暗い森の中で、オレンジ色の光が灯る。
織姫の持つ盾舜六花という能力により発現した楕円形の光の縦の中で、轟鬼と威吹鬼の受けた傷跡がみるみるうちに回復、いや傷を受ける前に戻っていく。
顔だけを人間の姿に戻した二人の鬼は、その光景を不思議そうに見下ろしていた。
「すごい能力だね、彼女」
「……ああ」
織姫の持つ能力の異常性に気づいたイブキが、傍に立っている一護に呟く。
しかし一護の表情は固く、険しいままだった。
「……悪いね、お嬢ちゃん」
傷跡すらいっさい残さず、治療してもらったトドロキが織姫に頭を下げる。織姫は笑って返すが、その顔は一護と同じく憂いに満ちていた。
「明日歌ちゃん……どうして……」
沈黙の中、織姫が悲痛な表情でそうこぼす。先ほど自分が見たものが未だに信じられず、しかしそれが真実であることに愕然となり、言葉が出なかった。
全員が押し黙る中、歯を食いしばった一護が近くの木を殴りつけた。
「くそ……何がどうなってんだ‼︎」
「……彼女は、一体いつから魔化魍だったんだ? この島で……ずっと鬼と暮らしていたんだろう?」
「わからない……けど」
石田の問いに、イブキは困った顔で首を振る。
無理もない。知り合いだと言っても、何もかもを知っているわけではないのだから。彼女がいつどこから来て、何があったかなど、彼女本人も口にしなかったことなど知る由もなかった。
けれど、確信していることが一つだけあった。
「さっきの牛鬼は、間違いなく明日歌ちゃんだった。……俺たちの、敵なんだ」
イブキは表情を完全に消した顔で、そうはっきりと口にした。
「なに、言ってんだよ」
一護はその言葉に振り向き、呆然とした表情でイブキを見下ろす。その視線にわずかな殺気が混じっていることに、イブキは気づいていた。
「あの子の異常な膂力も、そうなら説明がつく。……なぜ音撃を魔化魍が使えたのかまではわからないけど」
「だから、何言ってんだよ!」
我慢の限界に達した一護がイブキの首回りの鎧を掴み、凄まじい怪力で持ち上げる。周りの面々が止めようと掴みかかるが、一護は止まらなかった。いや、止まれなかった。
「てめーら……てめーら仲間じゃねぇのかよ⁉︎」
「だとしても、今の彼女は人を襲う魔化魍なんだ‼︎ 放置すれば、どんなことが起きるかーーー」
「ふざけんじゃねぇ‼︎」
声を荒げた一護が、イブキを押して大樹の幹に押し付ける。逃げ場をなくし、まっすぐに睨みながら、一護は憤怒の形相でイブキに詰め寄る。
「なんで……なんで訳も分かんねぇのに、そんな簡単に決められるんだよ⁉︎ あんだけ鬼を誇りに思っていたあいつを、簡単に切り捨てられるんだよ⁉︎」
「関係のないあんたが……知った口聞いてんじゃない‼︎」
「そんなことどうだっていいだろうが‼︎」
沈痛な表情でそう返すイブキを、一護は知ったことじゃないと激昂して返す。
もううんざりだった。役に立たないからと、互いの存在が毒だからと追いやられるのが。戦い続けるものが傷ついて、自分だけが歯を食いしばって見守るばかりなことが。
そして何より、誰よりも人の為に尽力し、心を砕いていた明日が手のひらを返すように敵と呼ばれるのを聞くのは。
「なんで仲間を、最後まで信じてやれねぇんだよ⁉︎」
「……は、はぁっ……うぐっ……」
森の深い奥に、明日歌はいた。
岩場と樹々の間を川が流れ、冷え切った空気が明日歌の肌を突き刺し凍えさせる。震える体を守る衣服は鬼になった代償に今は失われており、陶磁器のように白い肌を晒して明日歌はうめき声をあげていた。
ザァァァッと流れて行く川の水に、鮮紅色が混じる。明日歌の肌に刻まれた深い裂傷から流れ落ちた血が、川の水を汚していた。
「……なんじゃ、今のは……わしは一体、どうなったんじゃ……?」
明日歌は自身の身に起きた現象に戸惑い、ブルブルと震える腕で自らの体を抱きしめる。恐怖が少女の心と体を縛り、歩き出す勇気を奪い去って行く。一糸纏わぬ姿となっているのに、感じるのは羞恥などではなく凍りつかんばかりの寒さだけだった。
幻覚だったと思いたい。なのに、全身に感じる倦怠感も、刻まれた傷跡から感じる痛みも、全てが本物で疑いようがない。己はあの時、本当に魔化魍になっていたのだと。
「…………ぐぅっ⁉︎」
明日歌の頭に痛みが走る。記憶の扉を無理やりこじ開けるような激痛に頭を抱え、明日歌は小さくなってうずくまる。バシャバシャと足元の水をかき分けて冷感を得、別の感覚で紛らわせようとしても全く意味をなさない。
「うううう……‼︎ あああああああああ……‼︎」
否定しても拒絶しても、明日歌の脳裏には先ほど自分が見た光景が否応無く蘇っていく。
膨らみ、変化していく己の肉体。湧き上がる破壊と殺人衝動、そして人間への激しい憎悪。それを止めようと必死に抗う己自身が、徐々に弱まり消え去りそうになっていく冷たい感覚。
それを真っ向から受けた鬼たちの敵意と一護の放った刃の感触。その姿が、明日歌を狩るべきものとして認識した彼らの姿が、かつて魔化魍と戦っていた己の姿と重なり、激しい後悔が押し寄せた。
「嘘じゃ……嘘じゃ嘘じゃ嘘じゃ‼︎」
ザブザブと水面をかき、湧き上がった感覚を必死に否定する。
己は敵ではない、魔化魍ではない、化け物ではない。しかしそう否定すればするほど、魔物へと変わり果てた己の姿がフラッシュバックし、少女の心をガリガリと責め詰っていく。
あれが化け物でないと言うのなら、なんだと言うのか。守るべき人に憎悪を向け、共に戦うべき鬼に刃を向け、命を踏みにじる感覚に酔いしれていた、まぎれもない魔物と化していたと言うのに。
まだ自分が、人間だとでも言えるのか。
「違う‼︎ 違う……違う、違う違う違う‼︎」
劇場のままに、明日歌は水面を叩き水飛沫を巻き上げる。
水面に映る姿は、変わらぬ己の顔のままのはずなのに。激しく波打つ水鏡はまっすぐには己を映してくれず、ゆらゆらとゆがんだ姿を見せ続ける。
「違う……わしは、わしは魔化魍などでは……わしはーーー」
鬼を目指すカブキの弟子で、島に長く暮らし人々とたまに交流し、己を鍛え続けて時に魔化魍と戦い、それ以前は。
「ーーーわしは……一体、なんじゃ……?」
記憶など、なかった。
己がどこからきたのかなど、どこの誰の子供なのかも、一体なんなのかも何一つ知らなかった。
一護と激突した瞬間見えた光景は、一体なんだったというのか。憎悪に満ちた形相の人間たちに追われ、己を抱いて逃げていた女性は一体誰だったのか。
流れ着いた島にて師匠と初めて会った時、師匠の目に映った己のひたいに角が生えていたのは、なぜか。
あれは、本物の鬼ではなかったか。
「…………ああ、なんじゃ。何も違わなかったではないか」
明日歌は仰向けで岸に寝転がり、月明かりの照らす夜天を見上げて力を抜いた。理解してしまった瞬間、己の中に渦巻いていたあらゆる感情が静止し、急速に冷え切っていくのを感じた。
「なんということはない……わしはずっと、化け物じゃったのか」
口にしてしまえば、何もかもがどうでもよくなるような気がした。衝撃的な事実を突きつけられているというのに、全く心が動いた様子がない。いや、もはやそんな感情すら麻痺しているような気さえしてしまった。
「滑稽じゃのう……自分自身も、そんなことに気づかんかったなぞ……は、あははは……」
乾いた笑みが勝手に溢れる、全身から力が抜けていく。自分という存在が心底矮小なものに思え、心の中に生まれた闇の中にどっぷりと沈んでいくように思えた。
人間のために人間の敵を狩ってきたはずなのに、実は同胞を手にかけ、憎き人間に知らず手を貸していただけ。人間の敵が自分を人間と思い込み、同じ存在を殺し続けていたという、矛盾に満ちた真相。長年努力を続け、研鑽を積み続けてきたのは、一体なんのためだったというのか。
自分の立っている場所はもうすでに崩れ去り、あとはサラサラと痕跡が消え去っていくような、そんな儚い心地に陥っていた。
「ーーーここにいたか」
その声が聞こえてきたのは、不意のことだった。
聞きなれ、そして今は一番聞きたくなかった声に少しだけ体を起こし、焦点の合わなくなり始めた目を億劫そうに向ける。
川を挟んだ向こう側の岸に、その男は立っていた。派手な鎧を身にまとい、左右で長さも色も異なる角の生えた異形の戦士。明日歌が長く追い続けていた鬼の一人・歌舞鬼。
久しく見ていなかった鬼の姿へと変わった彼の手には、音叉の角を伸ばして刃を成した刀と歪な形状の刀が握られていた。
「……し、しょう」
明日歌の表情が、悲痛に歪められる。表情を一つも変えず己を見つめてくる師の前に裸体を晒しながら、それでも動く気になれない。体を隠す気も起きないのは、果たして全ての気力が失われてしまったゆえか。
「なぜ……ここにおる……」
尋ねる明日歌だが、なんとなくその理由は察していた。それでも尋ねてしまったのは、答えを師自身の口から直接聞きたかったからだろうか。
泥のように濁った瞳に見つめられながら、静寂の中佇む鬼は小さく、淡々と答えた。
「……お前を、殺しにきた」
「ーーーそうか」
予想通りの答えを告げた歌舞鬼に、明日歌はなぜか安堵の笑みを浮かべて目を細めた。
師は、ずっとそばにいた。稽古の時も、食事の時も、眠る時も、話す時も、喧嘩をした時も、どんな時も己のそばにーーー化け物である自分のそばに。ようやく気付いた、それがなぜなのか。
その理由は、考えるまでもなかった。
「なら、はようそうしてくれ。……わしは、痛いのは嫌じゃし、苦しいのはもっと嫌いじゃ。……じゃがの」
川の水に半身を浸し、裸体を晒しながら、明日歌は穏やかな表情で師に身を委ねる。岸に生えた樹から張り出した太い根に背中を預け、四肢を投げ出して師を見つめる。
身を守るものは何もない。鬼の鎧も、抵抗する気力も逃げる気力も何もない。歌舞鬼が持つ刀で胸を貫かれれば、さしたる抵抗もなく己は一瞬で絶命するだろう。
これまで己が倒してきた、
「バケモノのまま死ぬのは、もっとごめんなんじゃ」
歌舞鬼はザブザブと川に足を踏み入れ、明日歌の目の前にまで近づいていく。ギラリと刀が月の光を反射し、青白く鋭い輝きを放つ。こんな状況でも明日歌は、その輝きを美しいと思っていた。
何よりも、最後に己に刃を立てる鬼が師であることに、明日歌はなぜか喜びを感じていた。
「できるなら、おぬしの手で死にたい。……良いかの?」
「……ああ、承知した」
歌舞鬼は小さく頷き、刃を水平に構える。刃に月光だけでなく、川の輝きも加わってより美しく光る。
その刃がゆっくりと、歌舞鬼の頭上に掲げられていく様を見上げながら、明日歌は儚げな笑みを浮かべ呟いた。
「…………のう、師匠。わしは、こんなにも望まれて……おらなんだか? 生まれてきては……ダメじゃったのか? ……間違って、おったのか……?」
「…………」
アスカは、悔しくて悲しくてたまらなかった。
死ぬことがではない。己の積み重ねてきた全てが否定され、なんの意味も持てずに朽ちていくことが。己の存在そのものを己で否定してしまい、他人にその終幕を任せる他になくなってしまったことがだ。
師に、不甲斐ない弟子の始末をつけさせてしまうことが、どうしようもないほど情けなかった。
「……わしがやってきたことは、何の意味があったんじゃろうな。……わしは、何が正しかったんじゃろうなあ……」
「……さあな」
労いも、同情の言葉も何もなく、歌舞鬼はそう短く答える。相変わらず感情を微塵も感じさせない平坦な声のまま、〝敵〟を見下ろしているだけだった。
「…………だがせめて俺の手で、けじめをつけよう」
その言葉に、明日歌は安堵の笑みを浮かべる。
死にたくないと思わないわけではない、悔いがないわけがない。まだ友に何も言い遺していない、仲間に別れを告げていない、最後に島の者に会えていないーーー巻き込んでしまった一護に、詫びを言えていない。
だがそれ以上に、己に引導を渡すのが他の誰かではないことが、何よりも嬉しく思えた。それを引き受けてくれた師の無愛想な優しさに、何よりも救われる気がした。
ーーーあなたの手で殺されるなら、それでもいい。
師の刃が、今度こそ己の息の根をとめることを覚悟しながら。ようやく、この苦しみから解放されることを喜びながら、明日歌は二度と開かないであろう己の目を閉じた。
最後に師の姿を、目に焼き付けてから。