「…ん?」
ふと、視界の中の何かが変化した気がした。
購入したてのハンバーガーを頬張ろうとしていたレオナルドは、不意の違和感に思わず手を止め辺りを見渡す。
いつも通りの霧の街。天気でも変わったのだろうかと見渡すものの、そもそも空の向こうはずっと城に覆われていて、変化など昼と夜くらいしかわからない。
しかし、確かに何かが変わっているという確信が、レオナルドの中にこびりついていた。
「レオくん、どうかしたの?」
「あ、いや…なんかフッと空気の色が変わった気がして」
隣でハンバーガーを貪り食っていた、茸に似た体型の友人・ネジに軽く返答してから、レオナルドは険しい顔で首を傾げる。
レオナルドは自分で言って、何だこの妄言はと表情を引きつらせる。
空気の色って何だ。それは夕方にでもなれば変わったことに気付くだろうが、いきなりすぎて頭の正常さを疑う一言だ。
しかし彼の友人は、言葉の歪さなど然して気にならなかったようだ。
「空気の色かぁ〜、いつもと一緒の真っ白な空に見えるけどね〜」
「いやいや、例えだって例え。なんかこう…虫の知らせ? 嫌な予感とかそんなんがしたんだよ」
「武術の達人みたいなこと言っちゃってるね〜」
未だによくわからない感覚に、しどろもどろになりながら説明するレオナルドにネジはケラケラと笑う。
そしてすぐに興味がなくなったのか、また鉱物のハンバーガーを貪る作業に戻ってしまう。放置されたレオナルドは、眉間にしわを寄せてどんよりとした霧の空を見やった。
「気のせい…? いや、マジでなんかぞわぞわずんだけどな」
薄目を開けて青く輝く義眼でも何かが見えるわけではない。
しかしそれでも、得体の知れない何かが動き始めているような気がして、レオナルドの食欲は一気に失せてしまった。
レオナルドが感じた違和感は、ライブラの長の元にも訪れていた。
「……!」
ビシッ、という嫌な音と共に、デスクに座っていたクラウスの全身が一瞬強張る。
眼鏡の奥の目を見開いた彼は、しばらくの間黙り込み、自身が持つカップに注がれた紅茶の水面を凝視し続ける。
「…坊ちゃん、どうかなされましたか?」
「…いや、何か不吉な予感が…」
異変を見せるクラウスに、ギルベルトがポットを片手に訝しむ眼差しを送り、何事かと尋ねる。
曖昧に答え、なおも動かない主に困惑しっぱなしの老執事は、主の手にあるカップの一部に目立つ亀裂が入っている事に気付き、納得のため息をこぼす。
「ああ、カップが割れてしまったようですね。片付けます……お茶も淹れなおしましょうか?」
「ああ…いや、いまはいい」
「…? 左様でございますか……」
このまま呑むのは気が引けるはずだ、と替えを用意しようとしたギルベルトであったが、クラウスは強張った表情のままそれを拒否する。
彼には珍しい、困惑や焦燥が入り混じった様子に、ギルベルトはますますの困惑を見せる。
一体何に対して、そんなに思いつめたような顔をしているのか、長い間柄である老執事が臆する事なく尋ねようとした時。
「旦那ぁ〜‼︎ 往生せぇや〜〜‼︎」
突如、扉を蹴り開いて飛び込んできたザップが、下衆の顔をしながら血法の刀を振りかざし、クラウスに襲い掛かってくる。
その後を追いかけてくるツェッドは、眼を見開き酷く焦った様子を見せている。
あ、と振り向いたギルベルトが、ああ止められなかったのかとツェッドに同情の視線を送っていると、おもむろにクラウスが立ち上がり。
「ぐばぶべぽがばべぼぱ‼︎」
どがごごがぼごばぎご、と空中にいるザップの全身に拳の連撃を叩き込む。
岩のように鍛え上げられ、鋼さえ破れる程の膂力を誇るクラウスの技は容赦なくザップを打ちのめし、ボロ雑巾の様にしてからポスっと受け止める。
ザップの襲撃はいつもの事、猫がじゃれてくるのを軽くあしらう程度のつもりで、軽く相手をして大人しくさせたクラウス。
が、一部始終を見ていたK・Kが、クラウスの腕にかけられたザップを見つめて頬を引きつらせ始めた。
「ちょっとちょっと…どうしたのよクラウスっち。いつもよりドギツいのいったみたいだけど、なんかあったの?」
「何…?」
K・Kの言っている意味が分からず、クラウスがキョトンとした顔で首を傾げる。
何やら必死な顔で見つめられ、ザップを指差すため、どうしたのかと視線を下に向けるクラウス。
そこで彼は、顔中ボコボコにされた状態で白目を剥いている、殆ど瀕死状態に陥ったザップの姿にようやく気付いた。
「む!しまった、すまないザップ! 私としたことが、加減を誤った‼︎」
「あーあー…これ完全にやっちゃってるわ」
「ギルベルト、ザップに治療を!」
「はい、すぐに」
か細いうめき声をあげ、助けを求めるように手を伸ばすザップに、クラウスは慌ててギルベルトに助けを求める。
主の異変に既に気付いていたギルベルトは、落ち着いてザップを受け取り治療を開始する。それを不安気に見守るクラウスの元に、K・Kが恐る恐るといった様子で近付き話しかける。
「……本当にどうしちゃったわけ? 気もそぞろになるような何かがあるんなら、相談くらいは乗るわよ?」
「すまない…何か今、虫の知らせのような何かを感じてね」
「あら、クラウスっちが言ったとは思えない言葉」
集中を切らせて上の空になったり、部下を力加減を誤ってボコボコにしたり、ライブラのリーダー然としている彼には珍しい奇行。
その理由が、何とも曖昧な予感からきているためだと知り、K・Kは驚きで目を見開く。
キレた時は危険だが、それ以外の趣味に興じているときなどには至極冷静な彼が言うには似つかわしくない言葉だ。
「それが気になってるわけ?」
「ええ、何か、危険なことが起こる予感が―――」
慎重派の彼が何に不安を抱いているのか。
クラウスの懸念の正体を探ろうと、K・Kが興味津々に問い質そうとした瞬間の事だった。
「大事件だぞクラウス‼︎」
どばーん!と勢いよく扉を開けて乱入してくる、トレンチコート姿の中年の男性。
すると、ライブラの外で何か巨大な者が落下する音が響き、続いてボンッと何かが爆発する音が響き、さらに何かが壊れて崩れ落ちる音が響いてくる。
立て続けに聞こえてくる崩壊の轟音の数々に、クラウスの表情はそのままに、K・Kは顔を掌で覆って天を仰いだ。
「……クラウス、あんたの杞憂の意味がわかった気がする」
「おお! K・Kもいたのか! できればみんないて欲しかったが、まぁそれは仕方がない!」
やかましく吠える彼の名は、ブリッツ・T・エイブラムス。
クラウスの師匠に当たる者であり、故に多くの吸血鬼に恨まれ命を狙われ、数々の呪いその身に受け―――全くの無傷で生きている、凄まじい豪運の男である。
なお、彼の豪運で回避された呪いは継続するため、周りへの被害がとんでもない事になるという。閑話休題。
故にライブラでは、エイブラムスの来訪は確実に何か大事が起こる、あるいは彼が引っ張り込んでくるのだという、かなり失礼な認識があった。
「何の用なのよぉ〜あんたが来ると絶対厄介事がおまけになってるじゃない〜」
「大事件だ! エヴァンジェリン婆さんが帰ってきていることは知っているな⁉︎」
「とっくの昔に」
「婆さんが追っているファントム! そいつがこの街に紛れ込んでいることもか⁉︎」
「知ってますぅ〜」
「そうか! だったらかなり話は早くなるな!」
心底面倒臭そうに、しかし全く気付かれる事なく、怒涛の勢いでしゃべるエイブラムスの相手をするK・K。あまり近付くと何が起こるかわからないので、若干体を仰け反らせていた。
エイブラムスもエイブラムスで、情報が速いライブラに感心し頷くばかりで、なかなか話が前に進まない。
仕方なく、クラウスが椅子を立ってエイブラムスの方へと歩み寄る。
「…エイブラムス、本題をお聞かせ願えないだろうか」
「うむ、そうだな、そうだよな! 俺が掴んだのは、そのファントムの正体についてだ! 奴は―――」
うっかりしていた、とばかりに手を叩き、また大きな声で喋りだす。
彼が言う重要な情報を、K・Kとは真逆に真剣に聞き出そうとするクラウスに、エイブラムスが語ろうとすると。
突如、室内の天井に備え付けられた小型のテレビの電源が勝手に点き、ノイズが走る。
そして小さな画面に、見覚えのある豪奢な格好の少年―――来国中のエメラルド国の王、マヤが映し出された。
「⁉ ちょっと……この子って」
『御機嫌よう、ヘルサレムズ・ロットの住民達よ……我が名はマヤ、エメラルド國の大王である。くるしうない』
突然始まった放送に、クラウスもK・Kもエイブラムスも、気絶していたザップも治療中だったギルベルトも反応し、鋭い目で画面を睨みつける。
特にザップは、いきなり顔を見せて、彼からすると生意気で腹の立つ態度を見せる青年の顔に、嫌悪感たっぷりの表情を返していた。
「あんだァ……こりゃ」
『憩いの時を邪魔した事、深く謝罪する……これより我らが行う大事の為、諸君らへの警告のつもりで今一時の時間を頂いている』
それが放送されていたのは、ライブラだけではなかった。
街中の画面、家庭のテレビやパソコン、携帯電話にタブレットと、ありとあらゆる情報端末を乗っ取って放送されていた。
映し出される異国の王の言葉に、街中の人間達が唖然とした顔を向ける。
『我らはこれより、大いなる奇跡の実現を目指し動く。未だ嘗て、誰も達し得なかった偉業……遥か過去より多くの知性ありし者が求め、打ち拉がれてきた奇跡を真にするのである』
見れば、若き王の左右には白と金のローブを纏った、魔導士然とした格好をした何者かが控えている。
フードを被った賢者に、尖り帽子を被った導師。大昔の物語にでも登場しそうな謎の人物が、唐突に画面の中で動き出す。
やがて本人が移動したのか、マヤ大王の姿が横にずれ、賢者と同士が捕らえる一人の少女―――ぐったりと項垂れた、エヴァンジェリンの姿が露わとなった。
『此処に、我らが希望は降り立った。二つとして並ぶ者なき竜の巫女を招き、奇跡の御業を披露させる』
「エヴァンジェリン女史⁉︎」
「ババア⁉︎」
思わぬ人物の登場に、ライブラ内が騒然となる。
捕らえる事などそうそうできないはずの強者、ライブラ最強と謳われる魔女の思いもよらない姿に、誰もが絶句しその場に立ち尽くす。
外套で寛いでいたレオナルドも、持っていたハンバーガーを落とした事にも気づかないほど、激しく動揺し言葉をなくす。
路地裏で暴れていたオーフェンまでも、信じられないと言った様子で街中のテレビを凝視する。
『我らが望むのは、成功という結果ただ一つ。諸君らには何も求めない……強いて言うのならば、何もしないことを要求する』
「エヴァンジェリンさん…⁉︎」
『しかし、諸君らが我らの警告を蔑ろにし、邪魔をする姿勢を見せよう時は、我らは容赦なく慮外者達を排除する。これは覆されぬ決定である』
どよどよと、何が起こっているのかまるでわからない様子で囁き合う人々の声が、一塊となって町を揺るがす。
それを知ってか知らずか、画面の中のマヤ大王はにやりと不敵に笑みを浮かべ、胸を張って両手を左右に広げる。
まるで自分が主役となった舞台に酔っているかのように、恍惚とした顔を晒してみせた。
『今この時より、ヘルサレムズ・ロットは我らが城となる。何人たりとも侵す事能わず、何人たりとも争う事叶わぬ……我らがそれを為す、その時まで』
肯定も拒否も、何一つ受け入れる気のない演説。
異国の王が現れたかと思いきや、見知らぬ少女を捕らえた姿を映し、「何もするな」と自分勝手に告げて勝手に終わった。
突然始まった謎の放送に、街の住民達はほとんどの物が驚愕と戸惑いで固まり、動く事ができないでいた―――とある、特殊な数人を除いて。
「…ふざけやがって」
唾でも吐き出しそうな形相で、体を起こしたザップがこぼす。
顔はまだ絆創膏だらけだが、若き異国の王がお茶の間を占領し、何やら企んで注目を集めている姿に、強い苛立ちを抱く。
いけ好かない餓鬼が何かをやらかそうとしている事が、酷く気に入らない様子だ。
「あいつら……ババアを使って何しやがる気だ。何のために、こんな…」
「まずい…まずいぞクラウス!」
「ええ……分かっています。彼らの目的は不明ですが、何にせよ一刻も早くエヴァンジェリン女史を救出しなけれ―――」
「いや! そっちじゃない!」
仲間の窮地に、理由はそれぞれだが同様の怒りを抱き始めるライブラの戦士達。
許しがなくとも、即座に救出と討伐に向かう気になっている彼らに、エイブラハムが酷く慌てた様子で待ったをかける。
なぜ止めるのか、と鋭い目で睨みつけるザップ達に、エイブラムスが事情を説明しようとした時。
「あそこにいるのは―――‼︎」
『さぁ、始めようか―――全てをやり直す、創世の儀式を』
不意に、画面の中にいた黄金の魔法使いが、一つの指輪を右手に嵌める。
彼がそれを自身のベルトの中心にかざした瞬間、指輪とベルトが眩い光を放ち出し。
《クリエイト・ナウ》
びくっ!と魔女が驚愕の表情で全身を震わせ。
煌々と虹色に輝く―――世界の全てを書き換える力が、解き放たれた。