森の中心部からだいぶん離れた崖の方に、どさどさと転がり出る黒い人影があった。
「あ、危なかったぜ」
蛟の猛攻から逃れた恋次が、未だに咆哮の聞こえる森の方を見やって冷や汗をかく。
死神の攻撃も鬼の攻撃も全て無効化し、異様なほどの破壊をもたらす未知の異形を前にして逃げ切れたことは僥倖だったかもしれない。
「すまねぇ、一護……もう少しだけ耐えてくれ。こりゃあ、俺たちだけじゃ荷が重い事態になっちまった」
「すぐに本部に通達せねば……!」
荒い呼吸をなだめていたルキアが、そう言って立ち上がろうとした時。
「! これは……!」
顔を上げた二人の頭上に、次々に光の帯が展開されていくのが見えた。滅多なことでは使用されない、結界によって対象を永久に封印するための鬼道だ。
幾人もの死神たちが鬼道を完成させるために列をなしているさまを呆然と凝視していると、二人の前にある死神が降り立った。
「兄様……‼︎」
「……黒崎一護は、あの中か」
長い黒髪に中性的な顔立ちを持つ男性、ルキアの義兄である六番隊隊長朽木白哉が静かに二人を見下ろし、そして森の奥を見つめていた。
恋次とルキアはすぐさま跪き、次々に集まっていく有力な死神たちの方に目を向けた。黒い死覇装と隊首羽織をまとった姿がいくつも見えることから、事態の重さを実感する。
「霊圧を感じてまさかとは思いましたが、隊長たちがほぼ全員この島に来るとは……‼︎」
「ことはもはや、鬼にのみ扱える事態ではない。見よ」
視線を頭上にあげる白哉につられ、恋次とルキアが顔を上げると、目の前に広がっていた光景に言葉を失った。
おびただしい数の巨大な異形が、島の上空を旋回しながら群れをなしていたからだ。魔化魍も虚も、両方が一緒くたになって飛び回っている光景ははっきり言って気が狂いそうな光景だった。
「うわっ……なんじゃありゃ⁉︎」
「件の異形に呼び寄せられたか、よそから魔の者たちが集まってきているぞ」
「あんなに大量の魔化魍が、この島に……⁉︎」
戦慄する二人に、白哉は淡々と答える。
とはいえ、彼の内心もこの異様な事態に危機を覚えていることは間違いない。その視線が油断なく頭上の異形たちに向けられているのだから。
「虚と魔化魍の融合……これまで確認されたことは一度もない未知の脅威。捨て置くわけにも行かぬが、死神にも鬼にも対抗手段は存在しない」
「俺たちじゃ、奴を止められないってことですか⁉︎」
「まぁ、無理だネ」
残してきた一護たちのことを思う恋次に、黒い面妖な化粧と派手なファッションの死神、十二番隊隊長及び技術開発局局長を兼任する涅マユリが告げる。
すでに解析できうる限りの行為は終わらせたのだろう、面倒臭そうに蛟の霊圧を感じられる場所を眺めていた。
「あれはもう虚でも魔化魍でもない、全く別の歪な存在だヨ。下手に手を出せば何が起こるかもわかったものじゃない。面倒なことにならないうちにこの島に閉じ込めておいた方が賢明だネ」
「なっ……ちょ、涅隊長⁉︎」
この状況でそういうことを言うということは、島にいる人間や一護たちも見捨てて永久に封印するという手段を取るつもりかもしれない。まさかとは思いながら恋次とルキアは大いに焦った。
しかしこの男、やるときはやる。場合によっては隊士も見殺しにする、モラルもへったくれもないマッドサイエンティストなのだから。
「もちろん、そんな乱暴な手段は最後の最後だよ。今準備しているのはやばい時の保険さ」
「しかし放置するわけにもいかないだろう……! あんな怪物を放置しておけば、どんな弊害が起きるものか……」
八番隊隊長京楽春水、十三番隊隊長浮竹十四郎が焦る二人を諌めるが、どちらもその顔はいつもの朗らかさとは無縁の真剣なもの。それだけで、事態の深刻さが重くのしかかっていた。
だがそんな中、携帯型の観測機を使っていたマユリが眉をひそめた。
「なんだネ? この妙な反応は……」
研究者としての興味か、それとも隊長としての危険の察知か、マユリの表情にわずかな変化があった。
それも、蛟のいる場所とはわずかにずれた方向に向けて。
炎が燃える。大気が揺らめく。
未熟な青に烈火の赤が混じり、夜闇に近い鮮やかな紫に変わっていく。
魔化魍の炎を我が物として飲み込み糧としたまま、明日歌を包み込んだ焔が轟々と唸りながら猛り続ける。その奥に見える少女のシルエットが、徐々に変わり始めていた。
高校と燃える炎に嘲笑じみた目を向けていた蛟の目が、次第に不可思議なものを見るものに変わり始めた。
鬼か、人か、魔化魍か、はっきりとした線引きができないほど、少女の体には不純物が混ざってしまった。ゆえに半端者と称したのだが、ただの不純物とは異なる霊圧が感じられるようになっていた。
これはなんだ、何が起こっている。
理解ができない事態が、起ころうとしていた。
「……なんだ、貴様は」
声が、漏れる。
先ほどまでとは明らかに異なる、格下の相手を侮っていた捕食者の声が、恐れを孕んだものへ変わっていた。
「なんなのだ貴様は‼︎」
蛟が紫の炎の中の少女を睨みつけ、唾を吐き散らすほどに激昂する。
少女はそんな恐ろしげな視線をものともしていないように佇み、静かな眼差しを蛟に向けていた。
「……わしが何か、もうそんなものわしにもわからんよ」
内なる心の炎が猛り、体をつき動かそうとする。抑えきれない衝動が紫の炎に変わり、肉体をも変質させていくのを感じる。
かつて初めて鬼に変化した時とは明らかに異なる変化を、魂が感じ取っていた。
「混ざりに混じったこのわしが、言えることは一つじゃ」
その脳裏に、かつて師に言われた言葉が蘇った。
―――己の内なる炎を探せ。
猛る魂の焔に信念の薪を焚べ、力に変えよ。
その果てに、鬼の根底はある。
「……わしは、ぬしを殺すただそれだけの存在じゃ」
そう言い放つと同時に、体を包む炎の勢いがみるみるうちに強くなっていく。全てを燃やし尽くすように、跡形もなくなってしまいそうに。
鬼の力、魔化魍の力、そしてそれとは異なる新たな力が明日歌の中で混ざり合い、別の存在へと昇華されていく。
「―――あああああああああああああ‼︎」
明日歌の叫びが、咆哮が、大気をも揺らがせる。
力が突き動かす衝動のまま、明日歌は右腕を大きく古い、炎を振り払う。
紫の火の粉があたりに散らばり、業火が波のように広がって蛟に食らいついた。他の一切に引火することともなく、ただ風となって周囲を揺さぶるだけに留まる。
「……そら、いい加減終わりにしようかの‼︎」
露わになった明日歌の姿は、異常であった。
肘から先は真紅に、二の腕は紫に変貌した腕は鬼のもの。固い筋肉の鎧に鋭い爪を備えたそれは、戦う異形のもの。
しかし胴体に変わったところは見当たらず、鍛えられた少女の肉体のみがあるだけ。不釣り合いなほどに育った乳房が覗く黒い着物の上に、鋼鉄の鋲と輪のような装飾が巻き付き銀の光沢を見せる。
下半身は濃い紫の袴で覆われ、裾からも異形の脚先が覗く。
顔には真紅の装飾が施され、額からは立派な二本の角が伸びる。髪は真っ白に染まり、瞳も深い紫色に輝いていた。
明らかに異常。鬼であり鬼でないものに、明日歌は変貌していた。
「明日歌……お前……」
少女が姿を変えたことで、一護は言葉を失う。
そこへ、気配を察した石田たちが駆けつける。特に威吹鬼と轟鬼が明日歌の姿を目にすると、信じられないとばかりに周囲に試算している紫色の火の粉を凝視した。
「紫の、炎……⁉︎」
「まさか! 紫の……響鬼の炎は、先代の流派が途絶えてから何百年間誰も発現させられてないんだぞ‼︎」
戦慄の表情を浮かべて声を漏らす二人だが、目の前で起きている自体は確かなものである。
魔化魍の血を継ぐ少女、その少女が途絶えた流派の鬼の炎を纏い、鬼とは異なる姿に変化した。これは、他でもない真実である。
「それになんだ、あの姿は⁉︎」
はためく袴、身を包む黒い着物、左手に持った歪な形状の刀。
その姿は、自分たちとは相容れない存在の持つ特徴に酷似していた。
「まるで―――死神じゃないか」
威吹鬼たちの視線を受けながら、明日歌は歩き出した。刀を腰の帯に刺し、手を背に回して音撃棒を取り外す。
異様なほどの殺気をまとい、少女は蛟に向かってゆっくりと歩き始めた。
「死に損ないの半端者が、貴様ごときが我の邪魔立てをしようというのか」
圧倒的な力と存在感を見せつけた蛟が、それでもなお向かってこようとするものがいることに苛立ちの混じった形相になる。死神の男だけではない、同胞の血が混ざった少女まで自分に逆らおうというのだから。
「師弟で無様に散るがいいわ‼︎」
火炎を使うまでもない、不純物ごとき虫けらのように叩き潰してくれようと、蛟は巨大な鎌槍を振り回して明日歌に襲いかかる。
明日歌は微塵も表情を変えず、迫り来る鎌槍の刃を前に音撃棒・烈火を構える。撥の先に紫の炎が燃え盛り、強烈な熱が周囲の大気まで揺らめかせ始めた。
「ぬぅあああ‼︎」
雄叫びと共に、明日歌が烈火を鎌槍に叩きつけた。爆炎をまとった一撃が刃とまともに激突し、激しい衝撃とか縁があたりに撒き散らされ、地響きのように地面が震える。
一瞬拮抗した両者の初手であったが、次第に片方が押され始めた。
「―――ォ、オオオオオ……‼︎」
ぐらりと蛟の体が後方に押され、踏みしめた足が引きずられていく。
衝撃と熱を抑え込もうとした蛟だったが、やがて限界に達したように弾き飛ばされ、木々を粉砕しながら後方に吹き飛ばされていった。
明日歌の一撃により、蛟の鎌槍の刃は粉々に粉砕されバラバラとあたりに飛び散る。紫の炎に照らされながら、砕けて落ちた刃は粒子ほどの小ささにまで崩れていった。
「カァッ‼︎」
ならば焼き尽くすまでと、蛟は起き上がると同時に明日歌に向かって火炎の砲弾を吐き出した。大気をも焼く巨大な火球がまっすぐに明日歌に食らいつこうと襲いかかる、だが。
「ハァッ‼︎」
気合の咆哮とともに振り抜かれた烈火によって、火球は引き裂かれるようにして霧散した。火の粉だけが虚しく四散し、明日歌自身にはやけどひとつ負わせることもできない。
「カァッ! カァッ! カァッ‼︎」
蛟はやけになったように火球を連射し、近づいてくる明日歌を狙い続ける。
しかし明日歌は火球ごときでは臆さず、向かってくる火炎の砲弾を烈火で叩き斬りながら歩を進める。技術も何もない、力技での無理やりの行進であった。
「……さ、さらに馬鹿力に磨きがかかってやがる」
先ほど苦戦し、追い詰められていた一護たちが、その敵を圧倒している明日歌に戦慄の表情を浮かべる。
追い詰められていると実感した蛟は屈辱から歯を食いしばり、全身の鱗の間からヘドロのような黒い粘液を排出し始めた。
ぼたぼたと地面に落ちていく粘液は独りでに動き出し、十数にも分裂すると人型の形をとり、みるみるうちに足軽のような姿に変わっていた。蛟の力で生み出された、傀儡兵だ。
「行けぇ、雑兵ども‼︎」
蛟に生み出された傀儡兵は、それぞれ備えた刀や槍を構え、明日歌に向かって駆け出していった。並みの魔化魍と同等以上の力を持つ雑兵が、十数体もまとめて向かっていく。
しかし明日歌は、余計に怒りを燃やしたように目を鋭くし、烈火を構えて傀儡兵を迎え撃った。
「一つ!」
烈火の先端を傀儡兵の腹部に叩きつけ、紫の炎を爆発させる。炎に焼かれた傀儡兵は動きを止め、真っ黒に染まっていく。
「二つ!」
続いた傀儡兵の顔面に烈火を叩きつけ、邪魔だと言わんばかりに真横に弾き飛ばす。
「三つ! 四つ!」
右の傀儡兵の脳天に叩き込み、左の傀儡兵の心臓を狙って先端をめり込ませる。
淡々と一体ずつ、急所を容赦無く狙って仕留めていく明日歌の目には、冷たい炎が宿っていた。目前の敵を全て殺す、それだけを考えているかのように、全ての攻撃に過剰なまでの殺気が宿っていた。
「まとめて、
ゴウ、と爆炎をまとった明日歌の音撃棒が振り向かれ、火炎が残りの傀儡兵に襲いかかり包み込んでいく。
紫の炎に飲み込まれた傀儡兵たちは真っ黒に焼かれて動きを止め、やがて木っ端となって砕け散っていった。死神の力が混ざった影響か、それとも明日歌の怒りと憎悪がそうさせるのか、並みの魔化魍よりも強いはずの敵が相手になっていなかった。
「おのれ半端者が……‼︎ 我をなめるなァ‼︎」
憎悪の形相に変わった蛟が、新たに生み出した鎌槍とともに明日歌に襲いかかる。
明日歌は受け止めようとするが、今度の刃は前よりも硬くなっているのかより重く明日歌の腕にのしかかってくる。
「ぐぬ……!」
刃の重さに加え、蛟の重量も重なった明日歌の真下の地面が大きく陥没する。そのまま押しつぶすつもりか、蛟がさらに力を加えていく。
しかしその真横から、赤が混じった斬撃が襲い掛かった。
「月牙……天衝ォォォォォ‼︎」
猛然と斬月を振るう一護。その額に火炎とともに一本の角を生やしながら、そして血のような真紅の炎を纏いながら、変質した月牙天衝を蛟に向かって放つ。
真下に向けて全重量をかけていた蛟はそれに反応しきれず、無防備な真横に喰らいつかれて吹き飛ばされる。深い裂傷が刻まれ、おびただしい量のどす黒い体液が噴出し、蛟の顔が苦悶と忿怒に歪んだ。
どしん、と巨体が地面に転がり、解放された明日歌が烈火をしまい、刀を抜く。
「おのれ……おのれおのれおのれぇぇぇぇぇ‼︎」
怒りを怒号に変えて荒れる蛟の前に、一護と明日歌が並び立つ。
一護は一瞬だけ明日歌の方を見て、明日歌は一瞥もくれずに刀を構え、刀身に霊圧の炎を収束し始めた。
示し合わせたわけではない。しかし蛟を倒すという意思が二人の動きを合わせ、鏡合わせのように刀を構えさせた。
「あああああああああああああああああ‼︎」
「おおおおおおおおおおおおおおおおお‼︎」
猛烈な咆哮が二人の口から放たれ、蛟に向けて斬月と歪な刀が振るわれる。赤と紫の炎の斬撃が並んで飛翔し、途中で混ざり合うとより大きな斬撃に変わって蛟に襲いかかる。
蛟に食らいついた斬撃は直後、大きく膨れ上がったかと思うと、凄まじい爆発となってあらゆるものを吹き飛ばし、灰燼に還していった。