これにて完。アフターとか裏話は気が向けばやります。
「ねぇ、先輩。あなたのことが、好きです――――」
*
会社の先輩がアイドルになった。
そんな話、いったいどれだけの人が信じてくれるだろうか。
だって、普通はそんなこと、思いつきもしない。
社会人というのは、縛られた存在だ。
足元を縛り付けられ、体は自由に動かない。唯一動かせるのは、他人に下げる頭だけ。
そんな人が、多いはずだ。
きっと、みんなが思ってる。代わり映えしない毎日。絶えず訪れるいつもと同じ今日。それが少しずつ、徐々に苦しくなってくる。
そこから抜け出せる人は、いったいどのくらいいるんだろう。
今の自分を変えられる勇気を持てる人は、いったいどのくらいいるんだろう。
わからないけれど、俺は知っている。
彼女は、臆病な人だった。
けれど、実直だった。
だからこそ、みんなよりも思い悩むことが多かった。
そして、彼女は、そこから一歩、先へ進むことができた人でもある。
変わった。変われた。変えることができたんだ。
今の自分から。
新しい、明日の自分へと。
*
「マスター、コーヒーのおかわりをくださいな」
カウンター席に腰掛けたショートヘアの女性が、空のカップをソーサーと共に俺に差し出す。
天候は晴れ模様。天窓から差し込む日差しが、心地いい。
時刻は昼下がり。本日の客入りはまばら。というか、現在は眼前の女性だけが唯一の客である。
俺は、差し出されたカップを受け取って、コーヒーサーバーから新しいものを注ぎ淹れる。
「ねぇ、楓さん。そのマスターっていうの、やめない?」
湯気を立ち昇らせるカップを女性――楓さんに手渡しながら、俺は一つの文句をつけた。
その呼び方は未だに慣れない。
楓さんがおもしろがってそう呼び始めたものだから、最近店に来てくれる客たちがこぞって同じように呼んでくれるのだが、それがなんとも面映い。
「あら。でも、マスターはここのマスターでしょう?」
カップを目の前に置いてから、口元を手で覆って上品に笑う楓さん。
「変わんないですね、そういうとこ……」
この人は昔から、そうなのだ。
俺のことをからかって、おもしろがる。
というのも、俺のいわゆる弱みっていうものをこの人は多数握っているのだ。
本当にいろいろ知られてしまっているものだから、当面勝てそうもない。
故あって、最近まで顔を合わせていなかったけれど、やっぱり、変わっていない。
相変わらず、綺麗で、妙なギャグ好きで、それでもって悪戯好きの不思議な人だ。
「うふふ。でも、そういう雄介くんもあまり変わってないわね」
楓さんが、カップを傾けながら、そう言った。
「あまり……?」
「ええ。あまり、よ」
あまり、とは果たしてどういう意味かと首を傾げる俺に、やはり楓さんは微笑みながら、言葉を続けた。
「あれかしら。男子三日会わざれば、刮目して見よっていうことよね、きっと」
「はぁ」
「だって、雄介くんったら、私とお付き合いしていた頃より、もっとかっこよくなってるんだもの。私、再会したとき、ちょっとびっくりしたんですよ?」
「か、かっこよく……」
頬が、朱に染まる。
いけない。楓さんにそういうことを言われると、未だに照れくさい。
「ふふっ。そういうかわいいところは変わってないわね」
「……楓さん」
「あら、ごめんなさい?」
「もう……」
「うふふっ」
飄々としていて、責めるに責められない。まったく。
「……でも、本当に驚いたの。雄介くん、いきなり会社をやめちゃって、こんなお店を建てちゃってたんだもの」
今度は、少しだけ、どこか昔を懐かしむようにぽつりと呟く楓さん。
本当に、移ろいやすい人だ。
でも、そう。
あれから、俺は会社をやめていた。
そして、この店を、喫茶店を始めた。夜は小料理屋になったりもする飲食店だ。
資金は、悪いと思ったけれど、亡き両親が残してくれたものをすべて使い込んだ。
そうして、貯金ゼロ。見通し未知数の新しい生活を送っていた俺のところへ、楓さんが現れた。
小料理屋として店を開けていたときに、ふと彼女がやってきたときは本当に驚いた。
だって、そうだろう。
俺はあの人の活動をずっと応援しているから、その関係で、楓さんもアイドルになっていることを知っていたのだ。
「まあ、思うところがあったんだよ。でもね、楓さん。実は、まだ一つ、挑戦中のことがあるんだ」
自分の顔がまるで悪戯小僧のような笑みを作るのを自覚した。
楓さんはそんな俺を見て、再び、やんわりと微笑んだ。
「そう。頑張ってるのね、雄介くん」
「うん。頑張ってる」
「どうして、なんていうのはきっと、聞いても教えてくれないんでしょう?」
「言わなくてもわかってるでしょ、楓さん」
「あらあら、うふふっ。どうかしら」
「……マージで勘弁してください」
「あ、雄介くん。この、ストロベリーパフェを一つくださいな」
「……かしこまりました」
本当に、どこまで知ってるんだろうか、この人は。
*
「お、遅くなりましたっ」
謹製のストロベリーパフェに舌鼓を打つ楓さんと雑談に花を咲かせていると、不意に店のドアが開いて、店内に人影が飛び込んできた。
少し色の抜けた髪が頭の後ろで結われて、肩で息をする彼女の動きに合わせてゆらゆらと揺れている。
汗ばんで額に張り付いた前髪と、乱れた呼吸が艶かしく見えて仕方がない。
「ま、ま、待ちましたか? 楓さん……」
「いいですよ。それより、こっちに来て少し落ち着きませんか? マスター、水を」
おそらく、近場の仕事先から走ってきたのだろう。
楓さんと待ち合わせをしていたけれど、思ったよりも仕事に時間を食って、走らざるを得なくなった。
彼女のことだから、時間に余裕を持たせるスケジュール管理をしているはずだ。なので、そこらへんが妥当だろう。
こうして、無事に約束に間に合ったわけだし、なにも言うべくもない。
俺は楓さんに言われたとおりに水を用意して、カウンター席に腰掛けた彼女の目の前に、それを置いた。
「あ、あり、がとう、ございます……」
「いえ」
途切れ途切れの礼に、最低限で返す。
彼女はたぶん、まだ俺に気づいていない。
ふと、楓さんを見やる。
「うふふっ」
本当に、どこまで知ってるのやら。
無邪気なまでに、意地が悪い。
もうちょっとだけ。あと少しだけ遅くなってくれていたら、俺ももう少し、前へ進めていたのに。
あーあ。せっかく、我慢していたのに。
連絡こそ取り合っていた。
けれど、それじゃあ足りなかった。わかっていたから、あと少しの間だけ、会うつもりもなかったのに。
「さ、ゆっくりそれを飲んで、落ち着いてくださいね、美優さん」
楓さんが、ハンドタオルで額を拭う彼女――三船先輩――に声をかける。
俺っていうやつは、まだ大人になりきれていないんだ。
だから、きっと、もう放っておけない。
彼女は変われた。
俺も、変わろうとしている。
今、一瞬一秒ごとに、俺たちは変わり続けている。
俺はあのとき先輩に、俺はあなたの味方だって言った。
先輩はあのとき俺に、待っていてって言った。
俺はまだ、今も、この先もずっと、思っています。
あなたに出会えて、また会えて、よかったって――――。
「ねぇ、先輩。あなたのことが、好きです――――」
ふと口をついて出てしまった言葉は、想いを紡いだとびっきりのものだった。
「あら。あらあら。うふふ」
楓さんが、俺の馬鹿正直な言葉に微笑み。
「え……」
そして、三船先輩は、戸惑ったように俺の顔を目に捉え。
次いで、表情を驚愕に染めた。
「え、えぇぇぇ。こ、こ、近衛君!? な、なにやってるの!?」
「はい、近衛雄介です。この店のマスターやってます」
「ま、マスター……」
「はい。なにか、お淹れしましょうか?」
「い、いえ」
「ねぇ、先輩」
「はい……?」
「俺、あなたのことが好きですよ」
「……近衛君」
「先輩は?」
「わ、私は――――」
*
近衛雄介と三船美優は、短い別れの後に再会した。
片や、出来立ての夢を追いかけ。
片や、追いかけ始めた夢へと熱を上げる。
生き辛いと言う人がいる。
けれども、こうも思う。
世の中は、思ったよりも苦しいけれど。
たしかにそこには、希望や夢があって。
そして、やっぱり、愛もある。
さて。
では、もう一度だけ。
会社の先輩がアイドルになったなんて話、いったいどれだけの人が信じてくれるんだろうか――――。