1.entrusted thought
静かに波がさざめく、真昼の岸辺。
フジツボが群生し、小さなカニや小魚が迷い込む浅い水辺に、アスカはいた。
少女にはもはや、立ち上がる気力さえ残ってはいなかった。衣服が濡れるのもかまわず、海水の中に阪神を浸してぼんやりと空を眺め、ただ呼吸を繰り返すだけになっていた。
最後の希望が島を離れ、仲間と持っていたものたちに裏切られ、アスカの心は傷だらけになっていた。人と鬼の間に刻まれた溝は、もはや修復不可能なほど深く、歩み寄ろうとした少女の努力はすべて水の泡と消えてしまった。
だが、そんなことすでにわかりきっていたのかもしれない。
「……まぁ、もうどうでもいいがの」
深いため息をつき、アスカは背もたれにしていた岩場から起き上がり、膝を立てる。
島を出よう、そして、もう帰ってこられないほど遠くへ行こう。居場所はもうどこにも無くなってしまった、自分でみんな壊してしまった。
ならせめて、みんなの顔を見ずに済むように、あの目をまた見ずに済むように何処かへ消えてしまおう。
そう考えて、アスカは海岸沿いに歩き出した。
だがその時、視界の端に何かが入った。
「……‼︎」
〝それ〟の姿を目にし、アスカは慌てて岩場の影に身を潜める。
わずかな衣擦れの音に〝それ〟は振り向いたが、息を殺して身を隠していたアスカには気づかなかったようで、そのまま歩き始めた。
曇り空の陰った光に照らし出されたのは、炎のような赤い甲冑。火焔をもした大きな体の、魔物がいた。
鎧武者の魔化魍、火焔大将が。
「あやつは……カブキが倒したはず? じゃが、なぜこんなところに?」
初めて出会った時、アスカはかの魔化魍がカブキに倒される光景を実際に目にした。なのに、かの魔化魍はまるで何事もなかったかのようにこの場に存在し、獲物でも探すかのように徘徊している。
(おかしい……何かがおかしい!)
同じ姿の魔化魍くらいいるはずだ。あの時倒された魔化魍とここにいる魔化魍が同じ個体だという確信などない。
だが、ここに巣食っている魔化魍はオロチである。魔化魍の王が、他の魔化魍を寄せ付けたりするのだろうか。
それに、火焔大将は本土で初めて見たのだ。今まで見たことがない魔化魍を、本土で見た後に故郷で見るなどあり得るのだろうか。
そこまで考えて、アスカの脳裏には嫌な想像が生まれてしまった。
「……まさか」
まさか、と思い青ざめるアスカ。そんな彼女の頭上を、突如暗い影が覆った。
ハッと振り向き、息を飲むアスカの目の前に現れたのは、鬼戦士たちと去ってしまったはずのカブキだった。
戻ってきてくれたのか、と思うよりも強く、アスカには例えようもないほどの恐怖感が襲いかかっていた。
「おぬし、なのか……? おぬしが、わしの仲間を殺したのか……?」
火焔大将を倒したのは、カブキ。だが火焔大将が本当に息絶えたかは、爆発に飲まれたために目にしてはいなかった。瓦礫とともに、跡形もなく消えていたのだ。
怯えた目で見上げてくるアスカに、歌舞伎はいつもの朗らかな笑みも決して、冷酷な目で見下ろしてくる。
「……あんな目に遭って、まだ仲間って呼ぶんだな。本当にお人好しだわ、お前」
「嘘、じゃろ……‼︎」
その言葉だけで、アスカにとっては肯定と同じだった。
ぶるぶると震える体で、アスカはカブキを見つめる。
「こいつは俺の忠実な部下として与えられたものでな。ああやって
カブキ自身が発した言葉も、アスカには未だ信じられなかった。
この男とともになら、なんとかなると思っていた。大した礼もできないのに、ちっぽけな自分を助けてくれると言ってくれた。
この命の軽い世界で生きる希望に、目標にもなってくれる人だと思っていた。
なのにそれは、すべてまやかしであった。
人々を守るために火焔大将を相手に戦っていたことも、アスカを助けてくれると言ったことも。
アスカの、希望になっていたことも。
「カブキ……おぬし、全て嘘じゃったのか……? どんなやつだろうと助けると言ったのは……助けてくれると言ったのは……」
「……嘘じゃねぇさ」
いつのまにか、カブキに付き従うように姿を現した火焔大将とともに、カブキは冷ややかな笑みを浮かべる。
その目の冷たさに、アスカの目尻から涙がこぼれた。
「ガキ一人に全て押し付けて、失敗したら簡単に手のひらを返すような連中は、全員一人残らず同じところへ送ってやるよ」
吐き出された言葉に、今度こそ絶望する。
こんなになってまでも、自分は集落の仲間のことを案じてしまっていたらしい。もう既にボロボロのはずの心がさらに悲鳴をあげ、全身から力が抜け出していく。
心の中の火が、しぼんでいくのを感じた。
「なぜじゃ……なぜじゃカブキ⁉︎ 人を守るのが、鬼の使命と言うとったではないか‼︎」
「ーーーもう人間に、守る価値なんざねぇんだよ‼︎」
絞り出すようなアスカの慟哭に、カブキは激昂するように叫びをあげる。
その声に混じっているのは、怒りと憎しみ、そしてーーー悲しみと後悔。
人のために戦い続けてきた男もまた、疲れ果てていた。
「俺がどれだけ命がけで戦おうと、身を尽くそうと、人間は感謝どころか人としても見ねぇ‼︎ 魔化魍と同じ化け物の仲間としてしか俺を見ねェ‼︎ ……もう、うんざりなんだよ」
「……信じておったのに……‼︎」
ガラガラと、足元が崩れていくかのような。傷ついた心をかろうじて支えていたものが壊れていくかのような喪失感に襲われ、涙を流すアスカの目から光が失われていく。
もはや、そこから逃げようなどという気力も起きなかった。
がくりとうなだれたアスカに、カブキは憂いを帯びた眼差しを送る。
「……やっと邪魔な奴が片付いたな」
そんな時だった、その少女が現れたのは。
おかっぱ髪に、鞠をついた七五三のような格好をした幼い少女が、その見た目に似合わない低い声でつぶやき、カブキとアスカを見つめていた。
その少女が、火焔大将の方に目配せをする。すると火焔大将がアスカの元へ動き、カブキを押しのけるようにして少女の体を拾い上げた。
思わぬ行動に、カブキは目を見開いた。
「連れてこいーーー今日の贄だ」
「なんだと……?」
カブキは少女を睨み、ついでアスカを脇に抱える火焔大将を睨む。
自身に忠実なこの魔化魍は、オロチの元から与えられたもの。同じ立ち位置にある子の少女にも従うのは道理だが、カブキには見逃せないことだった。
「話が違う。こいつだけは生かしておくようにという約束だったはずだろうが」
「そんなことは知らん。贄は一匹でも多い方が良い、それだけのこと」
特に理由があったわけではない。だが約束を破られるというのは、あまり気分のいいことではなかった。
しかし少女は取り合わず、火焔大将に命じてアスカをどこかへと運んでいった。
「逆らうな……お前はもう、同類なのだからな」
それは言外に、カブキを嘲笑しているかのような言葉だった。
人の身を捨てたお前に、人を救う資格などありはしない、守る資格などありはしない、殺す人間を選ぶ資格などはありはしない。そういっているかのようだった。
カブキは肩を落とし、運ばれていくアスカを見送る。その目に宿っているのは、憐れみと、少しの後悔であった。
「悪いな、アスカ。恨んでくれても、構わねぇよ」
その声が届いているかはわからない。
力なくうなだれ、小脇に抱えられたままのアスカは抵抗も何もなく、ただ揺さぶられながら運ばれていくのみ。
(……ああ。これは報いか)
兄を失い、その責任をあの男に求め続け、身の程もわきまえずに憎み続けたことへの。
繋がりを失うことを恐れるあまり、なんの関わりもないものたちを巻き込み、その上根拠も何もない疑いをかけて傷つけたことへの、自分への罰。
もしそうなら、それは許されるはずもない罪深いものだ。許されてはならない、醜いものだ。
だがそれでも、助けなど、来るはずがないと知っていても。
アスカの脳裏には、憎いあの男の顔が浮かんでいた。
島の外れ、切り立った崖の先にヒビキはいた。
さわさわと海風に揺れる草地の奥に建てられた石の墓を前に、ヒビキは長い間跪いていた。
しばらくそこで目を伏せていた彼は、ようやく立ち上がる。もともとここにきた用事はこれ一つのためだった。あの妹にこれ以上嫌われる必要もあるまいと、その場を後にしようとした時だった。
「……ヒビキさん」
不意に聞こえてきた声に、ヒビキは動きを止める。
振り返り、そこにいた一人の娘の姿にヒビキは目を細めた。
「お前は確か……彩姫」
「……あなたに、渡しておかなければならないものがあるの」
ヒビキは跪いたまま、見つめてくる彩姫を見つめ返していた。
「……これは」
「あの人の遺品の中に、これが残っていたの」
ヒビキを自宅へと誘った彩姫は、戸棚の奥にしまっていたボロ布の塊を引き出し、ヒビキに差し出した。ヒビキはそれを受け取り、布の端を丁寧に開いていく。
そして、その中から露わになったのは、一振りの刃だった。
「あなたに渡して欲しいって、この手紙に」
「……あいつが打った、刀か」
歪な形をした、刀というよりは牙のような形状の刃を掲げ、ヒビキは呟く。刃の先端には穴が空き、持ち手もまっすぐには程遠い。お世辞にもうまいとは言えない出来ではあったが、ヒビキにはそれが好ましく思えた。
「あいっ変わらず、ヘッタクソだなぁ……だが、まっすぐないい刀だ」
思えば、あの弟子の仕事はいつも上手いとは言えないものだった。いつも失敗ばかりで、心配ばかりかけていた。
だが、この刀には確かにあの男の魂が宿っている。ヒビキを思い、一心不乱に叩き上げた想いがこもっている。間違いなく、あの男の最高の刀だった。
「あの人は最後までそう……! 自分よりも誰かのことばかり気にして……いつもそれで損をして……本当に、兄妹揃ってお人好しで……!」
「…………」
感極まって涙を流す彩姫を前に、ヒビキはただ黙って刀を見下ろす。
蘇ってくるのは、自分の後を追っていたある男の顔と、自分を憎んでいる少女の顔。血の繋がりはなかった、しかしどうしようもないほどに似ていた二人の顔が、何度も脳裏を横切っていった。
「ヒビキさん……どうか、どうかあの人も連れて行ってあげてください……!」
答えは何も帰っては来なかったが、彩姫はその場で膝を揃え、深々とヒビキに頭をさげる。恥も何も考えず、ただこの願いだけは伝えねばならないと懇願する。
ヒビキはただ、そんな彩姫をじっと見下ろし、口を閉ざして佇んでいた。
「あの人はずっと……ずっとあなたを追いかけていたんです……その最期に、きっと、悔いなどなかったはずなんです……‼︎」
彩姫は必死に、兄貴分が抱いていた想いを師に伝える。
亡き弟子の刀を持つヒビキの手に、力がこもっていった。
「……無茶言いやがって、あの馬鹿弟子……」
だが、不思議と嫌な気分ではなかった。
心の中で、くすぶっていた炎が再び燃え上がるのを感じた気がした。
「……ああ、わかったぜ。猛士」
そうつぶやいてあげたヒビキの目には、強い光が蘇っていた。