ドイツの秘境、雪の吹き荒ぶ千年城。錬金術の大家として名を馳せるアインツベルンの居城を、一人の女が彷徨いていた。
髪から肌、纏う衣に至るまで純白で覆われる中にただ二つ、ルビーの如き双眸が煌めいている。それはまさしく完成された美、人外の美しさと表現するに相応しいものであった。
女は城内を、何かを探すように歩き回る。そしてある一室の扉を開け、中にいる人物を認識すると、その白皙の美貌を小さく綻ばせた。
「キリツグ、ここにいたのね」
女―――アイリスフィール・フォン・アインツベルンの声に、彼女の夫である衛宮切嗣は振り返る。
「アイリか。どうしたんだい?」
「ううん、特に何もないのだけど……もしかしてお邪魔だった?」
後半はやや声を潜め、申し訳なさそうに呟く。彼女がそのように考えたのは、切嗣の前に
「いや、むしろアイリも知っておいた方がいい。もう少し情報を整理してから話そうと思っていたけれど、折角だから今伝えてしまおうか」
切嗣は気にするなと首を振り、アイリスフィールを手招きする。テーブルに広げられた資料の一枚を手に取り、彼女に見やすいように持ち上げた。
聖杯戦争と呼ばれる儀式がある。
日本の冬木という土地で行われる、万能の願望器を謳う聖杯を求め七人の魔術師が争う魔術儀式。
切嗣はマスターの一人としてこの戦いに参加する。彼は聖杯戦争における御三家の一角たるアインツベルンが雇った傭兵であり、『
抱く願いは『恒久的世界平和』。経歴と見比べるとミスマッチにも思えるが、彼のこれまでの行動には全てこの願いが根底にある。
その願いは容易く叶うものではないが故に、切嗣はマスターの中でも一際聖杯に懸ける思いが強い。であればこそ、直接の参加者ではないにしろ
「現在判明しているマスターは僕を除いて四人だ。御三家の遠坂時臣と間桐雁夜、時計塔の
「確定ではないの?」
「ああ。なんでも調査に向かったホムンクルス達が
先述の通りアインツベルンは錬金術の大家であり、彼らが造るホムンクルスは並の魔術師を圧倒できるほどの性能を誇る。それを碌な情報も与えず封殺したという事実は、相手が非凡な実力の持ち主であることの証明と言える。
「わかっているのは聖堂教会の人間であるということと、コードネームらしき名前だけ。はっきり言って異常だ。この言峰綺礼という男も不気味だが、こいつはそれ以上に警戒すべき相手だ」
言峰綺礼という男を、切嗣は最大限に危険視している。元代行者という事実もあるが、あらゆる分野を中途半端に極めるという在り方の不可解さこそが何より不気味に思えたのだ。この男が聖杯を獲れば、何か良くないことが起きる―――そんな漠然とした確信があった。
だがそれとは別に、この相手にはもっと単純な意味で脅威を覚えていた。推察される実力の高さ、そしてあまりにも情報が不足しているという点において。
戦闘全般に言えることではあるが、特に暗殺者にとって情報は生命線だ。出会い頭に鉛玉を叩き込めば勝てるほど聖杯戦争は甘くない。周到な準備あってこそ一発の銃弾が活きるのだ。そのためには相手の思想、行動、装備等を把握しておくのは必須である。
その情報が全く得られないというのは大きなハンデだ。典型的な学者肌の魔術師ならばどうとでもなるが、武人や暗殺者のような思考回路を持つ相手となると対処が大幅に変わってくる。軍師や参謀の類であれば尚更だ。
そしてもう一点、この相手には気にかけるべき要素が存在する。
「教会?この言峰綺礼みたいに元じゃなくて、現役の?」
「ああ。間違いなく教会所属で、それでいてマスター候補だそうだ」
「それって……!」
一つの可能性に思い至ったアイリスフィールが息を呑む。その推察が正しければ、切嗣が聖杯を獲る上で最大級の脅威になり得ると考えたためだ。
原則として聖堂教会では魔術の習得を認めておらず、洗礼詠唱と呼ばれる昇魂・解呪のための儀式のみが習得を許されている。だがどんな掟にも例外は存在するもので、魔術はおろか天敵たる死徒の力すら利用する組織が聖堂教会には存在した。
「埋葬機関。教会の中の異端と言われるあの連中ならあり得る話だが……それでも謎は残る。そもそも教会の人間がマスターとして参戦してしまえば、監督役が中立として機能しなくなる」
埋葬機関は異端狩りの最高峰とでも呼ぶべき集団だ。その権限は非常に強く、時には教会の意向に背くような真似すら許容されることもある。だがそれは異端狩りという一点に限られたものだ。聖杯戦争が平常通りに運営される限り、教会は監督役と戦後処理班を置くだけで埋葬機関が動員されることはない。
「確かにそうよね……なら、そのマスターは完全に独断で動いているのかしら?」
「その可能性が高いだろうね」
だが最も重要なのは、その人物が今も教会に籍を置いている、即ちその行動を教会が許容しているという点だ。それはつまり、独断専行を認めるに足る理由があるということなのだから。
「もしこいつが埋葬機関の人間なら、この聖杯戦争に何かしら異端絡みの問題が発生しているということだ。そうでないのなら目的は不明、それでいて独断専行が許されるだけの立場にあるということ。どちらにせよ無視できる案件じゃない」
どちらに転んでも聖杯戦争が破綻しかねない状況。この聖杯戦争に全てを賭けている切嗣にとって決して無視できない事態だ。
切嗣の表情が険しくなる。その様子を見かねて、話題を切り替えるようにアイリスフィールはもう一つの疑問を口にした。
「そういえば、そのマスターの名前はわかっているのよね?何ていうの?」
妻に気遣われていることに気づかないほど、切嗣も鈍感ではない。小さく苦笑を零し、その問いに答えることにした。
「さっきも言ったけど、多分コードネームだよ。とてもじゃないが本名とは思えないからね」
そう前置きして、切嗣は一つの名を口にした。
「前方のヴェント、というそうだ」
「ふむ。まあ、此度は無理じゃろうな」
眼下の蟲蔵を覗き込みながら、その老人は呟いた。
「ぐっ、ぁ、ぉぉぁ……」
そこには凄惨な光景が広がっていた。
一人の青年が、全身を蟲に貪られている。既に数時間もの間続いている光景であり、その表情と呻き声は彼が味わっている苦痛を雄弁に物語っていた。
だが、この行為は他ならぬ青年―――間桐雁夜にとってこそ必要なものだった。魔術回路が錆びついた雁夜が最低限
「即席の魔術師と言えば聞こえはいいが、所詮は付け焼き刃よ。遠坂の倅に届くことなどあるまいて」
御三家の一角、間桐。祖をロシア近辺に持ち、聖杯戦争を機に日本は冬木へと根を下ろした家系である。その当主である老人―――間桐臓硯は、四度目となる今回の聖杯戦争には消極的だった。
衰退の一途を辿る間桐には送り出せる手駒がない。御三家の縁で遠坂家の次女を養子として迎えたものの未だ幼く、加えて
そこに雁夜が割り込んできたのは、養子に迎えた遠坂の娘―――桜の解放を求めてのことだ。
間桐の魔術の悍ましさに耐えかね出奔した雁夜は、初恋の幼馴染の娘が間桐に取り込まれるのを見過ごせなかった。雁夜が聖杯を獲れば桜を解放すると約束させ、一度は背を向けた魔道に戻ったのだ。
だが臓硯は、雁夜が勝ち残れるとは微塵も思っていない。刻印虫による開発に成功しても、即席故に脆弱な魔術回路と蹂躙され尽くして崩壊寸前の身体でまともに戦えるはずもない。
「そのうえ『神の右席』まで出張ってくるとあってはな。余興になるかすら怪しいものじゃ」
『神の右席』。
臓硯も詳しく知っている訳ではない。五百年生きてきた中で数回耳にした程度だ。だが、
「だが無視もできん。願いを叶えるだけならばまだいいが、聖杯そのものをどうにかされては儂にも不都合じゃて」
わざわざ聖堂教会の最奥から出てきた理由がわからない以上放置はできない。だが雁夜では万に一つも勝ち目はなく、他のマスターによる打倒も望み薄だろう。
「……どうにかしてサーヴァントを嗾けるのが一番か。数騎をまとめてぶつければ勝ちの目もあろう」
雁夜本人はともかく、召喚させる予定のサーヴァントは中々に強力だ。それとなく他のマスターにも情報を流しておき、数の暴力で仕留めるのが最も現実的な手段に思われた。
臓硯の考えは間違ってはいない。しかし決して正しいとも言えなかったのだと理解するのは、もう少し先の話。
イタリア・ローマに聳え立つ大聖堂。十二使徒の一人である
その一室にて、一人の女が荷作りを行っていた。
「……こんなモンかしらね」
奇妙な出で立ちの女だった。
顔のバランスが崩れるほどの大量のピアス、濃い化粧によって強調された目元。舌にもピアスを留め、そこから腰の下まで伸びる細い鎖と小さな十字架が揺れている。服装は十九世紀のフランス市民に見られたような格好にも思えるが、その色合いは全身が黄色一色。
彼女の姿を他者が目にすれば、好意や好奇心よりも嫌悪感が先行するだろう。
「行くのか」
「むしろ行かない理由がある?」
唐突に、背後から彼女に声が掛けられる。いつの間にかそこに立っていた、無骨さが全身から滲み出る男が発したものだ。
それに対して動揺を見せることもなく、女は淡々と言葉を返した。
「聖杯の贋作でワンアウト。万能の願望器とかいう触れ込みでツーアウト。中身のぶっ壊れ具合でスリーアウト。どう考えても放っとけるコトじゃないでしょうが」
女の右手、グローブで隠されたその下には令呪が刻まれている。それこそが、彼女もまた聖杯戦争に集うマスターの一人であるということの証だった。
「一応監督役はいるけど、別に勝者を止める権限がある訳じゃない。どんな厄ネタが生まれるか知れたモンじゃないっての。だったら私が使ってやった方がマシってコトよ」
「
「
そのやり取りは、聞く者が聞けば違和感を覚える内容であっただろう。同時に、さらに深いところまで知る者にとっては納得のいく内容でもあった。
―――冬木の聖杯戦争は既に破綻している。
六十年前に行われた第三次聖杯戦争。そこで犯された一つのルール違反により、聖杯はもはや願望器とは呼べない悍ましいモノへと堕ちた。
『
女の抱く願いも、この聖杯にかかれば全人類の殺戮という形で叶えられることだろう。
それを正しく認識した上で、彼女は参加の意を示している。他の魔術師の手に渡ることを防ぐ意味合いが第一ではあるが、それとは別に確かな
その根拠は、彼女が召喚する英霊の触媒にあった。
「成程。『
それはとある王国に伝わる秘宝。地に放れば竜を
「確かに、その英霊の魔術師としての格は随一と言っていい。聖杯の浄化さえも可能とするであろうな」
「ま、これで無理ならどうしようもないってコトね。その時は
「贋作とはいえ、仮にも聖遺物である。手荒な扱いは控えてほしいものであるが」
「はいはい、考えとくわ」
誰が聞いても方便だと判るような、気のない答えを返し女は立ち上がる。
「それじゃ、サクッと全員ぶっ潰してくるってコトで」
その発言は、決して驕りから生じたものではない。絵空事と切って捨てるには、彼女の格は高すぎた。
曰く―――聖堂教会の最暗部。
―――二十億の中の最終兵器。
―――『
―――そして、『神の右席』。
舞台は冬木。魔術師達が聖杯を奪い合う戦場に、前方のヴェントという災厄が舞い降りる。