山田翔太の朝は早い。
午前五時に起床した俺は、洗面台で歯を磨いてから顔を洗う。
念入りに洗顔を終えた後は服選びだ。どうせ着替えるのだが、少しでも格好付けたいというのが男の子の心なのである。
今日この後の事が楽しみで鼻歌まで漏れる始末だ。随分と浮かれているようである。
「こんな朝早くから何してんのあんた」
「おはよう母上様。今日は良い天気だね」
寝ていた母親を起こしてしまったらしいが、俺は気にせず窓の外に手を伸ばしてそうほざいた。
「曇りだけど」
暗雲である。
「なんか気分良さそうじゃん。彼女でも出来た?」
「ち、ち、違うけどぉ???」
「産まれたばかりの子鹿みたいになってんぞ。いや、でもその反応なら違うか」
流石は俺の母親だ。なんかもうキレが違う。
「今の鼻歌、パスパレの曲でしょ?」
「待て、なんで四十のババァがパスパレを知っている」
「まだ三十九だぶっ殺すぞ」
嫌だこの親。実の息子に向かってなんて暴言を。
「私パスパレのメンバーの一人と名前一文字違いなのよ」
そう言いながら、三十九歳のおばさんは両手の人差し指と親指だけを立ててゲッツ(死語)のポーズを取った。
この平成初期のギャグみたいなポーズこそ、Pastel*Palettesのふわふわピンク担当丸山彩のキメポーズなのである。
「あー、あの茶髪の子か」
そのパスパレのメンバーの一人、大和麻弥と我が母親山田真矢はひらがなにすると丁度真ん中の文字だけが違うらしい。
凄くどうでも良い。
「もう推しちゃうよね」
「知るかよ。とりあえずそのポーズを止めろ」
「これはゲッツよ」
「それ死語だからね」
分からない人の方が多いからね。
「てか、あんたアイドルの歌聞く趣味なんてあったっけ?」
「これにはコルカ渓谷よりも深い事情があるんだよ。それとは別にパスパレにはハマってるけど」
「あんたが何かにハマるなんて珍しい……。今日は晴天かしら」
「曇りだよ」
俺の事なんだと思ってるの。いや、なにも否定できないけど。
「で、そんなに気合い入れてどこ行くわけ?」
「ん? あぁ、えーとな」
財布とか諸々の準備を終えて、玄関先に立った俺は態々勿体ぶってからキメ顔を作った。母親は若干引き気味である。
「バイトだ」
「息子が純情な社畜に育ってしまった……」
そう、本日土曜日も山田翔太はバイトに出掛けるのだ。
十五歳にして真の社畜である。
◆ ◆ ◆
「ふ、早く来過ぎた」
誰も居ない事を確認して、俺は無駄に格好を付けてそう言った。
コンビニの前まで来たは良いが俺のシフトは午前八時からである。現在の時間は午前六時である。
「働くのが楽しみで時間より早く来ちゃうとかバカか俺はぁぁ!!!」
あまりの痴態に俺は近くにあった電信柱に頭をぶつけながら叫んだ。見た目完全に不審者である。
いや何も、別にお仕事が楽しみでこんな事になっている訳ではない。この奇行にも意味はあるのだ。
「しょうがないよね、今日は朝から夕方まで好きな人とバイトで一緒だからね」
そう、山田翔太は恋をしている。片思いだけど。
自分の想い人と、なんともないイベントだけど一緒に居られる時間なんて事が楽しみで仕方がないのだ。純情な感情である。
「とりあえずイメトレでもするか」
もはや訳の分からないテンションで訳の分からない事をし始めるのは、片思い中の男の子にはよくある事だ。
「まずここでモカが来るまで待って、あいつが来たら俺は爽やかな笑顔で──おはようモカ。今日もいい天気だな──と、言う。するとモカは──待ったー?──と、聞いてくるからすかさず俺は──ハハッ、今来たところさ──と出来た男の返事をする訳だ。完璧だね。自分自身の才能が怖い」
いや───
「キモい奴かよぉぉぉぉおおおおおお!!!」
───どう考えても危ない奴である。俺は電信柱を傾ける勢いで頭をぶつけた。側から見たら本当にやばい奴である。
「デートじゃないんだから待ったもクソもないよ。己が早く来てるだけだからね。てかなんで俺は一人でボケで一人でツッコミ入れてるの暇なの? 暇だよ!! なんで二時間も前に到着してるんだバカか!! 社畜だ!!」
「なーにしてるさね山田君」
「あぴぃぃぃっ?!」
朝の六時からコンビニの前で奇行に走っていると、店の中からゴミ袋を持ってきた高木さんに遭遇した。
その目は完全に不審者を見る目である。
やめろ。俺をそんな目で見るな。
「おはようございまーーーす! 良い天気ですね!!」
「曇りだよ」
この会話何処かで。
「まだ六時なのになにやっとーね。……は、もしや───」
ハッとしたような表情で口を抑える高木さん。まさか俺の気持ちがバレているのか?!
「私に会いたくて早く来ちゃったかー。いやー、可愛いねぇ山田君は」
「自惚れるなクソババァぁぁ!!」
やめろ。今の俺は確かにヤバイ奴かもしれんがそこまで行きたくない。
「まぁ、せっかく来たんだから休憩室でも入ってたらどうだい?」
「そ、そうします」
普通に無難な行動を推奨された。流石に家に帰るのもなんだしね。
俺はバイト先でお茶とパンを買って休憩室に。当たり前だが物静かで誰もいない。客すらいない。
一時間程経つと朝から出掛ける人が立ち寄っていく為、少しだけコンビニは賑やかになる。
手伝おうかとも思ったが、ベテラン高木さんは一人で全ての客を捌いていた。
本来この時間はもう一人バイトが居るはずなのだが、どうやら風邪で倒れていて休みらしい。
最近流行っているみたいなので俺も気を付けよう。
「お疲れ様っす」
「いやー、疲れたね。疲労で死ぬかと思ったよ」
冗談に聞こえないからやめて欲しい。
「モカちゃんはまだかねぇ?」
モカと俺が来てから高木さんは帰る予定なのだが、その当人はまだ来ていない。
時刻は七時半なので来てなくて当たり前なのだが、高木さんは妙な笑顔で俺を見て笑っていた。
「まぁ、数分遅れる事はあってもちゃんと時間には来る奴だから心配しなくていいと思います」
俺がそう言うと、高木さんはさらに顔を歪めて笑いを堪えるように口を抑える。
なにこの人怖いんだけど。まるで悪巧みする魔女だよ。
「ひっひ、人生長いんだから楽しまなあかんよ。死んだら何も出来んさね。いやー、長生きしたいねー」
「心に来るブラックジョークやめて」
この人は長生きしそうだなぁ……。
「ちーす〜。メロンパン下さーい」
そんな話をしていると、二十分くらい早くモカがコンビニにやってきた。ここはパン屋じゃねぇ。
「120円だよ」
買わせるんかい。
「諭吉で」
地味に嫌な支払い方!
「朝飯か?」
「そだよー。モカちゃんは目覚めたばかりで元気がないのです。およよ〜」
女子高生が欠伸をしながらメロンパンに噛り付いている姿は珍妙である。
「中で食え中で」
「イエッサー」
敬礼をして休憩室に入っていくモカ。どうも俺は無駄に緊張していたが、結局はいつも通りなのだ。
俺もその方が気が楽で良い。
「頑張んな」
「うるせぇ!!」
くそ、このババァ気付いてやがる。
八時にもなると朝のピークの時間だ。俺とモカは特に仕事以外の会話もする事なく、テキパキと働く。
「しょーくん、このお菓子補充しといて〜」
お客さんが買った弁当を温めるついでに、モカはお菓子の箱を渡して来た。
子供に人気のあるスナック菓子だが、今忙しいこのタイミングでやる必要があるのだろうか。
ただ、この職場で彼女の采配が間違える事はまずない。ふとお菓子コーナーを見てみると、寂しそうな顔をした子供が二人見える。
なんでこういう事自分でやらないのかね、モカは。
「はーい、補充でーす。ちょーっと退いてね」
俺はその子供達の間から、おそらく二人が欲しかったのであろうスナック菓子の箱を棚に置いた。
八時頃には半分くらいあったのに一時間ほどでなくなった人気のお菓子である。子供達二人は「わーい、やったー!」「お兄ちゃんありがとう!」と大喜びだ。
「沢山買ってってねー」
内心悪人の顔をしながら、俺は笑顔で子供達に手を振ってレジに戻る。
子供達にお礼を言われて嬉しくない訳もなく、むしろそれは接客業をやっていて一番楽しい時間でもあった。
モカってなんでこうやって人に手柄を渡しちゃうのかねぇ。
十時ごろになるとそこそこ暇な時間がやってくる。ちょっとした休憩時間ともいえよう。
「う〜、疲れたよ〜。バイト終わりにスタジオで練習なのに〜」
「そういえば、明日がライブだったか。なんで働いてんの」
日曜日である明日、AfterglowはCiRCLEでライブの予定だ。俺も都合良く休みなので観に行く予定だが、本番の前日に夕方まで働いていて大丈夫だったのだろうか。
「まー、モカちゃん天才だし? よゆー。失敗する要素が見当たらない」
何その死亡フラグ。
「そだ、しょーくん。今日のバンド練見に来るー?」
「いや、流石に迷惑だろ」
「人に聞いてもらっているという緊張感が、ひーちゃんの緊張感を高めてくれるのだよ」
「ひまりちゃん限定なんだな」
まぁ、言われてみれば観客の有無は演奏に響いてくるかもしれないし一理あるか。
「まぁ、皆が良いなら行く」
「確認済みです」
すっと俺に自分の携帯を見せるモカ。
おそらくAfterglowのメンバーが使っているのだろうトーク画面には、全員からの返事がちゃんと書かれている。
「仕事が早いな」
「元々、蘭がしょーくん呼んでって言ってたんだよねー」
え、蘭が? どういう事だ。何を企んでるのあの人。
「しょーくんが良いなら、決定ねー。あと、練習終わったらファミレスでご飯食べるけど、どーする?」
「オーケー。ファミレスも付いてって良いなら付いてく」
「聞いとく〜」
パパッとメッセージを送ったモカは、お客さんが入って来た事に素早く気が付いて接客の準備に付く。
お昼からはまた忙しくなる時間だが、この後の楽しみも出来たし頑張るか。
◆ ◆ ◆
バイトを終えた俺とモカはその足で練習スタジオのあるCiRCLEに向かった。
明日のライブもここでやるようで、玄関には明日の広告がデカデカと張られている。
「しょーくんを連行してきたよー」
「いやなんで俺は捕まってるの」
物騒な紹介をするモカにツッコミを入れながら、俺は既に演奏の準備を終えているスタジオに入った。
他の四人は衣装こそ着ていないが、本気の表情で何やら話をしている。
耳を傾ければ、どうも明日演奏する曲と曲の繋ぎの話らしい。一旦間を空けるか、続いてそのまま演奏するかで悩んでいるようだ。
「お、来てくれてありがとな翔太」
真っ先に俺に声をかけてくれた巴は「聞いてもらった方が早いだろ」とドラムの元に向かっていく。
もしかしてさっきの相談内容を俺に判断しろという事ではないだろうな……。
「ちょ、待て。無理だからね?! 俺に音楽の話とか無理だからね?!」
「しょーくん、そこはフィーリングでなんとなくで良いのだよ」
「良いわけなくない?!」
「いや、それでいいよ」
モカの爆弾発言を肯定したのは、ギター持ちながら音を確かめている蘭だった。
嘘ぉ?!
「ただ単純に、聞いててどっちが気持ちいいか教えて欲しいだけだし」
蘭がそう言いながらマイクの調整をしている間に、他のメンバーも演奏の準備を終える。
有無を言わせるまもなく、巴がドラムのスティックで合図を出してから演奏が始まった。
曲の終盤の所から、勢いよく駆け抜ける。
そのまま演奏がゆっくりと終わって、少し間を置いてから次の曲の初めからを彼女達は演奏した。
少しだけ演奏を続けると、唐突にその演奏は打ち切られる。
蘭の「それじゃ、これと次どっちが良いか教えて」という言葉と同時に巴の合図で再び演奏が始まった。
再び曲の終盤からの演奏。
気持ちの良い勢いで駆け抜けたかと思えば、どこで代わったのか分からないタイミングで次の曲の演奏が始まる。
疾走感のまま、興奮が途切れない。
個人的にはどっちが良いかは明らかだった。
だけど、俺なんかの感覚で良し悪しを言って良いのだろうか。
「どっちが良かった?」
ステージの上からそう言う蘭は、やっぱり輝いて見える。
眩しくて、手が届きそうにない。
「しょーくんはさー、普通だよ」
唐突にモカはそう言った。
「バカにしてるのかな?!」
「そして、あたし達も普通。普通に演奏して、普通にどっちが良いか気になってるだけ」
「モカ……」
普通、か。
「後の方が、何というか疾走感があった。うまく言えないけど、気持ちが良かった」
「ありがとう、その言葉が欲しかった」
蘭の望む答えが出せたようで、俺は一安心して胸を撫で下ろす。
ずっと悩んでいたのだろう方針が決まって、彼女達は安堵の表情を見せていた。
俺も少しは力になれたのだろうか。
その後、一通りの演奏を聞かしてもらってスタジオを後にする。
演奏に関しては特にいう事もない。いつも通り、俺の好きなAfterglowの演奏がそこにはあった。
「モカ、俺は普通か」
スタジオを出た所で、そんな質問をする。
「うーん、しょーくんはねー、うん。普通。あたし達も、いつも通り普通」
それが、普通。いつも通りの普通。
俺はそのいつも通りに入っているらしい。
その言葉が嬉しかった。
「よし、ファミレス行くか。今日は俺の奢りだ!」
「それじゃモカちゃんはAセットとポテトとチキンナゲットとメロンとソフトクリームとイチゴパフェと、それから───」
「遠慮とかそういう問題以前に人が食べる量じゃないよね?!」
「食べれるよー」
「普通に怖いわ!!!」
これが、俺達のいつも通り。
次回『恋愛難易度と攻略法』