ため息を吐き過ぎると幸せが逃げるというが。
それは逆だ、幸せが逃げたからため息を吐いているのだ。
少なくとも、少女、西住みほが現在何度となくため息を吐き出しながら学校の帰り道を歩いているのは間違いなく学校での出来事が原因だった。
戦車道。
西住みほの人生に生まれ付いたその時からべったりと張り付いていた物の名であり、そしてそれが嫌になって逃げだしたはずの場所で再びその手を伸ばしてくる物の名でもある。
過去より乙女の嗜みとして親しまれている武道であり、現在では女性用スポーツの一種でもある。
厳密には男性がやってはいけないというルールは無いらしいのだが、世間での認識としては女性専用のスポーツとして認知されているのが事実だ。
西住という家柄は古くより戦車道の大家、西住流として知られており、みほの母親はその師範である。
当然ながらそんな家に生まれたみほもまた戦車と共に育ってきた。
だからこそ、生まれ故郷を離れ、こんな遠くの学校にまで転校してきた、戦車道から、戦車から離れるために。
そのはずなのに。
「……どうしよう」
夕暮れの帰路、独りとぼとぼと力無く歩きながら手元の用紙へと視線を向ける。
必修選択科目の紙であり、茶道や書道など九種の選択科目の上に一際大きな文字でこう書いてある。
戦車道
今年度になって復活した、らしい。
みほがこの学校について調べたのは前年度の話なのだから当然寝耳に水である。
さらに悪いのが元々戦車道の無い学校だったため、経験者と呼べるのがほとんどいなかったこと。みほの実家のことを少しでも知っていれば目を付けられないはずも無く。
生徒会に目を付けられ、戦車道に入るように強要され。
断ろうと思っていた矢先の戦車道紹介のPVで友人二人が戦車道に魅了されてしまったのだ。
胃が重い。学校が終わるまで、砂を噛むような思いだった。
ただの友人二人ではない。みほにとって、大洗女学園で初めてできた友人だったのだ。
引っ込み思案で人見知りなみほに声をかけてくれて、お昼に誘ってくれて、一緒に話をしてくれた。
まだたったの一日の付き合いでも、みほにとって掛け替えのない大切な存在だったのだ。
それでも、例えそんな友人が一緒に戦車道をしようと言ってきても、だ。
どうしても頷くことができない。西住みほにとって戦車道とは最早トラウマ以外の何物でも無いのだから。
だから、明日学校に言って二人にはっきりと言わなければならない、戦車道はやらない、と。
きっと生徒会だって何か言ってくるだろう、それでも意思を貫かねばならないのだ。
西住みほにとって、自分の意思を貫くというのは最も苦手とする物だった。
厳しい母と、優秀な姉を持ったみほからすれば、自分という存在が余りにも信用ならず、自分を信じるということがどうしてもできない。だからこそ自信も無く、意思の強さも感じられないおどおどとした態度になってしまう。
「あの人と……足して割ったらちょうど良かったのかな」
今はもう居ない親友は常に自信に溢れていた。根拠は無くとも自負があって、強烈な自負が確固たる自信を強く支えていた。
その強気のせいで他人と衝突も多かったので、意気地なしで弱気なみほと足して割ったらきっとちょうどいい具合になるのだろうと余計なことを考えてしまう。
そう、余計だ。どれだけ考えたってみほの性格が簡単に変わるわけでは無いし、自信が持てるわけではない。
そんな陰鬱な気分のままにとぼとぼと歩き。
ふと、視線を上げる。
学園からの帰路にある商店街と住宅地の中間点と言ったところか。
さらに進めばどんどん住宅街へと入っていくし、少し戻れば商店街が見えてくると言った本当に中間点だが。
「あれ……この辺て確か」
以前ルイに教えてもらった喫茶店がこの近くにあるらしいことを思い出す。
まだ行ったことはない。新生活に馴染むのに手いっぱいだったためその内行ってみようと思いつつ、今日まで終ぞ向かうことは無かった。
ルイともあの日以来会うことも無かった。と言ってもまだ二週間も経っていないのだが。
まあお店に行くことが無ければみほの行動範囲なんて限られているため出会わないのも当然なのだが。
「……行ってみよう、かな」
正直今は何でもいいので気分を変えたい。この鬱々とした気持ちを晴らしてくれるならば何でもいいというのが本音。
どんなお店何だろう、件の喫茶店へと足を向けながら考えてみる。
商店街と住宅街の境目をなぞるかのようなルートを進みながら、確かこの辺だったと聞いたと周囲を見渡す。
学園艦というのはいくつもの船を寄せ集めることによってその巨体を作り出している。
故に船ごとにある程度ブロックのようなものが区切られており、例え到着したばかりの人間でも地図を見ればある程度場所が分かるようになっている。
ルイに聞いたブロックはこの周囲であり、さらにお店の周囲の特徴を探して。
「……あれ、かな?」
『喫茶』とだけ書かれた看板のついた建物を見つける。
木板に黒字で書かれたシンプルな看板だったが、同じくシンプルな木製の扉の雰囲気と合っていた。
レトロチック、というのだろうか、こういうのを。
西住みほの鉄と油に塗れた戦車人生から考えると余りにも場違いなお洒落な雰囲気に気押されてしまうが、入るか入らざるかお店の前をしばらくうろうろとして。
「や、やっぱり帰ろうかな」
残念勇気が足りなかった、と引き返そうとした、その時。
ちりんちりん、とドアベルが鳴り。
「あれ? お店の前に誰かいると思ったら、西住ちゃん、来てくれたの?」
ついこの間も聞いた知り合いの声にみほが振り返り。
「えっ」
一瞬言葉を失う。
そこにいたのは
というか見た目が人間ですら無かった。
一メートル半を超える巨大なぬいぐるみ……いや、着ぐるみがそこにいた。
体中に絆創膏が貼られていたり、包帯が巻かれていたり、縫い目があったりと痛々しいところが目立つ熊のようなソレを、西住みほは知っていた。
「ボコっ!」
普段のみほなら絶対に出さないような大声に喜色を滲ませ、目を輝かせる。
「オイラはボコだぜ」
ぶんぶん、とボクシングの真似をするボコの姿に、うわあうわあ、とかつてないほどにテンションを上げたみほ。
「仕事しなさい!」
そんな店先で戯れる二人の後ろからぬっと現れた巨漢がボコの頭をお盆で殴る。ごん、とか凄い音がした。
「ぐ……また、負けた……」
「ボコ!」
背後からの不意打ちの衝撃に崩れ落ちながらもお決まりの台詞を見せるボコに喜色の笑みを見せるみほ。何故やられたのにそんなに笑顔なのか、と思われそうな光景だが尋ねられれば西住みほは端的にこう答えるのだろう。
―――それが、ボコだから!
「次は頑張るぞ……ってことで西住ちゃんおひさー」
「え、あ、はい……えっと……ボコ、じゃなくて……ルイさん?」
まあ当然ながら声で着ぐるみの中の人の正体など分かりきっているのだが、それでも目の前でボコが動いている事実にみほのテンションは上がっていたのでそれはそれで良いのだろう。
「店長も、お客さんですよ」
「なら店先ではしゃいでないでさっさと入ってきなさい」
「店長……って……その……あの、人、が?」
視線を上げ店長と呼ばれた巨漢を見て、みほの言葉が思わず途切れ途切れになる。
スキンヘッドの巨漢だった、身長190はあるかもしれないと思えるほど。
だが身長よりも何よりもその服装こそが最大の衝撃だった。
メイド服、プラスしてハゲ頭にネコ耳装備。
可愛い服だった、みほとて女子高生。お洒落にだって多少興味はある。
だから服は可愛かった。自分で着るには恥ずかしいけれど、見ている分には良かった。
それをハゲ頭の巨漢が着用しているのでなければ。
「どしたの、西住ちゃん。目が死んでるよ?」
なんてボコ着用のルイがよっこらせ、と起き上がりながら声をかけてくるが、それに反応する余裕すら無かった。
それに首を傾げたルイが背後を振り向き。
「ああ、もしかして店長の恰好? 最高に気持ち悪いよな」
あ、やっぱり店員からしてそう思うんだ、と思うがやはり声を出す余裕は無い。
フリフリのエプロンが揺れる……その下に巨漢の無駄に毛の処理をされたつるつるの太い脚を見せつけながら。
スカートがふわりと翻る……中に見えるのは巨漢の脚だが。
ネコ耳カチューシャがズレて落ちそうになる……だってハゲで滑るもの。
視線を移す。目の前にボコがいる。落ち着いた。
「取り合えず中においでよ……見た目はともかく、珈琲は最高に美味しいから」
と、そんなことを告げるボコに手を引かれ店内へと入れば。
「……うわあ」
先ほどとは違う意味で感嘆の声が漏れた。
アンティークで家具を揃えられた統一性のある店内は落ち着いた雰囲気を醸し出しており、まるでこの店の中だけ少し昔の外国の喫茶店か何かだと錯覚しそうだった。
「どう? これ全部店長の趣味で揃えてるんだよ?」
「はい、すごく……素敵です」
店長の服の趣味以外は、と言い付け加えることを忘れるほど心地よい店内の雰囲気に、自然と肩の力が抜けていくようだった。
そうして視線を店内を彷徨わせ。
そう言えば店長もそうだが、何故ルイまで着ぐるみを着ているのだろうと疑問に思う。
骨董品で揃えられた統一性のある店内と店員たちの恰好が明らかに不釣り合いだ。
それをルイに聞いてみれば。
「ああ、これ? この喫茶店男性従業員用の服とか無いからね……最初は店長のメイド服一択だったんだけど、オッサンのメイド服とか絶対嫌だったし、実家から送られてきた荷物の中にこれがあったからこっちで妥協してもらったんだよ」
というルイの言になるほど、と納得し……そうになったが、やっぱり何か間違っているんじゃないだろうかと思わなくも無い。思わなくも無いが着ぐるみボコに撫でられるのは至高の時間だったので気にしないことにする。
「西住ちゃん、ボコ好きなの?」
「はい! 大好きです!」
ボコはみほの数少ない趣味であり、引っ込み思案のみほが唯一はっきりと声を大にして生きがいと呼べるものだ。
残念ながら同好の士は少ない、のだが。
「もしかしてルイさんも?」
何せ着ぐるみのボコまで持っているくらいなのだ、というかそれどこで売っているのだろう。是非とも欲しい。そう思って尋ねてみれば。
「俺は……まあ西住ちゃんほどではないけど、それ以上に妹が大ファンなんだ。あとこの着ぐるみは俺の手製だから売ってないと思うよ」
「へえ、手製……手製?!」
余りにも意外な言葉に一瞬意味が理解できなかった。
じっくり見れば確かに既製品にしてやや縫い目が荒かったり、一部
ボコの場合、それが逆に味を出しているというか、この適当感が逆に堪らない。
と、そんなことを言えばルイが。
「妹も同じこと言ってたよ」
と、苦笑しながらそう返した。
「妹さんとは良いボコメイトになれそう」
会ってみたいな、なんて思わず口に出せば。
「ああ……俺も、妹に、会いたいなあ……」
途端に着ぐるみ越しに哀愁を醸し出すルイに、しまったこの人はシスコンだった、と思い出す。
一気に空気を重くなった場をどうにかしようと考えるが思い浮かばず。
ふと、以前ルイが言っていたことを思い出し、しばし悩み、それでも意を決して。
「……お、お兄、ちゃん?」
呼んだ。
反応は劇的だった。
「ぐはぁ!」
倒れた。むしろ崩れ落ちた。
床に倒れ込み、動かなくなったボコぐるみの姿に、目が点になる。
ぴくぴく、と時折だが痙攣するのが微妙に生々しい。
「あ、あの、ルイさん?」
「何やってんのよアンタ」
声が聞こえた、と思った瞬間、ルイの体が蹴り飛ばされ二転、三転し、店の入り口で倒れ伏す。
そうしてルイを蹴飛ばした本人……店長がぬっと、カウンターの向こうから現れ。
「珈琲は飲める?」
「え。あ、はい」
そう、と呟き置かれたコーヒーカップから香しい匂いが漂ってくる。
「あ……良い香り」
「ミルクと砂糖は?」
「えっと、ください」
「はい」
みほの返答に店長がミルクポットとシュガーポットを続いて置く。
「そんなに苦くないから、少しミルクを少な目にすると良いわよ」
店長のそんな言に従って少しだけ、垂らす程度にミルクを注ぎ、シュガーポットから砂糖をスプーン二杯ほどカップの中に落とす。
添えられたティースプーンでかき混ぜ、先ほどから鼻腔をくすぐってしかたのないコーヒーを口へと運ぶ。
「ふあ……」
声が漏れた、それ以上に言葉が出なかった。
断言しても良い、これまで西住みほが飲んだどんな珈琲よりも美味しかった。
暖かい珈琲が体の中に落ちて、じんわりと熱が広がっていくような感覚に、心も体もほぐれていくような気分にすらなった。
「美味しい?」
「はい、とっても!」
自然と笑みが零れる。たった一杯の珈琲で人間はこれだけ幸せになれるのだと教えてもらった気分だ。
そしてそんなみほを見て、そう、と呟き優しい笑みを浮かべる店長。男性のはずなのに母性すら感じる笑みだった。
「もう夕方遅いし、それ飲んだら帰りなさい」
「あ、はい……あ、お金」
「ルイに付けとくからいいわよ」
視線を床に倒れて動かないボコに視線を移し、はあ、と曖昧な言葉が漏れる。
「何があったかは知らないけれど、疲れた時はまた来なさいな……珈琲は人を幸せにしてくれるのよ」
「え……」
「前からルイに少しだけ貴女の話は聞いてたのよ。色々溜め込んでそうな子がいるからお店に来たら珈琲を淹れてくれ、ってね。待ってても来ないし忘れかけてたけど、ルイが珍しくお店から飛び出して貴女がいたから思い出したわよ」
床に突っ伏したボコがぴくり、と動いた気がした。
「ルイさんは……どうして、私のこと」
「さあね……それは私には分からないけど。まあきっとこの子がお人好しだから、でしょうね」
言われ、思い出すルイの言動の数々。
奇行が目立つが、なるほどそれ以外の場面では確かに人が好いのだろうことを感じさせる態度だった。
ふと学校でのことを思い出し、少しだけ鬱になる。
けれど珈琲を一口口に含めば、そんな鬱な気分も全て溶けていくようで。
気づいた時にはカップが空になっていた。
「あ……ごちそう、さまです」
「はい、お粗末様。カップは片づけておくから、気を付けて帰りなさい」
ほら、起きろ、とルイの頭をげしげしと蹴る店長とぴくぴくと痙攣する店員の姿を横目に、お店を出る。
四月の風が少しだけ冷たくて、先ほどの夢心地な空間から途端に現実に引き戻された。
それでも。
「……頑張ろう」
何を、とか何が、とか、何をどうするのか、何も決まってはいないけれど。
それでも。
少しだけ……勇気は沸いた。
女装のおっさんは基本的に服の趣味以外はハイスペックイケメンと相場が決まっているのだ。
因みにルイ君もお裁縫上手な何気にハイスペック男子だよ、妹のことで暴走するけど。