吊り橋効果という理論を知っているだろうか。
不安や恐怖を感じている時に出会った異性に対して恋愛感情を抱き易くなるという学説だ。
心拍数の増加を恋のドキドキと勘違いするとか、理由は色々諸説ある。
それで、まさに俺達はそれだったんじゃないかなって。今更ながらに不安に思っていた。
この吊り橋理論。実際に間違ってはいないのだが、その時に繋がった二人は長く続かないというのが定番らしい。これについても諸説ある訳だが。
あのゲレンデでの雪崩事件から数ヶ月が経って、俺達は平凡な暮らしを続けている。
なんとか無事に休憩所に戻った俺は大人の人達に多大な迷惑を掛けながらも、一人の女の子の命を救った事を賞賛されたらしい。
らしいというのも、俺は休憩所に着いた瞬間倒れて気絶したのでその場の事情を知らなかったというか。気が付いたら
「いらっしゃいませー」
なんとも情けない話である。
「ありがとうございましたー」
それで、見ての通り俺は当たり前のように仕事中だ。
いや、さ。あの後俺もモカも入院したんですよ。俺はともかく、モカは凄く弱ってたからね。
でも後に何か問題になるような事はなくて無事に退院。モカは少し長引いたけれど、命に関わる事はなかったらしい。
いや、本当に良かったよ。
その後はさ、ほら、普通ハッピーな展開が待ってると思うじゃん。いや、これに関しては俺も悪いのだけど。
「ちゃーすー」
「二分遅刻だぞモカ」
「二なら、四捨五入すればゼロだよ〜」
灰色の髪をショートカットに整え、パーカーにショートパンツとボーイッシュな服装の少女はおちゃらけた調子で敬礼しながら歩いてくる。
とりあえずチョップ。
「いたー」
「痛いのはお前の代わりに残業してる高木さんに払ってる店の財布だ。早く働け」
「しょーくんのまじめー」
はい、見ての通り。
休憩室に入って行くモカをジト目で見ていると、隣で働いていた二人にジト目で見られた。その視線やめて欲しい。
「で、進捗は?」
六十超えた
あのゲレンデに出向いた日、物凄く下らない理由で孫に仕事を押し付けた年寄りはまだまだ元気だ。鬱陶しいくらい元気である。
出来れば死ぬまでその元気でいて欲しい。
何はともあれ、高木さんの言葉には何処かで救われた気がしているから。
「山田君……告白したんだよね?」
続いてリサさんも、半目で俺を見ながらそう聞いて来た。
そうです。
俺はあの日、モカを探し出してから思いの丈を伝えました。
ちょっとズルかったかもしれないけれど、モカからの返事も聞いたんです。
その結果がこれだ。
「なんで何も進展してないの?!」
「だって恥ずかしいもん!! あの日からモカの顔見ると目を逸らしちゃうし?! なんかうまく話しかけられないっていうか?!」
俺の言葉を聞いたリサさんの瞳が毛虫を見るような目になっているのは気のせいだろうか。
「山田ァ!」
「うわぁ?! ビックリした。何ですか高木さん!!」
「それで良いのかい?」
優しくそういう高木さんは俺の肩を叩きながら休憩所の入り口を見る。
その視線の先にはバイトの制服に着替えたモカが首を横に傾けて立っていた。
「それじゃ、私達は上がろうかねぇ。行こうかリサちゃん」
「はーい。山田君、本当にがんばりなよ」
ぽん、と。肩を叩くリサさんは片目を瞑って手を振って去っていく。
勿論このままじゃいけないのは分かっているんだ。
ただ、少しだけ怖かったんだと思う。
何かが変わるのが。これまでの関係じゃなくなるのが。
でも、やっぱりこのままじゃいけないし。それは俺が嫌だった。
だって俺はまだ今を全力で楽しめていないから。
「なぁ、モカ」
「なーにー?」
「帰り、一緒に帰らないか」
「いつも送ってくれてるじゃーん」
笑いながらそう言うモカは、それでも「良いよ〜」と答えてくれる。
俺は少しだけ手を強く握って、とりあえず気を紛らわそうと身体を動かすと───
「あ痛ぁぁぁあああ!!!」
───肘をレジの角にぶつけて突然悲鳴をあげる事になった。
いやぁ、格好がつかない。
ただ、そんな俺を見て笑っている彼女の顔がやっぱり好きなんだって。そんな事を再確認する。
俺の気持ちは変わってない。たとえ、あの時の返事が吊り橋効果でも。
◆ ◆ ◆
「ちょっと、座って話していかないか?」
丁度、いつか蘭と三人で話した公園の前で俺はそう言った。
モカは少しの間を置いてから「うん、良いよ〜」とのんびり口調で返してくれる。
俺はそんな彼女の前を歩いてベンチまで向かい、タオルを引いて彼女に座るように促した。
勿論タオルはリサさんから借りたものである。俺はそんなに出来ていない。
「どうも〜?」
「どうぞ……」
ややぎこちない挨拶をしながら二人で座った。
少しだけ沈黙が続く。
「お話って〜?」
「えーと……」
どうしても、何をしたって、人はそんな簡単に変わる事は出来ない。
ダメでヘタレで何もない山田翔太は多分一生このままなんだ。
だけど、さ───
「……俺、変わるのが怖かったんだと思う。だから、何もしないのが正解というか。それで良いんだと思ってた。この関係がなくなるのが怖かった」
一緒のバイト先でバカをやって、偶に一緒に帰ったり遊んだりしてバカやって。
そんな時間が永遠に続けば良いなんて、そんな事を思っていたんだと思う。いや、思っていた。
「───だけど、さ。何もしなくても……何かしなきゃ、いつかどこかでこの関係もなくなっちゃうんだよな」
自分が何もしなくても時間は進んでいく。
人は年を取るし、学生は一年で生活がガラッと変わるんだ。俺達だってあと二年したら大学受験か就職か選択を迫られる。
ある一人の少女はいつかの日、学年が変わった時のクラス替えで大切な友達と一緒に居られなくなった。
今この瞬間が、関係がずっと続くなんて事はありえない。何もしなければ、何かしなければどこかでその関係は消えてしまう。
ある一人の少女は皆が一緒に居られる場所を作るキッカケを作った。
ある一人の少女は皆を繋ぎ止める大切な役割を担った。
ある一人の少女は皆がバラバラになりそうな時、必ず声を上げてそれを阻止しようとした。
ある一人の少女は全力で皆の事を想い続けて、側に寄り添った。
何もしなければ、何かしなければ、きっとその関係はなくなっていたと思う。
それはきっと誰と誰の関係にも言える事で。
だから俺も、『今』を失わない為に前に進むんだ。
変わる為じゃない、変わらない為に。
大切ないつも通りを手に入れる為に。
「伝えたい事がある」
「うん」
「今だから全力でやりたい事を、見つけた」
「……うん」
震える手を押さえつけて、息を深く吸って吐く。
「大切な人が出来た。……その大切な人と一緒に居るのは本当に楽しくて、幸せで。だからその人と全力で今を楽しみたい。今もこれからも全力でその人と生きていたい」
立ち上がって、彼女の前に直立してそう言った。
「……。……うん」
視線が合う。その瞳は少しだけ濡れている気がした。
きっと普通の人からみたらとても下らないと思う。
特に褒められた話でもなく、ただ単に俺は───
「モカ、好きだ。お前の事が全力で好きだ。───付き合ってください」
───今を全力で彼女と楽しみたい。
今もこれからも。
その為に、ほんの少しの勇気を出した。
「……うん、あたしもしょーくんが好き。ありがとう」
相変わらずの、いつも通りののんびり口調で。
立ち上がった彼女は前に突き出した俺の手を取る。
俺が驚いて下ろしていた頭を上げたのはそれが理由じゃなくて、彼女が俺に抱き付いてきたからだった。
「モ……カ?」
肩の荷が降りたというか、なんというか。
これで何が変わるとか、そういう事は望んでいないし。俺は多分一生こんな感じなんだと思う。
ただ、今この瞬間を続ける為に。いつも通りを続ける為に。
今この瞬間をいつも通りにする為に。
「だーいすき。えへへー」
「俺も、大好きだ」
───今だからやりたい事を全力で。
読了、ありがとうございました。