鼻につく嫌な臭いが、急速な覚醒を促してくる。
臓物を部屋いっぱいに詰め込み、腐らせたような最悪な臭いが、嗅覚をこれでもかと刺激してくる。
微かに呻き声をこぼした魔女は、しばらくしてゆっくりと瞼を開く。
「…よもや、齢500にもなって初めて誘拐を経験するとはな。なんというろくでもない初体験でありんすか」
目を覚まして最初に目に入ったのは、宙に浮く自身の足。左右を見れば、太い鎖に手首を繋がれ、天井から吊り下げられている。
ぐいぐいと引っ張ってみるも、汚い鎖はぎしぎしと鳴るばかり。
ぶらぶらと揺れる自身の身体を見下ろし、エヴァンジェリンは心底面倒臭そうにため息をこぼした。
「さて…どうしたものか」
「あのガキだ! 間違いねぇ! 俺の兄弟をぶっ殺しやがったクソババアだ!」
一人、黄昏ていたエヴァンジェリンの耳に、喧しい何者かの声が響く。
胡乱気に顔を上げ、声がした方を見やれば、蜥蜴に似た見た目をした緑の怪物が、凄まじい形相でこちらを睨みつける姿がある。
いや、その一体だけではない。
百目の巨人に動く石像、狼男に蜘蛛人間。
そして不死鳥に蛇女に緑の悪魔と、ありとあらゆる外観を持った怪物達―――ファントムが無数に集まり、魔女に向けて罵倒をぶつけてきていた。
「殺せ! 八つ裂きにしろ!」
「ボロクソに凌辱してゴミクズみたいに捨てちまえ!」
「同胞の仇をとれェェ‼︎」
宙にただ一人吊るされる魔女に向けて、凶悪な見た目をした怪物達が一斉に声を荒げ、睨みつける。
同胞を狩り続けた唯一の天敵を前にして、怪物達は今こそ好機とばかりに牙を剥き出しにし、爪を見せつけ、魔女への殺意をあらわにする。
四方八方から向けられる、常人であれば正気を失いかねない殺気を前に―――エヴァンジェリンは、心底詰まらなそうに欠伸をこぼした。
「どこかと思えば…雑魚どもの住処でありんすか。やれやれ、鼻が曲がりそうなほどに汚らしい、ぬしらにお似合いの家でありんすな」
はぁ、とため息交じりに呟かれる、本心から何も思っていないような呟き。
気の抜けたその声を聞いた怪物達は、ピキッという音と共に皆一斉に黙り込み、直後に怒涛の勢いで怒りを爆発させる。
「殺せぇぇぇ‼︎ ぶっ殺せぇぇぇ‼︎」
「絶対許さねぇ…泣いて叫ぶぐらいに後悔させてやれぇ‼︎」
「うるさいやつらめ…」
わっ、とより大きくなる憎悪の叫びに、エヴァンジェリンは鬱陶しそうに顔をしかめる。耳を塞ぎたくとも、両腕が拘束された今の状態ではままならない。
痒い背中を描く事すらできない状況に、エヴァンジェリンもいい加減どうにかしたい、と虚空を見つめて考える。
そこへ、甲高い足音と共にやってくる足音が響き、怪物達の罵倒の声がピタリと止む。
「目が覚めた様だな、指輪の魔法使いよ」
声が響き、怪物達がその者達のために左右に分かれ、道を作る。
衝動のままに暴れ、破壊の限りを尽くす怪物達からは考えられない行動に、魔女の表情がわずかにだが驚きで固まる。
そして、豪奢な装いを揺らし、彼女の元に歩み寄ってくる二人の男。
一人は一度見た、黄金の魔法使い。もう一人は、フードで顔を隠した小柄な人物。魔女は二人を、ぎろりと鋭い目で睨みつけた。
「これはぬしらの仕業か……どういうつもりでありんすか」
「私も不服ではあったのだがね、君をこの場へ招待させてもらった。我々の計画には、必要不可欠なゲストだからね」
「ゲストか……」
ライブラの理念に真っ向から反する、世界の均衡を崩すと堂々と宣言した黄金の魔法使い。
それを追いこの街に戻り、得体の知れぬ野望を根本から崩してみせようと捜査を行っていたつもりであったが、どうやら見当が外れていたらしい。
「なるほど…わっちはまんまとおびき寄せられたというわけか」
「老いとは悲しいものだな……500年も裏の世界に潜み続けた魔女が、こうも容易く捕らえられるとは。幼子の見た目で、随分耄碌したものだ」
「ふん…好きに言えばいい。痛くも痒くも無いわ」
気を失う前、見せつけられた衝撃の事実からは目を逸らし、エヴァンジェリンが鼻を鳴らし告げる。
ベルトはある、しかし指輪は一つも手元にない。おそらくは気絶させられている間に全て没収されてしまったのだろう。
抵抗手段が全て奪われてしまった、普通であれば絶望的な状況。
しかしエヴァンジェリンは、無数の敵を前に微塵も怯む素振りを見せていなかった。
「忠告するぞ……今すぐわっちを離せ。死より恐ろしい目に遭いたくなければな」
そう、冷たい声で告げれば。
ズン、と凄まじい圧が怪物達と黄金の魔法使いに襲い掛かる。
まるで殺気の滝に全身を打たれているような、地球の重力が十倍にまで跳ね上がったかのような感覚に陥らされ、全身から脂汗を噴き出させる。
しかし、慄き、後退る無数の怪物達を他所に、黄金の魔法使いはまるで恐れる様子を見せていなかった。
「それは不可能だ。私にそのような選択肢はないし、君をここで解放する事もありえない」
「命が惜しくないようでありんすな…!」
「何故なら……君への拘束は私ではなく、彼の指示だからね」
目を血走らせ、苛立ちを見せる魔女に向けてそう言うと、黄金の魔法使いはスッと横に下がる。
代わりに前に出る、もう一人の何者か。彼がフードを外し、隠していた顔を晒すと、魔女ははっと目を見開き、言葉を失った。
「ぬしは…」
「はじめまして。ご存知とは思いますが、僕はマヤ。エメラルド國の王です」
ぺこりと頭を下げる、若き王マヤ。
このような怪物の巣窟にいるはずのない、明らかに住む世界が違うような人物が、周りを恐れる素振りも見せずに目の前に立っている。
魔女は唖然としつつ、すぐに表情を改め、若き王を睨みつける。
「…外国の王が何の用でありんすか」
「手荒な真似をして申し訳ありません。ですがあなたは大の人間嫌い……交渉の場に立っていただくには、多少の無理が必要だったのです」
天井から吊るされる魔女に、申し訳なさそうな目を向けるマヤだが、それを止めさせる事はない。
他者への無茶な教養である事を承知で、そして幼い少女の見た目をした相手でも容赦をする気がない事が、エヴァンジェリンには深く理解できた。
「一国の王が、こんな化け物共の巣窟に平然とした顔で踏み入れてくるなど……エメラルド國は本当は、随分悪どい商売をしているようでありんすな」
「…僕の悲願のためには、欠かせないものです。それを誇りこそすれ、蔑まれる謂れはありません」
「口ではどうとでも言えんす……どんなにお綺麗な理想でもな」
皮肉も悪態も全て受け止め、否定する事なく、若き王は悲痛に痛む胸を隠しながら魔女と相対する。
己の行いを全て理解しながら、しかしそれでも諦めきれない理想を抱え、実現するために、魔女と正面から相対していた。
「僕の願いはたった一つ……指輪の魔法使い、エヴァンジェリン・ソーマ・ソレイユ。どうか僕達の悲願達成のため、そのお力をお貸し願えないでしょうか」
「断る」
エヴァンジェリンはますます呆れ、マヤを見下ろし鼻を鳴らす。
策に嵌められ、吊るし上げられ、忌み嫌う敵の前に晒される。矜持を深く傷つける無様を晒され、魔女の苛立ちは限界値にまで達していた。
例え相手が一国の王であろうとも、エヴァンジェリンの荒れ狂う腹の虫が怒りを抑える気配は、一切存在しなかった。
「つまらぬな……なぜわっちが見知らぬ餓鬼のために力を使わねばならん。下らんわ」
ペッ、と唾を吐き捨てるエヴァンジェリン。吐いた唾はマヤの足元に落ち、危うく彼の靴を汚しかける。
カッ、と仮面の奥で目を吊り上げた黄金の魔法使いが前に出かけるが、マヤはそれを手で制し、引き下がらせる。
「そう言われることは承知の上です。それをふまえ、僕はあなたに命令します。僕達の計画に加わってもらいます」
「何をする? 拷問か? 洗脳か? 何をされようと、わっちの協力が遠ざかるだけだと知るがいい」
「そのようなことはいたしません…ただ、わかっていただけるまで説得するのみですよ」
それはつまり、頷くまではずっとこのままという事か、とエヴァンジェリンは内心で吐き捨てる。
自分と彼らの今の立場は、対等どころか、檻に繋いだ獣を躾けようとする様にしか思えず、若き王の浅慮さに呆れてものも言えなくなる。
己の理想を押し付け、その為に他者を犠牲にしようとする暴君の有様に、エヴァンジェリンは初対面ながら酷い落胆を覚えていた。
「説得か……こんな形で誰が話を聞くと」
「―――私の話も聞いてもらえないのであれば、少々心が痛むのだがな」
再度、拒絶の言葉を吐こうとしたその時。
届けられた聞き覚えのある声に、エヴァンジェリンはびしりと凍りつく。
目を見開き、唖然とした表情で凝視してくる魔女に、その場に現れたもう一人―――白い魔法使いが、咎めるような眼差しを送ってくる。
「では、よろしくお願いします…賢者様」
「ああ…きっといい返事をもたらそう」
白い魔法使いと入れ替わるように、マヤは彼にぺこりと頭を下げると、どこかへと歩き去っていく。
若き王が怪物達の巣窟から離れ、姿を消すや否や、場に立ち込める空気がズシリと重くなる。青年に気を遣い、押さえていた殺気を全員が解放させたのだ。
「……やはり、見間違いではなかったな、師匠」
ピリピリと肌を刺すような圧の中に晒されながら、やはりエヴァンジェリンはそれを気にした様子を見せない。
まるでそよ風でも受けているかのようだ。
だが、エヴァンジェリンの表情はまた異なる理由で歪んでいる。
500年もの時を在り続ける魔女。そんな彼女が師と呼んだ男が、現代に生きてここにいる事に、少なからず衝撃を受けているようだ。
「最後に会ったのは……490年前になるか。わっちの前から言葉もなく姿を消し、敵しか居らぬ人の世に放り出しおった薄情者が……今更何の用でありんすか」
刺々しい目で、しかし冷や汗を垂らし、内心で大きな動揺を抱く魔女が問いかける。
しかし、白い魔法使いはじっと黙ったまま、吊り下げられたまま凄まじい形相を見せる魔女を……弟子を見つめるだけであった。
「なぜ…なぜぬしが其奴と共に…⁉︎ いや、そんな事はどうでもいい…! ぬし…わっちと同じ不死の化け物でありんしたか。初めて知ったぞ」
「…全てを教える必要があるのか、我が弟子よ」
「……いや、ないな。少なくとも、弟子に何も言わずに姿を消すような男に聞きたい事は、あるとは思わん」
はぁ、と大きくため息をこぼし、エヴァンジェリンは目を細める。
一瞬湧き上がった激情が、見る見るうちに萎んでいく。師と呼んだ男に対して抱いた怒りと憎しみが、一瞬にして落胆に変わっていった。
「…わっちを弟子にしたのは、理由があっての事か」
「軽蔑したかね?」
「いや……納得した。どうせ、見返りを求めての行為だと……最初から期待はしていない」
そう告げるエヴァンジェリンだが、その声には明らかに気落ちが現れている。
全く気にしていないような口ぶりだが、一定以上の信頼を置いていた相手―――魔法という理外の力を教えてくれた男が、己と同じ化け物であった事に。
そして、無条件に味方だと錯覚していた相手が、自分が敵として追っていた存在と行動を共にしている事に、裏切られた気持ちになっていた。
「所詮、人への信頼などこの程度のものか……下らんな」
ぼそりと呟く魔女の前で、白い魔法使いは微塵も表情を変えない。
悪びれることなく、いやそれ以上に何の感情も表す事なく、囚われた魔女をそうなって当然とでもいうように見上げるばかり。
重い沈黙が降りたその時、それまで黙っていた黄金の魔法使いが咳ばらいをし、二人の注意を引いた。
「さぁ、無駄な会話はそこまでにしていただこう……さっさとこちらの用事をすませてしまいたいのでね」
「用事だと…?」
勿体ぶった口調で語り出す黄金の魔法使いに、エヴァンジェリンは即座に気分を切り替え、胡乱気な眼で彼を睨みつける。
黄金の魔法使いは大仰に手を大きく広げ、魔女の方にゆっくりと近づいていく。靴音を大きく響かせ、一歩ずつ進む様は、部隊役者でも気取っているように見えた。
「王は甘い……説得など、貴様に対しては全くの無意味な行為だ。こういう反抗的な輩は、こちらの都合のいいように動く駒にする方が、はるかに効率的に動かせるのだ」
「……道理だな、ならば如何にする気でありんすか?」
「それはこれから体験させよう……さぁ、魔女よ。私の忠実な人形となるがいい…!」
詰まらなそうに吐き捨てるエヴァンジェリンに、黄金の魔法使いは仮面の奥で醜悪な笑みを浮かべ、手を伸ばす。
身動きの取れない魔女の前頭葉に手を翳し、ボゥ…と灯した黄金の光を当てる。どす黒い、人の欲望を混ぜ込んだかのような不気味なその光を、ゆっくりと魔女の頭の中に入り込ませようとする―――だが。
バチィッ!と凄まじい衝撃が発生し、黄金の魔法使いの手が勢い良く弾かれる。反動で、黄金の魔法使いは大きく後退らされてしまう。
「ぐ…⁉︎ 私の魔法を弾いただと⁉︎」
「自惚れるな小童が……ぬし程度の業でわっちに危害を加えられると思いんしたか。雑魚が粋がるな」
煙を上げ、電流が走る腕を握りしめ、苦悶の声を上げる黄金の魔法使い。
得意げな顔で挑み、呆気なく失敗し、激しく拒絶されタ級的に、魔女が心底呆れた様子で鼻を鳴らし、小馬鹿にした言葉を吐く。
カッと頭に血を昇らせた黄金の魔法使いが、魔女に向けて片手を振り上げるが、それを白い魔法使いが手を掴んで止めに入る。
「そうか……やはり一筋縄ではいかないようだ。ならば、私が少し手を貸すとしようか」
そう言って、白い魔法使いは体に備えた指輪のうち、黒い宝石が装飾されたものを取り出し、左手の中指に嵌める。
エヴァンジェリンと同じようにベルトの左右のつまみを上下させ、その指輪を正面に翳してみせる。
「何度やっても無駄だと……」
【リメンバー・ナウ】
白い魔法使いの左の掌に、黒い不気味な光が灯る。
異様な気配を醸し出すその手に、気丈な態度を貫こうとしていたエヴァンジェリンは思わず言葉を失う。
咄嗟胃に顔を左右に揺らし、逃れようとするも、白い魔法使いの手は容赦なく魔女の前頭葉に触れる。
その、直後の事だった。魔女の頭の中に、凄まじい量の記憶が蘇ってきたのは。
―――いたぞ、魔女だ!
―――不老不死の化け物だ!
殺せ、皆殺しにしろ!
―――一匹たりとも、悪魔の血を残すな!
「ガ…がァあァぁあアァあ⁉︎」
怒涛の勢いで、激流のように流れ込んでくる。いや、厳重に封じた記憶の奥底から溢れ出してくる、思い出す事さえ忌まわしい記憶の数々。
遠い過去の出来事のはずなのに、投げかけられた罵倒の言葉、身体を貫く刃の感触、身を焼く炎の熱、鼻を突きさす炭と血の臭いが。
嘗て魔女を襲った、途方もない人間の悪意が、再び魔女を苛み始めていた。
「な…にを…したァ⁉︎」
「君が少し素直になるように、手を加えているだけさ……君の言う通り、君は他者の魔法への抵抗が大きすぎて、生半可な力ではどうにもできない」
目を血走らせ、身をよじらせながらも、エヴァンジェリンは自分を苦しめる元凶である魔法使いを睨みつける。
魔女の身体は、ついには何もされていないはずなのに、無数の蚯蚓腫れが浮き出て、全身に広がっていく。
魔女の身体が、自らに刻まれた傷跡までもを思い出してしまっているかのように、魔女は見る見るうちに痛々しい、無残な姿に変わっていく。
「だがね、精神的に揺さぶれば、どんな魔法使いといえど抗うことはできなくなるんだよ……こんな風にね」
「ガァアアア‼︎」
鎖を揺らし、血反吐を吐き、魔女は血涙を流して叫ぶ、吼える。
幼い少女の姿をした魔女が悶え、鮮血を辺りに撒き散らす姿を晒す度に、周囲からは嘲りの喝采があがる。
同胞を屠り続けた怨敵が、同志の手によって醜い姿に変えられていくこれほど爽快な光景はなく、怪物達は皆同様の笑みを浮かべて叫ぶ、吠える。
―――気持ちの悪い化け物め!
人の皮を剥げ!
正体を現せ!
「やめ…ろ! やめろ! これ以上こんなものを見せるな! わっちは…私は……!」
「暴れても無駄だ。それはただの幻術などではない……君が経験してきた記憶そのものだ。どれだけ年月を経ようと関係がない……逃れられない悪夢なんだからね」
「あああああああああああ‼」
拒んでも拒んでも、次々に蘇る痛みと苦しみ。
いっそ狂ってしまえば楽になれようものを、不死の身体は壊れるたびに再生を繰り返し、魔女に終わりを許さない。
悲痛な叫びをあげ、血飛沫を上げる魔女に、白い魔法使いは白衣を赤く染め上げ、待ち遠しそうに呟いた。
「さぁ、堕ちてくるがいい―――我々と同じ場所へ」