その日のきりえの朝は早かった。
ざっ。
左右に開け放たれたカーテンの向こうから、穏やかな陽光が差し込み室内を明るく照らし出した。
かごにまとまられた衣類を洗濯機にもたもたと放り込み、一瞬だけ躊躇してから自分の洗濯物も一緒に投げ込んでスイッチを押すと台所に向かった。
冷蔵庫の中を覗き込み、おかずの残りやら冷凍室から冷凍食品やらを取り出すと、順番に電子レンジに入れては加熱させてゆく。
その待っている間に、はたと気付いてはトースターにパンを放り込み、電子レンジのブザーを聞いては駆け戻って中身を入れ替え、コーヒーメーカーに粉を入れたところで慌ててパンを焦がす前にトースターから取り出した。
「あち、あち」
手際を意識して同時施行に挑戦してみたが、やはり簡単なことではない。
だが、今はなんだか身が軽い。なんでもやってみようかという気になっているのだ。
「おう。はよう」
「お兄ちゃん、おはよう!」
のそのそと身支度をしながら台所に入ってきた兄にきりえは明るい調子で返事した。
「……なんか、いいことでもあったのか?」
「ううん!別に!」
コーヒーメーカーに水を充填してスイッチを入れ、また電子レンジの中身を入れ替える。
皿に並べたおにぎりを、兄が物も言わずにラップにくるみ始めたのを見てきりえは驚いた。
(みおみの言ったとおりだ!? )
さらには弁当箱三つを、蓋を開けて順に並べて置いたのだ。
「あ、ありがとう!」
「おう」
ぶっきらぼうに返しながら、兄はカップにコーヒーを注ぎ入れて自分の座る位置に持って行く。
やがてきりえが苦労して弁当の中身を詰め終わると、またも兄が何も言わずにやって来て、詰め終わった弁当箱から布に包んで結んでゆく。
「ありがとう」
「おう」
これまた驚愕の出来事だった。
ぶっきらぼうに返事して自分の椅子に戻ってゆく兄の背を見て、きりえは求めていた幸せの充足に胸を熱くしていた。
「きーりーえーちゃーん!」
石畳で整備された小川を挟む大通りで、後方から追いついてきたみおみにきりえは笑顔で振り向いた。
「みおみ!」
「おはようございます!」
朗らかな笑顔で挨拶したみおみがきりえの横に並んだ。
きりえにとっては、自分のしでかした事のせいで貧乏くじを引かせてしまったという負い目が激しく、ひとりになるたびに自責の念で潰されそうになるのだが、こうして顔を見ると、そういった負い目がなぜか消し飛んでしまうのだった。
魔法少女になってもみおみはいつも通りのみおみであり、性格上なにかを溜め込んで腹を黒くする性格でないことは良く知っている。
逆に、きりえが申し訳なさそうに表情を少しでも曇らせると、黙って首を振り、肩に手を触れるのだ。
別に、魂なんて無形のものの形が変わっただけ。なにも問題はない。
みおみはそう認識しており、自身の身に起きたことをなんらハンディとも重荷とも思っていないのだ。
「……」
ここまでしてくれた友達に、この感謝の気持ちをどうやって伝えればいいだろう。
ずっと「由貴さん」だの「あんた」だのとしていた呼び方を下の名前に改めてみても、みおみは笑顔で応えてくれた。
わずかに宙をさまよわせた手を、意を決してみおみの手に重ねてみた。
突然手を握られても、みおみは変わらぬ笑顔で自然に握り返してくれた。当たり前のように。
「……!」
もう、それでいいのだと。
なにも言えなくなったきりえは、綻ぶ顔が照れくさくて思わず下を向いてしまった。
『無事でしたのね。良かったわ』
『レイカさん!? 』
教室に着いたところで、きりえの脳裏にレイカの声が飛び込んできた。
テレパシーの心得を忘れていないきりえは、何もない風を装って席に向かいながら胸中で応答する。
『……あの、無事って、どういう……』
だが、レイカの台詞の意味が分からず怪訝に問い返すと、溜め息を返された。
『あなた、昨日の夕方に御崎 芽衣に拉致されたことをもうお忘れ? それとも警護にあたりながら、同時に現れた魔女への対処で出遅れたわたくしへの当てつけかしら。 まあ、その為にみおみさんにも付いていてもらったのですけど』
「あ!? 」
きりえは思わず肉声で喫驚の声をあげてしまった。
驚いて見返すクラスメートに手を振って誤魔化しながらきりえは昨夜の出来事を思い返す。
みおみがキュゥべえと契約し、きりえの魔法少女の契約を「なかった事」にしてしまった為、現在のきりえの周辺の人物の相関関係が変わってしまったのだ。
「きりえは魔法少女にならなかった」事になり、レイカは単独で戦い続けていたことになった。
躊躇なくテレパシーを使ってきたということは、レイカの中ではきりえを「魔法少女と魔女の事情を知る一般人」だと認識しているらしい。
そしてみおみと入れ替えた人生を元に戻したことにより、御崎 芽衣の「本当の幼馴染み」はきりえということになった。
つまり、昨日の夕方に芽衣が狙うべきは、みおみではなくきりえということになる。
一般人でしかないはずのきりえが、魔法少女である芽衣の仕掛けた暴挙から逃げおおせたということは、もう一人の善意の魔法少女であるみおみがなんとかしたのだろう、とレイカの記憶は改竄されたようだ。
そこまでざっと状況を整理したきりえは、言うべきことを急いで組み立て直して返答した。
『あっ、いえ、とんでもないです! おかげで助かりました! ちょっと思い出したくないくらいひどいことされそうになって、それでその……』
『大丈夫。それ以上言わなくてもよろしくてよ』
特に気を悪くした様子もなくレイカは応えた。
『大変でしたわね。 みおみさんが間に合って、本当に良かった』
心底安堵したような優しい声音で続けるレイカの言葉に、きりえの胸中に熱いものがこみ上げてきた。
『以前も言いましたけれど、きりえさんは、キュゥべえにどんな甘言を弄されても絶対に魔法少女になんてなってはダメよ。 なってしまったわたくしたちは自分の責任でこれからの道行きを考えますけれど、まだそうでないあなたには何の落ち度もないことですから、負い目に感じることもないの。 お願いだから、わたくしたちの為に、あなたは日常の世界にいて。よろしくて?』
『……レイカさん……』
目の奥が熱くなってきた。
それはきりえも同時に感じたことのある絶望だ。
だがきりえはみおみに救われてしまった。
運命を改竄した為にレイカに伝えられない申し訳なさに、レイカの優しさにとうとう堪えきれずに涙が溢れ出す。
ふと、いつの間にか前に回り込んでいたみおみがきりえの目元にハンカチを当てて、微笑みながら涙を拭ってくれた。
怪訝にきりえの方を見るクラスメートにみおみが適当に応えて注意を逸らしてくれる。おかげで、いもしないきりえの親戚がひとり犠牲になってしまったが。
『朝からごめんなさいね。おかげでわたくしも安心しました。 また放課後、部活でお会いしましょう? 交信終了』
『……ありがとう……ございました……』
みおみに庇われながら、きりえは胸を熱くする感謝の念に涙を流し続けた。
『とはいえ、御崎 芽衣の脅威がなくなったわけではありませんわ』
昼休み。
みおみの脳裏でレイカが怜悧な声で告げた。
『もう一度お聞きしますけれど、御崎 芽衣は「倒した」のではなく「追い払った」んですわよね?』
『はい』
窓辺の席にもたれてうたた寝しているようにしか見えない姿勢でみおみは脳裏で応えた。
『それで、今日も無断欠席している、と』
『はい。そうですね』
転校して次の日から二日連続で音信不通となってしまった御崎 芽衣のことは、生徒たちの間でも様々な憶測の種となっている。
『まったく。 それにしても、御崎 芽衣の目的はなんなのかしら。 仮にも「お姉さま」と呼び慕っておきながら、きりえさんが思い出すのもはばかられる暴挙に出た理由は……』
『魔法少女の契約を、無理矢理させようとしたんです』
みおみは、事実のみを要約して伝えた。
運命の改竄に関わった当事者以外には言っても通じないからと、きりえに何度も念を押された成果である。
『……キュゥべえも、その場にいたということ!? 』
『はい』
しばし、レイカの呻く声が聴こえる。
『……いったい、何の為にそんなことを……!? 』
魔女を倒すには手勢が多いほうがいいが、貴重なグリーフシードは取り合いになる為、魔法少女は増え過ぎても都合が悪い。
以前、きりえやレイカが言っていたことである。
『競争相手をわざわざ増やす真似を、選りによってあの御崎 芽衣がやりたがるはずがありませんわ』
『魔法少女のお友達が欲しかったんでしょうか?』
『あなた、その為にきりえさんがどんな目に遭ったかお忘れ? それに、仮に寂しさを紛らわせる為だとして、ソウルジェムが消耗した途端に互いに敵となってしまいますわ。 それは御崎 芽衣が一番良く分かっているはず』
薄く目を開いた先では、みおみと向かい合わせに座ったきりえがやきもきした様子でみおみを見つめている。
今のレイカとのテレパシーはみおみのみと繋がれている。きりえには一連の会話が聴こえていない。
『いずれにせよ、御崎 芽衣はまたきりえさんを狙うはずよ。極端な話、きりえさんを拷問にかけてでも契約をさせようとするはず。魔法少女になってしまえば、身体の傷など治せてしまいますから』
『そこまではさすがに……』
『甘く見てはいけませんわ。 とにかく、わたくしとみおみさんとで、しばらくきりえさんの護衛に付きましょう』
『あの。レイカさんは、芽衣ちゃんをどうするおつもりですか?』
『もちろん、わたくしの正義において、死んでいただきますわ。説得の余地は見受けられませんし、御崎 芽衣の命などより、きりえさんのほうが大事ですわ』
『……そうですか』
『あなたにもあなたの矜持がおありでしょう。互いに譲れないことも承知してますわね?』
『はい』
『分かってるなら、結構。 せいぜい、逆手に取られないよう気を付けることですわね。 交信終了』
レイカのいつもの断りと同時に遠話の魔法の接続干渉が消える。
みおみは、ゆっくりと目を開いた。
「レイカさん、なんだって?」
「芽衣ちゃんが、また狙って来るかもって言ってました」
「……そっか……」
きりえは目線を床に落とした。
運命の改竄が元に戻ったことにより、小学生時代から世話になった御崎 芽衣が「お姉さま」と呼び慕うのは「由貴 みおみ」ではなく「由貴 きりえ」となった。
芽衣がかつてクラスで語った思い出は、きりえとのものだった。だから、きりえは芽衣の早生まれの事情を知っていた。
おかげで芽衣の変貌をいち早く知る羽目になったのだが。
「……芽衣ちゃん、なんであんなふうになっちゃったんだろう……」
「この数年間に、芽衣ちゃんかご家族になにか深刻な事件でも起こったんでしょうか……?」
「そうかもね…… ……ん!? 」
みおみの口振りに違和感を感じたきりえは顔を跳ね上げた。
「ちょっとみおみ。あんた、もともと芽衣ちゃんとそんなに親しく……あ!? 」
「ええ。残ってますよ?昔の記憶」
こめかみに人差し指を添えたみおみがにっこりと応えた。
運命の改竄が戻されたなら、本来「綾名 みおみ」が御崎 芽衣と顔を合わせたのは転校初日の一度だけのはず。
それなのに先ほどから親しげに芽衣の名を呼ぶみおみには、つまりは人生を入れ替えられていた間の記憶も本来の人生の記憶と同時に残っているということ。
「……そんな!? アタマ大丈夫なの!? 」
「なんだか失礼な心配のされ方ですねえ?」
「なにを今さら……」
朗らかに小首を傾げるみおみの前で、きりえはへなへなと脱力した。
「でもでも、要は契約した当人の記憶は変わらないということですよね? きりえちゃんも、そうだったんでしょう?」
「まあね」
「それで、わたしのお願いは「わたしの人生を戻すこと」じゃなくて、「きりえちゃんの契約を無くすこと」ですから、わたしたちがお互いに記憶の改竄の対象外に該当しちゃったんじゃないかと」
契約者であるみおみと、契約内容の対象者であるきりえ。どちらも「当事者」であるということ。
「とにかく、わたしにとっても芽衣ちゃんは大切なお友達なんですよ」
「……そっか」
みおみが「魔女の口づけ」を受けたあの夜、きりえのことを「お姉さま」と認識していない芽衣に攻撃を受けても、きりえには戦うことができなかった。
芽衣の変貌を知っても、レイカのように敵対することはできそうにない。
昨夜は非常に錯乱しており、怒りのままに振る舞っていたから勢いで芽衣を車道に放り出してしまったが、「魔法少女だから、なんとでもなる」という計算もあったとはいえ、落ち着いた今となってはあれもまたきりえの心を締め付ける悪い出来事だった。
でも、芽衣に悪いことはやめさせたいという気持ちはみおみも同じようだった。
「レイカさんには悪いけど、芽衣ちゃんに関しては私たち極秘のコンビだね」
「そうみたいですね」
「でもさ。実際のところ、どうすんの? 芽衣ちゃん、かなりアブない連中ともツルんでるみたいだし、ハナシしようとしても、取り付く島もなさそうな感じだけど……?」
「それは、もちろん」
眉根を寄せるきりえの前で、みおみは朗らかに人差し指を立ててみせた。
「きちんとお話し合いすれば、いいんですよ。」
「…………」
薄暗い部屋の中で、芽衣は棒付きキャンディーをくわえながらベッドの上に座っていた。
背中を壁に預けて、だらしなく両足を投げ出している。
「…………」
しわくちゃになったシーツの上には、もうひとり人影が寝転んでいた。
全裸の、若い男のようだった。
それを無感情に見下ろす芽衣も一切の着衣を身に付けておらず、カーテンの隙間から覗くわずかな光を、姿勢を変えた芽衣の内腿の付け根に張り付く粘液が照り返した。
「…………」
黙ってひょこひょことキャンディーの棒を上下させる。
特に何をしているでもない。疲れたから休憩しているだけ。
薄暗がりのベッドに寝転がる少年の胸の真ん中には、なにやら黒い棒が垂直に生えていた。
その根本からおびただしい量の赤黒い液体を溢れさせているこれは、急所にナイフを根本まで突き立てられた死体だった。
男が一番油断する瞬間が「達した」直後だということを、芽衣は知っている。
だから、用済みになったその瞬間に始末しただけのことだった。
「…………」
ふと、座る尻の重心を変えた拍子に感じた内股の粘液の動きに、初めて芽衣は眉をしかめた。
「……汚い」
呟いて、ようやく立ち上がった芽衣はベッドの上で魔法少女に変身した。
肉体変換の魔法の効果により、古い角質程度なら吹き飛ばす魔力が身体に付着した粘液をも根こそぎ消し飛ばした。
続いて瞬時に水色のバレリーナめいた衣装に身を包まれる。
「…………」
そして取り出したリングを二メートルほどに拡張させた芽衣は、それをまるで輪投げゲームのように少年の死体を囲むように放った。
ベッドの上の少年の死体は、被せられたリングを境目にして一瞬で消え去ってしまった。
まったく、訳が分からない。
昨夜、「お姉さま」を拉致して無理矢理魔法少女になってもらおうと画策したことが、どういう訳かとんだ失敗に終わった。
それも、なぜか途中の経緯が思い出せない。
なぜか反旗を翻したバカな男どもを血祭りに上げたところまでは覚えているのだが、なぜかその次の記憶は、途中経過をすっ飛ばしてトラックに撥ねられ重傷を負ったところなのだ。
まったく、訳が分からない。
事故現場に群がった野次馬を無視して自己治癒を繰り返しながらその場から立ち去り、再変身してから元の倉庫に戻ってみれば、そこは警察が張り巡らせたイエローテープに囲われており、バカな少年集団はおろか、「お姉さま」もいなくなっていた。
なぜかそこに残っていたキュゥべえにも『ワケがわからないよ』と言われる始末。
一気にやる気をなくした芽衣はそれから一夜、適当な男と不貞寝していたのだ。
だが、それもこれまで。
一時的な憂さ晴らしは済んだ。消耗して穢れを溜め込んだソウルジェムにグリーフシードを当てがって澱みを転嫁させる。
「キュゥべえ!」
言って、芽衣はグリーフシードを放り投げた。
暗闇の中から現れた白色の小動物が、背中の赤い紋様にグリーフシードを受け止めて取り込んだ。
『……けっぷ。 やるのかい?芽衣』
「その前に。 あんた、昨日、本当になにがあったのか覚えてないの?」
ベッドから飛び降りた芽衣が、少年を飲み込んだリングを担ぎ上げた。
『正確に言うと、ボクの認識を超える何かが起こった、だね』
「同じことじゃん」
眇に見下ろして一蹴する。
だがお行儀良く座るキュゥべえは揺らがない。微かに首を振り。
『でも、推論はできる。 あの時に、時間か、あるいは運命の改竄が起こったんだろうね』
「だから」
『前後に起こったことの辻褄が合わないんだ。 明らかに魔法で破られた入り口があったけど、綾名 みおみが契約したのはその後なんだよ。 あの場にもう一人「魔法少女」がいたことになるんだけど、その痕跡がなにもないんだ』
「……あの「志摩 レイカ」とか言うテニス女が追いついてこれたワケもないしね。 佐倉 杏子のやり口ともちょっと違うな」
忌々しいことに、自分がトラックの前に投げ込まれた原因も不明だ。
「……」
しばし黙考した芽衣だったが、たいして経たずに顔を上げた。
「ま、いいや。謎の第三者がいたとして、そいつは一撃でアタシを殺すことはできないってことでしょ?」
キュゥべえすら困惑させる現象は起こせるのに芽衣に対しては半端な攻撃をしたこと、手加減の理由がないことから芽衣はそう結論した。
「一撃で殺されなければ反撃のしようはいくらでもあるし。気にすることないよキュゥべえ。 ……行くよ。今度こそお姉さまを魔法少女にしてあげるんだから」
あっけらかんと第三勢力の懸念を捨て、芽衣はキュゥべえの脇を抜けてドアを出ていった。
「まずは、下準備から、かな?」
にい、と口元を嘲りに歪めて。
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「みおみさん、くれぐれもきりえさんのこと、よろしくお願いしますわね?」
第10話 どうしてこんなことをするの?
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