語られぬ歴史に刻まれた、オロチと七人の戦鬼による戦い。
それを見ていたのは、島の住民だけではなかった。
「……アスカ」
傷を受けた体を引きずり、様々な音の響き渡る戦場が見える場所まで出てきたカブキ。
もう残った魔化魍はオロチだけで、鬼たちはその巨体に苦戦しながらも懸命に音撃を駆使している。その勢いに、オロチも迂闊には手を出せずにいるようだった。
離れた場所の岩陰には、アスカの姿がある。オロチの姿に怯えながら、鬼たちの勝利を信じて目の輝きを死なせずにいる。
その姿に、カブキは例えようもない無力感に苛まれていた。
「……俺は、これから一体何をすればいいのだ」
人間を憎み、しかしアスカへの情を捨てきれず敗北した。そんな中途半端な己が、あの場面へ介入することなど許されるはずもない。今のカブキに、できる音など何も残されてはいなかった。
「アスカ……俺は」
魔化魍に堕ち、朽ちることのない不死の肉体を提げたカブキは、己の行く末に答えを見いだせないまま。
時は、500年の時を経る。
「…………え?」
アスカは、いつまでたっても訪れない痛みに困惑の声を上げる。
魔に堕ちた己を討とうと刃を突き付ける師に、全て身を預けて意識を手放そうとしていたはずなのに、そんな気配が全くない。
確かに刃は貫いている。だがその切っ先が突き立てられているのは自分の体ではなく、顔のすぐ横の幹。
そこでのたうち回っている、小さな一匹のおぞましい模様の蛇だった。
「……え?」
「この時を……ずっと待っていた」
明日歌ではなく、明日歌の首元で悶える蛇に突き刺しながら、歌舞鬼が感情を押さえ込んだ低い声で呟く。
困惑する明日歌の前で歌舞鬼は突き立てた刀の峰に爪を当て、リィンと甲高い音を生じさせた。
「フン!」
「ギィィィィ‼︎」
突き立てられた刃から直接清めの音を食らった蛇は断末魔の叫びをあげ、わずかな抵抗ののちに木の葉と化して爆ぜ散った。
何が起こっているのか、明日歌には微塵も理解できない。わかるのはただ一つ、師の向けている敵意は、自分に対してのものではないということだけだった。
「もう、500年ぶりといったところか……」
歌舞鬼の零した言葉で我に返った明日歌は、その背後に立っている鈍色の死神の姿に気がついた。
西洋の甲冑に巨大な槍と盾を構えた、死神のような格好をした巨体。血のような真っ赤な瞳が、心を鷲掴みにするような恐怖を感じさせる、最悪の魔化魍。
それに背を向けたまま、歌舞鬼は刀を勢いよく抜いた。
「ようやく、捕らえたぞ……ヒトツミ‼︎」
吠えるが早いか、猛然と歌舞鬼はヒトツミに斬りかかる。憤怒、憎悪、渇望、様々な感情が入り混じった修羅の咆哮が響き渡り、炎となって溢れ出し陽炎を生み出す。
ヒトツミもそれに負けぬ怒りの感情を発露し、やりを振りかざして歌舞鬼に襲いかかった。
「歌舞鬼ぃぃぃぃぃぃぃぃ‼︎」
「オオオオオオオオオオオ‼︎」
ガギン、と両者の刃が鈍く重い音を響かせる。激しい水飛沫を巻き上げ、一時的に川の流れをせき止めるほどの衝撃が走り、木々や明日歌の髪をなぶる。
激突は一度では終わらず、互いに凄まじい殺気を全身に迸らせた歌舞鬼とヒトツミの斬撃がぶつかり合い、あたりに傷跡を刻みつけていく。たった数秒の間に、森の奥地は爆心地のような悲惨な有様へと化して行った。
「ぐっ……‼︎ この死に損ないが‼︎」
ヒトツミが激昂し、大槍を振り回す。歌舞鬼はそれを傘でいなし、水飛沫を巻き上げながら刀で切りつける。ヒトツミは槍と盾を豪快に操ってそれを防ぎ、膂力で劣る歌舞鬼の防御を抜こうと攻め続けた。
荒々しい剣戟に、明日歌は困惑しながら身を縮め、頭を抱えることしかできない。
歌舞鬼は背後で身を守る明日歌をかばうようにその場から動かず、襲いかかる怒涛の猛攻を防ぎ続け、留まり続けた。そしてそれが、歌舞鬼の致命的な隙となった。
「があああああああ‼︎」
「ごふっ……‼︎」
怒号と共に突き出されたヒトツミの槍の穂先が、歌舞鬼の腹に深々と突き刺さり、たやすく貫通する。鋼の肉体を貫いた穂先は明日歌の目前にまで届きそうなほどにめり込み、次いでそこからおびただしい量の血が吹き出した。
噴水のごとく吹き出す流血が明日歌の顔を汚し、真っ赤に汚れる明日歌は大きく目を見開いて言葉を失った。
「ひッ……ヒィッ……!」
カタカタと震える明日歌は、己の目前に迫る切っ先など見えてはいなかった。
自分をかばった師匠が容易く刃を受け、がくりと膝をつく姿に怯えていた。
「し、ししょっ……なん、なんでっ……⁉︎」
明らかに致死量と思しき流血に、青ざめる明日歌。
その声が聞こえたのか、それとも意地か。槍を抑えて悶絶していた歌舞鬼はキッとヒトツミを睨み返し、抜けかけていた力を再収束させて思い切り突き出した。
「くっ……! おおおおお‼︎」
「ぐおおおおおおおおお‼︎」
歌舞鬼の突き出した刀はヒトツミの鎧を貫き、深々と根元まで突き刺さった。しかし狙いがずれたのか、刃はヒトツミの胸の中心からかなり横にずれた場所に刺さり、ヒトツミは歌舞鬼を槍で突き飛ばすようにして離脱した。
衝撃で歌舞鬼の腹からも槍の穂先が抜け、さらに多くの血が流れ出す。歌舞鬼は刀を手放し、ふらふらと力なくよろめくと顔からざぶんと川に倒れこんだ。
「……ーーー」
「…………し、しょう?」
か細い声が、明日歌の口から溢れる。
焦点の合わない目が見つめる先にあるのは、水の中に沈んでピクリとも動かない師の姿。鬼の肉体はすでに消え、傷口からどくどくと赤い血が流れ出し、川の流れの中に混じっていく。
カタカタと震えるばかりであったアスカは、その光景にようやく我に返った。
「お前……お前が……‼︎」
最初に戻ってきた感情は、師を傷つけた者への怒りであった。ギリッと歯を食いしばり、カブキをかばうように前に立つと、射殺すような目で鈍色の死神を睨みつけた。カブキに渡された布しか纏えず、みすぼらしい格好だったが、その殺気は確かなものであった。
当のヒトツミは、陽炎のように女の顔を顔面に浮かばせ、倒れ伏したカブキに憎々しげな表情を向けている。
「クソが……‼︎ 肝心なところで、同類の分際で……‼︎」
カブキが貫いた傷口を手で押さえ、ヒトツミは後退りながら距離を取る。明日歌の目に確かな恐怖を感じているように、怯えた様子でアスカを睨み返し、体液を撒き散らしながら森の闇の中に消えていく。
死神は最後にカブキを見下ろしてから、吐き捨てるように残した。
「大人しくしていれば、苦しまずに逝けたというのに……ぐおおおおおおお‼︎」
その直後、明日歌の視界から死神の姿が消える。まるで煙か何かのように木々の間をすり抜け、木の葉のこすれる音も立てずに闇の中へと薄れていってしまった。
しばらくその残像を目で追っていた明日歌だったが、気配が消えると同時に背後で倒れ伏すカブキのもとにすがりついた。
「師匠‼︎」
沈んだ体を岸辺まで引っ張り上げ、ひっくり返すと顔を覗き込む。わずかな呼吸と心音を確認できたが、どちらも死を目前にしているように弱々しく、明日歌は例えようのない不安に襲われた。
虚ろな目で視線を宙に彷徨わせているカブキと無理やり視線を合わせ、明日歌は困惑したまま呼びかける。
「なぜ……なぜじゃ‼︎ なぜわしなんぞを庇った⁉︎」
返事は、すぐには帰ってこなかった。
しばらく焦点の合わない目で明日歌の姿を探すようにしながら、細めた目で鋭く明日歌を見つめた。
「……理由が、いるのか……?」
「わしは……わしは魔化魍じゃったんじゃぞ⁉︎ 人を食う……師匠の敵じゃったんじゃぞ⁉︎」
なぜ、そんな相手を助けたのか。何故殺さなかったのか。この人になら殺されてもいいと、そう思ってさえいたのに。
だがカブキは、そんな明日歌の泣き言に苦笑を返した。
「……知って、いた」
「……え?」
思いもよらない言葉に、明日歌は目を見開く。
「……初めて、出会った時に、人ならざるものの……俺と同じ、霊圧を感じた。だから最初は、殺そうと思っていた。……だが、できなかった」
衝撃の告白に、明日歌は理解が追いつかない。
カブキと同じ、人ならざるもの。知っていて殺せなかった。
何を言っているのか、わかってはいても理解したくない。するわけにはいかなかった。
「……ずっと、後悔していた。あの日、お前を裏切ったことを……」
次第に、カブキの目はここではないどこかを見るようになっていた。
明日歌ではない、明日歌を通した誰かを見ているようで、明日歌は困惑の表情のまま見つめることしかできなかった。
「師匠……? 何を……言っておるのじゃ?」
「なんのために生まれて、なんのために戦って、なんのために生きて……迷って迷い続けて、俺は道を見失った。……いつのまにか、俺の中身は、空っぽになっていた」
虚空を見つめたまま、カブキは明日歌の方を見る。その表情が、どこか優しいものになる。
「だが、お前に出会ってから、何かが変わった」
明日歌の血に汚れた頬を手で拭い、目尻から流れている雫を指でとる。情けない顔を晒している弟子に仕方がなさそうな苦笑を見せ、カブキはか細い呼吸のまま言葉を紡いだ。
「お前といた時間が、お前が俺のそばにいた時だけ……俺は確かに、満たされていた。お前とともにいた時だけ、俺は……人に戻れた」
頬に触れる手から、次第に力が抜けていく。顔色も青白く染まっていき、みるみる血の気が失われていった。
「お前といられて…………楽しかったんだ」
「や、やめろ……‼︎ やめてくれ……‼︎」
それ以上聞きたくなくて、明日歌はカブキの胸に顔を押し付けるようにして耳を塞ごうとする。
自分を救ってくれた人に、導いてくれた人に、ここまで育ててくれた人に、そんな言葉を言って欲しくなかった。その先を、想像したくはなかった。
「おぬしがいなければ……わしは、わしは……‼︎ もう、何を目的に生きれば良いのか……‼︎」
この手が離れてしまえば、もう自分は立ち上がれない気がしていた。今まで目の前を走っていた大きな背中が失われることなど、想像したくもなかった。
だがカブキは、それをゆっくりと首を振って否定した。
「生きていくということは、失くすことばかりではない……お前はもう、自分で手に入れているはずだ」
カブキの目から、徐々に光が失われていく。血の気を喪った顔が乾き、枯れ木のようにしなびていく。不死の力を失った体から、潤いがみるみる奪われていった。
しかしその表情は、これ以上ないほどに安らかなものであった。
「出会った頃からずっと、お前は俺の……自慢の弟子だった」
耳を塞ごうともがく明日歌。その耳に、カブキの言葉はしっかりと届く。
弟子に贈る最期の願いを、笑みとともに。
「……持っていけ。最期の、餞別だ」
カブキの手が懐に入り、何かを取り出す。白い布に包まれた、抜き身の短い刀を手にしたカブキは、それを明日歌の胸に押し付ける。
反射的に明日歌が受け取ると、安堵したようにカブキの腕から力が抜けていった。
「ずっと渡せる時を待っていた……それは、お前の刀だ。……生きろ、明日歌」
カブキの手が、明日歌の胸元から離れて水の中に落ちる。全ての力が抜け落ちた体の重量が一気にのしかかり、明日歌はハッと息を飲んだ。
呆然と見つめる明日歌の目の前で、カブキの体は白く染まりボロボロと崩れていく。燃え尽きた灰のように、朽ちた枯れ木のように風化し、塵となって吹き飛ばされていってしまう。明日歌はそれを、ただ目で追うことしかできなかった。
「師匠……? おい、師匠……」
自分の手の中から重さが薄れていき、ボロボロとこぼれていく師の姿に言葉が出てこない。
あっという間に完全に跡形も無くなってしまった自分の掌の上を見下ろし、明日歌の表情が次第に苦しげに歪み始めていった。
「……ふ、ざ、けるな‼︎ 何が生きろじゃ、何が楽しかったじゃ‼︎ 今までそんなそぶり見せたこともなかったくせに、わしの気持ちにも全く気づいておらんかったくせに‼︎ 勝手すぎるぞ馬鹿師匠‼︎」
言葉が、罵倒が勝手に溢れ出す。
口数少ない男だったがために、素直な気持ちなど聞いたこともなかった。真正面から聞けなくとも、いずれ知ることができればいいなと思っていた。
なのにいきなり最期を迎え、勝手に気持ちを伝えて自分だけ先に逝ってしまうなど、身勝手にもほどがある。
「そんな……そんなこと、今更言われても……‼︎ わしは……わしはぁ‼︎」
ボロボロと、滝のように涙が溢れて止められない。
何もない手のひらを穴があくほど見つめ、皮を破るほどに拳を握り締める。悔しいのか、悲しいのか、苦しいのかもわからない。心がぐちゃぐちゃで、まともな思考もできはしなかった。
「師匠……‼︎」
亡骸も何もなく、消えてしまった師に向けてのその声は、もう届くことはなかった。
明日歌の手に、微かな重さだけを遺して。