雪崩。
山頂部分に積もった雪がなんらかの原因で斜面を傾れ落ちる現象。
流れる雪の速度は遅くても時速四十、早くて時速二百キロメートルにも及ぶらしい。
「───モカ?」
雪崩に巻き込まれた人の生存率は極めて低く、多くの場合が巻き込まれた時の外傷もしくは雪に埋まった後の低体温症または窒息により死亡する。
「……お、おいおい。冗談キツイぞ。……流石にさ」
雪の中に埋まってから十五分が経つと生存率は極めて低くなるが、その理由こそが窒息によるものだ。
身動きも取れない中で雪の中に埋まり、呼吸する為の空気がなくなってしまうからだという。
「いや、そういうのは流石に心配するっていうか。あの、さ。俺そういうネタは嫌いだからな。……なぁ、おい、出てこいよ。怒るぞ」
俺は何をやってるんだ?
「なぁ、モカ……。何処だよ」
俺は何をしている?
「なぁ……モカ!! おいモカ!! 返事をしろよ!! モカ!!!」
日も落ちて、真っ暗な雪山の中で俺は叫んだ。
さっきまで側にいた筈の彼女の名を、何回も何回も大声で呼ぶ。
だって、今の今まで彼女は俺の隣に居たんだ。
それがなんで居なくなってるんだよ。
意味が分からない。なんで雪崩が、俺はここに立って、モカは何処に?
頭の中がぐちゃぐちゃになる。白と黒だけの空間で、俺はゆっくりと前に進んだ。
「モカ……っ」
居ない。
「モカ……っ!!」
何処を探しても彼女の姿は見当たらない。
雪崩に巻き込まれたっていうのか?
ならなんで俺だけ無事なんだよ。なんで俺だけここに平然と立ってるんだよ。
そんなのおかしいだろ。
「モカ……」
少しだけ前の事を思い出す。
雪崩が来ているのを知って、必死にコースの外に走った。
俺は転んで、そんな俺を引っ張って彼女は背中を押してくれて。
飛び込むように───いや、彼女に押し飛ばされて難を逃れたんだろう。
それじゃ、俺を押し飛ばした彼女は?
雪崩に巻き込まれて今は雪の中って事か?
「そんな……」
必死に周りを見渡した。
代わり映えしない雪の景色。そんな中に一つだけ不自然な物が混じっているのが見える。
「モカ……?」
それは、雪の中から地上に頭を出しているスキー板だった。
今日ずっと一緒に居たんだから間違える訳がない。アレはモカが使っていた物だと直ぐに分かる。
「そこに居るんだな……っ!!」
足場の安定しない雪場を這うように進んで、俺はスキー板が飛び出ている所まで向かった。
冷たい雪も気にしないで、俺は必死にその場の雪を掘り返していく。
少しだけ不安がよぎった。巻き込まれた衝撃でモカが既に死んでいたらどうしようとか、そんな不安。
怖くて仕方がない。だけど、そんな事に怯えている暇はないだろう。
「モカ……っ。待ってろ!!」
必死に掘り進めて、俺はその場に座り込んだ。
スキー板が音を立てて倒れる。
そこには何もなかった。ただ、スキー板が一本埋まっていただけだった。
「モカ……何処に居るんだよ」
座り込んでる場合じゃない。早く探さないと、早く探さないと───どうなる?
「モカが……居なくなるのか?」
吐き気がする。
考えただけで目の前が真っ白になって、結局俺はその場で吐いた。
「……ふざけんなよ、そんな事があってたまるか」
こんな事してる場合じゃない。モカを探さなきゃ。探さなきゃ。
必死になって、手当たり次第に雪を掻き分ける。
なんでも良い。手掛かりになる物が欲しい。
早く。早くしないと───
「───大丈夫か! 君!」
突然声が聞こえた。
驚いて振り向くと、強い光に照らされる。懐中電灯?
いや、エンジン音からするに
「君一人か?!」
雪の上を走る為の乗り物に乗って現れたその人は、焦ったような話し方でそう聞いてきた。
「……モカが、モカが居ないんです! 見てませんか?! このくらいの身長で、厚着してて、その……えっと……」
俺は藁にもすがる思いで、その人に摑みかかる。
彼は俺の話を聞くなり目を丸くしてスノーモービルに設置されていた無線を引っ張りだした。
「俺だ。一人巻き込まれてるらしい。直ぐに集まってくれ」
「貴方は……?」
「ただの客だよ。ちょっとスキーが趣味のね。だから、雪崩の事は少しくらい知ってる。……急いで友達を探そう!」
頼り甲斐のある声でそう言ってくれた男性は、白い息を吐きながら自分の腕時計を確認する。
「雪崩が起きてから十分以上経ってる……。まずいな」
雪崩に巻き込まれてから十五分で生存率は極めて低くなるらしい。
男性は慌てて周りを見渡して、舌を鳴らしてから背負っていたスコップで辺りを探りだした。
「おーい! 見付かったか?!」
少しして、下の方から何人かの男性が登ってくる。
「雪が盛り上がってる所とかを積極的に掘れ!」
「何か小さな物も見逃すなよ!」
「俺達はもう少し下を探してみる!」
俺も、冷たくて感覚がなくなってきた手で雪を掻き分けた。
もしかしたらこの人達が見付けてくれるかもしれない。そんな安心感から、手が動くのが遅くなる。
だけど───
今どのくらい経ったのだろうか。ふとスマホの明かりをつけた。
「……メッセージ?」
感覚のない手でなんとかロックを外してみると、SNSに大量のメッセージが流れてきている。
確認してみれば、それは殆どがひまりちゃんで残りは蘭と巴とつぐみちゃん。
全部心配してくれてるような内容とあと一つは───
『モカと連絡が取れない』
『モカちゃん電池きれてるみたいなんだけど、山田君は一緒に居るの?』
『大丈夫か?!』
『翔太君返事して!』
俺は何を呑気に構えてるんだ。
モカが危ないんだぞ。
自分を殴り飛ばしたくなる衝動を抑えて、今一度必至になって雪を掻き分ける。
そういえば時計を見てなかったけど、何分経った。いや、そんな事を気にしてる暇もないだろう。
探すんだよ。モカを探すんだ。
「モカ……モカ……っ! モ───」
凍り付いてしまったのか、もう全く感覚のない俺の手は突然誰かに掴まれて止まる。
なんなんだと後ろを睨むと、残念そうな表情で最初にここに来てくれた人が首を横に振った。
ただ、その意味がどういう意味なのか分からない。
「一時間経ってる。もう君の身体も危ないから、一旦帰ろう」
帰ろう?
何を言ってるんだこの人は。
一旦帰ろうだ?
それじゃモカはどうなる。この雪の中に置いていくのか。そんなバカな話があるかよ。
「は? 何言ってんだアンタ……」
「雪崩から一時間が経ったんだ」
言っている意味が分からなかった。
確かに時間を見てみれば、モカを探している間にもう一時間程が経過している。
それはつまり、モカは雪崩に巻き込まれてから一時間も一人で雪の中にいるという事だった。
早く探して助けてやらないと。こんな所で時間を使っている場合じゃない。
俺は男性の手を振り払って、殆ど感覚のない手で雪を掻き分ける。
どこだよ。どこにいるんだよ。モカ……っ!
「君!」
ただ、男は俺の身体を掴んで振り向かせた。なんなんだよ。邪魔をしないでくれ。
頼むからモカを探させてくれ。
「もう見付かっても、友達は死んでる。これ以上ここに居たら次は君が危ないんだ。分かってくれ」
「……は?」
だから何を言ってるんだこの人は。
死んでるって?
何が?
モカが?
「……ははっ、は……はぇ……はぁ……ぇ」
何を言ってるんだよ。分からない。なんで、どうしてこんな事になってる。
俺は……何をしてるんだ?
「そっちに乗せられるか?」
「一人分空いてるから行ける。二回目が来るかもしれないし、早い所降りよう」
「俺は少しゆっくり降りながら探すわ!」
「分かった、頼む!」
俺の関係ない所で話は勝手に進んでいき、助けに来てくれた人達は皆下に降りる準備をし始める。
なんで?
どうしてそんな判断が出来るんだ?
モカが───
「───死んだ?」
俺はその場に崩れ落ちて、そんな俺は誰かに抱き抱えられるようにして乗り物に乗せられる。
そのまま下に向かう俺は手を伸ばす事しか出来なかった。
この真っ白な世界の中にモカを一人置き去りにして。
俺は独りで白い息を吐く。
何をしてるんだ。俺は。
◆ ◆ ◆
「翔太!!!」
休憩所までたどり着いて、一番最初に大きな声が聞こえる。
その後突然大きな衝撃が来たかと思えば、俺はひまりちゃんに抱きつかれていた。
「うぇぇぇん! 翔太君が無事で良かったよぉぉぉ!! もぉぉ、なんで返信してくれないのぉぉ!!」
大粒の涙を流しながら俺に頬を擦りつけるひまりちゃん。そんな彼女から目をそらすと、安心したような表情の巴が歩いてくる。
「いやぁ、無事で良かったよ。本当に心配したんだからな!」
そう言う巴の後ろで、蘭は頻りに周りを見渡していた。
「……ねぇ、モカは?」
そんな声。
実はもう一人で降りていて、皆と合流してるんじゃないかって。そんな甘い考えは蘭のその言葉に打ち消される。
「え……一緒じゃないの?」
蘭のそんな言葉を聞いて、俺に抱き付いていたひまりちゃんも真顔になって顔を上げた。
俺の口は開かない。
「あ、あの! すみません! 私達と同じ年くらいの女の子、居ませんでしたか?!」
直ぐにつぐみちゃんが俺をスノーモービルに乗せて来てくれた人に声を掛ける。
その人はゆっくりと首を横に振るだけだった。
「そんな……」
「え、う、嘘だよね? モカ……。翔太君!! モカは?! ねぇ、モカは!!」
また大粒の涙を流しながら、彼女は俺の肩を大きく揺らす。
だけど、俺の口は動かなかった。
寒さなのか、怖さなのか、悔しいのか、悲しいのか、もう何にも分からない。ただ身体は震えるだけで、動いてくれない。
「君達、とりあえず中に入ろう。彼もずっと外にいて大変だったから」
別に俺は大変じゃない。この通りピンピンしてる。
それなのになんで?
なんで身体は動いてくれない?
今すぐに戻ってモカを探すべきじゃないのか。俺はこんな所で何をしてるんだ。
なされるがまま、黙り込んでしまった蘭達の後ろから休憩所の中に入る。
暖かかった。気を使って巴が暖かい缶コーヒーを買ってくれて、手渡される。
「……大丈夫か?」
ただ、そんな巴の声も若干震えていて。
俺はやっと現実が把握できた。
涙が止まらない。
モカはもう───
「モカは───」
───居ない。
「……一緒に居たんだよな?」
「俺を、助けて……くれて。それで……」
端の方でひまりちゃんが泣いていて、そんな彼女の後ろでつぐみちゃんも泣いている。
蘭は黙って休憩所の外を眺めていた。その先では従業員と思われる人とさっきまで一緒にモカを探してくれていた人達が話し合っている。
こんな状況で俺に話しかけてくれた巴だけど、どこか落ち着いているようで表情はとても暗かった。
「雪崩が起きて、逃げて……気が付いたらモカが居なくて……。俺が……俺がモタモタしてたから、俺が……」
「分かった。もう良いから。……な?」
巴は優しくそう言ってから、荷物から上着を取り出す。
「アタシが探してくる。皆は待っててくれ」
真剣な表情でそう言う巴は、突然振り向いた蘭に肩を抑えられた。
「蘭……?」
「……モカは寒いの苦手だって、知ってるでしょ?」
低い声でそう言う蘭は、座り込んでいる俺を睨んで真っ赤になった目尻から涙を漏らす。
「山田、なんでモカを置いてこれたの?」
「おいやめろ蘭。翔太だって必死に探して来たに決まってるだろ! 今はそんな話をしてる場合じゃない!」
そうだ。必死に探したんだよ。
いや───
「雪崩が起きてから一時間経ったんだよ? 雪の中でモカは……ずっと、ずっと一人で…………そんなの、もう───なんでモカが此処に居ないのに山田が居るわけ? ねぇ、モカは……?」
俺の胸倉を掴んでそう言う蘭。そんな彼女を俺から突き放して、巴は俺を庇うように前に出る。
「だから今そんな話してる場合じゃないだろ!! 早くモカを探しに行かないと。翔太は頑張って探してくれてもう疲れてるんだって! 少しは現実を見ろよ!」
「現実を見るのは巴だよ!! 雪の中に一時間も埋まってて生きてられる訳ないじゃん!! もうモカは───」
「おいやめろ!!」
「───死んじゃったんだ……っ」
強く拳を握りしめて、蘭はそんな言葉を落とした。
それは誰だって見たくなかった現実で。
多分、彼女は正しいのだろう。
「大体、いつもいつも探したい探すって言っててさ。結局山田は何も探してないじゃん。モカの事だって本気で探してなかったんでしょ? 最低!!」
「蘭、お前な……っ!!」
「もうやめてよ!!!」
巴が蘭に掴み掛かろうとしたその時、大声をだして二人を止めたのはひまりちゃんだった。
彼女は大泣きしながら二人の間に入って、言葉にもならない声を出しながら大粒の涙で床を濡らす。
ここには俺達の他にも人は居て、でもそんな事気にせずにひまりちゃんは泣き崩れた。
静まり返った休憩所でただ時間が過ぎて行く。
なにもかも現実味がない。
ただ、事実として───
「モカ……」
───モカだけがこの場には居なかった。
次回『今』