ざわりと、闇の中で何かが蠢くのを感じた。
最初にそれを感じ取ったのは、一護と鬼の一触即発の空気を見守っていた石田だった。
「……なんだ、この気配は」
無数の鋭い刃に射抜かれているような、あるいは無数の獲物を狙うケダモノの視線に晒されているような、そんな居心地の悪い気配がそこら中に蔓延していた。
石田に続いてトドロキも気づいたのか、音撃弦を構えてあたりに視線を巡らせ始めた。
「誰かいるみたいっすね。それもそこら中に」
「……またさっきのやつらの仲間か」
不安げな表情になる織姫を守るように茶渡が立ち、光とともに巨人の腕を備え直す。
濃くなっていく視線と気配に、次第に全員が気づいて各々の武器を構えていく。示し合わせたわけでもないのに円陣を組み、死神も鬼も、異能者も混ざった奇妙な陣形が出来上がった。
「なんだこの気配は……! 虚か魔化魍かもわからんぞ!」
「気ィ抜くな! どっから来るか分かんねぇぞ‼︎」
並び立ち、斬魄刀を闇の中に向けるルキアと恋次だったが、流れ落ちる冷や汗は止められない。対抗できる存在はこの場に二人しかおらず、索敵を巡らせることしかできないことが気がかりだった。
刹那、動いた何かに気づくことができたのは織姫だけだった。
「黒崎くん‼︎ 後ろ‼︎」
「うおっ⁉︎」
一護の方へ勢いよく振り向いた織姫が、血相を変えた表情で彼の元へ駆け出し、その胸を押すように飛びかかった。
織姫の勢いに押された一護が後ろによろめき、たたらを踏みながら大きく仰け反る。
だが一護は驚愕すると同時に、織姫を抱きかかえながら斬月を目前に持ち上げた。途端に斬月の刃に火花が散り、固く重い何かがぶつかってきたことを理解した。
「一護!」
「ぐっ……くそっ‼︎」
体勢を立て直した一護はすぐさま織姫を自分の背後に隠し、ぶつかってきた何かが跳んで行った方へ斬月の切っ先を向ける。しかしガサガサと襲撃者は草木の中へと潜り込み、姿を消してしまった。
襲撃者が再び闇の中に消え、警戒を強める一護たち。そんな中、場に合わない間延びした声が届いた。
「あれあれ〜? 今のも避けちゃうんですね〜?」
聞き覚えのある女の声に、一護や石田は目を見開いて振り返った。
薄暗い木陰の中、牛鬼にへし折られた大樹の幹の上に一人の女性が腰かけていた。月明かりに照らされ、レディススーツを身にまとってニコニコと過剰な笑みを浮かべているのは、一護たちをこの島で案内した女性。
この場にいるはずのない、蛇園という名の島の女だった。
「あ、あんたは確か……観光課の!」
「……なんでアンタが……」
予想もしない人物がニコニコ笑いながらこの場にいるという意味不明な事態に、一護も石田も訝しげな表情を隠せない。
対して蛇園は、頬に手を当てながら困ったように眉尻を下げ、ため息をついていた。
「いや〜、おっしいですね〜。もう少しで、全部の罪をあの子に被ってもらって、邪魔者も片付いたんですけどね〜」
「……何言ってんだ、あんた」
「い〜いところでうまくいかなくってぇ、なかなか思い通りにいかないものですよねぇ〜」
話が通じない。もとより一護たちと話すつもりがないのか、蛇園は愚痴をこぼすように喋り続けている。酒の席で不満を口にしているようでありながら、自分のことしか話さないOLのようであった。
閉じられた薄目も一護たちを見ておらず、一瞥してきても路傍の石を見ているようにしか見えない。彼我の間で、何かがずれているようにしか思えない状況が続いていた。
「すっごく時間かかったんですよ〜? 遠くからたくさんの人を呼んだり、バレないように
何か気になることを言っているが、情報が少なすぎて一護たちには何を言っているのか理解ができない。
しかし時間がたてばたつほど、一護たちは言い表せない違和感に背筋を冷やされ、緊張と怖気が募っていくのを感じた。目の前にいる女性の正体が見えなくなっていき、不穏な気配がより濃くなっていくようであった。
「そのために……大好きな鬼の血も我慢してたっていうのに〜、いつまで邪魔するんですかぁ〜」
そう呟いた蛇園は、急に顔を伏せた。
黒よりも濃い森の闇の中からあらゆる音が消え失せた、その直後。
「あいも変わらず、忌々しい存在だ」
先ほどとは打って変わった様子の蛇園から、凄まじい重圧が発せられた。
鋭く開かれた両目は蛇のように陰湿で気味が悪く、眼光は人を石に変えそうな怪しさを孕んだものに変わる。頬に添えられていた手が爪を立てて自らの肌に傷をつけていき、笑みの消え失せた口元が唇を舐めた。
まるで別人と入れ替わったかのような蛇園の変化に、一護たちは表情を強張らせた。
「黒崎! 気をつけろ! この人は何かおかしい‼︎」
「わかってる……!」
全方位から視線を蛇園の方に集め、各々の武器を構える。人間に刃を向けることへの躊躇いよりも、未知の脅威に対する警戒心の方が優っていた。
織姫は一護たちに守られながら、先ほど明日歌の姿を見通したときに使った呪いを試そうとした。先ほどの指の組み合わせを思い出し、蛇園が指の枠の中に入るように目前に構えた。
しかしその直後、その行為を後悔することになった。
「ーーー‼︎」
「! 織姫、どうした⁉︎ 何があった⁉︎」
異変に気付いた一護が視線を向けるも、織姫は口元を手で覆って肩を小刻みに震わせるばかりで声も上げられずにいるようだった。
「……この、人」
ようやく聞こえた織姫の声は、震えていた。
初めて虚に遭遇した時も、二度目に遭遇して能力に覚醒した時もさしたる緊張を見せなかった彼女が、蛇園を見通した瞬間から尋常ではないほどに狼狽していた。何か、見てはいけない何かを見てしまったかのように。
蛇園は織姫の戸惑いを面白がるように、先ほどとは異なるいやらしい笑みを見せた。嗜虐心に満ちた、歯をむき出しにして歪めたその口で、蛇園は織姫を嗤っていた。
「クククク……狐の小窓で我の正体を見たか。余計な恐怖を魂魄に刻まずに済んだものを」
肩を揺らした蛇園は、幹の上から降りて地面に立つ。その動作そのものまでもが蛇のように気味の悪さを感じさせ、一挙一動に警戒せざるを得なくなる。
織姫の反応を見るまでもなく、言動の意味を理解するまでもなく、一護たちは蛇園を敵として見ていた。
「だがもう待つ必要はない……さほど数が集まらなかったのは残念だが、ようやく集まった馳走だ。たっぷりと堪能させてもらおうではないか」
そう呟いた蛇園の姿が、陽炎のように歪んでいく。
背丈は大きく、肩は広がって四肢は太くなり、男性よりも大きくたくましいものに。白髪が長く伸び、悪鬼のように醜く歪んだ顔からは鋭い牙が伸びる。南蛮の鎧の上に死神のような外套が重なり、積み重なった重量が地面に深い足跡を刻み込む。
その姿は、過去に魔化魍たちを従えて暴れまわったことで知られ、現代においても鬼たちの間に恐れ伝えられているものであった。
「こ……こいつは……‼︎」
「ヒトツミ、だと……⁉︎」
イブキとトドロキに動揺が走り、笛と弦を鳴らして再び鬼の鎧を纏う。一護たちも現れた魔化魍について知らないが、感じられる圧倒的な存在感が生半可な相手ではないことを悟っていた。
倒すべき、敵対すべき、排除すべき敵であると即座に判断し、戦闘態勢に入った。
その時だった。
ーーーホローーーーーウ‼︎
ホローーーーーウ‼︎
「⁉︎」
一護の腰から下げられていた髑髏の紋章が、突如として鳴り始めたのだ。
同時に、目の前の魔化魍から発せられる霊圧も尋常ではない圧力を有し始めていた。
「代行証が……‼︎」
「まさか……⁉︎」
一護の持つ代行証から響く警報音に、目を見開くルキアと恋次。
彼らの前で、ヒトツミの姿が歪んでいく。ボロボロと南蛮鎧が朽ちて崩れていき、シルエットもそれに応じて歪んでいく。
鎧の殻を剥がし、以前よりもひと回りは大きくなった肉体は華奢ながら鋼のような硬さを感じさせるものに。女性的な膨らみを蛇の皮ような着物で隠し、その上に鱗でできた鎧を纏う、爬虫類独特の冷たさを感じさせる容貌。
顔立ちは前に長く伸び、その上を白い骨のような仮面が覆い、隙間から縦に裂けた瞳孔が鈍色の光を放つ。
はだけて露わになっている胸元には、ぽっかりと空いた穴が向こう側まで届き、虚ろな隙間を開けていた。
「否……我はもはやヒトツミに在らず、幾百年の怨念を糧に歪み出でた新しき魔化魍」
かつてヒトツミと呼ばれていた異形は、臀部から伸びた太くたくましい尾を地面に叩きつけ、ズシンと凄まじい音を響かせる。
無数の蛇が絡みついてできたかのような意匠の
「忌々しき人間どもよ、改めて礼を言おう。貴様らの罪深き所業により、我はさらなる力を得て蘇った。贄ごとき貴様らが我が怨念の糧となったこと、褒めて遣わそう」
異形の言葉に、ルキア達はようやく察する。
目の前の存在は魔化魍であり、虚であり、どちらでもあってどちらでもない。
魔化魍として生まれ出でた存在が己が怨念によって変質し、虚の性質をも手に入れた歪な存在であるということに。
「そういうことだったのかよ……‼︎」
「代行証が鳴らなかったのは、奴の本質を測りかねていたからか‼︎」
虚であって虚でないもの。歪みに歪んだ存在は、代行証の判断を曖昧にさせてしまっていたのだ。
「ォォォオオオオアアアアアアアア‼︎」
夜の闇の中に、異形の咆哮が響き渡る。悲鳴のような怒号のような、あらゆる生命を恐怖させる魔の者の声が、一護たちの魂魄にまで振動を伝えてくる。
表情をこわばらせる死神と鬼を前にして、歪な異形は眼光を強めた。
「我が名は