「……こんな簡素なもので済まんの。じゃがまぁ、ないよりはマシじゃろう?」
並みのさざめきが聞こえる島の外れ、岬に立てた岩を前にして、明日歌がつぶやいた。摘み取ってきた花を供えると、墓石がわりのその岩に手を合わせる。
その下に眠っているものはいない。命を燃やし尽くして灰となり、風となって天へと昇っていってしまった。
「……師匠、見ておったか? 聴いてくれたか? うまく届いておればええんじゃが」
己の全てを込めた音を彼は聞いてくれただろうか。よくやったと褒めてくれるだろうか、それともまだまだ未熟だと叱られるだろうか。
答えは返ってこない。だが今の明日歌にとっての全力だった。どんな反応が返ってこようと、自分は胸を張って受け止めるだろう。
「これがわしの得たものじゃ……これが、わしの響きじゃ」
どこか誇らしげに、しかしやはり寂しげに微笑みを浮かべた明日歌がもう一度深く祈りを捧げ、手を合わせる。
しばらくそうしたのちに、明日歌はようやく後ろに振り向き、そこにいた青年たちに向き直る。
「……ぬしらには、ほんに世話になったの」
「大したことじゃない。僕らは僕らのために戦っただけだ」
「ム」
「力になれたかどうか……わからないよ」
戦いを共にした者たちはそういい、明日歌の心を案じる。
散々情けない態度を見せたことを思い出した明日歌ははわずかに頬を染め、苦笑しながら肩をすくめる。今思えば、年下の者たちに何を当たり散らしていたのか、恥ずかしい。
「一護や、ぬしは体に不調はないか?」
「ああ。特に変わったところはねぇ。……あのまま戻らねぇもんだと思ってたけどな」
「鬼の霊圧がうまく定着しなかったんじゃろう。何よりじゃ」
一護の中から、鬼の霊圧は全て消え去っていた。一度はその姿までもが大きく変貌するほど混ざり込んでいた力であったが、全て音撃として邪神に叩き込んだためかそれらは全て失われ、後遺症もないようであった。
だが、明日歌は違った。
「……お前は、これからどうする気だ?」
ルキアが、やはり若干の距離を保ちながら明日歌に尋ねる。一護の例もあり、やはり鬼が近くにいるのはいい影響を与えないことが実証されたためか、以前よりも慎重な気がする。
「わしはもう、普通の鬼ではなくなってしもうたからのう……これまで通りとはいかんじゃろう」
鬼であり鬼でなし、死神であり死神でなし。
その存在そのものが与える影響は、いったいどれほどのものだろうか。
最悪の場合、危険因子として幽閉されるか処分されるか、どちらかはわからない。
明るい未来は、遠く暗い。
「じゃが、まぁ……とりあえずは、生きてみようかの」
しかしそれでも、明日歌の表情に悲壮感はない。
以前よりも強い眼差しで、同時にどこか落ち着きを感じさせる瞳を備えている。
何も迷わずに突き進んでいたかつてとは異なり、どっしりと地面を踏みしめ、進むべき道をまっすぐにも通すような、そんな雰囲気だった。
「散々悩んで血反吐を吐いて、無様を晒したがの。やっぱりわしには戦うことしかできんのじゃな。どこまでうまく世を渡れるかは知らんが……できうる限り、もがいてみようと思う」
もう一度、師の存在を示す墓石に視線を戻す。
黒い感情に支配され人間を捨てながらも、彼は人間を見限ることはできず、命と引き換えに明日歌を守った。
そして永劫の不死の呪いから解放され、ようやく安らぎを得た。
「師匠は世界に絶望し、憎んだ。じゃがやはり、まだまだ捨てるには惜しかったんじゃろうなぁ。……わしも捨てる前に、拾ってみようかの」
「……強いな、お前は」
一護はただ、その姿を眩しく感じた。
果たして自分は、彼女のように強くあれるだろうか。偉そうな説教をたれたのも、弱々しく折れそうになっている明日歌の姿を見たくなかったからだ。
しかし彼女は、自らの意思で立ち上がった。体に絡まったしがらみを引きちぎり、自らが望む道へ再び歩き始めたのだ。
にっこりと笑う明日歌に、一護もふっと不敵な笑みを浮かべた。
「……おい、黒崎。今何時だ?」
「え?」
そんな時だった。石田が血相を変えて一護の方に振り向いたのは。
ハッとなった一護は右腕を見ようとし、死神歌しているために腕時計など持っていないことを思い出す。ついで海の彼方に視線を向ければ、すでに相当高く日が昇っている。
戦闘に次ぐ戦闘で忘れていたが、一護たちはこの島に学校行事として赴いたのだ。
船が出る時間は、決まっている。
「……あああヤベェ‼︎ 早く戻らねェと出発しちまうじゃねぇか‼︎」
コン、もとい自分の体がほったらかしになっていることを思い出し、顔を真っ青にさせた一護が悲鳴じみた声をあげて走り出す。
「急げみんなぁぁ‼︎」
「君が無駄に感慨に浸っているからだろう⁉︎」
「急いで! 置いていかれちゃうよ!」
「いいから走れ!」
「おい、転んでも知らんぞ」
「全く手間のかかるやつらだぜ」
冷や汗を流した織姫たちも慌てて走り出し、全速力で旅館に向かった。死神たちの呆れた視線を受けながら、脱兎のごとき速さで坂道を駆け下りていく。
火事場の馬鹿力とでも言うものか、異常なほどの速度で森を駆け抜けていく彼らだが、果たしてそれなりに険しいこの道を抜けて間に合うだろうか。
穏やかな空気を全て吹き飛ばして行ってしまった青年たちの背中を見送りながら、明日歌は優しい微笑みをこぼした。
「全く……最初から最後まで、やかましい連中じゃのう」
苦笑する明日歌の視界から、一護たちの背中はかすみ、消えていく。
もう、会うことはないのかもしれない。
様々な偶然と奇跡があってかなったこの邂逅は、彼女に決して小さくはない変化をもたらした。
「ーーー達者でな、我が戦友よ」
人々を乗せて、フェリーは進む。
相変わらず、一護たち生徒以外に利用客は少ない。かすかな観光客が、細々と利用を続けているだけだ。
旅館にこっそり滑り込み、出発に間に合った一同。一護はロビーにいた
元の体に戻った一護は目を細めながら、フェリーの最後部にて夜刀島を見納めようと視線を止める。他のクラスメイトはあまり興味を抱かなかったためか、すでに船内で各々の時間を過ごしていた。
「……なぁ、石田」
島の影が徐々に遠く離れていく様を眺めながら、頬杖をついた一護は隣で壁にもたれかかっていた石田に尋ねた。
「この島、どうなるんだろうな」
「さぁね。少なくとも、以前よりも廃れるのは間違いないね。今回の旅行も魔化魍の罠だったわけだし、島おこし計画なんて端から存在しなかったんだ」
数ある高校の中でたった一箇所、一護たちの高校が選ばれたのは全くの偶然で、少しのボタンのかけ違いでこの邂逅は叶わなかっただろう。
そう思うと、たった数日のこの滞在が非常に惜しく感じられる自分がいることに気がついた。
「島から人がいなくなれば魔化魍も現れないだろうし、鬼が駐在する必要もないだろう」
「……そうやって、忘れられていくんだろうな」
鬼がいたことも、魔化魍がいたことも、その二つの存在による戦いがあったことも。悲劇を伝えるものもいなくなり、ひっそりと歴史の流れの中に埋もれていくのだろう。
一人の少女の身に起こった悲しみも、少女を守るために戦い続けた一人の男の生き様も。
「……だが僕らは、彼らのことを忘れない」
そう呟いた石田の言葉に一護は目を見開き、ついでにっと笑みを浮かべる。
その通りだ。きっと自分は生きている限り、彼らのことを忘れまい。
共に戦った、記憶を。
「……ああ。そうだな」
ならばせめて、この景色を目に焼き付けておこう、そう思っていた一護だったが。
「……ん? なんか忘れてる気が……あ」
ふと、何かが気になった一護が首を傾げ、そしてようやく思い出した。
あいつのこと、忘れてた。
一護たちの去った旅館のロビー、その一角。
ポツンと転がっている丸薬のような塊が、コロリと悲しげに転がった。
(……お〜い、一護ぉ、姐さぁん。誰かぁ……)
長い間身代わりになって大人しくしていたと思えば、突然蹴り飛ばされて吹き飛ばされて。最後には動けもしないのに放置。
なんという、ひどい扱いだろうか。
(誰か俺のこと思い出してぇぇぇぇ‼︎)
忘れられた悲しい男の声なき声は、響くことはなかった。
夜刀神島。
昔、この島には人々が畏れ敬う邪悪な竜神が眠っていた。そして、残ったその配下と戦う異形の戦士がいるという言い伝えがあった。
しかし住人が島を離れ、骨を地に埋めていくとその歴史を知る者は徐々に減っていき、やがて誰も知るものはいなくなった。
いつしか名前すらも人々の記憶の中から消えていき、この島は真に無名の島へと変わり果てた。
唯一覚えているのは、島の岬にひっそりと残っている、飾り気のない墓石だけである。
次回、最終回。