ある島に、その集落はあった。
人口はわずか数十人、土地も岩肌ばかりで資源に乏しく農業もまともに行えない、多くの人間は住めないほど貧しいその島の集落。
その住人たちは今、島の端の岩場に集まり深々と頭を下げていた。
轟々と強い風が吹き抜ける海沿いに列をなし、四方を紙垂で囲った空間を取り囲んでいる。あるものは念仏を唱え、あるものはひたすらに誰かに謝罪し、あるものはおいおいと涙を流している。
紙垂の中心にいるのは、純白の衣装に身を包んだ美しい少女。わずかながら用意された供物とともに、化粧を施されて空間の中心に正座していた。その姿はまさに、上位の存在に捧げられた貢物というべき姿だった。
「すまん……すまん、許してくれ……‼︎」
紙垂の空間を取り囲む島の住人の一人が、必死に手を合わせながら白装束の娘に許しを請いている。ボロボロと涙を流し、自分よりもずっと若い娘が一言も喋らずにその時を待っている姿を嘆きながら、何もできない自分を呪っている。
悲しげに目を伏せていた娘は、その声を聞こえないようにしていたのか全く反応を返さなかったが、不意にその瞳がはっと開かれた。目の前の海面にボコボコと泡が立ち、白く染まり始めたのだ。泡立つ海面はやがてゆっくりと盛り上がり、次の瞬間激しい水飛沫を上げて弾けた。
その中から、それが現れた。
巨大な、恐ろしい姿をした龍が。
「だ……誰か、助け、て……」
無表情を貫いていた娘の表情が、その時初めて崩れた。目の前に現れた凶悪な異形の顔を前にして、顔を青くしてガタガタと震え始める。どんなに覚悟を決めようと、諦めようと、すぐ前に訪れた絶対の恐怖に、耐えきることはできなかった。
怯えて震える娘の前で、龍はその巨大な顎門を大きく開き、刀剣のように鋭く尖った牙が並んだ口を見せつける。生暖かい空気が娘の頬を撫で、娘はとうとう限界を迎えた。
「きゃああああああああああ‼︎」
娘の悲鳴が上がると同時に、集落の住人たちはバッと目を背けて硬くつぶった。しかし肉が裂け、骨が砕け、血飛沫が撒き散らされる音に耳をふさぐこともできず、ただその凄惨な現場に縫い付けられたようにとどまることしかできなかった。
その様子を、一人の幼い少女が。生贄の娘が食いちぎられ、血肉が撒き散らされ、海面が真っ赤に染まる光景を、鞠をつくおかっぱ頭の可愛らしい少女がじっと見つめ、やがてその口元を醜く歪めた。
「…………クヒッ」
それは、生き物の笑みには思えなかった。
人間をも超える残虐性と、獣よりも凄まじい凶暴性を秘めた最悪の存在が見せる、底冷えする笑顔だった。
「もっと、もっと、……もっともっとヒトを、血肉をもっと……‼︎」
可愛らしい顔を見にくく歪ませ、引きつったような耳障りな笑い声をこぼす少女。
その顔は、誰かに似ているように見えた。
ある夜の集落にて、住人たちが全員一軒の家に集まっていた。痩せこけたその顔は皆恐々としていて、集落に襲いかかる魔物に怯えていることがよくわかった。
かつては平和だったこの島も、かの龍が棲みついてからは地獄よりも恐ろしい場所と化していた。逆らえば自分が、一体どんな恐ろしい目にあわされるか。そんな自分の妄想が、村人たちを恐怖で縛り付けていた。
「長! もう皆限界だ‼︎ 娘は食われる、食い物は手に入らん、逃げようとすれば皆殺される! このままじゃ俺たちは全滅じゃ‼︎」
「…………もはや、頼めるものは他におらんか」
集落で最も大きな家で、囲炉裏を中心に座っていた老人20人の一人が摑みかかる。するとそれまでじっと黙っていた長が、険しい表情でそう呟いた。
そのつぶやきに、家を囲っていた住人たちは皆一斉に驚きの表情を浮かべ、ざわざわとどよめき始めた。長のいう頼めるものに心当たりがありながら、長がそれを口にするとは思わなかったからだ。
「長⁉︎ まさか……」
「一つだけ、方法がある」
長に掴みかかっていた男が、わなわなと手を震わせながら後ずさる。
恐れを孕んだその目を見つめ返しながら、長は非難されることを覚悟の上で力強く決断を下した。
「ーーー鬼の力を借りることだ」
「なぜわしが鬼に頭を下げに行かねばならんのじゃ‼︎」
集落のはずれにある、一軒のあばらやから少女の怒号が轟きわたった。その周囲に何人もの大人がひしめき合い、中にいる二人を心配そうに見つめていた。
二人のうちの一人、集落の長がギシギシときしむ床にあぐらをかき、一人の少女に向かい合っている。対して相手であるおかっぱ頭の少女は、その可愛らしい顔を憎々しげに歪めて長を睨みつけていた。
「わかってくれんか、アスカ。村で動けるものは、もうお前ぐらいしかおらんのだ」
「わかっとらんのは長の方じゃ‼︎ わしはごめんじゃ、あんな奴に助けを乞うなぞ‼︎ そんな真似をするぐらいなら死んだ方がマシじゃ‼︎」
「アスカ……」
集落の住人は、皆飢えて弱ったものばかりでろくに動けるものはいない。鬼を探すためのたびになど耐えられるはずもなく、比較的症状が軽いアスカに頼む他になかったのだ。
そう言って、土下座でもしそうな勢いでアスカに懇願する長だが、少女アスカは意気地になって全く取り合おうとはしない。それどころか、長の顔も見たくないとばかりに背を向けてしまっていた。
「……わしはいやじゃ。鬼に頼るなぞ」
あぐらをかいた膝に乗せた手が、ギリギリと締め付ける。
その姿を見ながら、長は深々と頭を下げた。その行為に、あばら家を取り囲んでいた住人たちがはっと息を飲んだ。
「そこをどうにか頼む……わし一人だったならばよかろう。贄の身代わりになるならそれでも良い。だが村には……」
「…………」
長は、アスカが己を見ていないとわかっていてなお頭を下げ続ける。
一向に動こうとしない長と、その周りから感じるチクチクとした視線に、アスカは居心地悪そうに身じろぎする。やがて、アスカは長たちに背を向けたまま深くため息をつくと、非常に不満げな表情のまま振り返った。
「……長は卑怯じゃ」
そんな非難がましい言葉をかけられても、長は決して頭を上げない。
アスカはくしゃくしゃに顔を歪めると、ガシガシを頭をかいて長に向き直った。
「ええい、わかったわい! じゃがあの男にだけは頭を下げんぞ。わしが頼むのはあの男以外の鬼じゃ!」
「……仕方がなかろう。お前が行ってくれるのなら」
「……支度をする。出て行ってくれ」
そこまで言われて、ようやく長は頭を上げて安堵の笑みを浮かべた。アスカは居心地悪そうにまた背を向け、物置に使っている筆の方へと向かった。
長も腰を上げ、もう一度アスカに頭を下げてから住人たちの待つ出口を潜っていった。
先を歩いていく長の後を、心配そうな顔の住人たちが付き随うと、アスカに聞こえないよう抑えた声で問いかけた。
「……長。あんなことを言って本当に大丈夫なんか?」
「そうじゃ。そう簡単にこんな辺境の島に助けが来てくれるとも思えんし……何より、鬼じゃぞ?」
一人がこぼした声に、他のものも同意するように表情を険しくさせた。鬼という存在は当時、それほど忌避されるものであったのだ。
「わしは昔、この島におった鬼を見たことがあるが……あれはまるで化け物じゃ」
「おっかのうてたまらんぞ」
皆、その鬼のことを思い出しているのか、口々に鬼に対する偏見じみた感想を漏らし、ますます不安を募らせていく。だが長はそれに答えず、ただただ真剣な表情で先を急ぐのだった。
アスカだけに準備させるわけにはいかない。食べ物に賃金、そしてなにより島を出るための船も用意してやらねばならない。せめて、それぐらいはしてやらねばならなかった。
「それによりによって、明日歌に頼むなど……」
「ああ、酷な話じゃ」
「……わしらでは、何もできん。頼る他にないのだ」
住人の不安を背負いながら、長は決意を変えることはなかった。
広げた風呂敷包みに、乱暴に道具を乗せていくアスカ。その顔は険しいまま、長や他の者たちに対する不満が未だ色濃く残っていた。
そんな時、アスカの住んでいたあばら家の戸がガタッと開き、一人の娘が顔をのぞかせた。
「本当に行くの、アスカ……」
そう声をかけるのは、胡桃色の長い髪に花の形の髪留めをつけた妙齢の娘。親のいないアスカの面倒をよく見てくれていた、集落の娘の一人だ。
不安げな表情でそうたずねる娘に、アスカはぶすっとした表情のまま無愛想に答える。
「……仕方がないじゃろう。わししかいけんのじゃから」
どこか投げやりな言い方が、無理をしているように見えたのか娘はきっと表情をきつく歪めてアスカを睨む。
「だからって……! なんだったら、私が!」
「やめい。わしよりも体が弱いくせに何を言っておるか」
アスカは深くため息をつき、顔を手で覆って天井を仰ぐ。
何をしているのだ自分は。この恨みつらみは自分一人のものだというのに、その苛立ちを自分の恩人である娘にぶつけてしまうなど。
何度も深呼吸をし、自分の心を落ち着けたアスカは肩をすくめ、娘を安心させるように穏やかな笑みを見せた。
「……案ずるな、わしは必ず戻る。それまで待っておれ……
そう言い残し、再び荷物をまとめる用意を始めたアスカに、彩姫と呼ばれた娘は何も返すことができなかった。
「ここが……本土か」
小舟を降り、桟橋に登ったアスカが初めて口にした感想は、それだけだった。
それも仕方がない。まず彼女の目に入ったのは、故郷の島とは比べようもないほどたくさんの人間があっちこっちに行き交う姿。めまぐるしく人が入れ替わり、見ているだけで目を回しそうな忙しなさだ。小柄な体に比較的大きな荷物を背負っているアスカを、時折邪魔そうに睨みながら様々な人が通り過ぎていく。臆しそうになりながら、まずは進もうと一歩を踏み出した。
船着場を抜けて踏み入れれば、その喧騒がさらに激しくアスカの耳朶をなぶってくる。商売に勤しみ人を招く声、客と交渉する声、やれ負けろ負けられんと騒ぎ出す声、それらが一つに重なって騒音となり鼓膜を響かせ、人になれないアスカに過剰な負担を強いていた。
「行けども行けども……人、人、人。どうやって鬼なぞ探せば良いのじゃ?」
人によったのか、うんざりした表情のアスカが近くの木の陰に背を預け、ぼやくように呟いた。背負っていた荷物をどっかりとそばに置き、ずるずるとへたりこむように腰掛ける。
考えてみれば、鬼は魔化魍を相手にしていないときは普通の人と何ら変わらないのだ。島で何もせずにいるよりはまいかもしれないが、手がかりもなしに探すのは無謀というものであった。迂闊だった、とアスカは深く己を恥じるばかりであった。
「はぁ……どうしたもんかの」
まだまだ来たばかりだというのに、疲れ切った表情でアスカは誰にともなく呟く。
しばらくして、こんなところでくすぶっていても仕方がないと思い直し、立ち上がろうと荷物を探ったとき、近くにその感触がないことに気がついた。
「……ん?」
思わず固まったアスカが、荷物を置いてあった場所を何度も探る。それを何度も繰り返しているうちに、ようやく脳が現実を認識して顔を真っ青にさせる。
思わずその場に立ち上がったとき、視界の端に自分の荷物を背負ってかけていく知らない男の姿が目に入った。
「なっ⁉︎ 待たんか貴様ァ‼︎」
アスカは怒りの形相で男を追い、建物の間の細い路地に飛び込んだ。
だがその直後、建物の影に入っていた別の男の体にぶつかってしまった。
「ぬわっ⁉︎」
アスカは自分の勢いを止められず、男の背中にぶつかって跳ね飛ばされてしまう。
対して、後ろから急に衝撃を受けたゴロツキらしき強面で大柄な男は、背後で尻もちをついている少女にいらだたしげな目を向け、「ちっ」とこれ見よがしに舌打ちをする。
尻の痛みに悶えていたアスカだったが、ゴロツキの向こう側に先ほど荷物を取った盗人の男がニヤニヤと卑屈な笑みを浮かべながら、アスカを見下ろしていることに気づいた。
「何でぃ、テメェは」
「其奴がわしの荷物を盗ったんじゃ‼︎」
どすの利いた声で脅しつけてくる男に臆すことなく、すぐさま立ち上がったアスカがゴロツキの後ろに隠れている卑屈な盗人を指差して抗議する。
だが、ゴロツキを隠れ蓑にしている盗人は、いやらしく表情を歪めてアスカを嘲笑った。
「ヒヒッ、これがお前のもんだって証拠はどこにあんだぁ⁉︎」
「なっ……ふざけるな! そんな話があるか⁉︎」
悪びれる様子のない盗人に、アスカの頭に血がのぼる。
しかしゴロツキの男がその間に入り、勇ましく吠えるアスカに下卑た笑みを浮かべて拳を鳴らした。
「下らねぇ言い訳しやがって……俺の舎弟に妙な因縁つけてんじゃねぇよ‼︎」
「うぐっ⁉︎」
不意にアスカの腹部に衝撃が走り、息が詰まる。殴られたのだと理解するよりも前に、アスカは苦悶の表情を浮かべ、腹を抑えて後ずさる。乱れる意識の中、ようやくゴロツキと盗人が初めからグルだったことを理解していた。
ゴロツキは荒く鼻で笑うと、盗人に顎で示してその場に背を向けた。
アスカは痛む体に叱咤し、必死にゴロツキの着物にすがりついた。アスカの荷物の中には、自分の荷物だけではなく集落でかき集めてもらった鬼へのわずかな報酬が入っていたのだ。
「か、返せ……! それはわしの故郷のもんのための大事なもんなんじゃ! 返してくれ!」
「うるせぇ‼︎」
再びゴロツキに殴られ、今度は意識が混濁する。家の壁に叩きつけられて息を詰まらせてズルズルと崩れ落ちる様を、男たちはゲラゲラと嗤い貶めていた。
だが。
「おい」
「あ?」
後ろからかけられた声に、盗人の男が卑屈な笑顔のまま振り返る。その瞬間、盗人の顔面に鋭いつま先が突き刺さった。
「ひぎゅっ⁉︎」
盗人は短く悲鳴をあげ、白目をむいて昏倒する。その際、背負っていたアスカの荷物が風呂敷から溢れ、金属音を響かせた。
「なっ……何だテメェは⁉︎」
音に気づいたゴロツキが、倒れている舎弟とそのすぐそばに立っている一人の男を前に驚きの声をあげた。
派手な柄の着物の上に獣の毛皮を剥いで作られた上着をまとい、首から数珠のような首飾りを下げている、妙な雰囲気を放つ男だった。
男は気絶している男を冷たく見下ろすと、次いで警戒しているゴロツキを鋭く睨みつける。
「ぐほっ⁉︎」
盗人の男を足蹴にし、男は荷物から散らばったわずかな金子と、ゴロツキの向こうでうずくまっているアスカを見て口を開いた。
「寄ってたかってガキをいじめるなんざぁ、男の恥じゃねぇかい?」
「なんだってんだテメェは! 引っ込んでやがれ!」
舎弟に手を出されたことよりも、明らかに自分の邪魔をしている男にゴロツキは激昂し、丸太のように太い腕を振り上げて男に襲い掛かった。蔑んだ目で見下されて頭に血が上っているのか、ただ力任せに拳を振り下ろす雑な襲撃だった。
だが、それは男には届かなかった。
「‼︎」
一瞬のうちに、ゴロツキの顔が右を向く。混濁する意識の中、ゴロツキが見たのは右足をゆっくりを下ろす男の姿で、自分が何をされたのかもわからないうちに地面へと倒れ伏した。
アスカは、開いた口が塞がらなかった。いきなり現れたことも驚きだが、最も信じられないのはその鮮やかな手腕。
たいていの大人が畏怖しそうな巨艦を前に一歩も引かず、冷静に相手との距離を見計らって放った回し蹴りにより、一瞬で相手の意識と戦意を刈り取ってしまった。しかもあれで加減をしていたのか、微塵も呼吸を乱してはいない。ただ者でないことは明らかだった。
「お、お主は……?」
恐る恐る、アスカは名を尋ねる。
なぜか、この男から目が離せない。整った顔立ちに、どこか浮世離れした雰囲気を放つこの男から視線を外せない。一体自分は、どうしてしまったと言うのだろうか。
「ーーー俺の名は、カブキ」
男は不敵な笑みを浮かべ、そう名乗ってみせた。
わかりづらかった方がいらっしゃるようなのでこちらで解説いたします。
今回のお話は、前回明日歌が語り始めた大昔のお話です。区別をつけるため現代を明日歌、過去をアスカと表記しております。
そして過去編に入るときは〝鬼〟と表記しております。