みほがエリカに連れて行って欲しいとねだった場所とは――
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「雨……かぁ」
静かな部屋で、誰にともなく呟いた。
3月の初旬。窓をしとどに濡らすのは春雨だ。
立春をすぎ、もう随分と暖かさを感じる。起き抜けに凍えながら暖房を入れていた季節が懐かしい。心の中で
「えい」と叫んで布団を引き剥がすのは、来年までお預けだ。
午前7時ちょっとすぎ。電気を点けていない部屋は雨のせいで薄暗い。
リビングで一人、椅子に座ったままコーヒーを飲む。ミルクは入れない。ブラックに砂糖のみ。あのコーヒーフレッシュは意外にカロリーが高い――そんな記事を、ネットで見た記憶があったからだ。砂糖を入れてる時点で、本末転倒だれども。
視線を向けるのは窓の外。ちょうど、鳥が飛んでいるのが見えた。濡れた窓のせいで、種類までは分からない。
「Sunday morning rain is falling……」
なんて口ずさんでみる。
歌詞にあるように、空を覆う雨雲のせいで今日はどこへも出かけることはないだろう。昨日から泊まりに来ている友人も、まだ起きてくる気配はないようだし。
休日だからってだらしない、と思わないでもない。
が、今日はせっかくの日曜だ。なんの雑音もない静かな時間……。こうしてゆっくり、一人の時間を堪能するのも悪くはない。それに、彼女は一応客人でもある。起こしてしまうのは野暮だろう。
◇
時計の針が正午を指す少し前、ドアが開く音がした。まだ、完全に目覚めているわけではないのだろう。眠そうな声が聞こえる。
「エリカさん……おはよう……」
欠伸混じりのその声に、首だけを回す。
「おはよう。いや、おそようかな」
「え……今、何時?」
「もうお昼前。そんなにウチの布団は寝心地がよかった?」
「うん。もう最高で……じゃなくて、ごめんなさい……」
「別にいいわ」
客人とは、みほだ。
彼女は、家よりも立派な間取りのマンションを借りてはいるが、たまにこうして泊まりに来る。曰く、広すぎて少し寂しい――のだそうだ。
薄いピンクのナイト・ウェアを着たみほは、椅子を引いて私の隣に座る。脚を折りたたんで体操座り。それを行儀が悪いとは言わない。
「雨、だね」と、みほが呟くように言った。私は「そうね」と、呟きで返す。
「エリカさん、何時に起きたの?」
その質問に、ちらりと時計を見る。
目を閉じて考えてみるが、正確な時間は思い出せなかった。
「何時だったかしら。確か、8時過ぎ、くらい」
「早起きだね」
「あなたが遅いだけよ」
「私は遅かったかも知れないけど、エリカさんは早起きだよ」
「なら、そういうことにしておくわ」
「うん」
何でもない会話。特に意味はない。
見ると、彼女のさらさらとした栗毛には、少し寝グセが付いていた。
「寝グセ、ついてるわよ」
「えっ、うそ。どこ?」
私の指摘に、みほは慌てたように髪の毛をいじくりまわす。そのせいで、余計に絡まった髪の毛はぼさぼさだ。
「いいんじゃない?私しか見てないし」
と、私が言うと。
「それが恥ずかしいの」
と、みほは唇を尖らせた。
◇
洗面所に駆け込んだみほが戻ってくる。彼女の頭に寝グセは跡形もなかった。こういう時は仕事が早い。
「それより、お腹空いてない?」
と、私は聞いた。時計の針が、正午を指していたからだ。
照れたように、みほ。
「ちょっと」
「ベーコンとたまごでいい?……というか、それくらいしかないかも」
「ありがとうエリカさん。十分だよ」
私はうなづいて立ち上がる。すると、何故かみほも一緒に立ち上がった。
「座ってなさいよ。ウチの台所は狭いの」
眉間にしわを寄せた私に、みほは明るく笑う。もう、すっかり目が醒めたのだろう。
「コーヒー、いれようかなって」
「ああ……」
そういえば、マグが空になって随分とたつ。
「じゃあ、お願いするわ。……でも、その前に問題」
「なに?」
「私のコーヒーは?」
つい、いじわるをしたくなった私は、そんなことを聞いた。
みほは、少し苦笑してうなずいた。
「ブラックに、砂糖だけ」
◇
「ごちそうさまでした」
「お粗末様でした」
食後。再びゆっくりとした時間を過ごす。私たちは朝と同じように、二人並んで椅子に腰かけている。そのまま、窓から外を見ている。
気が付くと、時刻はもう2時近かった。休日の緩やかな時間が過ぎるのは、あっという間だ。
窓の外を見つめたまま、みほが口を開いた。
「今日、雨やまないのかな」
「かもね」
私は、机に立てた頬杖を辞めた。
「どうして?」
「すきだから」
初耳だった。私は首をかしげる。
「好き?雨が?」
「うん。この時期の雨。なんかとっても優しい感じがして、すきなの」
みほはそう言って、両手で顔を支えるように頬杖を突いた。
〝優しい雨〟と、みほは言った。彼女らしい感性だな、と思った。
表情を見ると、穏やかに笑っている。そんな様子のみほに、「そっか」と返したきり、私は言葉を見つけられなくなった。なんとなく、私の声が彼女の邪魔をしてしまうような、そんな気がしたから。
代わりに、私は耳を澄ました。
しとしとと、雨が降る。さらさらと、窓を流れる――そんな音を聞いていると、彼女が言っていることがちょっとだけ分かった気もする。
◇
更に1時間が経った午後3時過ぎ。
みほが、何か思いついたように身体を起こした。
「エリカさん」
「なに?」
と、私は読んでいた雑誌から視線を上げる。読みかけのページに折り目を付けて、机に置く。すると、みほが答えた。
「おでかけしない?」
「は?」
彼女の返答は、私の予想だにしないモノだった。思わず、眉根にシワが寄る。
「出かける……って。今から?」
「エリカさんがイヤならいいんだけど……やっぱりダメ、だよね……」
みほの声が尻すぼみに小さくなる。肩まですくませて、身体を丸める。まるで叱られた子供のようだった。なんというか、とても様になっている。その姿を見ていると、悪いことをしたわけでもないのに、極悪人になった気分になってくるから不思議だ。
「誰もイヤなんて言ってないでしょ」
やれやれと、両手を挙げて降参のポーズ。すると、みほは一転して顔を輝かせた。本当は、全部計算でやってるんじゃないか?と疑ってしまうほど素早い変わり身だった。
「ほんと!?」
「ほんと。でもどこへ?」
と、私が聞くと、みほはまたしても言いにくそうに身体を縮める。この様子だと、一応予防線は必要かもしれない。
「県外とかはナシよ。新幹線と飛行機もナシ」
指を三本折りまげて禁止事項を伝えると、みほはゆっくりとうなずいた。
「うん。大丈夫」
どうやら、禁止事項には引っかからなかったらしい。私はひとまず胸を撫で下ろす。
しかし、そうなると余計に分からない。彼女が行きたい場所とはどこなのだろうか。もう一度、机に頬杖を突いて「じゃあ、どこなの?」と尋ねる。すると、みほはもじもじと両手の指を合わせた。栗色の前髪から瞳を覗かせつつ、言う。
「阿蘇、いきたいなって」
◇
阿蘇、とは熊本県北東部に位置する地域のことだ。熊本市からは約50キロ。熊本が誇る観光地である。
時刻は4時過ぎ。
車のフロントガラスに注ぐ雨は、依然として止む気配はない。ざあざあと、叩きつけるような雨ではないことが救いだ。「止まないかもね」なんて、適当を言ったつもりだったが、案外、私の勘も馬鹿にはできないらしい。
自宅の駐車場から、産業道路を抜けて国道57号線に乗る。通称〝東バイパス〟と呼ばれるこの道路は、休日この時間帯でも車が多い。そして、今は信号待ちの最中だ。
私はハンドルの上に腕を組み、体重を預ける。
「337から光の森抜ければよかったかしら。ここ、一番混むの忘れてたわ」
「あっちはなんか、おでかけって感じがしないよ」
と、窓から外を見ていたみほが唇を尖らせた。
「なによそれ」
その言い草に苦笑いしながらワイパーを動かす。二本のブレードが、濡れたガラスを拭った。
着ているワンピースの裾をつまんで、みほが口を開く。
「車、出してもらってありがとう」
「だって、あなた車持ってないじゃない。タクシーでも使う気だったの?」
「あはは」
困ったように頬を掻くみほ。
彼女のワンピースは、花柄の――やはり薄いピンク色だった。
私が運転する赤いアウディA1が、東バイパスから菊陽バイパスへと差し掛かる。
443号線との交差点を抜ければ、豊後街道に入る。ここまでくると、さほど道も混んではいない。
カー・ラジオでは、聞き慣れた声のDJが早口で喋っている。ぼんやりとその声を聞き流していると、みほが何かを見つけたらしかった。
「あ、文龍」
「あのどぎついラーメン屋?」
「エリカさん、ダメなんだ。私、意外と好きなんだよ」
「美味しかったんだけどね。一回連れていかれた時、お腹壊したわ。西住家の人々は、胃腸もハガネなの?」
「そうかも。すする姿は乱れなし」
「なにそれ」
私は微笑して、ハンドルを握り直す。
助手席に座るみほも、小さく笑う。
「あ、エリカさん。音、変えて良い?」
「ええ」
私がそう言うと、みほアルパインのオーディオに手を伸ばした。
「音楽、聞くの?」
「うん。どれ押したらいいの?」
「これ」
前方に注意を払いつつ、ナビの画面に軽く触れる。すると、録音されたCDの一覧が表示された。
「わ、いっぱい」
言いながら、みほは物珍しそうに指先で画面を上下させている。
彼女が言う通り、ナビのハード・ディスクの中には、たくさんの曲を入れていた。お気に入りのアーティストに始まり、友人におススメされた曲……。
自分でも、もう何枚録音したか覚えていない。今となっては、ほとんど聞かないだってあるくらいだ。みほは、その中から何かを探しているようだった。うんうんと、唸るような声が聞こえてくる。
「なにか、聞きたい曲があるの?」
「うん……ちょっと待って」
しばらくすると、「あった」とみほが嬉しそうな声を上げた。それから、流れ始めた曲を飛ばすこと、七回。
みほは、座席に背中を預けた。
「これ、聞きたかったんだ」
曲が流れ出す。聞き覚えのあるイントロ。バス・ドラムとピアノの、静かで優しい旋律。
これって……。
「Sunday morning rain is falling――」
ヴォーカルに合わせて、みほが小さく口ずさむのが聞こえた。
◇
それから、車は大津を抜けて立野駅を超える。この辺りになると、もうすっかり山道といった風になる。
車窓から見える景色も、ほとんどが緑だ。その中を、真っ赤なアウディが駆け抜けて行く……。そして、熊本ならどこにでもあるお馴染みのお弁当チェーン店を左手にして、信号を右折する。
ここまでもここからも、ほとんどが一本道だ。ナビも、一応道順を示してはいるが、それを確認したことなんて、ここまでで数回くらい。
起伏のあるワインディング・ロードから、今度は国道325号線に乗る。
「もう着くわよ」
私は、ナビで最後の道順を確認しながら言った。
みほは黙ってうなずく。
道の脇に、案内板が見えた。
雨が降っているとはいっても、まだ5時を少し過ぎたころ。ヘッドライトを上向きにしなくても、その文字は読むことができた。日の長さをふと感じる。
看板には一心行の大桜――そう書いてあった。
もう、目的は近い。
◇
「誰もいないね」
車から降りたみほは、あたりを見渡しながら言った。
私は、背筋をぐうと伸ばしながら答える。ぱきぱきと、小気味のいい音がする。
「当り前じゃない」
私たちの目の前には、大きな桜の木があった。
台風に巻き込まれ、折れた枝の跡が痛々しいが、それでも樹齢400年以上、高さは14メートルを超える桜の名木だ。これが、一心行の大桜。その成り立ちとか、いわれについては私は詳しくは知らない。
私は腰に手を当てて、続ける。
「まだ、シーズンじゃないもの」
みほの返事はなかった。白い傘に隠れて、表情もうかがえない。
辺りには誰もいない。新しく駐車場に入ってくる車のエンジン音もしない。ただ、落ちては弾ける雨の音だけが聞こえている。
私は、桜の木を見上げた。
もう少しすれば、桃色に着飾るはずの大木が少し寂し気に見える。この、時期外れの場所にみほが来たがった理由が私には分からない……。
「やっぱり、まだ咲いてないよね。桜」
みほの声。彼女は、桜の木に近づいた。
「あのね」
と、背中を向けたままみほ。
白い傘が閉じられた。私が「濡れるわよ」と言う前に、みほが続ける。
「私、桜が咲いてないことなんて分かってたんだ」
困ったような顔で、彼女は笑っていた。
「なら、どうして? ガソリンだって、タダじゃないのよ」
「それはごめんなさい。でも……」
「でも?」
「咲いた時、また一緒に来れたらなって」
「……」
「その後は海開きの前に海に行って、時期が来たら海で泳ぐの。イチョウが青い時に県庁前を歩いて、黄色くなったらまた歩く。銀杏はくさいから、実が落ちる前にね? 冬は、雪が積もる前に九重に行って、もっと寒くなって雪が積もったらスキーに行く」
私は、黙ってその話を聞いていた。
いつのまにか、傘を叩く雨の音がしなくなっていた。
「なんか、そういうのってステキだなって」
そう言ってみほは、はにかむように微笑んだ。
彼女の言葉を頭の中で繰り返すこと数回。なんだかとてつもなく恥ずかしくなった私は、まともにみほの顔を見ることが出来なくなっていた。
傘を閉じる。そのまま腕を組んで、そっぽを向いた。どれもこれも、照れ隠しだ。
「はいはい、もうどこへだって行ってあげるわよ。湘南の海でも、芦ノ湖の紅葉でも、長野の白馬でもどこへだって!」
「ありがとう、エリカさん……。でも、今日ちょっと期待してたんだ。最近温かかったから、もしかしたら、って……」
みほが残念そうに言った。その声に、閉じていた片目を開ける。
「あ……」
思わず声が漏れた。
3月初旬。優しい雨の後に吹く風は、温かい南風だ。
みほが立っているのは、時期外れの桜の木の下。彼女が着ている〝桜色〟のワンピースが、ゆっくりと揺れている。
確かに、そこに桜は〝咲いていた〟
腕を解いて、みほの隣に並ぶ。
私は、桜の木を見上げて言った。今、隣にいる人だけに聞こえるように。
「桜、咲いてるじゃない」
首を傾げるみほを横目に見ながら、私はあの曲の歌詞の一部を思い出していた。確か、和訳はこんな感じ。
〝嵐に巻き込まれた大きな枝のように、お互いに揺れる時もあるけれども
天気が変わって嵐がすぎると、やっぱり2人は一緒にいるんだ〟
お読みいただいた皆様、本当にありがとうございます。
やたらと雨が降るので、勢いと思い付きでしたためてみましたが……いかがだったでしょうか?
今回は熊本を舞台にしています。実は私も出身なので、故郷の記憶を全て引っ張り出しました。地名や、桜の木のいわれなど調べてみるとまた違った見方もできるかも知れません。
今回登場した曲はMaroon5の《Sunday Morning》です。めっちゃすき。
では、また。