島の砂浜の近くにポッカリと開いた、深い洞窟。
ジメジメとした湿気が生ぬるい風となり、アスカの頬をなで付ける。来ていた服を脱がされ、簡素な白い衣装に着替えさせられたアスカは、ピクリとも動くことなく洞窟の地面に倒れ伏していた。
光を失った虚ろな目は、天井から滴った水たまりの波紋をぼんやりと見つめたまま動かず、か細い呼吸音だけが彼女が生きていることを表していた。
ふと、洞窟の中に足音が響いた。
徐々に近づいてきたそれはアスカのすぐ近くで止まり、影がアスカに覆いかぶさった。
「……カブキ……?」
自らの腕を縛り付けている縄が解かれていく感触に、アスカは戸惑うように声をあげた。
「静かにしてろ。逃がしてやる」
ぐったりとしたままのアスカの腕を引き、立ち上がろうとするカブキ。
だがアスカは、そこから一歩も動こうとはしなかった。
「……もう、ええんじゃ。放っておいてくれ」
掠れた声で救助を拒むアスカに、歌舞伎は眉間にしわを寄せて顔を覗き込んだ。
「わしが死ねば、もうしばらくは集落の連中は生贄を出さずに済むじゃろ……望まれんわしなら、誰も悲しまんからのぅ……」
アスカの目は、もう死人とほぼ変わらないほど虚ろだ。
だがその心は、集落の者たちにたいして異常なほどの執着がこびりついている。何もかもを失って流れ着いた少女は、再び失うことへの恐怖心に縛られ、動く気力を失ってしまっていた。
生きることを、完全に諦めてしまっていた。
「なんでだ……? お前も聞いたはずだ。俺たちだけじゃない、お前にも向けられた奴らの蔑みの声が……」
「……それでもここは、あやつらはわしをここまで育ててくれた家族じゃ。捨てられんよ」
アスカの顔に、笑みが浮かべられる。何もかもを失いながら、自分に価値を求めようと取り繕った、悲しい顔だった。
「これがわしの、最後の恩返しなんじゃ……邪魔せんでくれ」
「……馬鹿なガキだよ。行くぞ」
カブキはそんなアスカを一瞬だけ悲しげな目で見つめると、有無を言わさずその体を抱え上げる。
アスカも抵抗することなく、カブキに抱えられながら洞窟の中から連れ出されていく。もう、自ら動く気にもなれずにいた。
あまりにも軽い体を米俵のように担いで歩くカブキだったが、洞窟の入り口にたどり着いた時その足が止まる。
「どこへ行く……カブキ」
聞こえてきた声に、カブキの表情が憎々しげに歪む。
岩場の上で、鞠をつく幼い少女。その可愛らしい顔立ちに浮かぶのは、邪悪な感情を全て詰め込んだかのような醜悪な笑みだ。
傍に立っている火焔大将までもが、嘲笑するようにたちを肩に当てているように見えた。
「贖罪のつもりか。何をしようと、裏切ったお前の罪は消えんぞ」
カブキは少女を睨みつけ、しかし争うようなそぶりは見せずに立ち尽くしていた。
アスカはその間も動かない。ぐったりと抱えられたまま、事態が動くに身を任せているようだった。
「その子供を返せ。今すぐに」
ざわざわと騒ぐ葉擦れの中、カブキと少女が睨み合う。数刻ののちようやくか武器がとった行動は、今までずっと傍に抱えていたアスカをその場にそっとおろし、岩の上に腰掛けさせることだった。
割れ物を扱うように優しく降ろされたアスカは、虚ろな目を細めてカブキをじっと見上げ、ふっと微笑みを浮かべた。先ほどとは異なる、安心仕切ったような笑みだった。
「……カブキ」
「……悪いな、アスカ。見つかる前なら逃がしてやれるんだが、そうもいかなくなっちまった」
「それでよい……ぬしはもう、何も気にせんでええ」
アスカにとっては、カブキも集落のものと同じ守りたいものとなっていた。この場で彼が裏切り、アスカを逃がすことがあれば集落の者が殺されるだけはない、カブキも命を狙われてしまうだろう。
騙されていたとしても、嘘だったとしても、どうしてもアスカにはそれは許容できなかった。長く旅をして知ったこの男の本当の優しさは、偽れるものだとは思えなかった。
だから、彼を守れるなら、それでいい。
この命を散らしても、構わない。
そう思って、アスカは目を閉じる。カブキはそんなアスカを悲痛げな目で見下ろし、唇を噛みながら立ち尽くす。
その時だった。草木をかき分け、勢いよくその場に降り立った一つの影があったのは。
「…………なん、だ。これは」
呆然とした様子で、立ち尽くすカブキと座り込むアスカ、そしてこの場に不釣り合いな格好の少女と魔化魍の姿を目の当たりにする男、ヒビキ。
混乱しながらも、目の前の光景を瞬時に理解し、鋭い眼差しをカブキに送った。
「……お前だったのか、裏切ったのは」
「ヒビキ……」
あまりの理解の早さに驚くも、気づかない方がおかしいかとカブキは我ながら呆れる。
虚ろな表情で座り込むアスカと、魔化魍が何もせずこの場にいる時点で、察することができない奴は余程の馬鹿か、味方を盲信する甘いやつぐらいなものだ。
「あいにく、俺はもともとそこまで聖人君子じゃ無くってなぁ……人間のことなんざ、もうなんとも思えねぇんだよ」
ヒビキの眼光を感じながら、カブキはだるそうに天を仰ぐ。同業者にバレることはできるだけ避けたかったのだが、それももう仕方のないことだ。
もう、自分は人間ではないのだから。
「お前はそうは思わないのか? どんなに戦って、身を粉にして人に尽くしても、帰ってくるのは侮蔑と差別の視線ばかり。誰一人として本気で感謝するやつなんていやしない」
ヒビキは何も答えず、闇に落ちた鬼をじっと見据える。迸る殺気が、昏く燃える瞳が、カブキの言葉が本気であることを示している。
しばらくにらみ合っていた時、不意にヒビキが口を開いた。
「…………アスカ」
呼ばれた自分の名にアスカはわずかに肩を揺らし、虚ろな目を向ける。気だるげな緩慢とした動きに、ヒビキはまっすぐなっ視線を向けて語りかける。
「お前の兄貴は、最後にわずかだが息があった」
「…………‼︎」
アスカは目を見開き、ハッとヒビキを凝視する。
事故にあった兄はほぼ即死で、アスカが言葉を交わすまでは間に合わなかったはずだ。だが、アスカが到着する寸前まで生きていたというのか。その時間、やはりヒビキは何もしなかったのか。
だが、その疑いは一瞬で晴れた。
「あいつは俺に、アスカ……お前のことを頼むと言った」
兄の遺言を聞き、アスカの涙腺が決壊する。
自らの命が尽きようとしている刹那の間、兄は自らが生きながらえることよりも、妹を残すことを悔いたのだ。
その数秒を、妹を師に託すことに使ったのだ。
「お前が道を間違わないように、迷わないように見守ってやってくれと言った。……その遺言に従って、俺はアカネタカを使ってお前のことを見張っていた」
ヒビキの言葉にアスカは驚き、そして理解する。
鬼たちが仲違いし、争いに発展しそうになった時、なぜあんなにも都合よくヒビキが現れたのか。そして、なぜカブキとともに訪れた時、驚いた様子がなかったのか。
知っていたのだ。アスカがどこで何をしているのか、何に悩んでいたのか。
知っていて、アスカが助けを求める時に備えていたのだ。
「お前が望むなら、俺はお前が望むことを手伝ってやる。……お前は、俺に何を望む?」
弟子との約束を守るため、その妹の罵りにも耐え続け、待ち続けていたのだ。
アスカが、自らの口で助けを求めることを。
じっと自分を見つめてくるヒビキに、アスカは目を臥せて肩を震わせる。歯を食いしばり、何だを零し続けるアスカは、やがてぐしゃぐしゃになった顔を上げ、ヒビキを凝視した。
「頼む……戦ってくれーーー響鬼」
願いを、自分で口にする。
誰かのためじゃない、自分の願いを。
「カブキを……止めてくれ」
少女の願いは、どこまでも自分の身をないがしろにしたものだった。
自分の命を惜しむものではない、一度は憧れた者に手を汚させまいと祈る、あまりにも歪で愚かな慈悲の心。
だからこそヒビキは、それに答えた。
「…………ああ。わかった」
ズン、と殺気を迸らせるヒビキに、カブキもまた同じく殺気を漲らせる。
袂を分かった二人の鬼を見てニヤリと笑う少女が、カブキに視線を送った。
「やれ、歌舞鬼。その鬼を殺して、そのガキも連れてこい」
音もなく闇の中に消えていく少女に背を向け、カブキは懐から音叉を取り出し、足袋に当てて鳴らす。
「……歌舞鬼」
額にかざした途端に緑の炎に包まれ、鬼へと変貌していくカブキ。
ヒビキもまた音叉を取り出すと、弟子が遺した歪な刀を抜いて、その刀身に音叉の角を当てる。甲高い音が響き渡り、ヒビキはそれを額に当てる。すると、音の波にさらされた額に鬼の顔が浮かび上がった。
「響鬼」
小さく呟くと、ヒビキの体が紫色の炎に包まれていく。衣服が燃え、炎が肉体を包み込み、その中で人の貌が大きく変貌していく。
「オオオオオオオーーーハァッ‼︎」
雄叫びと共に炎が振り払われ、鬼へと変じたヒビキーーー響鬼の姿が露わとなる。
独特の光沢を放つ紫色が鍛え上げられた鋼の肉体を彩り、筋肉の脈動を伝える。両腕の先は人の血潮を表すような見事な紅で、鋭く尖った爪を備える。
胸には金属の輪がたすき掛けのように巻きつき、銀の輝きを敵に見せつける。
のっぺりとした顔に生えた二本の角が圧倒的な存在感を放ち、浮きだった赤い装飾が憤怒の形相を表す。
これが、幾千もの戦いを乗り越えてきた鬼。
アスカの兄が憧れた、戦士。
「おおおおおおおお‼︎」
「ハァァァァァァァ‼︎」
怒号のような芳香を放ち、互いに向かって疾走する歌舞鬼と響鬼。それぞれの武器である紅と翠の音撃棒を振りかざし、相手の全てを叩き潰す勢いで躍り掛かる。
ガギン、と鈍い音が響き、鬼の顔を飾った撥が激突する。間合いの短い双方の武器は直接殴りつけるのとほぼ同じ威力を発揮し、響鬼と歌舞鬼は互いに弾かれる。
二人の鬼が得物をぶつけ合うたびに衝撃と火花が資産し、風となってアスカや木々の枝を揺らす。
音撃棒をかち合わせたまま、響鬼と歌舞鬼は海岸に向かって駆け抜けてゆく。得物の間に、そして両者の視線の間に火花が散り、振り払うと同時に距離をとった。
「おおおお‼︎」
ヒビキが音撃棒を振り下ろし、渾身の一撃を見舞おうとした時、右腕に縄が巻きつく。振り払おうとするも、歌舞鬼はまるで生き物のように縄を操り、響鬼を空中へと放り上げてしまう。
すぐさま立ち上がり、反撃を加えようとする響鬼だったが、今度はどこからか取り出された傘によっていなされ、隣をすり抜けてしまう。体勢を崩した響鬼の懐に向けて歌舞鬼が音叉を抜くと、角が伸びて一振りの刃となり、響鬼の脇腹に食らいついた。
血を流す響鬼は転がって離れると、猛の刀を抜いて向き直り、再び躍りかかっていく。
しかし、歌舞伎の持つ鬼縄術、鬼傘術、鬼刀術に翻弄され、徐々に追い詰められていく。一撃の技に特化した響鬼と、小手先で翻弄して仕留める歌舞鬼では相性が悪く、反撃の糸口を見出せずにいた。
「ぐううっ⁉︎」
数回の激突の後、肩を斬り裂かれて響鬼はその場に膝をつく。
決して浅くはない傷が刻まれ、鮮血が吹き上げるも、響鬼は歌舞鬼から目をそらすことはない。だが受けた負傷は響鬼から体力を奪い、戦いの最中の集中力を奪い去っていく。
歌舞鬼は鋭い光を放つ刀を構え、傘を担ぎながら響鬼を見下ろし、切っ先を突きつける。
もはや戦況は決しかけている。道は違えど、誤れど同じ鬼の間柄。せめて一撃で仕留めてやろうと響鬼の防御を見定める。
この一撃で、歌舞鬼はついに本当に人の身も心も捨て、真に魔化魍の仲間入りを果たすのだ。長く望んでいたことでありながら、心にしこりを残した気がする歌舞鬼は内心で頭を振り、響鬼に視線を戻す。
「さらばだ、響鬼…………これでしまいだ‼︎」
膝をつく響鬼に向けて、渾身の一撃を見舞おうと刃を振り下ろす歌舞鬼。そのきらめきは、迷うことなく響鬼の首に吸い込まれるように空を切り裂いていく。
だが、その時だった。
「歌舞鬼ぃぃぃ‼︎」
「っ!」
響鬼たちを追い、駆けつけたアスカの声が歌舞鬼の鼓膜を震わせる。
その声が響き渡った瞬間、仮面の下の歌舞伎の目が大きく見開かれ、振り下ろされる刃が鈍る。必殺の一撃に、致命的なまでの迷いがはっきりと現れた。
響鬼は、それを見逃さなかった。
「おおおおおおおおおおおおおおおおお‼︎」
凄まじい雄叫びと共に、響鬼は歌舞鬼に向かって全力で突進する。ハッと我に帰る歌舞鬼よりも早く、盾となる傘を叩き折り、胸の中心に向けて抉りこむように音撃棒を叩き込む。心臓までを押しつぶす勢いで放たれた衝撃に、歌舞鬼の手から刀が離れた。
「ーーー音撃打・火炎連打の型‼︎」
動きを止めた歌舞鬼に、響鬼の怒涛の連撃が襲いかかる。
魔化魍を打つ清めの音ではない、敵を倒すための明確な闘気を込めた打撃が無数に叩き込まれる。襲いかかるいくつもの衝撃に歌舞鬼の体がグラグラと揺さぶられ、意識が削り取られて行く。
打撃により鎧は凹み、熱により焼けただれ、歌舞鬼の体からみるみるうちに力が抜け出て行った。
「はあああああああああああああ‼︎」
最後に打ち込まれた強烈な一撃により、歌舞鬼の体が大きく仰け反る。がっくりと肩を落とした歌舞鬼の姿が揺らぎ、本来の姿へと戻って行く。
脱力した彼がゆっくりと地面に向かって傾いでいく刹那に見えた、カブキの表情は。
ーーーどこか迷いの晴れたような穏やかなものだった。