初めて知り、そして絶望した。
ただ一人の鬼に恨みのある自分と異なり、偏見と差別でしか見られない人々と鬼の、超えられない深い溝に。何をしようとも変えられない、人の醜い本質に。
「……やめて、くれ……」
凍鬼がその剛力で威吹鬼を持ち上げ、地面に叩きつけている。西鬼が両足で轟鬼を捕らえ、虎のように前足で地面をかけながら引き摺り回す。羽撃鬼が腕に生えた翼を広げ、煌鬼を捕らえて空中まで宙吊りにしている。
島を救ってくれると、助けてくれると言ってくれたものたちが、互いに無意味な争いを続けている。同じ飯を分け合ったものたちが、今は憎悪に満ちた殺し合いを繰り広げている。
その光景はあまりにも、惨すぎる。
「やめてくれ……!」
なぜこんなことになった。何が悪かった。
この島に呼んだことが悪かったのか、鬼に頼ったことが悪かったのか。
では、そうしたのは誰だーーーそれは、一人しかいないではないか。
「やめてくれぇぇぇぇぇぇぇ‼︎」
滝のように滂沱の涙を流し、アスカは悲鳴のような慟哭をあげる。こんな戦いを見せられることが苦しくて、人と鬼がわかりあえないことをまざまざと教えられたことが悲しくて。
その原因を作った自分が、許せなくて。
だがそんな叫びは、一つの嘶きとともに止まった。
「……なんだ? どうしたお前ら?」
鬼たちが争い合う真っ只中に、馬に乗った一人の男が乱入し、暢気な声で声をかけた。
そのあまりにも場違いな声に、殺気立っていた鬼たちは冷や水を浴びせかけられたかのように沈静化し、呆然と乱入した男ーーーヒビキを凝視するばかりであった。
「ひ、ヒビキ⁉︎」
困惑の声を上げるアスカを、そして涙でぐちゃぐちゃになったその顔を一瞥し、ヒビキは鬼たちに向き直った。
鬼たちも、一度は島に来ることを拒否した男がここにいる理由がわからず、困惑の表情を浮かべて響きを凝視していた。
「なぜここに……⁉︎」
「何って…………散歩?」
「ふざけているのか⁉︎」
真面目な顔でそんなことをのたまうヒビキに威吹鬼の叱責が飛ぶ。他のものも毒気を抜かれたように脱力し、もう争うそぶりは見せなかった。
そこへ、鬼の戦いが静まったことを察した集落のものたちが集まって来る。怒りを収めている鬼たちと、新たに現れた見慣れない男の姿を目にした一人が、侮蔑の表情を浮かべてヒビキを睨みつけた。
「なんじゃ、また鬼か⁉︎ もうお前らに頼るつもりなんかないんじゃ‼︎ とっとと島から出ていーーー」
「うるせぇよ」
その声が、不意に途切れる。
馬上のヒビキが視線を巡らせ、罵っていた男を見下ろしただけだ。だがその目は蛇蝎を見るがごとき冷え切った目で、その気になれば殺すことも厭わないような殺気に満ちた目であった。
「ヒッ……ひぃいいい‼︎」
男は情けなく悲鳴を漏らし、その場にへたり込む。股下を濡らすことがなかったのは、せめてもの幸いだったか。
「わけ分かんねぇこと喚いてねぇで黙れよ。ーーー人間が」
「ぁ……アゥ」
はっきりとした蔑みの言葉に、男だけではなく他のものたちも言葉を失う。先ほど自分たちが向けていた眼差しをそっくりそのまま向けられたようなもので、底冷えするような感覚を味わっていた。
「しょうもねぇ真似してねーで、帰るなら帰れよ。……死にてーならな」
ヒビキはそう言って、無言で佇んでいる鬼たちにも視線を向ける。今度は呆れた視線で、やれやれと肩まですくめていた。
するとその内鬼たちは変化を解いていき、一人、また一人と踵を返してその場から立ち去り始めた。
「……どうやら俺たちは、招かれざる客だったようだな」
トウキがそう言い、アスカに申し訳なさげな目を見せてからその場を後にする。ハバタキも頭を下げ、視線を合わせないようにしながら足早に歩き始めた。
「……アスカ、お前の気持ちはわかっている。だが、もう我々に用はないようだ」
それに続くように、他の鬼たちもその場から次々に立ち去っていく。皆が皆、アスカに不憫な視線を送ってから背を向けていった。
「僕も、もう失礼するよ」
「……力になれなくて、ごめんね」
「俺はもう、
「ほなな、アスカちゃん」
「み、皆……」
仲間になれたと思っていた、共になれたと思っていたものたちが離反していく姿を、アスカは呆然と見送る。勝手に手が伸びるも、その手は何もつかむことが叶わずに終わる。
そしてヒビキもその場を後にし、残ったのはカブキだけとなってしまった。
「か、カブキ……」
最後の頼みを託すように、アスカはその名を呼ぶ。
だが彼は、少女と視線を合わせなかった。
「……邪魔したな」
抑揚のない声で、カブキはそう言い残して去っていく。なんの未練もないように、静かに。
虚しく手を伸ばしたアスカは、光を失った目でカブキの背中を見送る。最後の望みが絶たれ、希望を失った少女の姿は、誰の目にも憐れに見えた。
しかしそう思うものはここにはおらず、皆汚らわしいものを見る目でアスカをにらみ、せいせいしたとばかりに帰っていく。
「……嘘じゃろ、みんな。わしは、皆のためを思って……旅をして、やっと……ようやっと……」
もう、アスカには何もない。家も、家族も、仲間も、友も、希望も、何もかも。
「……アスカ……」
唯一、彩姫だけがアスカを心配そうに見つめていたが、やがて見ていられないと異様に伏せられ、その場から足が離れていく。焼け残った残骸の前に立った一人残され、アスカは顔を伏せ、うずくまった。
「……うぁ、うあああああああああ‼︎」
ヒビキに対する憎しみなど、もうとうに消え去っていた。憎むことすら考えられないほど、アスカには余裕が失われてしまっていた。
己の無力感を、ただ憎むことしかできなかった。
「ふふ、ふふふふふ。これでもう……邪魔者はいなくなった」
朝日が未だ登らない、最も暗いとされる夜明け前の闇の中。
蠱惑的な笑みを浮かべた一人の少女が、たった一人で泣き崩れる様を見て朗らかに笑っていた。
「もうこの島の人間を助ける奴はいない。助けるものはいない。思った通り……ふふふふふ」
少女の後ろで、巨大な何かが蠢いた。少女はそれの表面を愛おしげに撫で、くすくすと笑い声を響かせる。
そこにいたのは、巨大な蛇ーーー否、オロチ。
にくい鬼に右目を潰され、身体中に傷跡を刻まれた、怒りと憎悪に目を燃やす魔化魍の王。
「ああ。痛いね、憎いね、殺してやりたいね。でもダメ、今はまだその時じゃない」
唸り声を漏らすオロチを撫で、少女は空を見上げる。
今宵もまた、空は翳るであろう。本当に、良い天気が続くものだ。
「ようやく……この時が来た」
少女はそう言ってさらに深く、耳まで裂けるような恐ろしい笑みを浮かべるのだった。